2020年08月25日
★沖田畷の戦い・レポート(13) ― 先陣・納富能登守家理と納富氏について −(2020.8/24)【追記あり】
引き続き、沖田畷の戦いのレポート その13です。
★前回のレポート(12)は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/474971983.html
★初見の方は、「沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート�@」から順次ご覧下さい。:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
今回は龍造寺軍の先陣を務めた武将、納富能登守家理公について。
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★沖田畷の戦い・龍造寺軍先陣とその付近 (クリックすると拡大します)↓
先陣の「納富能登守家理」って、どういう系譜の誰?
この件、WEB検索して、いまいち詳細が分からなかった・・・という方も多いと思います。(情報が錯綜している。)
以前から私も「分家の家理は、本家をさし置いて、なぜこの時先陣に抜擢されたのか?」と不思議に思っており、今回、家理について佐賀県立図書館郷土室のS複鍋史料で調べてきました。
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(A) 「鍋島市佑系図」(『系図 上』S複鍋 211-9-1) 納富鍋島家の系図。納富家は江戸時代に鍋島姓を下賜され、本藩の上級家臣「着座」の地位として累代続いた。
■本家:納富栄房(石見守 道周) 龍造寺隆信が家督相続した頃からの家老。→ 家房(早世)→ 信景(但馬守) → 家輔(常陸介、始め左馬大輔、賢明、中ごろ家景、この時まで領七百余丁)
■分家:納富栄房が西村因幡守の弟を養子に迎え、納富信貞となる。納富信貞(治部大輔、信繁、家繁。永禄9年川久保で戦死。室は石井兵部少輔の娘、直茂公に再嫁され陽泰院殿と号さる)→ 【納富家理】(能登守、賢嘉、初め七郎兵衛。天正12年3月24日島原において戦死。)
・納富信貞に娘あり、鍋島直茂公御養女、太田生左衛門茂連室。
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(B)「周防組 納富又次郎系図」(『系図 下』S複鍋211-9-2) 本藩・分家。
■本家:納富栄房(石見守 道周。龍造寺隆信公の三奉行)→ 家房(早世)→ 信景(但馬守)→ 家輔(常陸介、始め左馬大輔、賢明、中ごろ家景、室は直茂公息女、後に鍋島主水の家に嫁ぐ。天正16年7月25日没、34歳)
(私註: 逆算すると、1555年生まれか。また息女とは、伊勢龍姫か。)
■分家:納富栄房が西村因幡守の弟を養子に迎え、納富信貞となる。納富信貞(治部大輔、信純。永禄8年5月、川久保で戦死。)→【納富家理】(能登守、初め七郎兵衛、信理。天正12年3月24日島原において戦死。子供は無かった。)
・納富信貞に娘あり、太田正左衛門茂連室。
※註 P.94の右頁に「以下詳于鍋島市佑之系図」とあるので、(A)の史料が参照されて編纂されている事が分かる。
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(C)「納富三郎右衛門系図」(『小城家中系図』S複鍋211-70)小城藩に属した納富家の系図。
■本家:納富栄房(左馬介 石見守 道周。龍造寺隆信公をもり立て長臣となる。)→ 家景(早世)→ 信景(但馬守)→ 家輔(常陸介、九兵衛尉、龍造寺の長臣。天正16年7月25日没)
■分家:納富栄房が西村伊予守の弟を養子に迎え、納富信貞となる。納富信貞(治部大輔、信純。永禄8年5月、川久保で神代長良家臣・古川内蔵助に討たれ戦死。)→【納富家俊】(能登守、新八郎 賢能、七郎兵衛 信理。獅子ヶ城の城番を務めた。天正12年3月24日島原において戦死。母は石井兵部少輔常延の娘、後に鍋島直茂公御内室、陽泰院殿と号す。)
・納富信貞に娘あり(家理の妹という傍注あり)、太田正左衛門茂連室、母は陽泰院殿。直茂公御養育、兄家俊戦死に依りて、男子なく、妹の茂連室が小城郡の牛尾300石を知行された。)
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【異同感想】(A)〜(C)とも、少しずつ記述が異なっていることが判ります。一致しているのは、
・納富家理は分家である事
・家理の後に系譜は記されず、子供は無かった事
・家理の同時代、納富本家の家輔も存在している事
気になるのは、家理の父の妻は、鍋島直茂に嫁ぐ前の彦鶴姫(陽泰院)ですが、(A)〜(C)とも、納富家理を、陽泰院の実子とは傍注に明記していません。
佐賀藩士家として重要な点だと思うのですが、なぜ納富家の中で明記していないのか。陽泰院の実子ではない可能性があるから、または、憚りの気持ちからでしょうか?詳細不明です。
一方の娘(太田氏室)は、陽泰院の娘と傍注に明記されています。
仮に(というか、その可能性もあるのですが)、納富家理が、陽泰院と前夫の間の実子であった場合、
沖田畷における龍造寺軍本隊の先陣二将は、
・小川信俊(鍋島直茂の実弟。小川家の将が複数戦死により、直茂の弟が養子に迎えられ、家督相続した。宿老の家系。)
・納富家理(★陽泰院の息子=直茂の義理の息子。納富分家の将)
さらに、二陣の龍造寺康房も、鍋島直茂の実弟。(龍造寺分家・龍造寺純家が河上宮で闇討に遭い亡くなった為、養子に入り、家督を継承した。龍造寺長信の家中に属し、女山龍造寺氏祖となる。)
★沖田畷の戦い 龍造寺軍の陣立模式図。(佐賀県近世史料1-1に依る)クリックすると拡大します。
つまり、先陣二将・二陣の将ともに、鍋島直茂に縁が深い事になります。
考えれば、島津氏有馬氏との勝負の一戦、先陣は江上家種・後藤家信らの軍勢でも良かったはずですし、将又、新参の松浦郡・彼杵郡・高来郡方面の軍勢を、被害が多くなる先陣に配置しても良かったはずです。
なぜ、小川信俊と、納富家理が?
そして、沖田畷の当時、納富家は本家の納富家輔も健在です。なぜここで、分家の家理が抜擢されたのか。
→★【要因の考察】
�@納富家理の先陣抜擢は、彼個人の能力と実力を、龍造寺隆信が評価していたため。
�A納富家理の先陣抜擢は、納富本家の家輔が当時、病気など何かの事情があった為務められず、家理が納富軍の統率を任された。
(参考例として、二陣の龍造寺康房は、龍造寺長信が病気がち、かつ息子の家久が若年という事情のため、多久衆を率いた。)
�B先陣が小川信俊・納富家理とされたのは、縁故の鍋島直茂の意志によるものか。(万一の被害の大きさに備え、敢えて直茂は縁者たちを先陣へ配置した。つまり龍造寺隆信への忠誠心か、または他意があったかどうか)
�C龍造寺隆信の判断と抜擢による。
「今回は小川信俊と納富家理に先鋒を命じる」という判断というだけの話。宿老である二家を、名誉ある先陣に配した。
�D管見の限り根拠史料は見当たらないが、一時期、納富但馬守信景から、分家・非嫡子の家理へ家督が譲られていた?
ここで、
【補考】
天正2年 松浦進攻時の陣立:先陣 鍋島直茂、二陣:小川信俊 内田信堅、 三陣:神代衆・江上衆、旗本:納富家理、ほか。(『佐賀藩の総合研究』藤野保 著 吉川弘文館 発行 P.172)
天正8年 筑前国荒平城(安楽平城)攻めの陣立:先陣 小川信俊 納富家理、二陣:龍造寺信周、三陣:龍造寺長信・康房、四陣:江上家種、五陣:鍋島直茂、本陣:龍造寺隆信。(同上 P.175)
天文22年〜天正8年、龍造寺家・家老職の変遷。(同上 P.188)
・天文22年は三家老:小川信安、納富道周(栄房)、江副久吉
・中間の時期、四家老:龍造寺家親(与賀龍造寺家)、小川信安、納富信景(但馬守)、福地信重
・天正8年、五家老:龍造寺信周、龍造寺家就、小川信俊、納富家理、土肥信安。
・天正8年、龍造寺家の着到帳「五箇国配分帳」(同上 P.156)では、
納富賢景(おそらく家輔=家景と思われる):500町
納富九郎兵衛尉:200町 (納富栄房の息子、また別の分家。
系図(A)(B)に九兵衛尉と名前あり、(C)には記載なし)
納富七郎兵衛尉(家理):100町
(註:同上 P.156は「五箇国配分帳」と「隆信公幕下着到」の比較表であるが、P168に、「五箇国配分帳」は「隆信公幕下着到」より実態をより正確に記載しているということができる、と藤野氏が記されているため、幕下着到の方は省く)
天正11年12月時点での龍造寺家三家老:小川信貫(信俊)、土肥信安、納富家理。(同上 P.130)
→★こうして見ると、天正8年 筑前国荒平城攻めと、沖田畷の陣立てが似ている事が指摘できますね。
また、どうやら納富本家の納富家輔(家景)よりも、分家の納富家理の方が、本家より知行地が少ないながら龍造寺隆信に引き立てられている事が判明しました。隆信は知行地の面では、本家をきちんと優遇している点も、興味深いです。(賢景500町、家理100町)
つまり、天正年間以降、沖田畷の戦いの頃まで、納富家理は納富家を束ねる軍事司令官であったことになると思います。察するにそれは、彼の能力と実力によるものであり、龍造寺隆信が評価していた為と考えます。
(先例としては、かつて分家の実力者・龍造寺家兼が、龍造寺氏全体を軍事的に指揮していた事があります。)
何といっても一代で家を振興した敏腕・龍造寺隆信ですので、過去のデータからすると、沖田畷の戦いで納富家理が先陣を務めた事については、結論としては鍋島直茂の意志の介入は薄く、龍造寺隆信の判断で、家老家二将が、名誉の先陣に任じられたものでしょう。
という訳で、今回は「納富家理とは、何者なのか」、詳細お知らせ致しました。これで家理については、WEB検索上、このブログが一番詳しい解説記事になったと思います。
★8/27追記――――――――――――――
「葉隠聞書校補 三」(『佐賀県近世史料 第8編 第1巻』佐賀県立図書館発行、P321)の「納富治部太輔信貞」の条に、
「(妻)陽泰院様御腹之子、男女二人有り、男能登守家理於島原戦死、男児無きによりて、妹婿・太田生左衛門茂連へ知行相続仰付けられ・・」
「元和七年、陽泰院様、(中略)御前夫・治部太輔信貞 法名花叟長栄のため高伝寺へ、御子能登守信理 法名 天沢全理のため慶�ァ寺へ、施餓鬼料として御寄付の御印差し出され候、今に太田家知行の内也。」
とありました。
「葉隠聞書校補」は、嘉永・安政頃から文久年間にかけて、枝吉神陽・徳島常維・相良宗蔵らが中心となって「葉隠聞書」の考補作業がなされ、まとめられたものです。P321.納富治部太輔信貞と、P501.納富常陸介家輔および納富家系図を見ると、枝吉氏らもまた、鍋島家文庫の納富系図を、その傍注を含み参照した文言の印象を受けました。
さらに、陽泰院が息子の家理のために慶�ァ寺へ施餓鬼料としていくばくかの土地を寄進しているという、独自の情報が記され、家理が陽泰院の実子である信憑性を高めています。
よって、先学上、納富家理は、陽泰院の実子である可能性が高いようです。幕末期の鍋島藩士の中では、そのように認識されていた事が判りました。
また、女兄弟の太田夫人については、「葉隠聞書校補」では「妹」とされています。一方『諸富町史』(太田氏の歴史を含む町のため、太田氏史が詳しく記されている)には、「姉」とされています。この点はどちらが正しいのか不明、という結論です。
またP501.納富常陸介家輔の条には「但馬守信景が(先代の栄房を)相継ぎて御家老職、其子常陸介家輔、天正16年7月25日、父に先立って死す、行年34歳。(中略)(葉隠聞書の)本文に島原戦死と有は誤り也。」とあります。
これは、上掲(B)系図の家輔の傍注の解説と、瓜二つです。
系図成立が先か、葉隠聞書校補が先かは不明ですが、仮に系図成立が先であれば、枝吉ら葉隠聞書校補編纂メンバーも、過去の編纂物よりは納富系図の情報を重視して、納富氏の事を解説しているのではないでしょうか。
逆に言えば、系図の情報が誤りや不完全であった場合、解説も、史実とは異なる可能性がある。
再び考えます。実際は、分家の者が一時期家督を継いだが、戦死などにより家督が本家に戻り、後世の系図上で簡略化された場合、本家→分家→本家、ではなく、本家→本家 (途中の線は省略)となっている可能性も捨てきれません。太田夫人が家理の、姉か妹か、線を見るだけでは分からない点も然り、家系図の情報に重点を置くにも限界がある事は踏まえて置く必要があります。
ともあれ、今の所、「納富家理が納富本家の家督を一時継いだ」という情報は、上記見て来た史料の中には、一切ありません。
■上記に関連して、★必携の本『歴史群像』160号(2020.4月号)
「再検証 沖田畷合戦 − ”肥前の熊” 龍造寺隆信 【後編】」中西豪先生執筆。(当会史学顧問)
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★沖田畷の戦い・レポート(14)へ続きます。
http://sagasengoku.seesaa.net/article/500116419.html
佐賀戦国研究会 代表 深川 直也


石丸弥次郎です。
沖田畷で戦死しました。
先月 島原へ私用で行った時
沖田畷の 龍造寺隆信の碑に
お参りしてきました。