2016年09月13日

★慶長五年関ヶ原合戦時期における佐賀城外郭の防衛普請考 A




★@ http://sagasengoku.seesaa.net/article/441818339.htmlの続きです。


■参考資料追加:
(12):『佐賀市史』第二巻 近世編(佐賀市 刊)昭和52年 7月29日発行
(13):『神埼郡郷土誌』上・下合本、復刻版(名著出版 刊)昭和49年3月26日刊(原本は大正4年に刊)


【2016.9/13付】
―――――――――――――――

歴代の蓮池城主(龍造寺時代以降)■ 【参考資料(7)・(8)・(11)・(3)・(13)】


・永禄11年 月は不明〜 龍造寺長信 (11)巻之十七

・元亀元年9月〜 龍造寺家晴 (11)巻之二十では10月(後年一貫して城主だったかは不明)

・天正12年4月〜 鍋島直茂 (8)

・天正17年1月〜 江上家種(文禄2年、江上家種、朝鮮にて没) (8)

★慶長5年 7月末〜8月頃 城番として鍋島生三 (参考資料(10)『坊所鍋島家文書』155号 白峰旬先生慶長5年比定)

・それ以降、いつからか不明だが、慶長年間〜元和元年一国一城令まで、石井一門が直茂の意向によって城代・城番を務めた。(8)



【補考情報】

■天正13年 龍造寺隆信没後、戸次道雪・高橋紹運ら豊後勢が筑後へ侵攻して来た時、直茂は柳川城に入って防戦に努めた。柳川城主の家晴は城を出て、久留米方面で龍造寺政家と共に布陣。【参考資料(8)P.503 】

■参考資料(8)P.823に、蓮池城の縄張り上、本丸とは別に「南小曲出城」とある。龍造寺鍋島氏の蓮池城が、小田氏の旧蓮池城(小曲城)の主郭を包摂し拡張されていたことが想像できる。

■「直茂の意向で」石井一門が城代・城番をつとめたという記事の典拠→【参考資料(8)P.823 】

■慶長7年 鍋島勝茂の嫡男、元茂が蓮池城で生まれる。 【参考資料(7) 御年譜二 P.32】

■慶長16年 佐賀城の修築成り、蓮池城にいた(勝茂の?)「御子様方は皆々」佐賀城へ移る。【参考資料(8)P.823】

■元和元年6月13日〜 一国一城令によって、蓮池城を破却開始。

■参考資料(13)P.323に、蓮池城歴代城主の変遷についてまとまった先行研究あり。その考察では江上家種没後は、慶長年間概ね鍋島直茂の支配下が続き、その後元和元年、一国一城令での破却から『寛永十六年蓮池支藩分封まで即ち約二十五ヶ年間は佐賀藩の直轄となれるものゝ如し』とある。

■資料(13)では、長信が蓮池城主になったのは永禄十年頃か、としてあるが資料(11)では永禄11年。『隆信公御年譜』でも永禄11年である。

―――――――――――――――

★今回:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html 2016年8/26付白峰先生御解釈上、7月16日付鍋島勝茂書状が「慶長5年」と明確に比定される時、歴代蓮池城主変遷の先行研究に付加して、慶長5年7月末〜8月頃には勝茂の命により鍋島生三が蓮池城番を務めた可能性を、新たに指摘できる。

★一次史料である坊所鍋島家文書を根拠に参考資料(3)や(12)上「慶長年間に佐賀城と蓮池城が連動して普請された事が分かる」旨論じられているが、資料(8)『直茂公譜考補』五乾 P.490を読むと『旧記』からの引用として天正12年6月頃『政家公直茂公へ御相談あって、佐嘉・蓮池の両城を修補され、要害を設けられけるに、直茂公世を御伺いあるの由謳説あり、玆に因り公御蟄居あって更々世事に御構いなし、』とある。つまり慶長年間より以前、天正12年6月頃、すでに佐賀城と蓮池城は連動しての普請構想があり、着手もされていた可能性がある。普請の理由は、沖田畷敗戦後、敵軍の襲来に備えるためである事は明らかである。


★『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)19号文書、直茂→平五郎茂里・生三宛書状について、参考資料(1)や(2)では、佐賀蓮池間の普請を含めて慶長12年のものと比定している。

ここで考察を試みる。上記の資料(8)『直茂公譜考補』五乾 P.490、天正12年の佐賀蓮池間の普請には、2つの特徴がある。ひとつは沖田畷敗戦後、島津や大友ら敵軍の佐賀襲来に備えた普請である事、ふたつめは直茂に「世を伺っている」との噂が立った事。

慶長の19号文書を、慶長5年と比定した時、関ヶ原合戦の年の2月晦日付なので政情は不穏、有事に備えて佐賀蓮池間を普請するのは天正12年を先例として自然であり、必然である。同時に19号文書で直茂が「目立たぬように、少しづつ行ってくれ。他方の批判が生まれては云々」とするその心情は、先例として天正12年の佐賀蓮池間普請時に、「他方の批判」=家中からの批判に遭っている事が理由であろう。天正12年は「直茂は御家を乗っ取る気があるのでは?」という噂が立ち、不本意な直茂は蓮池城に引き籠ってしまったとある。また白峰旬先生が先日御指摘の通り、19号文書を慶長5年と比定した時には「他方の批判」の他方=近隣の大名諸家からの批判・風説とも考えられる。結論として19号文書は慶長5年に比定の余地があり、天正12年6月の状況、2つの特徴「争乱に備えての普請」・「直茂への批判云々」において似ている。


(つづく)





posted by 主宰 at 05:09| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月10日

★慶長五年関ヶ原合戦時期における佐賀城外郭の防衛普請考 @


★慶長五年関ヶ原合戦時期における佐賀城外郭の防衛普請考 ―『瀧岸之新城』の推定位置―

【2016.9/10付 佐賀戦国研究会 深川 直也 研究ノート】



■参考資料:
(1):『戦国大名の古文書 西日本編』(柏書房 刊)平成25年12月10日初版 P.345
(2):『第20回 佐賀城下探訪会 八戸 −城下西の玄関口』ファイリング資料(発行:徴古館)平成25年11月17日付 P.12 P.30〜31
(3):『甦る佐賀城』高瀬 哲郎 氏 (平成23年11月26日 徴古館での講演会資料)
(4):『佐賀市歴史探訪 16 十間堀川』(発行:佐賀市)平成22年3月加筆修正分
(5):『五州二島の太守 龍造寺隆信』川副 博 著 川副 義敦 考訂(佐賀新聞社 刊)平成18年10月20日
(6):『風雲肥前戦国武将史』木原 武雄 著 (佐賀新聞社 刊)平成7年1月1日初版
(7):『佐賀県近世史料第一編第二巻』「勝茂公譜考補二」(佐賀県立図書館 発行)平成6年3月15日刊 P.233 下段
(8):『佐賀県近世史料第一編第一巻』「直茂公譜考補十」「公御遺言ノ覚書」(佐賀県立図書館 発行)平成5年1月27日刊 P.829〜830
(9):『佐賀県の地名』(刊行:平凡社)「日本歴史地名体系42」昭和55年3月10日初版 P.211 P.186 P.190
(10):『佐賀県史料集成 古文書編 第11巻』「坊所鍋島家文書」13号〜28号(佐賀県立図書館)昭和45年3月31日刊

(11):『北肥戦誌』(青潮社 刊)平成7年1月1日 刊 (馬渡俊継 著。江戸時代の軍記物)


【主旨】

一、『佐賀県史料集成 古文書編 第11巻』「坊所鍋島家文書」13号〜28号(主に慶長5年)上に度々記載される「蓮池城」の歴史的・軍事的重要性を再考する。

二、『佐賀県史料集成 古文書編 第11巻』「坊所鍋島家文書」19号は先行研究上、年次比定が慶長5年説と慶長12年以降説に二分している。上記参考資料(1)(2)を参照する限りでは慶長12年以降説の方が新しいと思われるが、先日の【2016.9/9付】『白峰旬先生による九州地方の関ヶ原合戦についての考察A』上、19号文書考察に関連して白峰先生より「慶長5年説も検討の余地がある」旨御示唆を頂き、再検討を試みる。

三、『佐賀県史料集成 古文書編 第11巻』「坊所鍋島家文書」19号上に見える「瀧岸之新城」の位置を推定・提案する。(※先行研究でこの点すでに指摘があれば、御教示お願い致します。)


―――――――――――――――

一、「蓮池城」の歴史的・軍事的重要性 (戦国時代〜慶長年間)

■元和4年5月28日付、鍋島直茂が最晩年に回想した佐賀城の危機。


『一 先年豊州衆姉さかひ原へ陣取候付、覚へとも候間、蓮池之儀兼而其格護(覚悟)可入事、一 河副津邊右同前之事、付、大田村へ伊勢仁王被官とも可召置事、』  参考資料(8):「公御遺言ノ覚書」より


防衛ライン.jpg

★添付図を作成。右上方面が姉地区、境原地区。今も地名が残る。参考資料(9)P.134によれば、境原の地名は、佐賀郡と神埼郡の境目にあたる原野であることに由来する。「先年」「豊州衆」は、有名な今山合戦を含む今山戦役(永禄12年〜元亀元年)の際に来襲した豊州衆、つまり大友宗麟の軍勢を指す。(この戦役以降、佐賀城から4キロ圏内に豊後の敵衆が布陣した記録を見ないため。)

■参考にお薦め:『今山合戦』解説動画、中西豪先生 (2016.サガテレビ春フェス内)→http://sagasengoku.seesaa.net/article/436089739.html

直茂は元和4年6月3日に没するので、亡くなる5日前にこの防衛の回想を遺言ノ覚書に残し、家中に「蓮池之儀」について今後の「覚悟」を求めている。かくごの「ご」の字に「護」が当てられているのも興味深い。この事から直茂は、姉・境原という場所のロケーションと、そこから直線で2キロ程南にある蓮池を非常に重視していた事が分かる。蓮池には「蓮池城」が以前から存在していた。

時代を遡ってみる。

元々蓮池は戦国時代、龍造寺氏の宿敵と言える小田氏の根拠地であり「小曲城」とも呼ばれる環濠集落型の平城(水城)が存在していた。以下、参考資料(9)P.190及び(11)『北肥戦誌』巻之十七によると『応永年間(1394-1428)小田直光の築城。』戦国期の小田資光(覚派)、小田政光、小田鎮光の代には佐賀郡・神埼郡・三潴郡に渡って6,000町を領する有力国衆であった。領域が隣接するため小田氏と龍造寺氏は長年度々抗争したが、永禄元年最終的に龍造寺隆信によって攻め落とされた。その後永禄10年、龍造寺隆信の弟、長信が蓮池城に置かれた(参考資料(5)+『神埼郡郷土誌』(大正4年初版を昭和49年に復刻刊行)「蓮池村」項)。

蓮池城獲得は、龍造寺隆信が有力国衆として東肥前に台頭する基盤となり、同時に佐賀城の前身である村中城・水ヶ江城を防衛するための東の要となる。蓮池城の歴代城主が、龍造寺長信、龍造寺家晴、鍋島直茂、江上家種(龍造寺隆信実子)ら家中の重鎮ばかりである事からもその重要性が察せられる。なおかつ時代によって天守も存在したとされ、参考資料(3)上、天正19年鍋島直茂は名護屋城の築城に際し蓮池城の天守を献上(分解して名護屋城普請に活用)したという。

★『海路』11号(海鳥社 刊)H25.4/20P発行 P.144『九州にとって「織豊」とは』木島孝之 氏著。
織豊系城郭の縄張りに対しての「在地系縄張りプラン」の一例、「群郭型プラン」の説明。
『佐賀城が築かれた佐賀平野は水郷地帯である。ここでは直鳥城・姉川城をはじめとして、水堀で囲まれた曲輪が幾つも並んだ”浮島の集合体”のような形態の戦国期城郭が多くみられる。このプランも群郭系プランの一種で、どの曲輪が中心なのか明確ではない。とりあえず、真ん中の曲輪を本丸とみるにしても、構造的には、どこが中心でも不思議ではないプランである。ここで、佐賀城の曲輪配置を模式図にしてみると、堀を持った方形居館が集まった「環濠屋敷群」の形をしており、戦国期佐賀平野水郷地帯の城郭型プランと同じ骨格であることが分かる。』

■参考:戦国期佐賀平野水郷地帯の城郭型プランとして代表的な遺構とされる「直鳥城」。


★戦国期の蓮池城も環濠集落型、在地系「群郭型プラン」の平城であったとされる。


・参考資料(11)巻之十八上、元亀元年の今山合戦前の頃は『(持口の手分けについて)南の船手をば蓮池の城にありける龍造寺兵庫頭長信に下知し、同名下総守信種を差副へらる。』とあるため、城主が長信だったと読める。また一連の記載から蓮池城では大友方と大きな攻防は無く、陥落はしていないと見える。ただしこの記述では意識が「南」に向いており、直茂の遺言ノ覚書の件も含めて考えると、今山戦役時に戸次鑑連や大友勢の主力が蓮池城の「北」2キロもの近距離に布陣した事、その脅威が大きなきっかけとなって、龍造寺氏は蓮池城の北面(姉・境原方面)への防御意識を強め、また城の普請や交通整備を進めたものかもしれない。

・『佐賀県史料集成古文書編 第11巻『坊所鍋島家文書』155号、慶長5年に比定されている7月16日鍋島生三宛鍋島勝茂書状で、勝茂は鍋島生三へ「下国して蓮池城の番を」命じている。この書状が「内府ちかひの条々」が発布される前日の日付である事とその内容の重要性を白峰旬先生が指摘(2016.8/29付)。→http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html

関ヶ原決戦への一連の騒乱が始まる慶長5年7月に、勝茂が国本の「蓮池城」番を生三に命じた意義を考察する時、前述の直茂の遺言ノ覚書の事を含め、やはり過去他国から敵が佐賀へ向って攻めて来たルートである姉・境原を押さえておくためにも、直茂・勝茂ともに「有事に備えては蓮池城の堅固な番が必須だ」という意識でいた事を指摘できると思う。引いてはそれは、佐賀城防衛のための必須の措置という事になる。有機的な防衛ラインとして注目すべきである。


(続く)


■H28.9/13付:
・小田氏時代の蓮池城解説を一部改編。
・参考資料(11)を追加。
・今山合戦時の蓮池城関連を追加。
■H28.9/17付
・『海路』11号(海鳥社 刊)P.144『九州にとって「織豊」とは』木島孝之 氏著の城郭解説紹介。
・直鳥城の動画紹介。






posted by 主宰 at 22:02| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2016.9/9付】白峰旬先生による九州地方の関ヶ原合戦についての考察 【1−2】




考察@:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441788590.html の続きです。


――――――――


★【2016.9/9付】白峰旬先生による、九州地方の関ヶ原合戦についての考察。A




【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)19号文書】

▼佐賀と蓮池の間の普請(道普請、堀普請、土塁普請などの可能性)について記す。「瀧岸之新城」について述べているので、元和一国一城令 (元和元年)より前であることは確実。鍋島直茂は普請を目立たないようにするよう指示しているが、その理由として「他方より批判」を危惧している。この場合、「他方」が主筋の龍造寺家なのか、他の大名なのか不明。「批判」には現代語の非難という意味のほかに「民衆の間に流れる噂」(『邦訳日葡辞書』) という意味があるので、その意味であれば「他方」=他の大名という意味になるか?


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)23号文書】

▼文中に、(佐賀城の)「三之丸屋造」について書かれており、直茂が内装の細かい指示をしているので、慶長5年ではないだろう。佐賀城の作事が進行した、もっと後の時代と思われる。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)24号文書】

▼直茂が鍋島生三に対して、「日田」(森兵庫)へ飛脚を申し付けて、「豊州表」のことを聞くように指示している。つまり、直茂は「日田」(森兵庫)を通して、豊後(黒田如水の動向?) の情報を取得しようとした。尚々書では、「塩硝」(=火薬) の調達を直茂が指示している。これは合戦の準備のためか? この書状は「廿四日」付であるが、状況から8月か? 8月とすれば、8月24日の時点でも直茂は家康方ではなかったことになる(この書状では家康については全く言及していない)。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)25号文書】

▼「日田」へ遣わした返事が来た、としている。これは24号文書で直茂が鍋島生三に指示して出した書状の返事という意味であろう。とすれば、この書状は「十七日」付であるが、状況から9月か?

▼文中では、黒田如水が軍事行動をおこして勝利した、と報じているので、この情報は「日田」(森兵庫) から取得した情報なのであろう。つまり、鍋島家の情報網では、豊後での黒田如水の動向は把握できなかったことを示している。

▼黒田如水の勝利をめでたいなどとは記していないので(つまり、直茂は喜んでいないので)・直茂は如水とは、この時点 (9月17日)で同じ立ち位置ではなかったことは確実。

▼文中で 「如水」と呼び捨てにしている点に注意すること。

▼この「日田」からの返書はまだ鍋島生三には、直茂から渡されていない、と書かれているので、鍋島生三はこの時は蓮池城にいたか? とすれば「其元普請」とは蓮池城普請のことになる。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)26号文書】

▼文中の「連々可申入候へ共、貴辺之儀者、内府一篇之御覚悟に侯間、無心疎、かさねて申入間敷候」というのは、かなりきつい言い方で、最後通牒のような感じで、家康に肩入れしている貴殿 (貴辺は貴殿と同じ意味)=如水へは今後、直茂からは書状を出しません、と述べている。「無心疎」は一字ずつ意味をとると、心を疎んじることなく、という意味になる。「間敷」は「まじく」で、打消しの推量(きっと〜ないだろう」、または、不可能の推量 (〜できそうにない)、または打消しの意志 (決して〜ないつもりである)。この場合は、打消しの意志(決して〜ないつもりである)であろう。文中の「可口口其御心得候」の「口口」には「被成」が入ると思われるので、そうなると、「そのように心得てくれ」と述べていることになり、これもかなりきつい言い方になる。つまり、9月10日の時点で、直茂は家康方の如水と決別した、と読み取れる。尚々書で「申度事候へ共、紙面ニ不克述候」というのは、述べたいことがあるが紙面には書けない、としている。「不克」は否定形なので「〜あたはず」と読み(『全訳漢辞海』、三省堂)、「〜できない」という意味になる。

▼この書状は、直茂が相当悩んで書いたようにも受け取れるほか、如水に対しての怒りを抑えているようにも受け取れる。文面が非常に短いのはそのあらわれか?この一連の争乱における直茂の関係書状では、はじめて「内府」=家康に言及した書状であるが、家康を味方と考えていないことはこの書面でも明らか。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)27号文書】

▼9月26日の書状なので、この時点での直茂の考えが明確にわかる。9月10日付の如水宛の26号文書の文面が短いのとは対照的に、27号文書は非常に長文である。

▼日田の森兵庫からの書状に対する返信であることがわかる。

▼一条目では、石垣原の戦いで大友義統が敗北したことに触れている。ここでは「義統」、「如水」というように呼び捨てにしている。

▼二条目では、黒田如水・加藤清正を「敵口」、「敵」と書いている点が注目される。つまり、9月26日の時点で、直茂は黒田如水・加藤清正を敵と認識していたことが明らかになる。

▼三条目では、肥後での加藤清正による宇土城攻めを報じている。この情報は「筑後表」から到来した、としているので、「筑後表」が立花家を指すとすれば、鍋島家と立花家はこの時点(9月26日)では同盟関係にあることになる。文末の「尚互可申承候」は今後も直茂と日田の森兵庫が相互に情報交換することを、直茂が希望していることになり、今後も直茂は立場 (如水・清正と敵対する立場)を代えるつもりがないことがわかる。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)28号文書】

▼文中の「兵粮之儀、上衆、薩摩くたりにて候者」というのは、関ヶ原の戦い後の島津討伐予定のことを指すか? そのための兵粮調達の指示か? とすれば慶長5年の11月か?

▼「東目之様子」とは関東の状況という意味か?


――――――――



★上記について、同H28.9/9付・白峰旬先生よりの追而コメントです。


・石垣原の勝利について、直茂は如水から報告を受けていないと読める事から、少なくとも、鍋島直茂と黒田如水はこの時点で同盟関係になかったことになります。

・『吉川家文書之一』(大日本古文書)153号文書は、一見するとすごいことが書かれているように錯覚しますが、よく読むと大したことは書いてありません。

一条目は天下の成り行きの現状を大して驚いていないこと、
二条目は黒田長政に気遣いしてもらったことへの礼を述べたこと、
三条目と五条目は九州での挙兵予定のこと、
四条目は京からの使者が持ってきた書状を広家のところへ遣わすこと、
六条目は(使者の)口上にて述べるので詳しくは書かないこと、
七条目は如水が広家と今後も仲良くしようと述べていること、です。

特に七条目は文章表現こそ芝居がかって大げさですが、今後も仲良くしよう、と述べているにすぎません(こうした大げさな表現はかえってしらじらしく聞こえます)。
そして、六条目にあるように、詳しくは口上で、と述べているので、如水の本心や核心的部分は使者の口上で述べることになり、この書状だけを見ても、どのようにでもあとで言い逃れができる巧妙な書き方です。このあたりに如水の抜け目ない狡猾さが感じられます。

・慶長5年のこの時点で、九州にいる大物大名は島津を除くと、黒田如水、加藤清正、鍋島直茂だけなので、如水と清正が気脈を通じて軍事行動をする以上、それを疑心暗鬼の目で直茂が見ていたのは当然と言えるのではないでしょうか。 』


――――――――

【2016.9/9付】白峰旬先生による、九州地方の関ヶ原合戦についての考察については、以上です。御多忙の中、大変貴重な御考察を有難うございました。今後先生の論文上に、佐賀の鍋島直茂が登場する事を期待しております!おそらく佐賀県史上においての「鍋島直茂の研究」という枠で見ても、白峰先生のこの考察文が最新だと思われます。


レポートは続きます。



posted by 主宰 at 03:26| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする