2016年11月14日

『第二回佐賀戦国勉強会・座談会覚書』



★佐戦研蒼寿氏が、先日の第二回勉強会のノートをUPしてくれたので、こちらで紹介します。感謝です。

■勉強会のホスト:中西豪先生
■御参加頂いたゲスト:白峰旬先生

http://mixi.jp/show_friend.pl?id=477388

以下転載



第二回佐賀戦国勉強会・座談会覚書

先日の佐賀戦国研究会の勉強会&座談会で、私が走り書きしたメモをもとに、
覚えていることを整理して箇条書きにしたいと思います。
聞き違いや記憶違いもあるかもしれませんので、
もし誤りを見つけられましたら、コメント等で指摘の上、ご寛恕下さい。

以下本文*****

・吉川広家宛黒田如水書状によって、慶長五年(1600年)8月4日時点で如水と加藤清正が協力関係にあったとする説は、時期的に早すぎる。高橋陽介氏は8月20日時点との見解に傾いてきている。当該史料は上旬のものか下旬のものかで解釈が変わってくる。8月上旬ではまだ旗色が鮮明になっていない。
→(開催後TELで聴取:高橋さんは、20日説を採用確定との事です。)

・黒田如水が、慶長五年七月中旬の三成挙兵を知って、九州で募兵を行ったという説は、『黒田家譜』によるものであり、甚だ怪しい。黒田長政は全軍を率いて、上杉景勝征伐に向かい、関ヶ原で戦ったのではなく、黒田如水のもとには家臣団が大人数程いた。田舎ではいくら金銭を使って募兵しても兵数は集まらない。

・「直江状」について。「直江状」は上杉征伐のきっかけとなった書状とされてきたが、実際には、この書状が家康の上杉征伐を招いた訳ではないのではないか。「直江状」は、後に写本されていったが、最初の写本に比べて、後世(江戸期)の写本は、どんどん整ったものになっていった。

・毛利勝永は、真田信繁より後、戦いが始まった後に大坂城に入城している。

・毛利勝永は、慶長五年の一連の戦いでは伏見城攻めや伊勢方面の戦いにも参戦している。

・朝鮮出兵での武断派・文治派の対立のような話も、江戸期に作られ、定着したもの。「五大老」の制も同様。

・加藤清正は体育会系の武将ではなかった。

・石田三成が戦下手であったというのも後世の説。

・三成と清正の不仲の話もどこまで本当か分からない。

・家康の東上(上杉征伐)の際、家康は江戸を通っていない。所謂「小山会議」も後世の創作であるとする説もある(実在説もあるが、それほど世間で喧伝されるようなドラマチックなものではない)。

・山内一豊の土佐転封は実はそれ程石高的には加増されていない?

・毛利輝元は、重臣の妻を奥方に迎え、跡継ぎを生ませている。

・吉川広家こそ家康の天下取りの立役者。

・佐賀では、幕末のことは称揚するが、戦国期は龍造寺タブーもあって、語られることが少なかった。龍造寺タブーは戦後まで佐賀に残り、年配の方は「龍造寺八幡宮」のことを、単に「八幡さん」と呼んでいた。

・後世の編纂物や軍記物、実録体小説は二次史料。

・韓国の歴史家は、まず「結論ありき」で、思い込みで歴史書を書くことが多い。

・「起居注」とは、君主の言行を記録した史官の記録のこと。朝鮮の『李朝実録』は記録の対象となる王の時代のことを次代の王の時に編纂するが、日本でいう文禄・慶長の役の時の王である「宣祖」の記録は、一次史料的な部分を多く含んでいる。

・宣祖の後継である光海君は廃立され、その次の仁祖の時に、『宣祖修正実録』が編纂された(ウェブで調べると『宣祖修正実録』は、仁祖時代の大臣たちが自分たちを正当化するためにでっちあげたもののようです)。

・史料の恣意的な利用は戒めるべきであること。

・鍋島勝茂が西軍に属して各地を転戦したのに対し、親の鍋島直茂は家康方であると考えられてきたが、その根拠とされてきた「川崎氏所蔵文書」第一号の鍋島直茂の黒田如水宛書状(八月十日付け)をよく読んでも、直茂を家康与党と考えるのに充分であるとは言えない。同史料は、伏見城が落城したので、直茂は、上坂を急ぐ必要がなくなったとし、上坂を延期する旨を如水に伝えている。またこの史料では、この時点で直茂が、増田長盛・長束正家・安国寺恵瓊等を中央の豊臣正統政権メンバーと見ていることが指摘できる。

・鍋島直茂は、関ヶ原本戦の九月十五日の後の九月二十六日になっても、西軍の森兵庫に対して、さも味方であるかのような書状を送っている。

・石高百石に付き三人役の軍役が課せられているので、龍造寺・鍋島(三十一万石)には九千三百人の軍役が課されているはず。

・江戸期の龍造寺四家(多久・諫早・武雄鍋島・須古鍋島)の領民は、地元の殿様が元々龍造寺氏であることを知らなかった。
→(佐戦研主宰は黒板に村田家を書きましたが、正しくは諫早家でした、失礼しました)

・佐賀側の記録では、立花征伐は上方で家康が勝茂に命じたことになっている(黒田長政に口をきいてもらった)。

・柳川合戦(江上・八院の戦い)で、立花宗茂が柳川城から出なかったのは、家中不和、薦野(増時ヵ)と小野(鎮幸ヵ)の対立が原因と考えられる。家中不和のまま、家臣たちが五月雨式に打って出たのを、鍋島軍が各個撃破した。

・立花家の家中不和は、立花の家付き家臣の存在が原因である可能性がある。

・柳川合戦の鍋島直茂の本陣である城島から江上・八院までは5キロ。江上・八院から柳川までは、3キロ。

・天正十八年(1590年)の龍造寺政家の隠居後は、鍋島直茂が龍造寺・鍋島軍を統率した。

・「化け猫騒動」は幕末から明治にかけての時期に成立した。三大化け猫:岡崎・有馬・鍋島。

・筑紫氏について。筑紫広門は豊臣政権により勝尾城から、筑後国上妻郡へ転封。関ヶ原で西軍につき、改易。その子も広門を名乗る(ウィキでは養子。実は父・惟門の子とのこと)。その家系は後に旗本となった。

・大勢は決したのに、如水はなぜ島津攻めをしようとしたのか?

・鍋島直茂は家康に通じていて、子の勝茂に使者を遣わして、関ヶ原本戦直前に西軍から離脱させた、というのが従来の説であったが、直茂が家康与党でなく、むしろ西軍寄りとも受け取れる立場にいたことを考えると、従来の説には疑問を持たざるを得ない。関ヶ原本戦直前に西軍本隊から離脱する口実として挙げた「伊勢長島の東軍に備えるため」という理由は案外本音だったのかもしれない。

・何種類かある関ヶ原合戦図の中には、南宮山に鍋島勢が描かれているものもある。

以上。


2016年11月8日 07:30 』
posted by 主宰 at 03:48| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月28日

【全体】第二回・第三回 佐賀戦国勉強会・座談会 開催告知

★告知リリースします。同時にDMハガキを発送します。



第二回 ・第三回  佐賀戦国勉強会・座談会



■第二回:平成28年 10月30日(日) 13:00〜16:30

■第三回:平成28年 12月17日(土) 13:00〜16:30

■場所:佐賀市市民活動プラザ(白山) 4階 
アクセス:http://www.tsunasaga.jp/plaza/access.html

■参加費:各 300円(会場代として)
  
 ★今回、場所を広くした為、事前予約・連絡は不要です!


★内容:「直江状」朗読の鑑賞や、第一回の高橋陽介先生による「関ヶ原合戦に関する一次史料の研究発表」の内容振り返りと、九州の関ヶ原合戦研究について。・中西豪先生による解説。

★また他に予定がなければ『関ヶ原合戦の真実』著者、白峰旬先生がお越し下さるそうです。座談会・質疑応答あり。非常に貴重な機会です。

★歴史雑誌『忘却の日本史』発刊元社長、舞秀和氏もお越しの予定。


開催後、夕食兼ねて懇親会をします。参加はご自由ですので、お時間ある方は当日是非ご参加下さい。



常連様のみにハガキをお送り致します。12月開催の告知も含みます

※【重要】第一回御参加の方は、配布した資料一式をご持参下さい。第二回・第三回も使用します。お忘れの場合、\200円申受けます。

★佐賀城ではなく佐賀市市民活動プラザにて佐賀戦国勉強会・座談会を行います。(椅子+テーブル席)

前回『一次史料にみる関ヶ原の戦い』をお書きになられた、高橋陽介先生に御参加頂き一次史料を用いて黒田如水と吉川広家の動向を解説頂きました。非常に専門的内容であったので、前回内容を踏まえ連続して第二回・第三回ともに「九州の関ヶ原」を会で研究してみたいと思います。


★お問合わせは、MAIL:sagasengoku@live.jp まで。
沢山の御参加をお待ちしております。



posted by 主宰 at 15:48| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■佐賀の戦国史 講演会について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月18日

★慶長五年関ヶ原合戦時期における佐賀城外郭の防衛普請考 B



■2016.9月25付 追記と改編済

考察@:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441818339.html
A:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441881763.html
続きです。

――――――――――――


■蓮池城に関する先行研究への、いくつかの考察。


★『海路』5号(海鳥社 刊)平成19.11/1発行 『中世城郭の終焉』宮武 正登 氏著 P.96〜97より
『(慶長8年の)この段階は、佐嘉城自体を鍋島本城にする気構えではなく、その東方五キロに位置する蓮池城を拠点化する方針で整備に勤しんでいる。慶長8年までには「天守」も完成しており、佐賀にも近世城郭のアイテムが整いつつあったことを明示している。』

一、→宮武先生御指摘の鍋島氏による蓮池城の「拠点化」については、『坊所鍋島家文書』や直茂・勝茂公譜考補などの情報から読む限り、その可能性が高いと思われる。もう一つ根拠を加えると、『勝茂公御年譜一』最終の一文、慶長5年『今度の暮、御父子様の両御前様、大坂より御下国あり、蓮池の城へ御入、』とある。直茂と勝茂の妻は、帰国して蓮池城に入ったという。

しかし前掲Ahttp://sagasengoku.seesaa.net/article/441881763.htmlの、歴代蓮池城主一覧の通り、江上家種が死去した後、慶長5年関ヶ原決戦前の時期に鍋島生三が城番として入るまでの間、蓮池城の城主や管轄がどうなっていたのか管見の限りにおいて明確な史料がなく、勝茂公御年譜一では慶長17年に、江上家の家督や東肥前〜筑前・筑後内の領地、及び武具の類までを勝茂が相続したと記載されているが、蓮池城について言及はない。(先行研究である参考資料13上でも、この時期の城主詳細不明の旨記載あり)

御家全体の防衛の要である蓮池城を、慶長5年に於いて、はたして御家の直轄というより「鍋島氏が蓮池城を支配」していたのかどうか、明確に証明ができない。ひとまず慶長8年までにおいて蓮池城を、鍋島氏のものとして考え過ぎてはいけないと思う。

ひとつ考慮したいのは、江上家種が城主の時、神埼郡から城原や神埼の人民が蓮池城下に移住し、城下町を形成した事。その名残として蓮池城下に「城原」・「神埼」地区などの名が今でも残っている。確かに『坊所鍋島家文書』や直茂・勝茂公譜考補などの情報から、慶長四年頃以降の蓮池城は鍋島直茂の管轄下にあったと考察できるが、はたして城下に龍造寺隆信の実子であり重臣である江上家種が率いていた武士や民衆を置いたまま、鍋島氏は蓮池城を自家のものとして「拠点化」へ向けて普請できるものだろうか。

まず以て江上家種が、朝鮮の地で謎の変死を遂げた事も気になる。また、城原衆には家種が江上家へ養子に入る時に付き従ったとされる、鍋島一門の鍋島新左衛門種巻(たねかず)が居り、関ヶ原合戦時には上方の軍勢に含まれる。彼は精鋭部隊で知られた江上「城原衆」のち「蓮池衆」の一員で『勝茂公御年譜一』上、勝茂の江上家家督を相続するのを支持して運動したとされる。しかし江上家中総意として、そう易々と直茂・勝茂にまつろうのだろうか。元来江上家は大蔵党、かつ少弐家恩顧の由緒ある名門で、鍋島家よりも格上と考えられる。結果的に行われた江上家から鍋島家への権利譲渡は、勝茂公御年譜一の記述内容を読んでも、非常に複雑な経緯や、葛藤があるように見える。

これらの事も関係して『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)19号文書中、『蓮池城とその周辺の普請は、目立たないように、少しづつ行ってくれ。他方の批判を受けては云々』と、直茂が龍造寺家中に対し気遣う状況であるのだろう。

つまりは、蓮池城周辺の普請は、鍋島氏が蓮池を私物化するのではないかという「疑惑の目」を向けられながらの、龍造寺家・御家のための『防衛拠点化』であると考察する。特に騒乱に備えては、蓮池周辺の普請が必須である事は当ブログ上で前述した。直茂は非常に複雑な心境にあったのではないか。


二、→『慶長8年までには「天守」も完成しており、佐賀にも近世城郭のアイテムが整いつつあったことを明示している。』のくだりに対しては、『海路』11号(海鳥社 刊)H25.4/20P発行 『九州にとって「織豊」とは』木島孝之 氏著 P.22〜23で、木島先生は『いずれにせよ、名護屋城天守の築造以前、すなわち天正年中すでに蓮池城の天守自体が存在していた事実は、先の史料Aによって揺るがぬところである』と指摘。この点、宮島先生の論調と齟齬がある。

(史料A=『佐賀県史料集成 古文書編 第21巻』 鍋島主水宛加藤清正書状。清正は、名護屋城普請において佐賀から急いで、天守を献上するのが良いと言っている。かつ本文の前書きとして、蓮池城の天守を名護屋城本丸の天守として献上した事を記載。※後述で木島先生は、天守が本当に名護屋城へ移されたのかどうかは議論の余地がある旨示唆。)

木島先生の言う、天正年間に存在した蓮池城天守を「近世城郭」のアイコンと捉えた場合、佐賀では慶長6年以降ではなく、すでに天正の頃から、近世城郭のアイテムが整いつつあったことになる。


三、『海路』5号(海鳥社 刊)平成19.11/1発行 『中世城郭の終焉』宮武 正登 氏著 P.101より
『朝鮮出兵後、蓮池城を新時代の居城とするべく整備に余念のなかった鍋島勝茂は、重臣鍋島生三に対して「天守雨もり」がひどかったので「かわらにしゅっくい(=漆喰)念を入れ」るようにと、江戸参府途中で機になったのか伊豆三島から指令を出した。』と宮武先生は書かれているが、勝茂が朝鮮から日本に帰国した慶長3年12月から、引用された書状の年次慶長6年までの中央の政情が激動する3年間が考慮から外されている事に留意したい。かつ『坊所鍋島家文書』上、慶長5年あたりまでは、勝茂ではなく、鍋島直茂が主導で蓮池城の普請指図をしている様にも読める。そのため、『朝鮮出兵後、蓮池城を新時代の居城とするべく整備に余念のなかった鍋島勝茂』という表現については、疑義を呈せざるを得ない。



★参考:
『佐賀県近世史料 第一編 第二巻』P.4〜6『勝茂公御年譜一』より簡潔訳:

「天正17年、勝茂公十歳の時、慶ァ尼が仰せられた事には、鍋島飛騨守(直茂)はすでに政家の名代として、国政を承り公儀の勤めを行っている。しからば飛騨守の子、伊勢松(勝茂)は、江上家種の養子に入れるのが良いだろう、と。江上家種公も同意されて懇望の上、直茂公へ相談したが、「伊勢松は、鍋島の子孫です。これを他家へ養子に出すのはご勘弁頂きたい」と直茂公は辞退。慶ァ尼がこれを聞き「もっともな事だ。左様であれば、やはり鍋島の名字のままで、家種の姫と婚姻させ、江上家の家督を譲るようにしよう」と仰せになり、直茂公によく相談されて、こうなると直茂公も辞退に及ばず、承知された。そして伊勢松公(勝茂公)は神埼の城原、家種公のもとへ移住した。」

「しかし江上家中の一部は、家種に実子がいるにも関わらず、家督が伊勢松公に譲られる事に納得せず抗議の申し立てをしたため、騒動でやむなく伊勢松公は佐賀に帰った。しかし養子容認派が運動し、結果的に伊勢松公は江上家の家督相続者となって、東肥前における江上領と筑後・筑前の内2,500町を相続。江上家の親類、家中、武具、馬具など全てを伊勢松公が相続した。」

「天正17年に江上権兵衛尉家種公は、勝茂公を養子に迎えた後、奉公なり難しとして、隠居分僅かを引き分けて知行されたため、今回の朝鮮の役へは少人数の手勢で参加されたとの事だ。隠居領を分けた先は、実子である佐野右京(初めは孫太郎)と勝山大蔵(初めは左近)である。」




(つづく)






posted by 主宰 at 00:31| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■佐賀の戦国史 講演会について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする