2018年12月02日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートD【2018.10/27】


引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその5です。

★レポート1は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート2は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート3は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462939263.html
★レポート4は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462953239.html





沖田畷の戦いとは、浜の城(島原城)をめぐる後詰決戦であった事が、中西豪先生により2003年に指摘されています。

つまり、島津有馬軍に包囲された味方の城を救うため、龍造寺隆信公率いる大軍は南下してきたのです。


地図上、「島原市」と記載のある所の青色のが、浜の城。

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<3>浜の城址 (島原市新町2丁目103-1、中央公園内)
龍造寺方。沖田畷当時の城主:島原式部大輔純豊公。
大村氏からの加勢も籠っていました。

現在の島原城のすぐ南、浜の城比定地は、寛政4年(1792)の普賢岳大噴火(「島原大変」・「眉山崩れ」)の影響で大幅に地形が変化しています。沖田畷当時は、海岸線が現在より内陸側にあり、浜の城は「海に突き出た城」だったそうです。

【駐車場あり。霊丘公民館横・コインパーキング】


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「深江から一里近く先に島原が続くが、それは有馬(日之江城下)に次ぐ有馬領の主要な領地で、そこの城主、かつ領主は、ドン・プロタジオ(有馬晴信)に叛逆した首魁であり、その人物が他のすべての有馬領における謀叛の強力な要因となった。」『完訳フロイス日本史10』(中央公論新社・2000年)P.264

→実際は、深江城から二里近く先。島原市街地まで約10q、車で20分程走る距離です。


■浜の城石碑
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『有明町史』P.736〜P.737の解説によると、島原氏は肥前有馬氏の支族であり、島原の領主であったことから、有馬家中では「島原殿」と称されていたそうです。山田城(長崎県雲仙市吾妻町栗林名)の城主・山田氏は島原氏の分枝。

浜の城の築城は明応年間とされ、島原氏は浜の城を本城とし、に寺中城、西に丸尾城、に今村の砦を構えていたとされます。(ちなみに、森岳に城や砦があったとはされていない事に注目。)


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(しばらく碑文を読まれる、東統禅先生)



以下、

『有馬氏の領国支配』外山 幹夫 氏(長崎大学教育学部社会科学論叢49、1995年)長崎大学学術研究成果リポジトリ
より。

「ルイス・フロイスは、有馬氏の領国において、『同国のもっとも身分の高い殿のうちの二人』として、島原純茂(純豊の父)と西郷純堯の両名をあげている。もちろん、これ以外にも、先述した安富徳円、谷川弾正左衛、土黒淡路守、本田出雲守、鷹屋純次、西玄蕃、久能賢治、堀斎宮純政等の老職があったことはいうまでもない。

ところが、島原純茂・西郷純堯の二人は、右にみるように、有馬氏領国にあって、「もっとも身分の高い殿」ではあるが、「殿に次ぐ要職」である要職ではなかったらしい。それは、ルイス・フロイスの『日本史』の中で、両人、及びその父子に関する記述は少なくないが、老職を思わせる記述がないことがそれを示している。つまり、「身分の高い殿」が、直ちに老職という状況にはなっていない。有馬氏の場合、の老職が、また軍事指揮官である「士将」とも必らずしも一致しないのであるが、島原、西郷両氏は、老職とはならなかったが、「士将」となることはあったらしい。

老職は必らずしも大領主ではなく、有馬氏の下にあって有能、かつ誠実な領主でなければならない。これに対して島原・西郷両氏は大領主であり、対外戦争に際しては、彼等のもつ多くの家臣を中核とし軍編成をさせる便宜があって「士将」とされるが、平時にあって有馬氏の補佐、或いはその諮問に応ずるべき老職としては不適とみなされたものであろう。

島原の領主島原純豊の父が島原純茂である。純茂の妻は安富徳円の女であり、かつ有馬義貞の妻の妹である。「有馬の国主、ならびにその近親で島原の城と市の殿である島原殿」というのはそれを示している。有馬氏の家臣は、その領内をどのように統治していたのであろうか。この点について、ルイス・フロイスは、『これらの殿たちは、そのすべての領地に家令、管理人、もしくは収入役に相当するような一人の官吏、もしくは長官を有しており、(日本語ではこれを)役人という。それは「役職を持つ人」という意味である。』として、それぞれの知行地に、徴税その他にあたる役人のいたことを指摘する。当然のことである。有馬氏の直轄地にあっては、それが代官であったこと先述した通りである。

この点について、島原氏の膝下である島原の地に、別当という役の者があった。この別当に関し、ルイス・フロイスは、『島原には当時、刑部殿という人がいたが、仏僧の並々ならぬ親友であり、偶像崇拝にいとも熱中し、したがってキリシタンの大敵であった。』とする。別当の任務内容等について触れるところなく、単にキリスト教との関係から見ているのみであるが、島原氏のこの別当に対する扱いが峻巌を極めたものであったことについて、ルイス・フロイスは次の様に述べる。『すなわち、島原駐在の修道士アイレス・サンチェスを追放して間もない頃、彼は出陣することとなった。その時、彼は、何か重大で、かつ愚かな失態を演じたため、馬の綱で両手を後方で縛られ、その場で首を斬られた』という。島原氏膝下の島原の町に、別当があった事実は、その後近世にまで継承された。

先に述べたように、島原氏(純茂)は老職ではなかったが、軍事指揮にあたる「士将」であった。すなわち、彼は有馬晴純の命によって、西郷純堯と共に、多久城の防衛のため軍を率いて赴かせられている。ところが、のちこの多久城は竜造寺隆信の攻撃によって陥された。そのため、彼は西郷純堯と共に平戸に逃れた。しかし、その後、西郷純堯が有馬氏に叛いた時、島原純茂は、西郷氏がまず自分に対して攻撃するのではないかと恐れた。この時、両者間は緊迫したのである。」(引用おわり)

→主に島原純豊公の父で先代の、純茂公の時代の詳細です。
★有馬晴純(仙岩)公の全盛期は、軍を率いて東肥前・小城郡へ赴任していた事が分かります。フロイスが記述したように、島原半島において島原氏が龍造寺氏に従属したと言う事は、かつて肥前守護職を獲得した大名・有馬氏の衰退、御家存亡の窮地が迫っていた事を物語ります。


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※浜の城について非常に参考になる論文⇒:『肥前浜城と島原城下町の復元的考察』西田博 氏(2017.6月)九州大学学術情報リポジトリより。  

一点、文中「中西豪氏は、森岳城・戦国期島原城・浜城をそれぞれ別個の城郭と考えている」と記されていますが、中西先生ともお話しした結果、誤認と思われ、2008年当時から中西先生は沖田畷当時の島原城=浜の城という論旨です。両城同一視への疑義はご尤もなのですが、では逆に、沖田畷時に島原軍が籠っていた城はどこになるのか?また、籠れる規模の城がどこにあるのか?と考えた時、森岳に従来きちんとした城があった記録が無い事、また島原半島東海岸沿いに神代城、寺中城、堂崎城などが存在している事を思えば、浜の城を「島原殿」が籠る「島原の城」と考える事が現在の所、妥当ではないでしょうか。
『完訳フロイス日本史10』(P.282)でも森岳は城ではなく単に「山頂」と描写されています。


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(左から、中西豪先生、橋本靖明先生、大山格先生、岡本澄雄先生。)

浜の城石碑前にて。




― レポートEへ続きます ―



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2018年11月28日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートC【2018.10/27】


引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその4です。

★レポート1は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート2は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート3は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462939263.html



堂崎から北に7.5q、車で12分程走ると、深江城址に着きます。


(青色の城=龍造寺方。赤色の城=有馬・島津方。)

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★深江城址 (南島原市深江町丙1241周辺)

【駐車場なし。石碑前の路側帯に、4台程一時停車可能】

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「最強、かつ不落を誇っていた深江城」とルイス・フロイスが評しており、屈強な城だったのでしょう。(『完訳フロイス日本史10』 中央公論新社 発行、2000年10月、P.292)

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ひとつ整理をしておきますと、前回書いた安徳城の城主は、安徳(あんとく)氏、深江城の城主は、安富(やすとみ)氏です。一字違いますので、ご注意下さい。ちなみに両者、親戚関係です。

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深江城主・安富下野守純泰公は、全盛期の龍造寺氏に従属を誓って後、一貫して龍造寺方の武将として踏ん張りました。


★以下『深江町郷土誌』P185〜によれば、天正11年(1583年)純泰公の幼い息子は龍造寺氏へ人質として出されており、柳川に在ったそうです。龍造寺氏を離反した有馬氏が島津氏と結託、隣の城の安徳氏も有馬・島津方となる中、孤立した深江城に、佐賀方面から加勢が続々到着します。
精鋭たる藤津衆、嬉野、辻、永田、上滝、久間、犬塚、徳島各氏、さらに東目衆の横岳家実、安武式部太輔が入城したそうです。藤津の軍衆は、ほぼ総出で加勢に出かけていると言えるのではないでしょうか。また、膨張した深江城の人数のために、龍造寺隆信公は、多比良村(島原半島北部)において、五十町の地を兵粮料所として安富氏に与え、気を励ましたとされます。


同天正11年、沖田畷合戦の前年、6月13日、安徳の百姓と深江の百姓が、薪取りに関して喧嘩を起こし、これを知った安徳城中の新納刑部大輔(新納忠堯。新納忠元の長男)、川上左京亮、蓑田右馬助らが深江の民を追い、深江城下まで入ってしまったので、深江城から安富三介、横岳、安武らが出陣し、合戦となります。この時、新納忠堯、蓑田右馬助は討死を遂げ、川上左京亮は負傷、島津勢は安徳城へ敗走。8月1日には安富純泰公と龍造寺勢が安徳城を攻めますが、落とせずに引きました。


天正12年(1584年)2月2日〜3月初旬、肥後から続々渡海してきた島津軍に包囲され、深江城は危機に陥ります。


このため龍造寺隆信公は、大村純忠公が大村に残していた300人の中から精鋭を選りすぐり、深江城へ加勢として送りました。三会〜浜の城方面へ向けて陸路を北上しようとする島津軍を、妨害するためです。しかしすでに深江城の包囲は堅く、大村勢は入城叶わず、引いて島原城(浜の城)へ入ります。
(『完訳フロイス日本史10』 中央公論新社 発行、2000年10月、P.269〜P.270より。)


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現・島原城下の水路に泳ぐ鯉。






― レポートDへ続きます ―




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2018年11月27日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートB【2018.10/27】


引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその3です。

★レポート1は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート2は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html



★天正12年(1584)2月2日以降〜3月初旬頃、精鋭を率いて島原に上陸した島津家久公は、まず堂崎城の周辺に布陣したとされます。寺中城(三会城)から南に約21q、車で35分です。

(青色の城=龍造寺方。赤色の城=有馬・島津方)。

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3月13日には、家久公は深江城と浜の城の中間にある、安徳城へ入城します。(『深江町郷土誌』深江町 発行、昭和46年10月 P.188)


★安徳城址 (南崩山町丁3114辺りの高台〜ゴルフ練習場の裏山辺り)
先年・天正11年(1583)4月26日に龍造寺方を離反し島津方となっています。城主は、安徳上野介純俊。(『深江町郷土誌』中「源昌寺由緒」P.184〜P.185)
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3月15日には、家久公や島津軍は浜の城を包囲しています。(『島津四兄弟の九州統一戦』P.138)


【参考】「有馬には、下(しも)地方の神学校があって、身分の高い人の息子たち四十人近くの少年が在学している。有馬の先、約半里の所に有家(ありえ)があり、そこに我らは、立派な教会と高来における主要なキリシタン宗団を有している。そこから日本の一里(レーグア)近く先に進むと、堂崎の城があり、そこで有馬殿の領地は他領と隣接している。その先には、有馬殿に叛起した深江城(城主・安富下野守純泰)があり、その結果として安徳(あんどく)と呼ばれる他の城もほとんど強制的に謀叛に加担させられたが、同城(安徳城)は後になり、好機をつかんでふたたび有馬殿の麾下に戻ってきた。深江から一里近く先に島原が続くが、それは有馬に次ぐ有馬領の主要な領地で、そこの城主かつ領主(島原純豊)は、ドン・プロタジオ(有馬晴信)に反逆した首魁であり、その人物が他のすべての有馬領における謀叛の強力な原因となった。そこから先には、かつて有馬領であった三会(寺中城)、多比良(轟城)、神代(鶴亀城)、その他の諸城が続いている。」
『完訳フロイス日本史10』 中央公論新社 発行(2000年10月)P.264より。
フロイスが把握していた各城の距離感は、かなり正確です。


さて、家久公上陸地とされる堂崎の事。


<2> 堂崎八幡宮 (場所:南島原市有家町大苑489)

★【境内の裏に駐車場あり、4台程は駐車可能】


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「島津勢の上陸地点については諸説区々(大江浦、須川、有家、堂崎説あり)で、有明海の潮の満ち干を考えれば、満潮の時は何処へでも上陸可能であるが、干潮の時は堂崎以外は接岸不可能である。堂崎上陸説は記録がなく(口碑のみ)定かではないが、堂崎城が最前線であったことは確実で、堂崎八幡宮に伝わる「社伝」には、島津家久は『戦敗を恐れ且つ衆寡敵し難きを知り、深夜陣外に出、海水を浴し、単騎八幡の社頭に至り武運隆盛を祈る。」とあり、堂崎に陣していることが分かる。(陣之内の地名、これより出たものであろう。)また龍造寺勢の先手2,000余人は堂崎境に進出し、山の上に十文字の旗が押立てられたのを見て『さては嶋津より援兵有りと思い』云々の記録(大日本史)は、堂崎に島津勢の着陣を裏付けるものである。」『有家町郷土誌』有家町 発行 (昭和56年3月)P.100〜P.101より。


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★堂崎八幡宮は、島原の知られざる「島津家久公ゆかりの地」ではないでしょうか。深夜に単騎で参詣したという逸話もドラマティックです。

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★大山格先生も、甲冑姿にて堂崎八幡宮へ御参りを遂げられました。


大勝の後に島津家久公が社殿を増築し尊敬の誠を示したというのも、深い話だと思います。というのは当時、有馬晴信公は敬虔なキリシタンで、島原半島の広範囲で寺社仏閣を破壊していました。その荒廃を家久公や島津家中は目の当たりにし、心を痛めていたであろう事が『上井覚兼日記』からも窺われ、キリシタンが多く馴染みもない土地に上陸し、有馬氏を守るため、つまり島津家の家風「他国之覚を守るため」、先の見えない戦に挑もうとする中、神仏の御加護を求める気持ちは切実であったと思われます。想像を超える大勝利を掴んだ後、家久公が堂崎八幡宮に寄進を行ったことは、キリスト教が盛んな島原の風土に対して、八幡大菩薩の冥加を訴えるメッセージであり、パフォーマンスであったのかもしれません。

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★左:中西豪先生、中:橋本靖明先生、右:大山格先生。 

堂崎八幡宮にて。





― レポートCへ続きます ―






posted by 主宰 at 03:15| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする