2018年11月28日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートC【2018.10/27】


引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその4です。

★レポート1は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート2は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート3は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462939263.html



堂崎から北に7.5q、車で12分程走ると、深江城址に着きます。


(青色の城=龍造寺方。赤色の城=有馬・島津方。)

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★深江城址 (南島原市深江町丙1241周辺)

【駐車場なし。石碑前の路側帯に、4台程一時停車可能】

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「最強、かつ不落を誇っていた深江城」とルイス・フロイスが評しており、屈強な城だったのでしょう。(『完訳フロイス日本史10』 中央公論新社 発行、2000年10月、P.292)

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ひとつ整理をしておきますと、前回書いた安徳城の城主は、安徳(あんとく)氏、深江城の城主は、安富(やすとみ)氏です。一字違いますので、ご注意下さい。ちなみに両者、親戚関係です。

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深江城主・安富下野守純泰公は、全盛期の龍造寺氏に従属を誓って後、一貫して龍造寺方の武将として踏ん張りました。


★以下『深江町郷土誌』P185〜によれば、天正11年(1583年)純泰公の幼い息子は龍造寺氏へ人質として出されており、柳川に在ったそうです。龍造寺氏を離反した有馬氏が島津氏と結託、隣の城の安徳氏も有馬・島津方となる中、孤立した深江城に、佐賀方面から加勢が続々到着します。
精鋭たる藤津衆、嬉野、辻、永田、上滝、久間、犬塚、徳島各氏、さらに東目衆の横岳家実、安武式部太輔が入城したそうです。藤津の軍衆は、ほぼ総出で加勢に出かけていると言えるのではないでしょうか。また、膨張した深江城の人数のために、龍造寺隆信公は、多比良村(島原半島北部)において、五十町の地を兵粮料所として安富氏に与え、気を励ましたとされます。


同天正11年、沖田畷合戦の前年、6月13日、安徳の百姓と深江の百姓が、薪取りに関して喧嘩を起こし、これを知った安徳城中の新納刑部大輔(新納忠堯。新納忠元の長男)、川上左京亮、蓑田右馬助らが深江の民を追い、深江城下まで入ってしまったので、深江城から安富三介、横岳、安武らが出陣し、合戦となります。この時、新納忠堯、蓑田右馬助は討死を遂げ、川上左京亮は負傷、島津勢は安徳城へ敗走。8月1日には安富純泰公と龍造寺勢が安徳城を攻めますが、落とせずに引きました。


天正12年(1584年)2月2日〜3月初旬、肥後から続々渡海してきた島津軍に包囲され、深江城は危機に陥ります。


このため龍造寺隆信公は、大村純忠公が大村に残していた300人の中から精鋭を選りすぐり、深江城へ加勢として送りました。三会〜浜の城方面へ向けて陸路を北上しようとする島津軍を、妨害するためです。しかしすでに深江城の包囲は堅く、大村勢は入城叶わず、引いて島原城(浜の城)へ入ります。
(『完訳フロイス日本史10』 中央公論新社 発行、2000年10月、P.269〜P.270より。)


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現・島原城下の水路に泳ぐ鯉。






― レポートDへ続きます ―




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2018年11月27日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートB【2018.10/27】


引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその3です。

★レポート1は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート2は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html



★天正12年(1584)2月2日以降〜3月初旬頃、精鋭を率いて島原に上陸した島津家久公は、まず堂崎城の周辺に布陣したとされます。寺中城(三会城)から南に約21q、車で35分です。

(青色の城=龍造寺方。赤色の城=有馬・島津方)。

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3月13日には、家久公は深江城と浜の城の中間にある、安徳城へ入城します。(『深江町郷土誌』深江町 発行、昭和46年10月 P.188)


★安徳城址 (南崩山町丁3114辺りの高台〜ゴルフ練習場の裏山辺り)
先年・天正11年(1583)4月26日に龍造寺方を離反し島津方となっています。城主は、安徳上野介純俊。(『深江町郷土誌』中「源昌寺由緒」P.184〜P.185)
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3月15日には、家久公や島津軍は浜の城を包囲しています。(『島津四兄弟の九州統一戦』P.138)


【参考】「有馬には、下(しも)地方の神学校があって、身分の高い人の息子たち四十人近くの少年が在学している。有馬の先、約半里の所に有家(ありえ)があり、そこに我らは、立派な教会と高来における主要なキリシタン宗団を有している。そこから日本の一里(レーグア)近く先に進むと、堂崎の城があり、そこで有馬殿の領地は他領と隣接している。その先には、有馬殿に叛起した深江城(城主・安富下野守純泰)があり、その結果として安徳(あんどく)と呼ばれる他の城もほとんど強制的に謀叛に加担させられたが、同城(安徳城)は後になり、好機をつかんでふたたび有馬殿の麾下に戻ってきた。深江から一里近く先に島原が続くが、それは有馬に次ぐ有馬領の主要な領地で、そこの城主かつ領主(島原純豊)は、ドン・プロタジオ(有馬晴信)に反逆した首魁であり、その人物が他のすべての有馬領における謀叛の強力な原因となった。そこから先には、かつて有馬領であった三会(寺中城)、多比良(轟城)、神代(鶴亀城)、その他の諸城が続いている。」
『完訳フロイス日本史10』 中央公論新社 発行(2000年10月)P.264より。
フロイスが把握していた各城の距離感は、かなり正確です。


さて、家久公上陸地とされる堂崎の事。


<2> 堂崎八幡宮 (場所:南島原市有家町大苑489)

★【境内の裏に駐車場あり、4台程は駐車可能】


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「島津勢の上陸地点については諸説区々(大江浦、須川、有家、堂崎説あり)で、有明海の潮の満ち干を考えれば、満潮の時は何処へでも上陸可能であるが、干潮の時は堂崎以外は接岸不可能である。堂崎上陸説は記録がなく(口碑のみ)定かではないが、堂崎城が最前線であったことは確実で、堂崎八幡宮に伝わる「社伝」には、島津家久は『戦敗を恐れ且つ衆寡敵し難きを知り、深夜陣外に出、海水を浴し、単騎八幡の社頭に至り武運隆盛を祈る。」とあり、堂崎に陣していることが分かる。(陣之内の地名、これより出たものであろう。)また龍造寺勢の先手2,000余人は堂崎境に進出し、山の上に十文字の旗が押立てられたのを見て『さては嶋津より援兵有りと思い』云々の記録(大日本史)は、堂崎に島津勢の着陣を裏付けるものである。」『有家町郷土誌』有家町 発行 (昭和56年3月)P.100〜P.101より。


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★堂崎八幡宮は、島原の知られざる「島津家久公ゆかりの地」ではないでしょうか。深夜に単騎で参詣したという逸話もドラマティックです。

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★大山格先生も、甲冑姿にて堂崎八幡宮へ御参りを遂げられました。


大勝の後に島津家久公が社殿を増築し尊敬の誠を示したというのも、深い話だと思います。というのは当時、有馬晴信公は敬虔なキリシタンで、島原半島の広範囲で寺社仏閣を破壊していました。その荒廃を家久公や島津家中は目の当たりにし、心を痛めていたであろう事が『上井覚兼日記』からも窺われ、キリシタンが多く馴染みもない土地に上陸し、有馬氏を守るため、つまり島津家の家風「他国之覚を守るため」、先の見えない戦に挑もうとする中、神仏の御加護を求める気持ちは切実であったと思われます。想像を超える大勝利を掴んだ後、家久公が堂崎八幡宮に寄進を行ったことは、キリスト教が盛んな島原の風土に対して、八幡大菩薩の冥加を訴えるメッセージであり、パフォーマンスであったのかもしれません。

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★左:中西豪先生、中:橋本靖明先生、右:大山格先生。 

堂崎八幡宮にて。





― レポートCへ続きます ―






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2018年11月19日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートA【2018.10/27】




引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその2です。

★前回のレポート1は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html




10/27(土) 

嬉野市の入船荘を出発し、鹿島市→多良岳オレンジ街道→ 諫早湾干拓堤防道路→島原半島へ。(車で約1.5時間)

天正12年(1584)3月18日、龍造寺隆信・政家父子が率いる57,000余騎もの大軍の兵船が、須古城の南方の海岸・龍王崎より出航。

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(中西豪先生の甲冑姿です。編集によって口髭を付けたり、目の表情などを通説どおりの隆信公風に加工しています。御大将出陣ノ図)


順風に乗って3月20日前後に神代(こうじろ)へ着港、軍勢も上陸、布陣します。軍議の後、3月21日には南下し、寺中城(三会城)に入城。龍造寺隆信は、21日から23日まで寺中城に駐屯します。(『隆信公御年譜』・『北肥戦誌』)



★軍議【島原半島の見取り図】 青色の城=沖田畷合戦当時、龍造寺方であった城。赤色の城=有馬・島津方の城です。

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神代湊には、龍造寺方の武将・神代貴茂の居城(海城)、鶴亀城(神代城)がありました。

ちなみに佐賀郡の神代(くましろ)氏と島原の神代(こうじろ)氏は同祖説もありますが、ひとまず、別の氏族です。


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この神代湊からおよそ13.5km南下、車で20分程走ると、寺中城に至ります。



<1> 寺中城(三会城)跡(場所:島原市中野町丙1469-3)

★【駐車場なし、道路脇に駐車スペースあり】

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川に挟まれた小高い所が城址です。海辺に屹立した城であった事がイメージできます。

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島原市による解説板。おそらく近年設置されたものと見え、新しいです。

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城址には登る事が出来ます。ここに物見の櫓など拵えれば、4キロほどしか離れていない森岳方面(沖田畷付近)まで眺望できたかもしれません。3月21日から23日までここに滞在した隆信公は、決戦まで何を思い過ごしたのでしょう。

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■左:東統禅先生(福田寺御住職)、右:大山格先生。 寺中城址にて。

島津方の大山先生も、いつのまにか赤い戦装束姿に。沖田畷を前に、臨戦態勢となられました。



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★『上井覚兼日記』によると、3月16日には、龍造寺軍と戦うための先手の軍が既に島原半島へ渡海済。3月18日、島津忠長一行が渡海。3月21日、島津又四郎(島津彰久)と他数名が渡海。同日、島原半島にて有馬晴信を支援中(龍造寺方・島原純豊の籠る浜の城を攻囲中)の島津家久、島津忠長、平田、新納、各位の辛労への慰問も兼ねて、上井覚兼の船十二段帆が渡海している。(『有明町史 上巻』「伊勢守日記」)


★『島津四兄弟の九州統一戦』新名一仁著 星海社 発行(2017.11月)P.139によると、3/21〜3/23までの龍造寺軍の迅速な動きを、島津方は掴めていなかったという。P.140「島原包囲中の有馬渡海衆が、龍造寺勢本隊の到着に気づいたのは、決戦前日のことだったのであり、(肥後)佐敷からの援軍は間に合わなかったのである。」







― レポートBへ続きます ―


【PODCAST】
H25. 3/23、佐賀の戦国史ー龍造寺鍋島伝ー 第一回講演会 @佐賀城本丸歴史館 /「世評における龍造寺氏・鍋島氏」より抜粋。講師:中西豪先生。







posted by 主宰 at 21:03| 佐賀 ☁| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする