2018年07月06日

★一次史料に見る、龍造寺家から鍋島直茂への御家裁判の委任と状況



主に、『佐賀藩の総合研究』藤野保 著 P.199〜217を下敷きとして、考察を試みます。起請文は現代語へ簡潔訳を施し、記載しました。こうして一次史料を読み紡ぐだけでも、物語が浮かび上がります。



ー沖田畷合戦で、龍造寺隆信が戦死した翌月のこと。ー



@【起請文】★天正十二(1584)4月8日 龍造寺政家(血判) → 鍋島信生(直茂)宛 / 『直茂公譜考補 五乾』

「一、以前から御家を盛り立てて来られたのであるから、今においても親子兄弟の様に、何についても腹蔵なく申して欲しい。一、合戦中その方が窮地となれば、もちろんだが見捨てない。一、その方と我等の間に、もし誰かから讒言があっても、互いに実否を確認する事にしよう。一、我らは若輩なので、意見を請いたい。腹蔵なく承るので、どのように仰せられても、気にかける事はしない。(以下略) 民部太輔 政家(血判)」


▼「どのように仰せられても」の表現から、主君である政家が、家臣の鍋島信生に「仰せられ」と尊敬語を使っている。
▼以前から鍋島直茂の功績は、抜きん出ていたと見える。
▼龍造寺政家が、血判を捺している。
▼(7/7 修正)「我等」は「我ら(一人称・複数)」ではなく、「私(一人称・単数)」。




A【書状】★天正十二(1584)6月15日 龍造寺政家 → 鍋島信生(直茂)宛 / 『直茂公譜考補 五乾』

「懇ろに申し上げる。その方の事、我等が家を慮っているのであれば、平時また戦時ともに信生が下知をなすべき次第とする。もし背く者がいれば一途申しつけらるべく、表明を伝える。 政家 (御判)


▼龍造寺政家とは、不思議な人物である。@も踏まえ、君主ながら素直に自分の経験不足を認識しており、政治・軍事の取り仕切りを、実力のある鍋島直茂に一任したいと思っている。




B【起請文】★天正十二(1584)6月23日 龍造寺政家 → 鍋島信生(直茂)宛 / 『直茂公譜考補 五乾』

「こたびの、その方の身の事。城原(江上家種家中か)よりの悪説は、私は毛頭知らなかった事で、心底をあきらかにしておく。いささかも嘘ではない。改めて申すまでもないが、その方と我等の間で、今後もこのような悪い噂などがあれば、異儀なく、互いに実否をたしかめる事としよう。 竜民 政家(御判)」


▼政家の一人称が「我ら」。我らとは、龍造寺一門衆や老臣たちか。
→※(7/7 修正)戦国期の東国では、「我等」は第一人称の単数で使用されるため、ここでも第一人称の単数・「私」と解釈する旨、ご教示を頂きました。

原文:「其方我等間、於向後如此曲説共承付候者」


▼鍋島直茂にたいしての悪い噂が、城原(神埼郡城原。江上家の主要な領地)から出ていることが分かる。つまり城原衆、ひいては江上家種(龍造寺隆信の二男)はこの頃、鍋島直茂を良く思っていなかったとも推測できる。




C【起請文】★天正十二年4月〜12月にかけて 龍造寺各家中・総数 230名 → 鍋島信生(直茂)宛

(龍造寺一門、譜代、新参まで、肥前〜筑後、あらゆる階層に及んでいる。 『佐賀藩の総合研究』藤野保 著 P.212の表に詳細あり)





ー沖田畷合戦敗戦後、家中や、遠近の豪族から龍造寺家へ出された起請文。ー


D【起請文】★天正十二(1584)4月27日 堀江家房 → 龍造寺政家 宛 / 『龍造寺家文書』

「一、政家公に対し、二心・野心は、かつて持っていない事を誓います。一、誰かにどのように頼まれたとしても、政家様の狙い突き(暗殺)や、毒殺の企てはいたしません。一、もしも内密の事を仰せ付けられた場合、口外はいたしません。一、金銀米銭について取こしらえるような任に当たっても、毛頭、表裏奸謀はいたしません。一、指令には従いますが、ただし病気の時はその旨、報告いたします。つきましては、私が息子の事について、もし讒言する者があれば、その実否をお調べ頂き、お問合せ下さい。私の申し分も、残らず申し上げます。 堀江兵部少輔 家房(花押)」




E【起請文】★天正十二(1584)4月28日 永田純通、永田領弋、永田賢保、連名 → 龍造寺政家 宛 / 『龍造寺家文書』

「一、政家公に対し、悪心悪行を企てず、忠勤にはげむ事を誓います。一、敵方より謀略の誘いがあれば、口上・書状によらず全て即時報告をいたします。一、この三人のうち、誰かが異心を企てても、他の二人は身命の限り、御当家へ御奉公いたします。 永田備前守 純通(花押)、同 領弋 (花押)、同 兵部少輔 賢保 (花押)」


▼永田氏は、藤津郡(嬉野市塩田あたり)の有力豪族。
▼沖田畷敗戦後も、龍造寺氏による藤津郡の支配は保たれていることがわかる。




F【起請文】★天正十二(1584)5月12日 諸岡信幸 → 龍造寺政家 宛 / 『龍造寺家文書』

「一、政家公に対し、私はどこから金銀米銭や領地を以て頼まれる事があっても、毒殺や、狙い突き(暗殺)などの陰謀を致しません。一、仰せつけられた事は、中山対馬守と葉上総介方へ内談し、政家様の御ためになるように配慮いたします。また、不忠の振舞いはいたしません事を誓います。 諸岡因幡守 信幸 (花押)」


▼D〜Fによって、沖田畷直後、龍造寺政家に暗殺の恐れがあった事がわかる。また、龍造寺家中は「誰が謀反をするか分からない」という、疑心暗鬼な状況に陥っていたことが分かる。且つ敵方とは、島津家または大友家のことであり、肥前支配を狙って龍造寺領国の瓦解を狙う動きを警戒し、龍造寺家中から、起請文を徴していた事が分かる。




G【起請文】★年欠だが天正十二(1584)に比定されている、11月24日 隈部親泰 → 龍造寺政家 宛 / 『龍造寺家文書』

「こたびの、高来表(沖田畷)の敗戦がありましたが、たとえどのように状勢が転変しても、龍造寺政家公に対して、隈部親永・親泰は、今後の未来も野心・悪行を企てません。いよいよ緊密に相談申し上げ、関係の地盤は浅くない事を誓います。 家綱 (花押)」


▼沖田畷敗戦後も、肥後の国衆・隈部氏は、龍造寺氏に忠誠を誓っているものの、文中に「隈部親永・親泰」と書きながら、文末の署名が「家綱」と、文責が曖昧なことから、二面外交で、島津家へも従属の書状を送っていたのではないか。ただ、敗戦後も龍造寺氏に依然として権勢が有ったことが分かる。




H【起請文】★天正十三(1585)8月8日 百武新三郎 → 龍造寺政家 宛 / 『龍造寺家文書』

「一、政家公に対し、私は二心・野心、毒殺、盗み、女を使った策謀は致しません。一、今度の合戦は、信生(直茂)様は戦場に一夜一日も立たれない事について、名代として被官一人たりとも派遣しません。一、今回、このように信生様に望まれて、謀反をしない旨の起請文を書いておりますが、拙者、夢にも思っていない事です。一、政家様・信生様たちへ、讒言はいたしません。ついては同僚にも言いません。はたまた、もし内密の事を承りましたら、口外はしないことを誓います。一、御家の御ためになる情報があれば、即時に報告いたします。」


▼「このように信生様に望まれて、謀反をしない旨の起請文を書いておりますが、」の所から、起請文を出してくれといったのは、鍋島直茂であることがわかる。つまりこの頃、鍋島直茂が龍造寺氏政権の安定のため、しきりに働いていた事が覗える。
▼D〜Hによって、沖田畷合戦敗戦から翌年にかけて、龍造寺政家に暗殺の恐れがあった事がわかる。





― 島津氏へ従属の頃、かつ豊臣政権の九州征伐が行われる前の頃。−


I【起請文】★天正十四(1586)4月11日 鍋島信生(直茂)血判 → 江上家種、龍造寺信周、横岳頼続、龍造寺家就、内田信賢、鴨打胤忠、副島家益、龍造寺長信、龍造寺家晴、後藤家信、宛 / 『藤龍家譜 四』


「御家裁判(政治を取り仕切ること)を申し付けられましたとはいえ、根気が尽き果てております。ついにお断りができなくなってしまった所、御趣旨に背かないよう、皆様のため、仰せをお受けいたします。まずは御助言の通り、この上は毛頭、他のことや異心は考えず、根気の及ぶところ、身命の限り、政家様の御ためを思い、御奉公いたすべく覚悟いたします。しからば御家存続のため、たとえ御一同が、機嫌が悪くなったとしても、用捨(ようしゃ)なく申し上げるべき事は申し上げます。もちろん、非道の儀があれば自覚するように心がけ、取沙汰しないようにしますが、何かお聞きになりましたら、私にお問合せ下さい。その時、背くことも致しません。特に政家様のためを皆様が思われておられ、こたび、かたじけなく私にお任せ頂きます上は、皆様に対しても、忘れる事なく、怠慢に接しない事を誓います。政家様に対し皆様の事は、相応なお取り成しに努めます。一、家中において不忠の人があれば、実否をただし、明らかな場合は、政家様へ報告の上、成敗致します。一、政家様の事について、信生(直茂)へ何か讒言する人があれば、政家様と御一門衆へのこらずその事を申し上げ、相談しますが、もしも政家様へ、皆様から逆意があれば、この起請文は効力は無くなるものとします。 鍋島飛騨守信生 (血判)」



▼「根気が尽き果てております。」の率直な物言いに驚かされる。この一次史料から、直茂は「しぶしぶ」龍造寺家の政治の仕切りを任されている事が覗える。
▼一身に政治を任された鍋島直茂の戸惑いと共に、忠誠心が表された文章である。
▼「特に政家様のためを皆様が思われておられ、こたび、かたじけなく私にお任せ頂きます上は」から、まずもって当主・龍造寺政家の強い意向があり、その意向を一門衆や重臣が承認したというプロセスで、家政が鍋島直茂に一任されている事が分かる。
▼他の一門衆にも有能な人物は居ただろうに、どうしてここまで、鍋島直茂ひとりの存在感が大きいのか不思議である。江戸時代以降の、儀文書である可能性は無いのだろうか。




J【起請文】★天正十四(1586)4月13日 龍造寺政家 → 江上家種、龍造寺信周、横岳頼続、龍造寺家就、内田信賢、鴨打胤忠、副島家益、龍造寺長信、龍造寺家晴、後藤家信、宛 / 『藤龍家譜 四』

「家裁判(政治を取り仕切ること)について、鍋島飛騨守(直茂)に申し付ける。たとえ政家の気持ちにそぐわない事があったとしても、そなた達に談合せず、政家は飛騨守に対し協力する事を誓う。なお、政家に対し、飛騨守が怠慢な事をしていると、誰かが報告してきた場合は、きちんと飛騨守にその旨の邪正をただす事とする。もし事実でない讒言だと判れば、即時処分をいたす。政家 」


▼Jの起請文を踏まえてみても、龍造寺政家は積極的に、家政を鍋島直茂へ任せると、周囲に決意宣言している。
▼戦国時代は、風説に惑わされる事の多い時代だったのだろう、各起請においても、悪い噂はその実否を確かめ合う事が誓われている。




※【PODCAST】 参考にどうぞ:
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当会企画【H26.12/27】佐賀の戦国史 第五回 質疑応答会(龍造寺氏・鍋島氏から日本の戦国時代) 講師:中西豪 (歴史家)
分割VOL.2






佐賀戦国研究会









posted by 主宰 at 22:17| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

★龍造寺鍋島政権交代についての、論者による表現の比較




「経緯については、種々問題とされるところである。」川副義敦氏・『戦国の肥前と龍造寺隆信』 /



「勝茂が竜造寺氏の家督を相続する前年の慶長11年、竜造寺・鍋島一門等の重臣は、直茂・勝茂に忠節を尽す起請文を提出(中略、のちに、)竜造寺本家が断絶し、その家督問題が幕閣で取上げられるに至って、諫早・多久・須古の竜造寺一門は、江戸において、直茂の嫡子勝茂が相続すべきであることを主張し、これが公儀権力の認めるところとなって、名実ともに鍋島佐賀藩が成立した」藤野保氏・『佐賀藩の総合研究』/



「鍋島氏、龍造寺氏に代る」「(高房の父)政家もあとを追うかのように死去した。やがて龍造寺の家督も信濃守勝茂に継承せられた。龍造寺一族の申し出によるものであったと伝えられる。」三好不二雄氏・『佐賀市史』第1巻(中世Uー5)/



「竜造寺本家が滅んだが大きな動揺はなかったようで、龍造寺一族はむしろ鍋島直茂・勝茂に協力的で鍋島氏の支配は安定していた。」小宮睦之氏・『佐賀市史』第2巻(近世1-1)/



「高房・政家が相ついで死亡したため、竜造寺家家督を勝茂が継ぎ、ここに佐賀藩主の家督と国政の不統一が解消し、」佐賀県近世史料編さん委員会・『鍋島直茂公譜等解題』(佐賀県近世史料1-1)/



「直茂・勝茂体制の鍋島佐賀藩がスタートすることになった。関ヶ原の敗戦以後の藩存亡の危機感のなかで、直茂ー勝茂ラインの政治運営に旧龍造寺一族や家臣団が期待したためである。『佐賀城の総普請』は龍造寺体制から鍋島体制への移行の一環として行われた。」小宮睦之氏・『佐賀城の歴史』(『海路』第7号)/



「竜造寺氏の旧領を継いだ鍋島氏は、その支配組織・体制を固めるに当たって、二つの特徴がみられる。その一つは、竜造寺氏の旧家臣団を解体しないで温存したことであり、二つ目には、徳川幕府の全国的な大名統制方式と類似していることである。(後年の鍋島御三家、親類同格、旧龍造寺系大身≒外様)」杉谷昭氏・『郷土史再発見@ −幕藩体制の中の鍋島氏―』/



「一般的な家中騒動、御家騒動とは異質な、いわば静かな下克上なのであるが」「(『諫早家系事跡』によると)鍋島氏を大名の座につかしめたのは、ほかでもない龍造寺系一門家臣という認識なのである。」高野信治氏・『大名の相貌』/



「後世において鍋島氏が竜造寺氏の立場を乗っ取ったとするような状況ではなかったことも本稿で明らかにした。」野口朋隆氏・『佐賀学T』/



「鍋島氏が政家の二男村田安良を竜造寺本家として存続させたことは、偏に当時の佐賀藩が、竜造寺一門による政権運営(請役家老制)に代表される鍋島・竜造寺両氏による連合政権的な権力構造であったことばかりに起因するのではなく、まさに鍋島氏が旧主の家の存続に配慮するという、いわば伝統の保護政策があったことも考慮する必要があるだろう。」野口朋隆氏・『中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏』/



「変転きわまりない戦国の世に生きた直茂を、一つの主義・主張を持って主君に対して忠節を尽くした律儀な武将としてとらえることは困難である。(中略)直茂は政家や高房が御しうる人物ではなく、直茂の長命は平穏裏のうちに龍造寺氏から鍋島氏への勢力の交代をなさせ、時の権力者も認めるところとなった。」岩松要輔氏・『鍋島直茂』/



「政家・高房が没したため、肥前国を引き継ぎ、(直茂は)鍋島佐賀藩の藩祖(初代藩主は勝茂)となる。」田久保佳寛氏・『千葉一族入門事典』/



「鍋島氏は、竜造寺四家および国人系有力家臣団が家中で強大な勢力を占める現実と、藤八郎(高房)死去後の家督継承の際に、彼らの承認を受けたことに対する政治的代償によって、当主権力の深化に大きな制約を受ける状況にあった。この連合政権的な権力状態」木島孝之氏・『城郭の縄張り構造と大名権力』(補注篇・鍋島領)/



「(高房・政家死後)龍造寺一門が合議で、肥前国主の後継者に鍋島勝茂を推挙する結論を出したことで、大名家としての龍造寺氏は断絶した。ここに、鍋島氏の下に龍造寺氏が持つ「国主の家督権」が吸収されることになった。ただし、高房には実弟安良がおり、鍋島氏への臣従を誓ってはいたが、龍造寺宗主家を継承する別格的家格の大身家臣として健在であった。」木島孝之氏・『九州にとって「織豊」とは』(『海路』第11号)/



「享保年間成立とされる『直茂公譜』『勝茂公御年譜』においても、竜造寺から鍋島氏への家督継承の正当性を謳うため、(中略)意図的に高房関係の事実が省略化・歪曲化された可能性は十分に考えられる。」大平直子氏・(佐賀大学地域学歴史文化研究センター 研究紀要第9号) /



「(沖田畷)後しばらく龍造寺氏が家督を継ぎ、鍋島氏が領国支配を行うという体制がとられるが」「慶長12年の龍造寺氏断絶により家督・支配ともに鍋島氏に統一され、名実ともに佐賀鍋島藩が成立する。」松川博一氏・『戦国武将の誇りと祈り』(九州歴史資料館図録)/



「龍造寺家が断絶したため、直茂は名実ともに肥前の大大名となった。」荒木和憲氏・『戦国大名』(九州国立博物館の図録)/



「竜造寺本家は断絶した。それを継いだのが鍋島家である。」谷口眞子氏・『 佐賀藩の殉死にみる「御側仕え」の心性』(早稲田大学高等研究所紀要7)/



「政家が最後に羽柴政権から文書を出された(文禄四年)八月を最後にして、龍造寺家は大名としては認められなくなったと考えられる。以後においては、執政の鍋島家が、事実上は肥前国の大名として(公儀に)扱われていくことになる。」黒田基樹氏・『羽柴を名乗った人々』/



「直茂の子勝茂が竜造寺氏の家督を継ぐかたちで鍋島佐賀藩が成立」日本史広辞典編集委員会・『日本史小辞典』(山川出版社)/



「竜造寺氏の家督を勝茂がつぐことで、完全に鍋島氏が領することとなった。」(郷土の戦国時代・佐賀県/肥前一部)の項「政家・高房父子の死後、鍋島直茂の子勝茂が竜造寺氏の家督を相続、鍋島姓のまま佐賀藩主となる。」(戦国領主155家の系譜)『クロニック戦国全史』編集委員会・『クロニック戦国全史』/



「戦国大名 鍋島直茂 −平和裡に主家を乗っ取った簒奪者ー」「勝茂は龍造寺を名乗らなかったため、ここに於いて肥前龍造寺家の家名は実質的に絶え、以後、鍋島家が代々家督を継いでいくことになった。平和裡に行われた主家の簒奪である。」服部崇氏・『歴史文化遺産 戦国大名』/



「幕府にとっては、長い間の鍋島直茂・勝茂の活躍とその実績を見、又、龍造寺各氏の動きをみて、政権は鍋島家が妥当であると確信したのであろう。又、直茂もそのようになるように、動いたのではないだろうか。」市丸昭太郎氏・『龍造寺家と鍋嶋直茂』 /





「幕府は龍造寺一門の主だった者の意見も徴し、信生(直茂の前名)の嫡子勝茂に龍造寺氏家督を継承させた。『法的』には何ら問題のない政権交代である。しかし最晩年の信生の言動には深い憂慮が現れている。やむを得ぬ仕儀とはいえ主家を事実上簒奪したことを悔いるところが大きかったのであろう。信生が龍造寺の無二の忠臣であったことに疑いはない。」中西豪氏・『戦国九州三国志』(歴史群像ムック)/



「最終的には宗家は高房の代で途絶え、鍋島氏の家督相続が徳川幕府より認められた。」中西豪氏・『全国版 戦国精強家臣団』(歴史群像ムック)/



「禅譲の完成」『史伝鍋島直茂』(単行本) → 近年では「領主交代の完成」『歴史群像 No124』という表現。中西豪氏 /



「高房の龍造寺家家督と、鍋島父子の領国支配は完全に分離して、今や別個の存在となっていたのである。」「高房死後、佐賀城下に白装束の幽霊が現れるという噂が立ち、いろいろ異変が起き、人びとを恐怖におとし入れたと(『元茂公譜』中に)伝えている。世に流布された佐賀の『化け猫騒動』は、この幽霊話の所産であり、若くして悲運の死をとげた高房への庶民の憐情を感じる。」「(政家は)後を追うようにこの世を去った。五十二歳であった。龍造寺家本家は、遂に断絶、鍋島三十五万七千石の藩政がここに確立した。」吉永正春氏・『九州戦国の武将たち』/



「五州二島の覇者が、大名の座を家臣にのっとられた事情とは?」「鍋島氏は、初代藩主は直茂ではなく、高房没後の勝茂として、あくまで龍造寺氏から政権を譲られたという形をとっている。」「(鍋島化け猫騒動の)伝説が生まれたということは、たとえ正当な継承であっても、主従の逆転に陰謀を感じ、龍造寺の滅亡を憐れむ者も多かったのだろう。滅びゆく者に、人々はなぜか心を寄せる。」鷹橋忍氏・『滅亡から読みとく日本史』/















posted by 主宰 at 04:04| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月08日

『比較史の方法』から


「比較史がわれわれに与えてくれるおそらく最も明瞭で最も説得的な教訓は、われわれが社会的諸事実を閉じこめようとしている、もはや古くさくなった地誌的仕切りを今や破壊すべき時だということである。それは、われわれがそこに詰め込もうとする内容にもはや合わないからである。かつて、一人の尊敬すべき学者が『ウール・エ・ロワール県における聖堂騎士団』と題して、まるまる一冊の本を書いた。われわれは、この単純さには苦笑するのみである。歴史家であるわれわれが、ほとんどつねに同じ誤ちに陥らないと確信できるだろうか。たしかに中世に県の枠を持ち込む習慣はない。しかし、過去の法や経済の諸制度を研究するのに現在の国境がどれほど多く便利な枠と考えられてきたことか。

ここに二つの誤りがある。まず第一は、時代錯誤、しかも最も明瞭な時代錯誤である。一種の漠然とした歴史的予定に対する何らかの盲目的信仰によって、戦争や取引の複雑な働きが国境を確定する以前に、その線に何らかの意味を、あえて言うなら産前の生を与えるべく導かれたのではないだろうか。さらに、根本的な誤りがある。それは、見かけはより厳格な方法によって、研究の対象をなす諸事実と同時代の政治的、行政的、あるいは国民的な区分を選択したときですら、なお存在する誤りである。なぜなら、いつの時代であれ、社会的諸現象がその発展を、ひとしく同一の境界線−−正確に言えば、政治的支配あるいは国家の境界線−−で停止した、などということは今までどこでもおこったことがないからである。オイル語方言とオック語方言の境界線または−−こう言ったほうがよければ−−境界地帯、同様にオイル語それ自体のゲルマン語との境界線が国家や大領主領のいかなる境界線にも照応しないことは周知のとおりである。文化の他の多くのことについても事態は同じである。(中略)
様々な時期におけるヨーロッパの社会生活の各々の側面で、窮極において人為的なものから脱しようとするなら、外側からでなく内側から規定される固有の地理的枠を見出さなければならないだろう。これは大いなる慎重さと無限の試行錯誤を必要とする困難な研究である。それに正面から立ち向かうことを拒否するのは、怠惰を告白することだろう。」

『比較史の方法』マルク・ブロック 著(1928年) 高橋清コ 訳 講談社学術文庫 (2017.7月)P.49~50より。



★先日のブログ記事(http://sagasengoku.seesaa.net/article/459013034.html)で触れた、佐世保市の「井手平城の戦い」を考えるだけでも、長崎県史と佐賀県史は不可分の関係にあります。我々が普段、いかに相互の「県」の区別に縛られ、自由な論考が制御されてしまっているか。特に肥前は、「県」どころか「国境」をまたいで、中国や朝鮮、東南アジアなどと活発な経済活動が行われているので、実際もっと「境界」は見えづらいですね。そういった事を考えさせられる、フランスの歴史家マルク・ブロックの名著でした。


佐賀戦国研究会






posted by 主宰 at 02:11| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■歴史から何を学ぶか (論評集) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする