2019年03月29日

★お知らせ(2019.3/28)


【入稿用】チラシ_A4_縦_表面.jpg


★歴史シンポジウム「第二回 関ヶ原の戦いを再検討する ―高橋陽介・乃至政彦両氏に聞く関ヶ原の戦いの実像―」@福岡県北九州市
 早いもので、三カ月後の開催となりました。

・プレスリリース:https://www.value-press.com/corporation/57516
・公式告知:http://sagasengoku.seesaa.net/article/464037320.html


シンポジウムのチラシを100ヶ所程に発送し終えました。
まさに諸国の有志各位に向けて「小倉の関ヶ原」へお越し下さいますよう、と、福岡、山口、広島、大分、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、そして岡山、大阪、各都道府県へ・・・祈るような気持ちで檄文を飛ばす、奉行衆の様な気持ちになりました。主要な図書館で、置いて頂けている場合は、ぜひチラシをお取りになられて下さい。



ここから、お世話になっております講師御三方について、
要チェックの最新情報をお知らせします。



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■ 白峰旬 先生 (TVご出演予定)


『歴史科学捜査班』「真説・関ヶ原 実験で明らかになる合戦の実像」
https://www.bs11.jp/entertainment/history-crime-scene-investigation/

 日時:2019年4月1日(月)19時〜 20時
 チャンネル:BS11

白峰旬先生がインタビュー出演される予定との事です。


番組HPより:

「スタジオ出演者:高橋 真理子(朝日新聞 科学コーディネーター)、矢部 健太郎(國學院大學文学部 教授)

慶長5年、1600年、徳川家康を総大将とした東軍約9万人と石田三成率いる西軍約8万人の軍勢が激突した天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」。戦いが始まって4時間。徳川家康が西軍小早川秀秋に向けて寝返りを促す威嚇射撃を行った「問鉄砲」。これをキッカケに東軍への寝返りを決意した小早川の行動で西軍陣形は総崩れとなり午前8時から始まった戦いは6時間で勝敗が決まったという。しかし、この通説を根本から覆す説が近年、発表された。捜査班はその全容を掴むため専門家のもとへ。そこで知る驚きの説とは?なんと主戦場は関ヶ原ではなかった?また問鉄砲は本当に行われたのか?検証から明らかになる問鉄砲の真実とは?さらに当日発生した霧を再現。捜査班が行った実験から霧が及ぼした影響が見えてくる。東軍が勝利した関ヶ原の戦いとは一体何だったのか! 」


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■ 高橋陽介 先生 

(新著の刊行、および中日文化センター栄にて新講座スタート)



橋先生の公式ブログ:『一次史料と関ヶ原合戦と高橋家の日々』
http://takahasiyo.blog.fc2.com/

以下ブログより引用紹介です。主に、奥様が運営されています。
新著が発売されました!

『慶長四年一月三日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか』

前回より、かなり厚めの144ページになっております!
皆様のご期待にそえる一冊になっております(´ω`人)
今回もマツモトシィマ先生に表紙を描いて頂きました(o‘∀‘o)*:◦♪
めちゃくちゃ、龍伯がカッコいい〜〜♡

島津本A表紙
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※自費出版により書店での販売はございません。
※通販のみの販売です。
※限定200部です。売れ切れ次第終了です。

※表紙かっこいいけど、マンガではなく一般書でございます(。>ω<。)ノ
※メールには、必ず返信させていただいておりますが、お客様のメールの設定(着信拒否等の)などにより、メールがとどかない場 合がございます。あらかじめ、ご了承ください。」

★購入方法はコチラからご確認下さい!:http://takahasiyo.blog.fc2.com/blog-entry-194.html

なお、高橋先生も佐賀戦国研究会の会員でございます。



4月から中日文化センター栄で、乃至政彦先生と、高橋陽介先生の講座が始まります。
http://www.chunichi-culture.com/programs/program_181839.html

以下、公式HPより引用紹介です。



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講座タイトル:『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』


講師:歴史家 乃至政彦, 歴史研究者 高橋陽介
日時:第3火曜 10:30〜12:00
回数:5回
受講料(税込):13,770円
会場:栄中日文化センター(愛知県名古屋市中区栄4-16-36 久屋中日ビル7階 )
※受講申込が必要。

日本で最も有名な戦いの一つ「関ヶ原合戦」。その主戦場は関ヶ原の平野ではなく、家康も三成もいなかった!?
一次史料を読み解くことで、従来の「関ヶ原合戦」観を覆す驚きの真実を解説します。4月から始まる5カ月講座です。」

詳細や申込み情報はこちらへ:http://www.chunichi-culture.com/programs/program_181839.html 

話題のあの本。乃至先生・高橋先生の解説が直に聴ける貴重な機会ですね!




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■ 乃至政彦 先生 

(新著の刊行、および新講座スタート、そして新潟県において上杉家関連の講演会)



★詳細は、公式HP『天下静謐』http://www.twinkletiger.com/)をご覧ください。

新著が刊行されます!

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以下、公式HPより引用紹介です。(http://www.twinkletiger.com/2019/03/23/post-1677/

4月10日『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書)発売!

『平将門と天慶の乱』目次です。

‪序 章 怨霊伝説を検証する‬
‪第一章 蔭子・将門の少年期‬
‪第二章 遺領が招いた争族‬
‪第三章 平良兼・良正の襲撃と源護の策謀‬
‪第四章 追捕使・将門の勇躍と逆襲‬
‪第五章 坂東独立の風雲‬
‪第六章 将門、新皇に即位す‬
‪第七章 誰が新皇を殺したのか‬
‪第八章 敗者の声と勝者の宴‬
‪終 章 神田明神と将門塚の興起‬ 」



★新潟県での講演会について

四月は新刊発売、関ヶ原講座開始、景虎法要

4月の予定をこちらに記します。

6日発売予定の月刊誌で取材応答いたしました。関ヶ原合戦についてお話しています。

10日には新刊『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書)が発売となります。作家や学者にはできない歴史家としての仕事をやりました。

16日より名古屋栄中日文化センターで高橋陽介先生と歴史連続講座「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」を開始します。関ヶ原合戦の新しい解釈を学ぶ、またとない機会です。

29日は妙高市の勝福寺で、上杉景虎440回忌記念講演「上杉景虎の人物像─反逆者とされながら、なぜ悪評を残さなかったのか」に登壇いたします。

日時:4月29日 14:30から。
場所:勝福寺(新潟県妙高市乙吉496)
主催:公益財団法人 妙高文化振興事業団 共催:斐太地区協議会、斐太史跡保存会 」


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八面六臂のご活躍です。愛知県、そして新潟県のお近くの方は是非、講演会に御参加されることをお勧めします!




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佐賀戦国研究会関連


中西豪 先生(歴史研究家):

2019年内、某歴史雑誌へ、戦国時代の龍造寺氏関連の記事を執筆予定。



深川直也 (佐賀戦国研究会主宰):

三重大学伊賀サテライト伊賀連携フィールド・三重大学人文学部・上野商工会議所「伊賀連携フィールド市民講座」
忍者・忍術学講座「中・近世日本各地の忍者たち」

第2回講座 5月18日(土) 「ここまで分かった!佐賀の忍者史」 深川直也(佐賀戦国研究会)

http://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza.html


日時:2019.5月18日(土曜)10:30〜12:00
会場:ハイトピア伊賀3階(三重県伊賀市上野丸之内500)
入場:無料 申込不要

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★史料上で新たに見かけた、筑紫広門の忍らしき者、神代長良の忍らしき者、また三重の安濃津城の防御を偵察した龍造寺軍の「忍」関連の情報を、はじめてお話しする場となります。(深川)




以上、お知らせでした!





posted by 主宰 at 00:17| 佐賀 ☀| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月18日

一次史料に見る永禄年間の大友氏・龍造寺氏の関係とその推移



★「龍造寺氏の戦国大名化と大友氏肥前支配の消長」堀本一繁氏論文(1998)によると、大友氏の肥前支配は永禄2年以降本格化し、天正6年まで徴証が見える事、龍造寺氏はしばしば大友氏への忠節を前提として近隣国衆と同盟していた事(但し着実に独自の勢力拡大を図っていた事)、永禄2〜天正6年「この間において龍造寺氏をはじめとする一部有力国衆の台頭の動きも見られたが、これらは大友氏の支配から完全に脱却するまでには至らなかった。大友氏は(中略)方分を肥前にも設置し領主間の紛争に対しては軍事力に裏付けされた調停権を発動して国衆等の動きを規制していたのである」旨が指摘されています。


上記を踏まえて史料を追うと、


・「河上神社文書」212号(『佐賀県史料集成 第1巻』)永禄元年12/3付、龍造寺隆信・神代勝利・江上武種、三名で和平と邦家の鎮静を誓う願文が河上宮へ奉じられる(かなり硬質できっちりした文章の願文)。
年明けの永禄2年正月、龍造寺軍が少弐冬尚を自刃に追い込む。江上・神代は少弐を援けず。

・「永野御書キ物抜書」140号(図録『戦国の九州と武雄』)、永禄2年9/14付で、大友家が神代勝利・龍造寺隆信の関係を調停。

「この一着以後、小城・佐賀・神崎・三根四郡の間、為上意も、為三老も、向後いささかも違儀あるべからざる事」吉弘鑑理・吉岡長増・田北鑑生 (各判)神代勝利・龍造寺隆信宛

→大友の肥前支配本格化は、少弐冬尚が自刃したその年からである事が分かります。


あとは、

・「有馬雑記余事」(『佐賀県史料集成 第26巻』)中、年欠の7月13日付・宛所不明「大友義鎮書状」に「(龍造寺)隆信・(神代)勝利、無二の心底深重の由候条、もっとも肝要候段申し遣わし候ところ、その首尾いささかも相違なく、悪党現形のみぎり、(筑紫)惟門の親類被官の者ども多数討捕られ之通承り候、忠貞の次第、案中ながら令感候。両人才覚を以て、同名惟門の事、この節討留、預注進候はば、忠義比類あるべからず候条、」(義鎮 判)


全文内容を下記に、簡潔私訳します。

「前日、筑紫長門入道(大友の味方と思われる)の所から報告が有ったが、龍造寺隆信・神代勝利に対し、大友家へ無二の心底、忠節が大事であるぞと申し遣わした所、まさに命じた通りの働き、敵を数多討ち捕えたそうで、働きぶりに感じ入った。両名の才覚で、筑紫惟門の事をこの際、討ち果したという報告が今後あれば、その忠義と働きは比類無きものとなるであろう。別途、祝いを遣わすよう家老たちへ申しておく。恐々謹言。7月13日 義鎮 判  
一、善惣来月の事 一、萬方再説申候事付、隆信地盤の事 一、某存分行の事 以上、判」


→ 大友方として龍造寺・神代が軍功を顕し、大友義鎮が喜んでいる姿が見えてきます。「龍造寺隆信と神代勝利が、大友義鎮の麾下となって活躍した」事実があるという貴重な一次史料であり、大友義鎮が、龍造寺隆信・神代勝利の「両人の才覚」に今後期待している点も、興味深いです。(大友義鎮の傘下として佐賀の龍造寺隆信と神代勝利が戦場で活躍する姿は、ゲームだけの世界かと思いきや・・・一時期そういう時代もあったのですね。)筑紫惟門はネットで見る限り永禄10年自害、そして、永禄8年に神代勝利が死去するので、この文書は永禄2〜8年の間に発給された感状と比定できます。



→また、史料が少ない神代勝利について、一時期における大友義鎮との関係が見える点は、貴重です。


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・「河上神社文書」212号、この願文の意義を考えていたのですが、ひとつ気づきました。肥前一之宮に対し佐賀・山内・神崎(佐賀郡〜神埼郡)一帯の平和を切に希求する内容の願文、要は和睦の誓いが、軍事紛争する事もあった龍造寺隆信・神代勝利・江上武種の連名で捧げられていますが、少弐冬尚がメンバーに入っていない。

地域の「お屋形様」少弐冬尚が、このかなり硬質な筆致の願文を奉るメンバーに入らず(編纂物だと、神埼〜小城の地を転々としていた様子もあり)、さらに、願文提出の翌月、少弐冬尚は龍造寺軍に攻め立てられ、神代江上はまともに少弐を救援する事も無く、且つ、同年永禄2年から大友家の権威を尊重しています。

佐賀鍋島藩の軍記物『北肥戦誌』では『和談はその不意を撃たんための偽なり』とし、偽りの和平を結び、成立直後に奇襲した体で、龍造寺隆信の謀略だというニュアンスが描かれているのですが(当方もこれを鵜呑みにしていた)


この点、『西国の戦国合戦』山本浩樹著(吉川弘文館 発行、2007)P197〜によると、

「永禄二年一月、隆信は神代勝利・江上武種を味方に引き込んで勢福寺城にいた(少弐)冬尚を討滅した。この戦乱にも大友氏が積極的に介入し、この機会を捉えて肥前に対する実効支配の確立を図っており」 と論じられ、「この戦乱に大友氏が積極的に介入した」事が分かる根拠史料の明示は無いのですが、山本先生は、この少弐滅亡に大友家が何らか関係があったと明確にお考えである事がわかります。

佐賀藩の軍記物に見えるような「龍造寺隆信が主導した謀略」という、単純で一面的な話ではないようです。


その考察を後押しする一次史料が、前掲の「永野御書キ物抜書」140号であると言えるでしょう。少弐氏が滅亡した8カ月後、東肥前において、大友家の権威でもって、紛争停止が誓われています。

しかし、この少弐滅亡に大友氏も介入していたとする場合、大友氏の肥前支配プランはどういうものであったのでしょう。滅ぼすことを良しとしていたのでしょうか。

あとは、少弐滅亡が、龍造寺隆信単体の謀略であったとする場合、和平を反故にされた神代・江上の面目が失われます。すると神代江上は、龍造寺の非道を大友家にを訴える事になると思います。そして大友家から、何らか龍造寺に懲罰の動きがあってもおかしくないはずですが、隆信は同年9月時点で「この一着(龍造寺神代間の和平)以後、紛争は止めよ」と言われているだけで、特に少弐冬尚を討った云々の罪を名分として、大友氏・神代・江上に攻撃されることも無かった。

要するに少弐冬尚討伐をする意向は、永禄元年12月の願文の時点で、江上・神代は「承知」していたと推測できる。山本先生の表現でいうと「神代・江上を味方に引き込んだ」という事になりましょう。


(※3/20追記 :山本氏による「この戦乱に大友氏が積極的に介入した」という解説はおそらく、先行研究である「少弐冬尚滅亡に関する一考察」堀本一繁氏論文(『少弐氏と宗氏』22号、1994年)の結論が踏まえられていると思います。堀本氏解説上、前掲の永禄元年12/3付の河上社への願文の内容で、龍造寺・神代・江上、三者が上下のない同列関係で同盟している事が明らかであり、且つ地域の安泰を誓い「三武の勇力で、荊棘賊徒を誅し」と記され、この翌月に少弐冬尚が死亡している事から、地域の平安を乱す「荊棘賊徒」=少弐冬尚と比定されています。非常に説得力のある論文です。そして、冬尚討伐前後の政治的状況の推移から、大友の介入があった事が想定できる、とされています。つまり、早1994年に、堀本氏によって永禄元年12月の三者和平についての、編纂物に見える龍造寺隆信陰謀論は史実ではないことが証明されています。)


ーーーーーーーーーーーー


一次史料から分かる範囲でも、永禄2年〜永禄6年の間は、大友義鎮(宗麟)と龍造寺隆信は、良好な関係です。(最初から仲が悪い訳ではないのです)


しかしこの期間、隆信が佐賀郡神埼郡辺りで周辺国衆を攻め降していくので、「良好な関係である」と同時に、「大友義鎮が段々、隆信にイライラを募らせていく時期」なのかもしれません。


ここで一つ大事な指摘ですが、佐賀鍋島藩の軍記物『北肥戦誌』や、それをベースとした書籍には、「永禄5年頃に少弐政興が大友義鎮の支援を受けつつ蜂起し、また大友氏と結託した有馬が西から出陣してきた」旨が解説されますが、一次史料である「田尻家文書」103号、108号(『柳川市史資料編V』)を読めば、筑前の状況が厄介な事と、大友氏は、有馬と龍造寺の停戦を願っている事が明らかであり、永禄5〜6年(丹坂峠の戦いで決着)の有馬氏による東肥前侵攻は、大友氏と結託はしていないと言えます。同時に、大友氏と龍造寺は、直接対立しておらず、関係は悪くありません。


(※3/19追記:

「田尻家文書」103号 戸次鑑連→田尻鑑種宛 (永禄5年)9/10付
有馬方龍造寺間和平之儀、過半可然由候、珍重候、弥無御油断可被仰拵事、肝要候」


「田尻家文書」108号 吉弘鑑理→田尻鑑種宛 (永禄6年ヵ)1/30付
「将又(有馬)義直・(龍造寺)隆信間、当時無事之由、先々専一候、殊此口之儀、各長陣之以首尾、所々敵城弱々敷罷成候条、・・」

→これにより、「大友家が有馬と結んで龍造寺を攻めている」とは到底、考えられません)



また永禄5年に大友氏が図って少弐政興を支援して蜂起させ龍造寺隆信に抵抗させた、という話も『北肥戦誌』にあるのですが、『直茂公譜』(考補ではない)には、永禄5年の大友氏支援による少弐政興蜂起の話も、永禄6年の有馬大友結託の話も、記載がありません。『北肥戦誌』の軍記物としての脚色が垣間見えてきます。


なお、「肥前龍造寺氏と周辺大名・織田氏」津江聡実氏 研究発表レジュメ(2013年)は、主に一次史料を基に考察が組み立てられていますが、少弐政興の事には全く触れられておらず(政興の正確な動きが不明)、その考察内容として

・龍造寺氏は反大友の筑紫秋月とは結んでいない事、

・龍造寺氏の侵攻は肥前国内に留まり「直接的に毛利氏側に与して大友氏と対立するものではない」事、

さらに、

・永禄11年9/17付大友宗麟→行弘弾正宛書状(「行弘文書」)で「龍造寺山城守(隆信)事、為□累年無隔心之処、」つまり宗麟は「今までは龍造寺氏とは敵対関係になかった」と認識している事が、津江氏により指摘されています。


そうすると、丹坂峠合戦で有馬氏に勝利して以降、龍造寺氏が威勢を増々拡大する永禄6年〜永禄11年の間においても、ただちに大友・龍造寺間の関係が「悪化した」とは言い切れない事になります。


(※3/20追記・補考:永禄6年時点では肥前において大友氏の一番の脅威は小領主の龍造寺などではなく、当時肥前の西半分を平定していた有馬晴純・義直だったと思います。「永禄六年諸役人附」からも考察できる。


高村不期さん(Twitter: @buqimingri)が全体公開されている古文書データベース(★https://docs.google.com/spreadsheets/d/1eLLpAi47DZ3tBtamhWIZlbH3RGUy0VFCBiIR81AKXwU/edit#gid=1492791723)にて「肥前」を検索すると、5例目1200番に「永禄六年諸役人附」があり、将軍・足利義輝のもとへ参勤した諸家が記録されているのですが、肥前は松浦隆信、有馬義真(たぶん義貞のこと)・有馬義純、この3人のみしか名が挙がっておらず、東肥前の諸家(龍造寺、千葉、江上など)は挙がっていません。つまり、永禄6年(またはその直前頃)の肥前の状況は、格式・実力ともに長崎側・西肥前が優勢であったという傍証になります。
しかし奇しくも、この永禄6年に、丹坂峠の戦いで有馬が龍造寺千葉連合に大敗という、画期を迎えるのですね。


また、西肥前を平定していた有馬氏が、東肥前「小城郡・佐賀郡・神埼郡・・」まで進出し、毛利元就と組んだら、大友氏にとって大変な脅威だと思います。特に長崎〜西松浦方面からは海路(当時の高速道路のイメージ)を使えば、筑前の毛利氏の支援も可能。こんな状況で、大友義鎮が、有馬氏の東肥前平定戦を許すはずがない。→「有馬龍造寺間の停戦を願う」ことになる。)




はっきり判るのは、大友・龍造寺間の関係悪化は、永禄11年9月以降である事。
宗麟が行弘弾正へ曰く「累年敵対関係になかった所、毛利に与み申し手切れの動き、是非に及ばず。厳しく誅戮を加えるよう申付けた」と。


なお、『戦国大名の古文書 西日本編』(山本博文・堀新・曽根勇二 各編、柏書房 発行 2013年)に収録の、肥後の相良殿宛「三月二十七日付け大友宗麟書状」(慶応義塾図書館所蔵)は、内容要約すると、


「龍造寺隆信が先年深く詫び事を言ってきたので、赦免しました。しかし、またもや我意を企て、特に今度の松浦表(唐津方面か)の錯乱以来、逆心があきらかであるため、誅伐せざるを得ません。肥筑の検使として、成大寺・森越前入道を派遣しました。そして今後、有馬表(島原半島の事)へ軍を進める際には、ぜひ御協力をお願いする次第です」というもので、編者によって永禄10年の書状と比定されています。


すると津江氏指摘の永禄11年よりも早い、永禄10年において「逆心顕然之条、誅伐無余儀存」→敵対(「手切れ」)宣言となるのですが、
どうもこの文書は、年次比定が難しい気がします。(天正年間にも当てはまるような・・・)


・龍造寺隆信は永禄年間(そして元亀元年・今山の戦い後に大友家と和睦して以降も)、しばしば大友家による紛争停止の意向を反故にしており(前掲の龍造寺神代和平も、2年後には完全破綻)、詫び言もしばしば言わなければいけない状況なので、「先年深く詫び事」がいつの、何のことなのか不明。


・「今度の松浦表(唐津方面か)の錯乱」は、松浦表の国衆が主体的に錯乱したようにも読み取れ、隆信が直接攻めて錯乱させたとは限らない事、

・「肥筑の検使として成大寺・森越前入道を派遣しました」とあり、遠方から派遣したように読めるので、3月の頃、ひとまず宗麟自らが筑後に動座している永禄12年、元亀元年ではない可能性の事、


・永禄11年4月、高橋・秋月との抗争で苦慮している時期に、筑前立花山の立花鑑載が大友に反旗を翻した。立花山なら、海路で東は長門国の毛利氏、西なら松浦表と通じ合う事ができるため、この時に松浦表の衆は、立花鑑載の乱を前提として、立花より先の2〜3月に蜂起した可能性の事、


・前掲、津江聡実氏が指摘された「永禄11年9/17付大友宗麟→行弘弾正宛書状」中の「龍造寺山城守(隆信)事、為□累年無隔心之処、」つまり宗麟は「龍造寺隆信は、累年敵対関係になかった所、毛利に与み申し手切れの動き、是非に及ばず。厳しく誅戮を加えるよう申付けた」というように、「過去で、はじめて本格的誅伐を決意した」点が、相良殿宛・3月の宗麟書状の「逆心顕然之条、誅伐無余儀存」の意思表示とも通じている事。


以上から、私見、相良殿宛「三月二十七日付け大友宗麟書状」は、永禄11年3月の書状の可能があると考察します。

(※3/19訂正:永禄11年と考察しましたが、『戦国大名の古文書 西日本編』の宗麟→相良宛、年欠3/27付書状は、『大日本古文書』中「相良家文書」546号と同文である事を確認。冒頭で紹介した堀本先生の論文「龍造寺氏の戦国大名化と大友氏肥前支配の消長」P.25によって、天正二年の3/27に比定されていました。3/27の同日付で宗麟から、横岳・相良・五条・麦生ら各氏へ軍勢督促書状が残るそうで、この検証によって、天正二年説が一番説得力あり。かつ天正二年なら隆信が松浦表へ進出していても違和感がないです。)




【結論】上記の事から、一次史料に見る大友龍造寺の関係の推移は、 毛利氏の動きとも連動して、


■ 永禄2〜6年の間: 良好

■ 永禄6〜11年の間:良好からグレーへ

■ 永禄11年9月以降:敵対(「手切れ」)



と、ひとまず認知されて良いと思います。





佐賀戦国研究会 深川 記(2019.3/18)




★上記考察によって、
・「有馬雑記余事」に埋もれていた大友義鎮感状の存在とその意義についての事と、
・「田尻家文書」上、丹坂峠合戦で有馬大友の軍事同盟は無かった事を指摘するものです。









posted by 主宰 at 01:59| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月22日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートH



久しぶりの更新にて、年を跨いでしまいましたが、
引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその9です。

★レポート8は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/463431245.html


【俯瞰】下は島原市・中心部周辺の地図です。左の赤丸は「丸尾城(砦)」、真ん中の赤丸は島津・有馬本陣の「森岳(森嶽)」、右下の青丸は「浜の城」。(赤は島津有馬方、青は龍造寺方) 


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【島原半島の勢力図】 ↓
龍造寺方の深江城、浜ノ城が孤立しています。それらを解放するため、龍造寺隆信自らが指揮する軍勢が、いよいよ寺中城(三会城)から南下を開始します。


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★決戦! 天正12年3月24日 ― 龍造寺の大軍が、動いた時間は?


沖田畷の戦いを語るときに外すことのできない必読の先行研究書『島原半島史』(林銑吉 編 長崎県南高来郡市教育会 発行、昭和29年)(※龍造寺鍋島・有馬・島津、諸家の史料が異同され、客観的分析がなされています。)をもとに、詳細を追います。従って、諸本の内容紹介は孫引きになりますが、ご容赦下さい。


・『藤原有馬世譜』「廿四日の未明に押出し」云々

・『有馬晴信記』「三月廿四日の夜明けに森岳まで敵責来れば」云々

・『直茂公譜考補』「廿四日ノ

・『野史』「東明に及び烟靄未だ霽れず」

・『後編薩藩旧記』「同十二年甲申三月廿四日のの刻計(午前8〜9時)に其の勢四万余キ薩摩軍に寄来る」

・『諸家由緒』川上左京系図「然合戦之期、自刻至午前、攻戦最急、及未初刻(午後2時)」

・『島原軍記』「三月廿四日の刻計、龍造寺の大軍さざめき渡て出来れり」

・『フロイス日本史』「金曜日朝八時に始まり、正午過まで継続したり」

・『日本西教史』「二十四日の朝八時に接戦始り、正午に至りて、両軍の勝敗孰れにあるや未だ決する能はず」

・『古今戦記』「たつみの時より未の時までおほつおはれつ、まくつまくられつなとたたかはせられけるに」云々

・『長谷場越前自記』「三月廿四日刻計の事成るに(中略)薩摩之御陣に懸りける」

・『豊薩軍記』「の刻計りに沖田畷を打過て眞一文字に討ってかかる」


「総合して考えてみれば、3月24日の払暁に龍造寺方より行動を開始し、午前8時前後に両軍の衝突を見たと解するのが最も正鵠を得たものと思う。」『島原半島史』林銑吉氏の見解 (P.419〜P.420)



一方、『完訳フロイス日本史10』P.277には、「(肥後から)対岸の高来(島原半島)に渡っていた薩摩軍は、船舶がさばき得た兵数に応じて態勢を固めていった。すでにその頃、我らの味方の陣営には、ドン・プロタジオ(有馬晴信)の軍勢を合わせて、六千三百人を超すほどの兵士がいたであろう。薩摩の軍勢は、戦については誇り高く、能力を備え、かつ敏捷であった。我らは島原城(=浜ノ城と比定)に対して最初の攻撃を加えようとして、なお多くの兵士の到着を待っていた。」とあります。

この点、『上井覚兼日記』中、3月25日の記録(沖田畷大勝利の報告を知る前段階の記録)に「島原(城)の事は今の軍衆にて相応に候へ共、若々龍相(■魚へんに各)候はば、今少御人数被指渡候て可然之由也、今一注進被聞せ、」とあり、ルイスフロイスの記述と上井覚兼の記述内容が、おおむね、一致していることが分かります。
この辺りからも「『フロイス日本史』における沖田畷合戦についての記録の精度は、有る程度高いのではないか」という考察が生まれる訳です。


そして再び『島原半島史』中、島津・有馬方の迎撃態勢として、

・『藤原有馬世譜』「(晴信)公、(島津)家久等と御軍議ありて、備を定めたまひ、二十四日の未明に押出して、島津家久三千を先陣とし、森か嶽の麓に備へ、御旗本二千人森か嶽に備えたまひ、長田安芸守貞連等と、島津勢五百人を豕子村(いのこむら)の東浜手の林の中に伏せ置、安富越中守に鉄砲三百挺を司らしめ、兵船十三艘に取乗せ、夜中に東の海上漕出して、敵の進むを待しむ」云々、「家久は森嶽の後を廻り豕子村の西に打て出て、隆信の旗本に切てかかる」

・『有馬晴信記』「さて薩摩の内少々浜手の松原に隠し置、晴信旗本森岳に備、中務(島津家久)自分の人数も同然に被備也、安富越中は船十三艘に鉄砲を乗せ船手の下知をいたし候」云々、

・『島原軍記』「又七郎(島津)忠豊に、老功の新納忠元を指副られ隆信の大軍に向けられ、其外の健将勇士皆是に属す、家久は鋭卒五百をすぐり、陣を出ること一里、村芥中に伏して、戦酣(たけなわ)なる時、敵の中枢を衝かんとなり。」

・『北肥戦誌』「島津家久は手勢三千余騎、三月十五日安徳の城を出て是も島原へ陣を寄せ、新納武蔵守(忠元)と左右に分れ、要害を前に当て、両方は牟田(湿地帯)にて中一筋の細道に城戸を構へ、柴垣を以て塀とし、其蔭に弓鉄砲の上手数百人、矢を揃え陣を取る」云々


・『隆信公御年譜』「鎮貴(有馬晴信)は能小勢を勝て五千余騎、森岳に出張し、要害を前に当て、弓鉄砲を揃えて一面に陣を取る。家久は他勢を交じえず三千余騎、新納武蔵守と左右に分かれ島原に陣を堅め、土手を高く築き、堀を深くほり、数十町の間柵を振り、中に一筋の細道あり、是に大城戸を構え、道の左右には沼に菱実を撒き、乱杭を打ち、掻楯を掻並べ、その蔭に鉄砲の者数百人並居、矢先を揃、陣を取る」


「本陣は森岳にあって浜手にも、中央にも、山手にも備えていた事は勿論であるが、正面の備えとして家久の子忠豊に新納忠元を指し副えて之に当たらしめ、家久自身は手兵を率いて森岳の後ろを廻り豕子村の西より(龍造寺の)中央軍の側面を衝く計画であったらしい。併し此の点色々異説がある。則東西両方面に予め伏陣を布いていた様に書いてある文献もある、けれども東西相呼応して挟撃した事は一致している。」
」『島原半島史』林銑吉氏の見解 (P.413〜P.414)



また一方、『完訳フロイス日本史10』P.281には、
「中務(島津家久)は急遽、二門の大砲を船積みするように命じた。それらは中型の半筒砲(ファルコン)で、有馬殿の伯叔父にあたり、有馬の家老ジョアン左兵衛殿の持ち船で、同所にあった最大の船に積み込まれた。(中略)さらに平田殿というジョアンの一指揮官には、敵が戦の最中に島原城から出て来て味方の背後を衝く事がないようにと、千人の兵を率いて島原城の正面に布陣するようにとの命令が下された」

とあります。


★島津・有馬方が迎撃態勢を構築しており、且つ、林の中などに伏兵を配していた事が分かります。



上記、特筆すべきはやはり、歴史研究家・中西豪先生のご指摘の通り「牟田、畷、湿地帯という記述の仕方は、佐賀側の史料にしか見られず、島津・有馬方の史料及び、フロイス日本史には無い」事です(※注:『豊薩軍記』には「沖田畷」が出てきますが、どういう訳か「打ち過ぎて」つまり「通過点」のような描写です)。有馬家の記録は江戸時代に入ってからの編纂物であり、とりわけ、史料的価値や信頼度でいえば『上井覚兼日記』・『フロイス日本史』が優先されますが、湿地帯をアドバンテージとして迎撃したという記述はありませんし、林先生の先行研究上における、編纂史料を基にした東西からの挟撃説も状況がよく分かりません

広大な湿地帯がある場合、湿地を左右に挟んでの弓鉄砲の射撃は可能ですが、どうやって、フロイス日本史が記したような決戦的白兵戦に及ぶのでしょうか。島津有馬方は、いわゆる龍造寺方が嵌って身動きが取れなくなる湿地を、すいすいと渡ってこれるのでしょうか。中西先生はこのダウトを含め、「佐賀藩側は、正面衝突の、いわば正々堂々たる決戦で大敗北を喫したという事実に、何か『負けるべき理由』をこしらえたくて、湿地帯説を捏造したのではないか」という推測を立てられています。たしかに、湿地帯が広がっている場合、上記有馬家の編纂物の記述も根本的疑義が生じます。

皆様は、どうお考えになられるでしょうか。




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龍造寺隆信公とその家中は、軍議の末、軍を三手に分けて、進撃します。


・山手の主力:  鍋島直茂公率いる筑後衆 → 丸尾城攻めへ

・中央道:  龍造寺隆信公率いる本隊(主力軍)

・浜手の主力:   江上家種公(城原衆)と後藤家信公(塚崎衆)
(両者は、隆信公の息子)




★龍造寺軍の陣容  (クリックすると拡大してみる事ができます。)


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― レポート10へ続きます ―





★旧森岳に聳える島原城と、戦支度の大山格先生。(島津方)



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            V.S.


★南下する中西先生。後ろに近習・由良氏(佐戦研)・田島氏(佐戦研) (龍造寺方)

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posted by 主宰 at 01:33| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする