2020年05月07日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート(12)(2020.5/9)


引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポート その12です。

今回は佐賀側から。


★前回のレポート(11)は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/474532655.html

★初見の方は、「沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート@」から順次ご覧下さい。:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html



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天正12年3月18日、龍造寺隆信公の船団が、島津・有馬との決戦に向けて出航したとされる岬と港について。

「同十八日、其勢五万七千余騎、龍王崎より兵船の■を解かれ、順風に帆を揚げ高来郡神代の湊へ御着船ある。(中略)隆信公三月十九日神代へ御着あると均く、あくる廿日より有馬方の者共と矢合ありて・・・」「直茂公譜考補 四」(『佐賀県近世史料1-1』 P.456~457)

3月19日に神代港に到着し、20日には行動を開始しています。


これまでのレポートをお読み頂いた方はご存知の通りですが、島津軍に包囲されて窮地に陥っている、浜ノ城と深江城を解放するための出陣です。



龍王崎

(佐賀県杵島郡白石町深浦856-1)海童神社の石段の右手に記念碑あり。


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龍王崎JPG.jpg



【専用駐車場なし。海童神社の石段の右手または左手に、車1台位は一時駐車可能スペースあり。また、道向かいに物産館あり、物産館用には広い駐車場あり。】 



▼長崎側からであれば、島原市の鶴亀城(神代城)(レポートAに詳細あり)を起点として→ 諫早湾堤防道路 →多良オレンジロード 経由で、55km程。車で、1時間15分程かかります。


▼佐賀側かられあれば、龍造寺隆信公の居城・須古城から、5.5km、車で7分程です。位置図を貼ります。

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★龍王崎の高台にある、海童神社本殿の裏・「佐賀県史跡 龍王崎古墳群」解説板の一部です。龍造寺時代の海岸線は太線部分。
つまり、この太線のすぐ右に龍造寺軍の大船団が浮かび、物資搬入や準備で、大賑わいだった事を御想像下さい。

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図の通り、龍王崎は有明海に突き出た岬であり、その直下は海辺で、干潟が広がる地帯となります。さらに藤津郡の経済を支える塩田川の河口でもあり、物資や軍勢を集めて、引き潮に乗って、迅速に有明海に船出するには、非常に便の良い港だったことがうかがえます。




★龍王崎の解説板。
龍王崎海童神社 (3).JPG



「龍王」とは、龍造寺隆信公に因む地名なのか?と思い、平凡社の『佐賀県の地名』事典や、福岡博先生著の『佐賀地名うんちく事典』を調べましたが、全く関係はありませんでした。戦国時代より遥か昔から、港として栄えた場所でした。


龍王崎の高台には、平安時代から存在する海童神社が鎮座しています。祭神は豊玉彦・豊玉姫。つまり「龍神とも言われる神様のため、この海童神社の影響で、付近の地名が「竜王村(有明町として合併)」や「龍王崎」となっている、という説があり、たしかに信憑性を感じます。


また前掲図群の通り、

・塩田川を隔てて藤津郡(鹿島市)と杵島郡(白石町)の「境目」となる事、
・地勢的に、山岳が縦長に伸びて、「防塁」のように境目を仕切っている事、
・海が内陸側に食い込み、龍王崎(岬)が突出する。陸路としては隘路となる事、
・経済拠点の塩田津の、まさに玄関口である事、

→これらから見て、軍事経済面で非常に重要な地点だったことが判ります。








★海童神社の参道石段の途中から、直線的に、島原方面を遠望するの図。
おそらく、龍造寺隆信公が出陣前に眺めたアングルだったでしょう。↓
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当時は写真と違い、海がもっと手間にある事になります。江戸時代以降、官民一体で苦労して、地道に干潟を干拓し、平地が広がっています。



★以上のように、沖田畷の戦いの史跡巡りを極めたい方には、龍王崎は外せない観光スポットです。



【戦国時代の有明海・海岸線】(佐賀戦国研究会)

動画の左下部分が、龍王崎。





なお余談として・・・

白石町・龍王崎と龍造寺隆信公については、「餅すすり」の伝説があります

http://cp.marumiya.co.jp/sp/omochitei36/post/30.html

丸美屋HPより:「餅すすりの起源は、言い伝えによると、400年以上も昔に遡るそうです。肥前の戦国大名である龍造寺隆信が、龍王崎(現・佐賀県杵島郡白石町)から有明海を渡り、島原(現・長崎県南西部島原半島)へ出陣する際に、地元の領民が勝利を祈願してもちをつきました。もちを食べてから出陣しようとしたものの、龍造寺隆信は、有明海は潮の干満の差が激しく、船を出す時間がなくなるため、その祝いのもちをすするように飲み込んで出陣し、戦いに勝利した(敵軍を飲み込む意もあり)ことから、縁起担ぎとして今に伝承されています。」

→戦いに勝利したとなると、沖田畷以前、初めて島原へ出征し、有馬氏を降参させた時の事になるでしょう。


これについて、白石町役場公式:https://www.town.shiroishi.lg.jp/asobou/mitokanba/_2160.html?fbclid=IwAR0iYdP_S8JNcx-ie7rqC-MlmXwrRnKGFIcsF3gJcp-W1JPYuBaEclGWt3c

「餅すすりは、つきたての餅を湯にひたして、一気にかまずに飲み込む、白石でしかみられない独特の食べ方です。言い伝えによると、約400年前、九州北部に勢力を築いていた龍造寺隆信が島原遠征の際に龍王崎に兵を集めていました。その時、領民が餅をついて歓待したものの、有明海が引き潮のため、急いで船に乗らねばならず、武士たちは、つきたての餅を湯につけて食べていったと言われています(餅すすり保存会会長久野潔氏より)。現在、餅すすり保存会により継承されています。※危険ですから絶対に真似はしないでください。」


→民俗学の観点から、面白いお話ではあります。


餅すすりの風習は、白石のみならず佐賀県内の他所や、日本各地に点々と残っているようです。
(山形県の例:http://www.town.kahoku.yamagata.jp/3311.html





★須古城址に翻る、十二日足紋の赤旗。
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レポート(13)へ続きます。



佐賀戦国研究会






posted by 主宰 at 23:43| 佐賀 ☁| Comment(0) | ■沖田畷の戦いについて再検討する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月12日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート(11)(2020.4/12)



引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポート その11です。


★前回のレポート(10)は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/474148173.html



今回は史料がメインです。


『日本西教史 全』ジャン・クラッセ著(初版は1689年)(太陽堂 発行、昭和6年)の、沖田畷関連の部分について。

■補考:「Histoire de l'eglise du Japon, t. 1, 2(クラセ『日本教会史』)」http://office.nanzan-u.ac.jp/library/digilib/histoire-de-leglise-du-japon-t-1-2.html 南山大学図書館の解説より:

「著者であるジャン・クラセ(CRASSET, Jean, 1618-1692)はフランスのイエズス会司祭。ディエプに生まれ、1638年8月イエズス会に入会。69年以来、パリ修練院の哲学および人文学教授として、また、説教者としても活躍。フランソワ・ソリエに依拠しつつ、ソリエの著した『日本教会史』を、在日宣教師の書翰や報告、また日本布教史、殉教史などに基づいて改めて史実の洗い出しに取り組んだものが本書であり、稀覯の初版本である。この資料は、1715年に第二版が刊行されたほか、諸国語に訳され、日本殉教教会の名を高らしめ、日本でも1878年太政官により『日本西教史』と題して翻訳、出版された。本書は日本におけるキリスト教史の最初の翻訳であり、しばらくキリシタン史研究の唯一の原典となったが、後に多くの誤謬が指摘され、またほかに多くの原典が紹介されるにおよび今日ではあまり用いられなくなった。とはいえ、従来秘められていた歴史の紹介と解明に役立った功績は大きい。」


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ここで、『日本西教史』と、これまで当ブログ@〜Iで見てきた、沖田畷関連資料を照合してみましょう。


先に結論を述べると、沖田畷の戦い前後の部分に関しては、他と異同して明らかな誤謬や矛盾はありません。



「ドム・プロテー(有馬晴信)は龍造寺が己れの下たるを以てこれを軽んじ、降服することを拒むを以て、此反逆者(龍造寺隆信)は之を怒り、兵を率いて有馬の国内に入り、島原城を囲みて之を抜き、且其近傍の地を奪ふ。龍造寺は漸く此侵地を収めんとするにあたって、筑後の国士等皆服せざるの新報を聞くを以て、此徒を征伐せんために有馬を解兵し、筑後に出兵せざることを得ず。然れども此侵地を保有せんと此に戌兵を残し置き、自ら筑後に向て進撃したり。」/『日本西教史 全』P.440


→ かつて肥前一国を掌中に収めそうな強大な勢いのあった有馬氏。佐賀郡にも大きな影響を及ぼしており、龍造寺政家の正室は有馬義貞の娘で、有馬晴信の姉か妹に当たります。有馬晴信が自家の栄光を誇り、心中で龍造寺を低く見ていた可能性はありそうです。その一方、戦国時代の「成り上がり」である龍造寺隆信は、天正10年頃には名実共に北部九州の大々名化しており、臣従勧告に従わない有馬氏に怒った可能性もあるでしょう。

天正10(1582年)初旬から、筑後国の国衆が龍造寺氏へ続々と反旗を翻し、龍造寺氏は鎮定に追われます。同年12月には島津軍が島原へと渡海して有馬氏を支援。



「ドム・プロテー(有馬晴信)は(島原半島から)龍造寺の退軍するを看て、速やかに島原城を快復せんことを決定し、其叔父たる大村の国主と薩摩の国主に援兵を請へり。大村の国主ドム・バルテルミー(大村純忠)は之を承諾せしと雖も、質たる所の三子が龍造寺に殺戮せられんことを恐れ、自ら将となりて此援軍に出陣せず。薩摩の国主は龍造寺の勢力倍猖狂なれば、終に其強兵を以て攻め来り、或は其領地を奪はんことを恐れ、有馬の国主に援軍を送れり。ドム・プロテー(有馬晴信)は一萬の軍兵を以て五千の守兵ある島原城を囲みけり。逆将龍造寺は筑後を鎮静し、直に熟練したる二萬五千の軍兵を率いて再び馳せ来る。此前軍は銃兵千人、槍兵五百人、槍と矛とに類する長刀の一大隊及び騎兵一隊ありて、弓兵を以て組成したるものなり。後軍は銃兵八千人と槍兵の大隊を合せ、此軍隊中に許多の軍器及び軍用諸品を充備したり。」/『日本西教史 全』P.440〜441


→ 筑後の鎮定のため、龍造寺軍が筑後へと転向。この機を逃さず有馬晴信は旧領回復を目指します。

晴信の叔父・大村純忠は、もとは有馬家の男子・有馬晴純の二男であるため概ね有馬氏親派ですが、当時、フロイス日本史によれば龍造寺隆信によって波佐見に蟄居させられ、身動きが取れない状況でした。有馬島津連合軍は龍造寺方の島原城=浜の城を攻囲しますが、救援のために、龍造寺の大軍が天正12年(1584)3月、再び島原半島へとやって来ます。

反逆者・逆将と指摘されているのは、言うまでもない事ですが、龍造寺隆信が有馬・大村らキリシタンの敵であるため、宣教師側の記録からは「悪」として描写されます。


「直に熟練したる二萬五千の軍兵」と記されているのは興味深く、佐賀藩の記録でも主に「直に熟練したる」将兵が動員されている印象です。龍造寺隆信は、新参の降伏勢力を、損害の多く出る先鋒に任じた上で敵地へ侵攻する事が多いのですが、天正12年(1584)3月の島原侵攻では、先鋒や主力が、龍造寺家譜代の重臣や親族で固められているのが特徴であり、これは龍造寺隆信が勝利を確信していたことによるものと考えます。



★島原半島俯瞰図:
(青色の城=龍造寺方。赤色の城=有馬・島津方。)
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「龍造寺は軍中に十五人もしくは十八人の仏僧を誘い、自ら轎中に在りて、其周囲は兵を以て警衛せしめたり。此仏僧等の内に一人の高僧あり、蓋龍造寺は毎夜悪僧等と共に会話せると衆人の謂へるは此僧の事なるべし。逆将龍造寺は眼下に島原城を俯瞰する所の小山に至り、敵兵を注観すること暫時にして笑て曰く、吾が出陣したるは有馬薩摩の両軍が此に来りて、吾に大勝利を得せしめんが為めなるやと。」/『日本西教史 全』P.441


→ 「けだし龍造寺は、毎夜悪僧等と共に会話せると衆人の謂へる」という風評こそ、『日本西教史』のみで得られる収穫です。

この記述で考えると、龍造寺隆信は『北肥戦誌』はじめ俗説のイメージにあるような「女と酒と歌舞音曲で酒池肉林」ではなく、毎夜、仏僧たちと何事か密に語り合っていたようです。
隆信は幼少期、平家物語を愛読し暗唱できる程だったと『隆信公御年譜』に記され、彼自身も少年期は宝琳院の仏僧であり、成長してからは曹洞宗を手厚く庇護した仏教徒でした。


奇しくも沖田畷の決戦、3月24日は、壇ノ浦の戦いの日と同じ。

「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し・・」と仏僧が諳んじるのを聞きながら、決戦前夜の寺中城(三会城)で隆信公は、悠然と杯を傾けたのかもしれません。

兵数も物量も敵を凌駕している。ここは一気に森岳を抜き、救援を待っている深江城の解放を目指し、更に日之江城まで落とす。有馬島津軍を破り、窮地に陥った味方を解放し、肥前における権威・有馬家の本城まで落とせば、それこそ愈々「大名」としての外聞が立ちます。





★浜の城址の石碑と、東統禅先生。
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当時森岳には、今の様な「島原城」は無く、クラッセが書いている島原城とは、島原純豊らが籠る「浜の城」を指すと考えます。現在は平地になっていますが、当時は海に突き出た城だったとされます。



なお、東統禅先生は今年2020年中、小城郷土史研究会の機関誌『小城の歴史』および、葉隠研究会の機関誌『葉隠研究』にて、永禄6年の丹坂峠の戦い(有馬対龍造寺の決戦)についての玉稿を発表される予定です。一部内容をお知らせ頂き、素晴らしい研究成果である事が分かっています。発刊後、またお知らせします。




★寺中城址から森岳方面を望む。
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― レポート(12)へ続きます ―





posted by 主宰 at 02:47| 佐賀 ☀| Comment(0) | ■沖田畷の戦いについて再検討する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月21日

★『歴史群像』による「再検証 沖田畷合戦」/ 沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート(10)



★レポート9は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/464254761.html

久しぶりのレポート更新を兼ねまして・・・



★学研プラス『歴史群像』No.160(2020.4月号)

「”肥前の熊” 龍造寺隆信(後編) 再検証 沖田畷合戦」

中西豪先生の最新稿、出ました!

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「龍造寺隆信研究の最前線」とも言うべき、もの凄い情報量です。

龍造寺隆信関連の記事では、他の追従を許さないクオリティーだと思います。



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中西先生の『史伝 鍋島直茂』(2002年)は名著として知られていますが、その内容をベースとしつつ、多くの新知見が盛り込まれている印象です。

沖田畷合戦の検証は詳細で、従来、他の雑誌や概説書を買えば「島津軍の釣り野伏に掛かり / 泥田にはまり 」と一辺倒の所、今回の記事では、多くの疑義が通説に潜んでいる旨を指摘されています。

イエズス会の関与について詳しく言及されている点も、新鮮です。


先年宮帯出版社から発行された『戦国の肥前と龍造寺隆信』(川副義敦先生著、2018年)は、内容としては絶版で入手困難になっていた佐賀新聞社刊『五州二島の太守 龍造寺隆信』(川副博著・川副義敦考訂 2006年)の再版という意味合いが大きく、まさに「鉄板の一冊」の有難い発行でした。

それと併せて、佐賀藩の編纂史料に基づく従来説を「多角的に」検討された中西先生の『歴史群像』龍造寺隆信・前後編は、必読の著作。

全国で広く読まれることを願います。


なお、補考として、『ルイス・フロイス』五野井隆史著、吉川弘文館(2020.2月)P.208〜209によれば、フロイスは沖田畷合戦当時、南島原の口之津周辺に居ました。沖田畷合戦の決戦地・森岳から口之津までは、島原半島東側の海沿いに34キロ程。龍造寺軍が勝利した場合の南下ルート上にフロイスは滞在しており、住民の避難所として教会の周りに防御柵設置を指示するなど、戦々兢々としていたそうです。(『完訳フロイス日本史 10』P.273~275)

比較的、決戦地に近い所で情報収集をしていたと言えるフロイスは、情報収集の精度も或る程度高かったものと想像できます。何故なら、この戦争に巻き込まれ、身の危険に晒されていた当事者でもあるからです。


★位置関係見取図:

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本ブログ:「★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート@〜H」(http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html)でも連々考察してきましたが、フロイス日本史は、所々『上井覚兼日記』とも内容が一致します。フロイス日本史は、沖田畷の戦いの事については、やはりある程度信憑性が高いのではないかと考えます。




↓以下、AMAZONで購入できます。


★必携 『歴史群像』2019.10月号(学研プラス)「“肥前の熊” 龍造寺隆信」【前編】(中西豪) 国衆から肥前の覇者へ





★必携 『歴史群像』2020.3月号(学研プラス)「“肥前の熊” 龍造寺隆信」【後編】 (中西豪) 再検証 沖田畷合戦 − 一代で成り上がった梟雄の最期 −








龍造寺隆信を知るなら、まずは川副先生の龍造寺隆信本と、中西先生の『歴史群像』龍造寺隆信・前後編が良いです。

『戦国の肥前と龍造寺隆信』(川副義敦、宮帯出版社 発行 2018年)






既読の方は、『佐賀大学地域学歴史文化研究センター 研究紀要 第14号』(2019年9月)「『藤龍家譜』所収文書について」中村知裕先生著を、ぜひお読みください。『佐賀県史料集成』に収録されていない一次史料群が、新紹介されています。吉田清内の妖しげな起請文も、佐賀戦国研究会内で物議を醸しておりました。




佐賀戦国研究会 




― レポート11へ続きます―






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