2016年09月06日

★水野伍貴先生による「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」考察


高橋陽介さんの伝手で、『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』(日本史史料研究会研究選書10、平成28年5/20発行)著者、水野伍貴先生に「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」への御考察を頂きました。

★『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』は、こちらの日本史史料研究会様HPから通販ができます:http://www13.plala.or.jp/t-ikoma/page032.html 

皆様ぜひ読まれて下さい!

写真 2016-09-05 3 10 20.jpg

それでは、水野先生の考察を共有します。

まず例によって書状原文を記載します。

――――――――――――――――

【八月十日付 黒田如水宛 鍋島直茂書状 原文】

★『佐賀県史料集成古文書編 第21巻(佐賀県立図書館・昭和55年10/1発行)』P.195
(頭注に『伏見落城ノ報』 『直茂上東延期』とあり。)

『川崎氏所蔵文書』一号

八月十日付 黒田如水宛 鍋島直茂書状


従上方到来候、ふしミ城去朔日、火矢にて被焼付、手々に取くつし、城中之衆皆々被相果候由申来候、貴邊へも其聞へ可有御座候へ共申入候、此方手前之仕寄無心元存、又ハ増右・長大・安国寺よりいそき可罷上通、連々預御状候へ共、于今延引、不審之様二承候間、罷上候ハて不叶儀と存、今日こゝもと罷たち候處二、我等もの右之落去見申候て罷下、夜中二参着申候二付て、罷上儀先以さしのへ申候、相易儀共候者、御入魂可忝候、恐惶謹言、
      鍋加守
 八月十日  直茂 (花押)
 如水様
   人々御中  』

――――――――――――――――


「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」について




背景として、鍋島軍を率いる勝茂は消極的ながらも西軍に参加し、鍋島氏は西軍の立場にあります。
一方で黒田氏ですが、黒田長政は会津征討に従軍中であり、また、如水は九州で松井康之や清正とネットワークを構築しているように東軍の代表的な大名といえます。

書状の冒頭で、伏見城の落城について報じています。「貴辺へも其聞へ可有御座候へ共申入候」と前置きしてはいるものの、伏見城を攻めている西軍側から入ってくる正確な情報として、(自身の価値を)売り込んでいるように感じられます。

増田らの度重なる上坂の催促が来ていながらも、応じることなく、「不審之様ニ承候間、罷上候ハて不叶儀と存」と言っていながらも、伏見城落城を口実に今回も上坂を延引しております。なお、西軍が秀頼を奉じたことは、東軍側の諸将ですら軽視できるものでは ありませんでした。(例:越後堀氏、杵築城代松井氏など)

形式的に(西軍を)認める態度をとるが、いずれ家康が盛り返すという見通しから、西軍の要求は無視をするというのが東軍諸将のスタンスです。何度も西軍に上坂を催促されながらも応じていない直茂の行動はそれに通じるものがあり、直茂は西軍の上坂要請を応じていないことを如水にアピールしているように感じられます。

東軍の代表的な大名である黒田氏に、上方の戦況を報じたり、 上坂要請に応じていないことを伝えていることから、如水の構築した九州のネットワークに加わりたいという意図が直茂にあったのではないだろうかと感じられます。     』


以上です。
水野先生、御多忙の所有難うございました!

レポートは続きます。





posted by 主宰 at 00:44| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月03日

「関ヶ原の戦いと黒田如水」高橋陽介氏【H28.8/21佐賀・補足有レジュメ・資料】



先日8月21の高橋陽介氏の研究発表レジュメと史料、質疑応答内容、
及び後日追加の補足です。高橋氏がまとめられた内容を、許可を得て全体共有します。

なお、高橋家のブログ:「一次史料と関ヶ原合戦と高橋家の日々」http://takahasiyo.blog.fc2.com/
によりますと9/1付、以下の告知がありました。

★『高橋陽介著『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を明日より、浜松市のアマノ書店高丘店でのみ販売させていただくことにあいなりました!売れ行きが良ければ、お問い合わせがあれば、アマノ書店の他の支店でもお取り扱いしてもらえるとのこと。』

おめでとうございます^^ 引き続き通販もされていると思いますので、興味のある方はブログで詳細ご確認下さい。Twitter上でもひとしきり話題になった本です。

では、高橋氏レジュメ紹介です。

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「関ヶ原の戦いと黒田如水」

佐賀戦国勉強会 2016年8月21日 
於 佐賀市市民活動プラザ 報告者 高橋陽介


@「慶長五年八月一日付吉川広家宛黒田如水書状」の従来の解釈

(従来の解釈):「黒田如水はこの時点では西軍寄りの立場をとる。毛利輝元に、九州・四国の人質を確保して奉行衆に対する主導権を握るようアドバイスした。」 →【史料1】【史料2】


A「慶長五年八月四日付吉川広家宛黒田如水書状」の従来の解釈

(従来の解釈):「黒田如水は、息子・黒田長政とともに吉川広家を東軍へ寝返らせるべく説得した。またその過程で、黒田如水は今回のことが合戦にならないとの見解を示した。」 →【史料3】【史料4】


B上方における直前の状況と吉川広家の動向

7月13日、吉川広家は安国寺恵瓊から西軍決起の企てを聞き、すぐさま家康にそのことを通報しました。この時点では榊原康政が取次をしています。 →【史料5】

7月16日、奉行衆は諸大名の人質を確保。細川忠興室は自害。 →【史料6】【史料7】

7月17日、毛利輝元が大坂城西の丸に入城。同日、九州・四国の諸大名には、増田長盛・長束正家・前田徳善連署「内府ちかひの条々」とともに、毛利輝元・毛利秀元連署の出陣指令が下されました。 →【史料8】【史料9】【史料10】

8月、吉川広家は徳川家康と頻繁に連絡を取り合っています。この時点では黒田長政が取次をしています。 →【史料11】【史料12】【史料13】


書状を見るかぎり、黒田長政は取次をしているだけです。黒田長政が吉川広家を東軍に寝返らせるべく説得したというのは、『黒田家譜』の創作であると報告者は考えています。また報告者は、「吉川広家は関ヶ原本戦で決戦がはじまったら手出しをしないという密約を交わしていた」という説に否定的見解をしめしています。
書札礼について。吉川広家が宛名を徳川家康本人にして書状を書くことは有り得ません。これらの書状の宛名のみによって「黒田が吉川を説得した」とすることは出来ません。書状を見るかぎり、吉川広家はもともと徳川家康に異心を抱いていません。


C「八月一日付吉川広家宛黒田如水書状」の別解釈

報告者は黒田如水書状の従来の解釈(上記@、A)に違和感を感じます。本日の報告では、上記Bの前提条件をふまえて、「黒田如水はもともと東軍寄りの立場だった」という仮定で、同文書をあえて恣意的に読んでみます。 →【史料14】

「天下之儀、輝元様御異見被成候様にと奉行衆被申、大坂城御うつりなされ候事、目出度存候、
左候て、秀頼様へ別心存者あるましく候条、やかて目出度しつまり可申候、」

(仮説):黒田如水は奉行衆からの書状(「内府ちかひの条々」ヵ)を受け取って、すぐに毛利家中でいちばん話の通じる吉川広家に書状を送りました。この時点では吉川広家からの第一報はまだ黒田如水のもとには入っていません。黒田如水はこのときまだ吉川広家が西軍であるのか東軍であるのか分かっていません。黒田如水は吉川広家が内心おそらく東軍であると思いつつ探りをいれています。社交辞令に過ぎず、黒田如水が西軍であるのか東軍であるのかは分かりません。

「左様候て、九州・四国衆人しち、てるもと様御あつかり候やうに被仰上、可然存候、
九州にても鍋賀州・賀主・羽左近・毛壱・嶋津此衆専存候、
甲州人しちハ、貴所様・てるもと様より御あつかり候やうに御才覚給へく候、
左候て、何様にも御馳走可申候、人しち、奉行衆候へは、てるもと様御馳走不成事候条、其御分別専一候、 」

(仮説):西軍の決起を知った黒田如水が最初に心配したであろうことは、「自家の保全」と「人質の安否」です。「秀頼様の御事」は正直どうでもよく、「混乱に乗じて天下」はまったく考えていません。この部分は毛利輝元に人質を確保して奉行衆に対する主導権をとるようにアドバイスしているのではなく、人質をとにかく奉行衆には渡さないで欲しいという内容です。

「内府公上国ハ必定あるへきと存候、
左様時ハ、又貴所様御きもいりニて、てるもとさま御事、相澄可申候、とかく此節御分別専用候、
扨々不慮之事共如何に御成行可申候や、其表様子具被仰聞、一人御下候へかしと存候、
左候て、我等心中も貴所様へハ不残可申上候、かしく、 」


(仮説):黒田如水は徳川家康の西上と、西軍の敗北を予測し、仄めかしています。また、今回の一件が毛利輝元の暴走であることをうすうす察し、吉川広家にしっかりとサポートするようアドバイスしています。
この書状を書いた時点では、黒田如水は本心を書いていません。その本心は次の「八月四日吉川広家宛黒田如水書状」に見ることができます。


D「八月四日付吉川広家宛黒田如水書状」の別解釈


Cと同様に、「黒田如水はもともと東軍寄りの立場だった」という仮定で解釈します。 →【史料15】


「去月廿三日御状、昨日拝見申候、」

(仮説):吉川広家は七月二十三日、徳川家康にたいしてのものと同内容の状況説明(「今回の一件は石田・大谷と安国寺が勝手に行ったものであり、輝元は家康に対し異心なし。輝元は乗せられただけ。輝元は状況が分かっていない。」)を、黒田如水にも送ったと仮定します。

「一、天下成行不及是非候、かやうあるへきとつねつね分別仕候間、おとろき不申候、」
「一、豊前儀、少御気遣いなされましく候、加藤主計申談候間、いつれより仕懸候ハヽ、一かせんにて可相澄候、」


(仮説):黒田如水は徳川家康の政治に反感をもつ勢力の蜂起を事前に予測していました。熊本の加藤清正とは事前に連絡をとりあっていたと推測されます。また、慶長五年二月に木付六万石を領した長岡家の家老松井康之・有吉立行らとも事前に連絡をとりあっていたと推測されます。ただし、長岡幽斎は今回のことをまったく予想だにしていなかったと言っていて、興味深いです。 →【史料16】

(根拠史料、七月二十一日付長岡忠興書状(松井3−431号)、白峰2011、水野2016 )
(二木謙一氏使用のテキストは「和泉より進まれ候て」としています。)
(「黒田如水は事前に予測していた」に関して、『黒田家譜』を使った論考は必要ないと考えています。)

「一、今度弓矢成立申ましきと存候、残多候、又、弓矢御なれ候衆、貴殿まてさし申し候、」


(仮説):黒田如水は「合戦が起こらない」と言っているのではありません。「合戦にすらならない」、つまり「合戦になれば徳川家康が勝つに決まっている」と暗に言っているのです。これはこの時点での吉川広家の認識(安国寺恵瓊を説得しようとした際の)と一致します。(吉川2−916号、吉川2−917号)
九月十五日の戦いで黒田如水の予想は的中し、それを目の当たりにした吉川広家は「もはやまったく合戦にすらなりませんでした」と言っています。同じ言い回しです。 →【史料17】
合戦で活躍できないことを「とても残念だ」という言い回しは、「十月四日付吉川広家宛黒田如水書状」、「九月二十八日付 松井康之・有吉立行宛 加藤清正書状」に見られます。余談ですが「左候て(=然而)」「左候ヘハ(=然者)」という黒田如水独特の言い回しは、この時期の吉川広家書状にも散見されます。 →【史料17】【史料18】【史料19】


「一、日本何様替候共、貴殿・我等半替申ましく候条、其御心得候へく候、尚追々可申入候、恐惶謹言、」

(仮説):この条目は字義どおりに取ってよいと思います。「十月四日付吉川広家宛黒田如水書状」によれば、戦後処理で黒田如水は毛利家の存続のために粉骨しています。その後も黒田如水が吉川広家に恨まれていた様子はありません。

E従来説の根拠となる先入観の由来について(「黒田長政遺言状」偽文書説)

以上D、Eの解釈はあくまでも「黒田如水はもともと東軍寄りの立場だった」という前提条件での仮説です。あらためて読み返すと、やはり黒田如水は「西軍寄り」とも「東軍寄り」とも解釈しうる、巧妙な書き方をしていることが分かります。


くりかえしになりますが報告者の見解は、「黒田如水・長政父子が吉川広家を寝返らせた」説、「黒田如水は混乱に乗じて天下をねらっていた」説に否定的です。
たとえば「十月四日付吉川広家宛黒田如水書状」の第五条のみを抜粋し、軍記物等の先入観にしたがって読むと、黒田如水は「九州の勢力を統一し、その軍勢をもって上方で徳川家康・石田三成の勝った方と一合戦をして、天下をとろうとしていたのに残念だ」と間違った解釈をしてしまいます。しかし前後の文脈を合わせれば、黒田如水は徳川家康と連絡を取り合って、豊臣政権下の一領主として合戦に参加しようとしていると読めます。 →【史料19】


これら間違った先入観の根拠になっているのは、『黒田家譜』と「黒田長政遺言状」であると報告者は考えています。とくに後者に関しては、山本真功氏『家訓集』(p.171-172)、渡邊大門氏『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』(p.195-199)、『戦国史が面白くなる「戦国武将」の秘密』(p.58-60)が正文であることを前提とし、黒田如水の構想に関する考察を加えられていますが、これは後世の偽文書である可能性を考慮して再検証されるべきであると考えます。

※【9/3 高橋氏 一文を補記】:『山本眞功氏も渡邊大門氏も、遺言状の内容がすべて正しいとは仰っていません。』

報告者は「黒田長政遺言状」は、『黒田家譜』をもとに後世に創作された偽文書であると考えています。同文書は黒田騒動に関する予測し得ない情報が含まれており、関ヶ原合戦に関する記述は江戸時代に成立した軍記物の影響を色濃く受けているからです。その内容は一次史料から知りえる事実と大きく反しています。 →【史料20】


<参考文献>

『軍師 官兵衛』(NHK、NHKプロモーション、2014)
『忘却の日本史 九州編 第五号』(ドリームキングダム、2016)
白峰旬「慶長5年7月〜同年9月における石田・毛利連合政権の形成について」(『別府大学紀要』第52号、2011)
白峰旬「慶長5年の九州における黒田如水・加藤清正の軍事行動(攻城戦と城受け取り)について」(『史学論争』第41号、2011)
二木謙一『戦国武将の手紙』(角川ソフィア文庫、2013)
水野伍貴『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』(日本史史料研究会、2016)
山本真功『家訓集』(東洋文庫、2001)
渡邊大門『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』(角川選書、2013)
渡邊大門『戦国史が面白くなる「戦国武将」の秘密』(洋泉社、2015)   』

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【添付史料】


【史料1】二〇一四年大河ドラマ特別展『軍師官兵衛』(2014)より抜粋

「官兵衛はこの段階では、輝元が西軍の総帥として石田方に擁立されたとの認識がなかった。輝元が豊臣秀頼を補佐することで不穏な動きが静まることを期待している。官兵衛は輝元が奉行衆を押さえ主導権を握るためには、九州・四国の諸大名の人質を輝元が確保するよう助言した。」 


【史料2】渡邊大門氏『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』(角川選書、2013)より抜粋 p.120-121

「長政が家康に忠誠を誓う反面で、長政の父である官兵衛は、八月一日付で広家に一通の書状を送っている。それはある意味で極めてショッキングな内容のものである。」

「官兵衛は輝元に対して、四国・九州の諸大名から人質を徴集するように、広家を通して提案を行っている。そして九州の鍋島直茂、加藤清正、立花宗茂、毛利吉成、島津義弘が予同するとの見解を示している。やがて、家康が西上することは明らかなので、広家が輝元を全力でサポートするように伝えている。このように見ると、官兵衛は広家を通して西軍に与した毛利輝元と連絡を取り合っていることが明らかである。いささか複雑な事情になっていたことが理解されよう。」 


【史料3】二木謙一氏『戦国武将の手紙』(角川ソフィア文庫、2013)より抜粋 p.245-250

「こうした中にあって、いささかのためらいもみせず、むしろわが家興隆のチャンス到来とばかりにドライな行動をとった男がいる。それは黒田如水であった。」

「父子ともども毛利の武将吉川広家と連絡をとり、西軍の雄毛利の軍勢を封じ込める大役をやってのけた。」

「今度はおそらく合戦にはならないでしょう。残念な気もする。」

「如水はそれから数年後の慶長九年の三月二十日、五十九歳で死んだが、その死後も、この手紙を与えて偽りの友情を誓った広家からは憎まれつづけたことであろう。」


【史料4】渡邊大門氏『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』(角川選書、2013)より抜粋 p.121

「一つは天下の成り行きが混沌としているので、常に心構えをして、驚かないように助言していおり、また、広家が長政に心遣いをしていることに感謝している。官兵衛の領国の豊前については、加藤清正と連絡を取り合っているので、万が一のときは対応できるとしている。一方で、官兵衛は今度のことが合戦にならないと見解を提示しつつも、弓矢に熟達した者を広家に遣わすとしている。」


【史料5】「七月十四日付 榊原康政宛 吉川広家書状」

「去五日雲州罷立、至播州明石罷着候処、安国寺於江州、石治少・大刑少手前、見及子細候哉、大坂罷帰候て、我等事も可相控由に申候條、昨日罷着候、然は右御両所御企承、驚入存候、殊更安国寺自輝元被呼帰候様申越候段、無是非次第に候、於輝元は前後存間敷候、不審に存計候、爰許之様子留守居之者、至広島申遣候、頓而可有到来候間、追々可申上候、此由御心得所仰候、恐惶謹言、
七月十四日 吉川蔵人広家
榊原式部大輔殿 御宿所  」


【史料6】「八月一日付 真田昌幸・真田信幸・真田信繁宛 石田三成書状」(『古今消息集』)より抜粋

「長岡越中妻子は、可被召置候由、申候処に、留守居之者聞違、生害仕候と存、指殺、大坂之家に火をかけ、相果候事、」


【史料7】『言経卿記』 慶長五年七月十七日条より抜粋

「一、大坂ニテ長岡越中守女房衆自害、同ムスコ(十二才)・同イモト(六才)等母切殺サシ殺也云々、私宅火ヲ懸了、小笠原―・荒川―等カイシヤク、則腹ヲ切也云々、越中守ハ関東ニ有云々、昨夜也云々、」


【史料8】「内府ちかひの条々」(『中川家文書』)より抜粋

「急度申入候、今度景勝発向之儀、内府公上巻之誓紙並被背太閤様置目、 秀頼様被見捨出馬候間、各申談及鉾楯候、内府公御違之条々別紙に相見候、此旨尤と思召、大閤様不被相忘御恩賞候はゝ秀頼様へ可有御忠節候、恐々謹言、
七月十七日 長大正家 増右長盛 徳善玄以 
中川修理殿 御宿所」


【史料9】参考「日付不明 立花宗茂宛 加藤清正書状」(『浅川伝右衛門聞書』)より抜粋

「今度之御出勢、本より逆徒一味にては無之、只若君様御意と申、秀元之催促に付而之様に候間、難黙止思召御上洛、尤に候、」


【史料10】「七月二十六日付 中川秀成宛 長束正家・増田長盛・前田徳善院連署状」(中川家文書)

(略)


【史料11】「八月八日付 黒田長政宛 徳川家康書状」(吉川家文書)

「従吉川殿之書状、具合被見候、御断之段一々令得其意候、輝元、如兄弟申合候間、不審に存候之処、無存知儀共之由承、致満足候、此節候間、能様に被仰遣尤候、恐惶謹言、
八月八日 家康
黒田甲斐守殿  」


【史料12】「八月十七日付 吉川広家宛 黒田長政書状」(吉川家文書)

(略)


【史料13】「八月二十五日付 吉川広家宛 黒田長政書状」

「猶以、内府も早駿河府中迄出馬之由夜前申来候以上
先書に申入候、相届候哉、兎角輝元御家、相続申候様に御分別、尤候、御返事に、委可被仰越候、恐惶謹言、
八月廿五日 黒田甲斐守長政
羽蔵様 参ル人々御中  」


【史料14】「八月一日付 吉川広家宛 黒田如水書状」(吉川家文書)

「天下之儀、輝元様御異見被成候様にと奉行衆被申、大坂城御うつりなされ候事、目出度存候、左候て、秀頼様へ別心存者あるましく候条、やかて目出度しつまり可申候、左様候て、九州・四国衆人しち、てるもと様御あつかり候やうに被仰上、可然存候、九州にても鍋賀州・賀主・羽左近・毛壱・嶋津此衆専存候、甲州人しちハ、貴所様・てるもと様より御あつかり候やうに御才覚給へく候、 左候て、何様にも御馳走可申候、人しち、奉行衆候へは、てるもと様御馳走不成事候条、其御分別専一候、内府公上国ハ必定あるへきと存候、左様時ハ、又貴所様御きもいりニて、てるもとさま御事、相澄可申候、とかく此節御分別専用候、扨々不慮之事共如何に御成行可申候や、其表様子具被仰聞、一人御下候へかしと存候、左候て、我等心中も貴所様へハ不残可申上候、かしく、
(八月一日 ジヨスイ)
(ヒロイエ様 人々御中) 」


【史料15】「八月四日付 吉川広家宛 黒田如水書状」(吉川家文書)

「 尚々、たしかなる人御越候へと御留守中申遣候間、御参次第追々申入候、
去月廿三日御状、昨日拝見申候、
一、天下成行不及是非候、かやうあるへきとつねつね分別仕候間、おとろき不申候、
一、甲州事、御気遣なされ候よし、忝存候、
一、豊前儀、少御気遣いなされましく候、加藤主計申談候間、いつれより仕懸候ハヽ、一かせんにて可相澄候、
一、京之使、書状進之候、可相着候、
一、今度弓矢成立申ましきと存候、残多候、又、弓矢御なれ候衆、貴殿まてさし申し候、
一、口上ニて申候間、不委候、
一、日本何様替候共、貴殿・我等半替申ましく候条、其御心得候へく候、尚追々可申入候、恐惶謹言、
八月四日 黒田官兵衛如水
広家様 貴報 」


【史料16】「九月二日付 長岡幽斎書状」より抜粋
「世上之事、不慮共不存、今更申段も事旧候へ共、信長御代、太閤様御時、似相之致忠節候、至近年御懇之事、既奉対秀頼様、何以可致疎略候哉、今度越中関東出陣之段、内府世間為御後見之条、是又奉公ニ罷出候処、案外体ニ候、」

【史料17】「九月十七日付 吉川広家書状案」(吉川家文書)より抜粋
「さ候へは御弓鉄御味方と〆被出候■衆■■衆は、多分心合之様子と相聞え申候、其地被罷居候衆も、使者付置候はぬ衆は、多も無之由候、一つとしてはや御弓矢勝手可成立ふり無御座候、」


【史料18】「九月二十八日付 松井康之・有吉立行宛 加藤清正書状」(松井家文書)より抜粋
「已上、従如水幸便ニ付而、御状本望候、濃州面之儀、心ちよき仕合、併少残多存候、其辺御手間不入爰かしこ隙を被明、御羨布候、此方ハ少手間入候ハんと存事にて、是へ押寄候、」


【史料19】「十月四日付 吉川広家宛 黒田如水書状」(吉川家文書)より抜粋
「一、上方於美濃口御取相、当月迄も御座候者、中国へ切上、花々と、見知返し候間、一合戦可仕と存候ニ、はやく内府御勝手ニ罷成、残多候、」


【史料20】「黒田長政遺言写」(黒田家文書)


遺言覚
一、我等死期可為不日候、生死ハ覚悟之前ニ候へハ、今更改而可申置事なし、右衛門佐若ケレトモ、各家老共堅固ニ相従候ヘハ、国之政又ハ武者事有之共、心かゝりなし、但我等か子孫末々ニ於テ如何様之悪人又ハうつけ者出来シ、如水・某か大功を無ニなすへきもはかりかたし、後代之事ヲ気遣思ふ也、依之一ツノ遺言あり、何も能々聞置、各か子孫ニも申伝へし、
若後代我等之子孫何そ不慮之無調法悪事在之、黒田家之一大事此時ナリト存事あらは、其節天下之老中内所縁有衆へ此方家老共参候而可申ハ、
々抑御当家天下を御シキ被成候ハ 家康公御武徳故とハ申なから、偏ニ如水・長政か忠功を以御心安天下之主とハ成せ給ふ者也、其子細ハ去ル石田か乱之時、如水ハ九国ヲ切したかへ、某ハ関東へ御供申、関ヶ原御一戦前、関東より先立テ美濃国へ馳せ上り、加藤・福嶋・浅野・藤堂等を申合、武ヲ張申故、其イキヲイニ恐テ、石田方川を越働候事不成候、尤合渡を一番ニ渡シ、敵を切崩シ、関東御一戦之日ハ粉骨を尽し、石田か本陣ヲ追立候、然共此等ハ不珍事ニ候、
第一某智謀ヲ以、毛利家幷金吾中納言御方と成候、是ニ付其外御方仕者多成候、此節先立美濃路江馳せ上り候輩多ハ大閤御取立之大名共なれハ、此時我等心を変シかくとすゝめ候ハ、、福嶋・加藤・浅野・藤堂を始、何茂悦イサミ、則日大坂方と可成事案ノ内也、右之者共上方勢ニ加り、嶋津・我等先手としで打出るものなら者、其外之東国勢一戦ニ不及敗北は眼前也、其上大略大坂方と成へし、是を聞者、国々ニテ日和を見たる大名・小名悉大坂方ニ参へし、サレハ 家康公も我々心中を御気遣故、百里ニ余たる大敵ニ先手計ヲ被遣、其後各無二心働御見届候而こそ御出馬候也、
然者右之通某諸大名をすゝめ、嶋津・福嶋・加藤・浅野・浮田等を先として押而下候ハ、関東方より誰か此者共ニ出向、快一戦ヲとけんや、 家康公弓矢之御長者と申共、御自身先手被成より外ハあるまし、万一右之大名共猶も関東方仕共、我等上方勢ニ加り夕ラハ、毛利家も金吾中納言其外之者共も安堵候而、無二大坂方可仕候、
嶋津・某・浮田等諸勢を働シ、先手として打出ハ、岐阜之城せめハさて置、誰か一人も美濃路ニ足をタムへキ、這々関東へ引取候か、上之仕合なるへし、是等をたやすく追立ハ、諸国之大坂方日々蜂起すへし、サアラハ 家康公箱根より西へ御出馬ハ思よらす、
扨又西国ニ而如水ト加藤肥後守申合ハ、清正ハ無二之大坂方ナレハ、同心云ニ不及、已ニ豊後立石ニ而如水大友と合戦之時、肥後より大勢大友加勢として差越候へとも、参着已前義統ヲ生捕シ故、肥後之者とも不及力、如水へ之加勢ニ参候由使を立候へとも、如水合点ニ而追返シ被申候事、各存たる事ニ候、サレハ如水大坂方と申遣サハ、清正悦一味申へシ、
其外九州大名島津・鍋島・立花等ニ至迄皆大坂方ナレハ、西国一同し、如水・清正押上ラハ、中国所々之軍勢相加り、
凡十万騎ニ可及、上方之大勢江此大軍一ニ成 家康公一人ト戦シ事ハ、タトヘハ玉子ノ中ニ大石をナケウツカ如クナラン、
若万一 家康公御良将ナレハ、三河・遠江へ早ク御打出、不思義ニも我々一戦仕マケタリトモ、同勢之大名共志を変すましけれハ、中々関ヶ原敗北之躰ニきたなき負ハすまし、仕損タリトモ江州辺へ引取所々城を堅クシ、嶋津を大坂ニ篭、我等ト浮田伏見ニ相サヽヘ、 家康公待申ニヲイテハ、関東勢せたより此方へつら出し成間敷候、
嶋津を始歴々大坂ニ在之、我等伏見城ニ居、扨又西国より如水・清正大軍ニテ後詰せハ、日本ハ扨置、仮令異国之孔明・太公・項羽・韓信カ来リ向フトモ、我陣ニ対シテ勝利を得ン事思もよらす、我朝近代の武将信長・信玄・謙信等ヲ 家康公ニ加へタリトモ、漸無事ニ而関東へ被引取候か十分ならんか、然ハ 家康公之御浮沈危キ所ニあらすや、
此等ハ皆あるましき事ナレトモ、万一如此ニ我等二心ノ時ハ、如此之次第ナル事を各ニも語聞せテ、サテハ如水我等之忠義大功ナルヨト合点サセ置度思ふ故、かくハ語聞スル也、武ニ於テ偽なし、更ニ広言ニあらす、其時を見聞候者ハ、うたかひなき事共各も存候通也、爰を以 家康公之天下を知給ふハ、我々を初武勇ホマレノ大名共五三人御方仕夕ル故トハ云ナカラ、ツヽマル所ハ、如水・某二人か力ニアラスヤ、ケニモ関ヶ原御勝利之上 家康公某か手を御取、今度之御利運偏長政カ忠義故也ト上意有しも是なり、豊前六郡を転し筑前国を賜候ハ、誠ニ大分之御加恩なれとも、右之大功ニくらふれハ、相当之御恩とハ言かたかるへし、
然者後代我等か子孫末々ニ至大ナルあやまり、国家之大事ニ及候とも、此大功ヲ思召サハ、上ニ対逆心をさへ企不申ハ、
其外之儀ハ御免許を蒙、筑前一団之安堵ハ相違あるましきと存ル也、右之趣我等申置タル由詳ニ可申述也、扨又筑前拝領之前、四国筋ニて両国も可被下哉、又筑前ニ而一国可被下哉、筑前ハ古来探題所ニ而各別之国ナレハ、
我等ヲ被差置度思召候故、内存御尋候由、本中書を以被仰聞候、我等申上候ハ両国ハ可奉望事ニ候へとも、如此天下平均ニ罷成候間、日本国中ニ於テ 家康公ニ敵シ背キ申者有へからす、指たる御奉公可申時節アル間敷候、筑前ハ大唐之渡口ニて、殊探題所ニても候へハ、他国之両国ニも増申と存候、大唐之御先手と思召筑前を被下候ハヽ、本望可為由申上候へハ、尤ニ思召上意ニ相叶候由ニ而筑前国拝領被仰付、外ニ如水へ別段領地可被下候、如水可奉望由御内意被仰下候へとも、如水老躰聊領地之望無之、安楽ニ余命を終申度候由重々御断被申、拝領なし、
か様之御約束共天下之老中も後代ニハ不被存様ニ可成行と存申置也、扨又か様之事を無分別なる者ニ聞すれ者、
かならす公儀之御奉公をゆるかせニ仕事あるもの也、各家老共此旨心得候而、必我等子共ニハ申聞まし、但各か子孫之内銘々家ヲ継申者計ニ密ニ相伝へ可申者也、尤此儀国元之家老共へも具ニ可申聞候也、以上、
元和九年八月二日 長政御判
小河内蔵允との 栗山大膳との 」  』

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<質疑応答>(8/21佐賀 勉強会会場にて)


質問者 白峰氏 「黒田長政遺言状は後世の創作とお考えだが、後世とはいつ位の時代を想定されていますか?」 

報告者 高橋 「すくなくとも黒田騒動(寛永9(1632)年)よりは後だと思います。」  (…と答えましたが、『黒田家譜』の影響を受けているので、もっと後でした。さらに言えば、信玄・謙信が出てくるので『甲陽軍鑑』の影響、諸葛孔明が出てくるので『三国志演義』の影響も受けているようです。憶測になりますが、文化の成熟した江戸時代後期以降のものではないかと思います。)


質問者 有川氏 「吉川広家の立場というのをはっきりと語ってもらえればと思います。」

報告者 高橋 「広家は月山富田十四万石、四位侍従として公家成り、秀吉の直臣扱いです。秀吉が亡くなった時には形見分けに太刀を一腰拝領しています。関ヶ原本戦において実質的に毛利軍を指揮していたのは広家であると、報告者は考えています。」


質問者 有川氏 「広家がなぜ西軍について行ってるのか、毛利軍をどうしようとしていたのか、どこでどんな行動をしていたのか、あるいはどう止めようとしていたのか、その辺を言ってもらえると。」

報告者 高橋 「@七月十四日付榊原康政宛吉川広家書状、A八月八日付黒田長政宛徳川家康書状、B八月十七日付吉川広家宛黒田長政書状、C八月二十五日付吉川広家宛黒田長政書状、D九月十四日付起請文、E九月二十九日付起請文、F十月四日付吉川広家宛黒田如水書状、G十一月十八日付吉川広家宛黒田長政書状、以上8通の書状をみるかぎり、広家は一貫して毛利家、あるいは毛利輝元のために、徳川家康との和平工作をしています。」

報告者 高橋 「広家は「関ヶ原で決戦がはじまったら戦わずに見ている約束」などはしていません。それは関ヶ原で決戦があることを知っている後世の人間の創作です。」


報告者 高橋 「広家は「毛利家を乗っ取る約束で徳川に内通した」という九月二十日付近衛前久書状の内容は、上記8通の書状の内容とは異なります。」


質問者 白峰氏 「広家は、毛利家・徳川家の不戦工作ではなく、毛利家・徳川家の和睦工作をしていたと、そういう解釈をされているということで良いか?」

報告者 高橋 「当然異論はおありでしょうが、報告者はそのように考えています。」 
(…と質問者が白峰先生なのでそう答えましたが、白峰先生「関ヶ原の戦いにおける吉川広家『御和平』捏造のロジック」を未読の聴講の皆様には何のことか分からなかったかと思います。くわしくはあらためて別稿にて書きます。)

質問者 岡本氏(小城郷土史研究会) 「家康が長政に送った書状が、なぜ吉川家文書にあるのだろうか?」

報告者 高橋 「八月八日付黒田長政宛徳川家康書状」の現物は岩国市の吉川史料館にあります。この書状が吉川家にある理由は、憶測になりますが、八月十七日の広家宛書状で長政は「写しを渡す」と言っていますので、この時点ではまだ長政のもとにあることが分かります。おそらく事後になって、自分が嘘をついていない、広家を騙していない、ということの証明として長政が広家に渡したのではないかと思います。」


質問者 深川氏(佐賀戦国研究会) 「ネット上で話題を呼んだ、大谷勢が伊勢方面から来たという、高橋さんの著書中の解説。それを白峰先生が論文上で、漢字読み違いの指摘と共に否定されました。大谷勢は伊勢方面から来た事は間違いだったということで良いですか?」

報告者 高橋 「誤読に関しては白峰先生のご指摘のとおりです。ですが、だからといって大谷が北国から来たとはならないと思います。大谷が北国で前田を撤退させてから山中に入ったという説は一次史料で証明することが出来ません。むしろ、九月三日から大津、高宮、佐和山で不穏な動きがある東山道を避け、比較的安定している伊勢方面を経由して大垣に入ったとするほうが自然であると考えます。」


質問者 白峰氏 「長岡幽斎の書状の位置付けについて」

報告者 高橋 「公家三人に宛てたものですが、おそらく本当の宛先は奉行衆ではなく智仁親王(もと秀吉猶子、後陽成天皇の実弟、幽斎の歌学の弟子)であると思います。つまり、奉行衆に命乞いをしているのではなく、むしろ奉行衆の行動を暗に批判しているものであると考えています。」


追記

八月八日付黒田長政宛徳川家康書状は、『吉川家文書之二』、912号文書の後に添付されていますが、僕は『徳川家康文書の研究』から引用しました。   』


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レジュメ補足 (2016.8/24付)


・「八月一日付吉川広家宛黒田如水書状」と「八月四日付吉川広家宛黒田如水書状」はセット。どちらか片方だけ読んでも意味が分からない。

・吉川も小早川も自分の意志で東軍についた。それまでは仕方なく西軍にいただけ。

・黒田長政は取次をしただけ。長政が説得して寝返らせたわけではない。

・如水は吉川広家を騙そうとはしていない。広家は如水を恨んでいない。(二木氏の説を否定、根拠→「元和三年吉川如券示訓」)

・広家、毛利の不戦工作ではなく、徳川毛利間の和平工作をした。

・九州の諸領主は石田三成の西軍への参加を知らない可能性もある。如水はおそらく八月三日に知った。

・近年の研究動向をふまえると、石田三成は奉行の中で突出した存在ではない。利休切腹、秀次事件、朝鮮出兵の黒幕説はすべて後世の創作。武断派と文治派の対立、戦下手も。

・家康と三成の対立軸を一次史料で証明することは大変難しい。秀吉死去以前は没交渉。秀吉死後、急速に接近し、協調関係(朝鮮からの撤兵、前田征伐など)。

・如水は最初から東軍。「弓矢成り立ち申さず」は合戦が起きないと言っているのではなく、家康が勝に決まっていると言っている。「さてさて不慮のことども如何に」というのは、西軍の決起が失敗するであろうと示唆している。

・東軍なのか西軍なのかはっきり書かないのは、保身のためというより、この書状が西軍に渡ってしまった際、広家の立場が危うくなったり、広家の行動が規制されてしまったりすることを配慮してのことだろう。

・如水は同時期、鍋島直茂に対しては、自分は徳川家康一辺の覚悟であると言っている。鍋島直茂に対しては上記の(広家に対するような)配慮は必要なかったから。つまり、如水は最初から東軍。

・先行研究について@ 黒田長政遺言状の偽文書説については先行研究あり。

・先行研究についてA 『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』(水野伍貴氏、2016) p.114 「この書状の本題は、長政の正室について広家の配慮を求めること、輝元を対徳川闘争から手を引かせることの二つにあり、如水の東軍としての立場は鮮明である」 とされている。  』

以上

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★レポートは続きます。



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2016年08月29日

「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」に関する仮説【高橋陽介氏】




★白峰旬先生(http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html)と同時に、高橋陽介さんにも深い考察を頂きました。許可を得て全体共有致します。

先ずは書状の原文を掲載します。

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【八月十日付 黒田如水宛鍋島直茂書状 原文】

★『佐賀県史料集成古文書編 第21巻(佐賀県立図書館・昭和55年10/1発行)』P.195
(頭注に『伏見落城ノ報』 『直茂上東延期』とあり。)

『川崎氏所蔵文書』一号

八月十日付 黒田如水宛 鍋島直茂書状


従上方到来候、ふしミ城去朔日、火矢にて被焼付、手々に取くつし、城中之衆皆々被相果候由申来候、貴邊へも其聞へ可有御座候へ共申入候、此方手前之仕寄無心元存、又ハ増右・長大・安国寺よりいそき可罷上通、連々預御状候へ共、于今延引、不審之様二承候間、罷上候ハて不叶儀と存、今日こゝもと罷たち候處二、我等もの右之落去見申候て罷下、夜中二参着申候二付て、罷上儀先以さしのへ申候、相易儀共候者、御入魂可忝候、恐惶謹言、
      鍋加守
 八月十日  直茂 (花押)
 如水様
   人々御中  』

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「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」に関する仮説 【高橋陽介氏】2016年8月26日付


@ (先行研究)
野口朋隆氏、中西豪氏が「直茂が早々に徳川方加担を鮮明にしていた」「徳川方(東軍)として旗幟鮮明、また確固たる意志があった」の根拠とされている史料。
深川直也氏はこれに対し、「直茂は、如水と相談しあってるだけで、徳川方・奉行方という大枠の話ではない」とし、「直茂は東軍であった、は「言いよう・考えよう」のお話」と結論。(2016.08.22)
さらに白峰旬氏が「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」に対する見解を示されたとのこと。(2016.08.26)
そこで白峰氏の見解を読むまえに、自分の見解を述べる。まだ、憶測の部分が多い。


A (家譜、軍記の類を使わない)
『川角太閤記』、直茂が家康のために東海道の米を買い占めた話 → 使わない
『直茂公譜』『勝茂公譜』、勝茂が西軍についたと聞いて直茂が怒る話 → 使わない
その他、親子で東西に分かれて家名を存続しようとしたなどの俗説 → 使わない


B (黒田如水の立ち位置)
如水は最初から東軍。吉川広家宛書状にははっきりと書いていないが、それは上方にいる広家の立場を配慮してのことであり、九州にいる鍋島直茂、加藤清正らにははっきりと「内府一遍の覚悟である」と言っている。
前もって準備もしている。(根拠史料、七月二十一日付長岡忠興書状(松井3−431号))

つまり鍋島直茂は如水が東軍であることを知っていて、この書状を書いている。


C (鍋島直茂の立ち位置)
「八月一日付吉川広家宛黒田如水書状」で、如水は九州の諸大名の人質の安否について配慮する際、鍋島直茂の名を筆頭に挙げている。
「八月四日付吉川広家宛黒田如水書状」で、如水は加藤清正と軍事行動を起こすと言っているが、このとき直茂の名前は無い。
つまり如水は鍋島直茂が動けないという事情を分かっている。直茂は動かないのではなく、動けない。
なぜ動けないか? → 鍋島勝茂が西軍にいるから。(如水の場合は黒田長政が東軍にいるので動ける)


D (では、直茂はどうしたか?)
「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」、直茂は東軍につくとも西軍につくとも言っていない。言えない。
直茂は東軍につこうとしたか、西軍につこうとしたか、という二元論で考えてはいけない。直茂は「関わり合いになりたくなかった」のだ。
そもそも直茂は佐賀にいて、動く気はまったくない。奉行衆の催促に応じて上洛する気もない。
伏見が落城したことを理由に上洛をやめたと言っているのは、言い訳に過ぎない。伏見が落城したからもう自分が上洛する必要がないという釈明をおそらく奉行衆にもしているだろう。(→おそらく如水は直茂の真意を理解して行動した。)
森兵庫から援軍要請があったときには、「自分は行きたいのだが、主君・竜造寺政家の許可がおりないので行けない」。


E (九州において同様の事例はあるか?)
中川秀成は奉行衆からの催促により、人数を田辺攻めに参加させるも、本人は岡(豊後竹田)に留まる。
島津忠恒は島津義弘からの催促により、家康から拝領した太刀を差し出し、石田三成以外の奉行二人(増田長盛と長束正家か?)へ誓紙を差し出すも、人数は出さず、本人は鹿児島に留まる。


F (その他、この書状から分かること)
鍋島直茂は黒田如水と懇意にし、なにくわぬ顔で伏見城落城の情報を送った。
奉行衆は九州に人数を留めることを考えていない、とにかく九州の諸大名を上洛させようとしている。そこで如水は留守になった九州の諸大名の城を接収しようとした。
鍋島直茂が森兵庫へ送った書状をもって「直茂は西軍である」とはできないし、鍋島直茂が黒田如水へ送った書状をもって「直茂は東軍である」ともできない。鍋島直茂は基本、二枚舌外交。


G (結論)
一次史料のみで判断するかぎり、鍋島直茂は、東西両陣営に積極的に関わり合いになろうとはしていない。動く気はまったく無い。
最初から東軍で・・・というのは後世の作り話である可能性が高い。  』


※杵築→岡(豊後竹田)の件は、8/31修正。
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高橋氏談:
『@伏見落城により上洛する必要がなくなったとしている Aこの書状によってすぐに「直茂が東軍である」とはできない、の2点では白峰先生と一致しました。』



★【比較ご参照】(一次史料を中心に)

★白峰旬先生による、関ヶ原合戦当時の鍋島直茂と情勢考:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html

★深川による「時系列に見る、関ヶ原合戦前後の鍋島直茂」:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441449722.html

――――――――――――


レポートは続きます。




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