2016年09月10日

★慶長五年関ヶ原合戦時期における佐賀城外郭の防衛普請考 @


★慶長五年関ヶ原合戦時期における佐賀城外郭の防衛普請考 ―『瀧岸之新城』の推定位置―

【2016.9/10付 佐賀戦国研究会 深川 直也 研究ノート】



■参考資料:
(1):『戦国大名の古文書 西日本編』(柏書房 刊)平成25年12月10日初版 P.345
(2):『第20回 佐賀城下探訪会 八戸 −城下西の玄関口』ファイリング資料(発行:徴古館)平成25年11月17日付 P.12 P.30〜31
(3):『甦る佐賀城』高瀬 哲郎 氏 (平成23年11月26日 徴古館での講演会資料)
(4):『佐賀市歴史探訪 16 十間堀川』(発行:佐賀市)平成22年3月加筆修正分
(5):『五州二島の太守 龍造寺隆信』川副 博 著 川副 義敦 考訂(佐賀新聞社 刊)平成18年10月20日
(6):『風雲肥前戦国武将史』木原 武雄 著 (佐賀新聞社 刊)平成7年1月1日初版
(7):『佐賀県近世史料第一編第二巻』「勝茂公譜考補二」(佐賀県立図書館 発行)平成6年3月15日刊 P.233 下段
(8):『佐賀県近世史料第一編第一巻』「直茂公譜考補十」「公御遺言ノ覚書」(佐賀県立図書館 発行)平成5年1月27日刊 P.829〜830
(9):『佐賀県の地名』(刊行:平凡社)「日本歴史地名体系42」昭和55年3月10日初版 P.211 P.186 P.190
(10):『佐賀県史料集成 古文書編 第11巻』「坊所鍋島家文書」13号〜28号(佐賀県立図書館)昭和45年3月31日刊

(11):『北肥戦誌』(青潮社 刊)平成7年1月1日 刊 (馬渡俊継 著。江戸時代の軍記物)


【主旨】

一、『佐賀県史料集成 古文書編 第11巻』「坊所鍋島家文書」13号〜28号(主に慶長5年)上に度々記載される「蓮池城」の歴史的・軍事的重要性を再考する。

二、『佐賀県史料集成 古文書編 第11巻』「坊所鍋島家文書」19号は先行研究上、年次比定が慶長5年説と慶長12年以降説に二分している。上記参考資料(1)(2)を参照する限りでは慶長12年以降説の方が新しいと思われるが、先日の【2016.9/9付】『白峰旬先生による九州地方の関ヶ原合戦についての考察A』上、19号文書考察に関連して白峰先生より「慶長5年説も検討の余地がある」旨御示唆を頂き、再検討を試みる。

三、『佐賀県史料集成 古文書編 第11巻』「坊所鍋島家文書」19号上に見える「瀧岸之新城」の位置を推定・提案する。(※先行研究でこの点すでに指摘があれば、御教示お願い致します。)


―――――――――――――――

一、「蓮池城」の歴史的・軍事的重要性 (戦国時代〜慶長年間)

■元和4年5月28日付、鍋島直茂が最晩年に回想した佐賀城の危機。


『一 先年豊州衆姉さかひ原へ陣取候付、覚へとも候間、蓮池之儀兼而其格護(覚悟)可入事、一 河副津邊右同前之事、付、大田村へ伊勢仁王被官とも可召置事、』  参考資料(8):「公御遺言ノ覚書」より


防衛ライン.jpg

★添付図を作成。右上方面が姉地区、境原地区。今も地名が残る。参考資料(9)P.134によれば、境原の地名は、佐賀郡と神埼郡の境目にあたる原野であることに由来する。「先年」「豊州衆」は、有名な今山合戦を含む今山戦役(永禄12年〜元亀元年)の際に来襲した豊州衆、つまり大友宗麟の軍勢を指す。(この戦役以降、佐賀城から4キロ圏内に豊後の敵衆が布陣した記録を見ないため。)

■参考にお薦め:『今山合戦』解説動画、中西豪先生 (2016.サガテレビ春フェス内)→http://sagasengoku.seesaa.net/article/436089739.html

直茂は元和4年6月3日に没するので、亡くなる5日前にこの防衛の回想を遺言ノ覚書に残し、家中に「蓮池之儀」について今後の「覚悟」を求めている。かくごの「ご」の字に「護」が当てられているのも興味深い。この事から直茂は、姉・境原という場所のロケーションと、そこから直線で2キロ程南にある蓮池を非常に重視していた事が分かる。蓮池には「蓮池城」が以前から存在していた。

時代を遡ってみる。

元々蓮池は戦国時代、龍造寺氏の宿敵と言える小田氏の根拠地であり「小曲城」とも呼ばれる環濠集落型の平城(水城)が存在していた。以下、参考資料(9)P.190及び(11)『北肥戦誌』巻之十七によると『応永年間(1394-1428)小田直光の築城。』戦国期の小田資光(覚派)、小田政光、小田鎮光の代には佐賀郡・神埼郡・三潴郡に渡って6,000町を領する有力国衆であった。領域が隣接するため小田氏と龍造寺氏は長年度々抗争したが、永禄元年最終的に龍造寺隆信によって攻め落とされた。その後永禄10年、龍造寺隆信の弟、長信が蓮池城に置かれた(参考資料(5)+『神埼郡郷土誌』(大正4年初版を昭和49年に復刻刊行)「蓮池村」項)。

蓮池城獲得は、龍造寺隆信が有力国衆として東肥前に台頭する基盤となり、同時に佐賀城の前身である村中城・水ヶ江城を防衛するための東の要となる。蓮池城の歴代城主が、龍造寺長信、龍造寺家晴、鍋島直茂、江上家種(龍造寺隆信実子)ら家中の重鎮ばかりである事からもその重要性が察せられる。なおかつ時代によって天守も存在したとされ、参考資料(3)上、天正19年鍋島直茂は名護屋城の築城に際し蓮池城の天守を献上(分解して名護屋城普請に活用)したという。

★『海路』11号(海鳥社 刊)H25.4/20P発行 P.144『九州にとって「織豊」とは』木島孝之 氏著。
織豊系城郭の縄張りに対しての「在地系縄張りプラン」の一例、「群郭型プラン」の説明。
『佐賀城が築かれた佐賀平野は水郷地帯である。ここでは直鳥城・姉川城をはじめとして、水堀で囲まれた曲輪が幾つも並んだ”浮島の集合体”のような形態の戦国期城郭が多くみられる。このプランも群郭系プランの一種で、どの曲輪が中心なのか明確ではない。とりあえず、真ん中の曲輪を本丸とみるにしても、構造的には、どこが中心でも不思議ではないプランである。ここで、佐賀城の曲輪配置を模式図にしてみると、堀を持った方形居館が集まった「環濠屋敷群」の形をしており、戦国期佐賀平野水郷地帯の城郭型プランと同じ骨格であることが分かる。』

■参考:戦国期佐賀平野水郷地帯の城郭型プランとして代表的な遺構とされる「直鳥城」。


★戦国期の蓮池城も環濠集落型、在地系「群郭型プラン」の平城であったとされる。


・参考資料(11)巻之十八上、元亀元年の今山合戦前の頃は『(持口の手分けについて)南の船手をば蓮池の城にありける龍造寺兵庫頭長信に下知し、同名下総守信種を差副へらる。』とあるため、城主が長信だったと読める。また一連の記載から蓮池城では大友方と大きな攻防は無く、陥落はしていないと見える。ただしこの記述では意識が「南」に向いており、直茂の遺言ノ覚書の件も含めて考えると、今山戦役時に戸次鑑連や大友勢の主力が蓮池城の「北」2キロもの近距離に布陣した事、その脅威が大きなきっかけとなって、龍造寺氏は蓮池城の北面(姉・境原方面)への防御意識を強め、また城の普請や交通整備を進めたものかもしれない。

・『佐賀県史料集成古文書編 第11巻『坊所鍋島家文書』155号、慶長5年に比定されている7月16日鍋島生三宛鍋島勝茂書状で、勝茂は鍋島生三へ「下国して蓮池城の番を」命じている。この書状が「内府ちかひの条々」が発布される前日の日付である事とその内容の重要性を白峰旬先生が指摘(2016.8/29付)。→http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html

関ヶ原決戦への一連の騒乱が始まる慶長5年7月に、勝茂が国本の「蓮池城」番を生三に命じた意義を考察する時、前述の直茂の遺言ノ覚書の事を含め、やはり過去他国から敵が佐賀へ向って攻めて来たルートである姉・境原を押さえておくためにも、直茂・勝茂ともに「有事に備えては蓮池城の堅固な番が必須だ」という意識でいた事を指摘できると思う。引いてはそれは、佐賀城防衛のための必須の措置という事になる。有機的な防衛ラインとして注目すべきである。


(続く)


■H28.9/13付:
・小田氏時代の蓮池城解説を一部改編。
・参考資料(11)を追加。
・今山合戦時の蓮池城関連を追加。
■H28.9/17付
・『海路』11号(海鳥社 刊)P.144『九州にとって「織豊」とは』木島孝之 氏著の城郭解説紹介。
・直鳥城の動画紹介。






posted by 主宰 at 22:02| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2016.9/9付】白峰旬先生による九州地方の関ヶ原合戦についての考察 【1−2】




考察@:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441788590.html の続きです。


――――――――


★【2016.9/9付】白峰旬先生による、九州地方の関ヶ原合戦についての考察。A




【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)19号文書】

▼佐賀と蓮池の間の普請(道普請、堀普請、土塁普請などの可能性)について記す。「瀧岸之新城」について述べているので、元和一国一城令 (元和元年)より前であることは確実。鍋島直茂は普請を目立たないようにするよう指示しているが、その理由として「他方より批判」を危惧している。この場合、「他方」が主筋の龍造寺家なのか、他の大名なのか不明。「批判」には現代語の非難という意味のほかに「民衆の間に流れる噂」(『邦訳日葡辞書』) という意味があるので、その意味であれば「他方」=他の大名という意味になるか?


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)23号文書】

▼文中に、(佐賀城の)「三之丸屋造」について書かれており、直茂が内装の細かい指示をしているので、慶長5年ではないだろう。佐賀城の作事が進行した、もっと後の時代と思われる。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)24号文書】

▼直茂が鍋島生三に対して、「日田」(森兵庫)へ飛脚を申し付けて、「豊州表」のことを聞くように指示している。つまり、直茂は「日田」(森兵庫)を通して、豊後(黒田如水の動向?) の情報を取得しようとした。尚々書では、「塩硝」(=火薬) の調達を直茂が指示している。これは合戦の準備のためか? この書状は「廿四日」付であるが、状況から8月か? 8月とすれば、8月24日の時点でも直茂は家康方ではなかったことになる(この書状では家康については全く言及していない)。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)25号文書】

▼「日田」へ遣わした返事が来た、としている。これは24号文書で直茂が鍋島生三に指示して出した書状の返事という意味であろう。とすれば、この書状は「十七日」付であるが、状況から9月か?

▼文中では、黒田如水が軍事行動をおこして勝利した、と報じているので、この情報は「日田」(森兵庫) から取得した情報なのであろう。つまり、鍋島家の情報網では、豊後での黒田如水の動向は把握できなかったことを示している。

▼黒田如水の勝利をめでたいなどとは記していないので(つまり、直茂は喜んでいないので)・直茂は如水とは、この時点 (9月17日)で同じ立ち位置ではなかったことは確実。

▼文中で 「如水」と呼び捨てにしている点に注意すること。

▼この「日田」からの返書はまだ鍋島生三には、直茂から渡されていない、と書かれているので、鍋島生三はこの時は蓮池城にいたか? とすれば「其元普請」とは蓮池城普請のことになる。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)26号文書】

▼文中の「連々可申入候へ共、貴辺之儀者、内府一篇之御覚悟に侯間、無心疎、かさねて申入間敷候」というのは、かなりきつい言い方で、最後通牒のような感じで、家康に肩入れしている貴殿 (貴辺は貴殿と同じ意味)=如水へは今後、直茂からは書状を出しません、と述べている。「無心疎」は一字ずつ意味をとると、心を疎んじることなく、という意味になる。「間敷」は「まじく」で、打消しの推量(きっと〜ないだろう」、または、不可能の推量 (〜できそうにない)、または打消しの意志 (決して〜ないつもりである)。この場合は、打消しの意志(決して〜ないつもりである)であろう。文中の「可口口其御心得候」の「口口」には「被成」が入ると思われるので、そうなると、「そのように心得てくれ」と述べていることになり、これもかなりきつい言い方になる。つまり、9月10日の時点で、直茂は家康方の如水と決別した、と読み取れる。尚々書で「申度事候へ共、紙面ニ不克述候」というのは、述べたいことがあるが紙面には書けない、としている。「不克」は否定形なので「〜あたはず」と読み(『全訳漢辞海』、三省堂)、「〜できない」という意味になる。

▼この書状は、直茂が相当悩んで書いたようにも受け取れるほか、如水に対しての怒りを抑えているようにも受け取れる。文面が非常に短いのはそのあらわれか?この一連の争乱における直茂の関係書状では、はじめて「内府」=家康に言及した書状であるが、家康を味方と考えていないことはこの書面でも明らか。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)27号文書】

▼9月26日の書状なので、この時点での直茂の考えが明確にわかる。9月10日付の如水宛の26号文書の文面が短いのとは対照的に、27号文書は非常に長文である。

▼日田の森兵庫からの書状に対する返信であることがわかる。

▼一条目では、石垣原の戦いで大友義統が敗北したことに触れている。ここでは「義統」、「如水」というように呼び捨てにしている。

▼二条目では、黒田如水・加藤清正を「敵口」、「敵」と書いている点が注目される。つまり、9月26日の時点で、直茂は黒田如水・加藤清正を敵と認識していたことが明らかになる。

▼三条目では、肥後での加藤清正による宇土城攻めを報じている。この情報は「筑後表」から到来した、としているので、「筑後表」が立花家を指すとすれば、鍋島家と立花家はこの時点(9月26日)では同盟関係にあることになる。文末の「尚互可申承候」は今後も直茂と日田の森兵庫が相互に情報交換することを、直茂が希望していることになり、今後も直茂は立場 (如水・清正と敵対する立場)を代えるつもりがないことがわかる。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)28号文書】

▼文中の「兵粮之儀、上衆、薩摩くたりにて候者」というのは、関ヶ原の戦い後の島津討伐予定のことを指すか? そのための兵粮調達の指示か? とすれば慶長5年の11月か?

▼「東目之様子」とは関東の状況という意味か?


――――――――



★上記について、同H28.9/9付・白峰旬先生よりの追而コメントです。


・石垣原の勝利について、直茂は如水から報告を受けていないと読める事から、少なくとも、鍋島直茂と黒田如水はこの時点で同盟関係になかったことになります。

・『吉川家文書之一』(大日本古文書)153号文書は、一見するとすごいことが書かれているように錯覚しますが、よく読むと大したことは書いてありません。

一条目は天下の成り行きの現状を大して驚いていないこと、
二条目は黒田長政に気遣いしてもらったことへの礼を述べたこと、
三条目と五条目は九州での挙兵予定のこと、
四条目は京からの使者が持ってきた書状を広家のところへ遣わすこと、
六条目は(使者の)口上にて述べるので詳しくは書かないこと、
七条目は如水が広家と今後も仲良くしようと述べていること、です。

特に七条目は文章表現こそ芝居がかって大げさですが、今後も仲良くしよう、と述べているにすぎません(こうした大げさな表現はかえってしらじらしく聞こえます)。
そして、六条目にあるように、詳しくは口上で、と述べているので、如水の本心や核心的部分は使者の口上で述べることになり、この書状だけを見ても、どのようにでもあとで言い逃れができる巧妙な書き方です。このあたりに如水の抜け目ない狡猾さが感じられます。

・慶長5年のこの時点で、九州にいる大物大名は島津を除くと、黒田如水、加藤清正、鍋島直茂だけなので、如水と清正が気脈を通じて軍事行動をする以上、それを疑心暗鬼の目で直茂が見ていたのは当然と言えるのではないでしょうか。 』


――――――――

【2016.9/9付】白峰旬先生による、九州地方の関ヶ原合戦についての考察については、以上です。御多忙の中、大変貴重な御考察を有難うございました。今後先生の論文上に、佐賀の鍋島直茂が登場する事を期待しております!おそらく佐賀県史上においての「鍋島直茂の研究」という枠で見ても、白峰先生のこの考察文が最新だと思われます。


レポートは続きます。



posted by 主宰 at 03:26| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月09日

【2016.9/9付】白峰旬先生による九州地方の関ヶ原合戦についての考察 【1−1(分割)】



★先日から鍋島直茂考察について非常に沢山の御教示を賜っております、白峰旬先生より、
総括的な御考察を頂きました。歴史ファンもですが研究者必見の内容だと思います。(佐賀県史料集成 古文書編 第11巻については文書の年次・月の比定も施して頂いており重要です。)
光栄ながら許可を得て当ブログへUP致します。皆様是非ご参照ください。

★なお佐賀市近郊の方へメッセージですが、佐賀県立図書館の郷土資料室で「佐賀県史料集成 古文書編 第11巻」は読めます。白峰先生から下記の通り、最新の先行研究を提示して頂きました。下記はコピ―アウトして、原文と照合していくと、大変面白く勉強できると思います。

「関ヶ原決戦前後、鍋島直茂の様子はどうだったのか。」

同時に、高橋陽介氏からの御提案も共有します。

「ひとまず直茂公譜と考補、勝茂公譜と考補は、おいて考えましょう。」


――――――――――――――――――――――――

(佐戦研より)まずは白峰先生の考察文中に挙げられております『吉川家文書之一』153号文書について、8月21日佐賀で発表の高橋陽介氏レジュメ史料から、孫引きでご紹介させていただきます。御寛恕下さい。

■高橋氏添付史料:【史料15】「八月四日付 吉川広家宛 黒田如水書状」(吉川家文書)」より。
■『吉川家文書之一』、153号文書。 ※白峰先生御指摘で、この文書は8月20日のものとします。


 尚々、たしかなる人御越候へと御留守中申遣候間、御参次第追々申入候、
去月廿三日御状、昨日拝見申候、
一、天下成行不及是非候、かやうあるへきとつねつね分別仕候間、おとろき不申候、
一、甲州事、御気遣なされ候よし、忝存候、
一、豊前儀、少御気遣いなされましく候、加藤主計申談候間、いつれより仕懸候ハヽ、一かせんにて可相澄候、
一、京之使、書状進之候、可相着候、
一、今度弓矢成立申ましきと存候、残多候、又、弓矢御なれ候衆、貴殿まてさし申し候、
一、口上ニて申候間、不委候、
一、日本何様替候共、貴殿・我等半替申ましく候条、其御心得候へく候、尚追々可申入候、恐惶謹言、
八月四日 黒田官兵衛如水
広家様 貴報  』

――――――――――――


ここから本編です。


★【2016.9/9付】白峰旬先生による、九州地方の関ヶ原合戦についての考察。


【『吉川家文書之一』、153号文書】

▼3条目と5条目は、黒田如水がこれから九州で起こす予定の軍事行動について述べている。一合戦で済む (3条目)とか弓矢 (戦争) は成り立たない (5条目)と自信満々である。5条目は天下の合戦の動向を述べているのではない。この特点(8月20日)でまだ合戦になっていないのは九州だけなので、5条目の弓矢というのは、これから黒田如水が九州で起こす予定の合戦のことを指している。5条目は天下の合戦の動向を指していると考えると、他の地域はすでに合戦になっているので、その点だけでも矛盾していることがわかる。

▼この書状では、黒田如水は家康のことについては一言も触れていない。また、家康に味方するとも書いていない。その一方で奉行衆 (豊臣公儀) に味方するとも害いていない。つまり、この時点 (8月2O日) でも黒田如水は家康に味方する立場を表明していない。この書状では、黒田如水がこれから九州で起こす予定の軍事行動以外は、あたりさわりのないことしか書いていない。詳しくは口上でとしているので(6条目)、黒田如水の本心は使者の口上で述べる、ということを示す。つまり、書き方としてはかなり巧妙なしっぽをつかまれない書き方である。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)13号文書】
この書状は年月日の記載なし

▼文中に「如水」が出てくるので、その死没年月日(慶長9年3月20日)以前の内容である。

▼文中に、家康が来る7、8月に江戸へ下る、としているので、6月以前であることは確実。家康は、慶長9年は閏8月14日に伏見発、9月13日以前に江戸着なので(『織豊期主要人物居所集成』、122 頁)、この書状は慶長9年か?


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)16号文書】

▼文中に「名嶋」とある点がポイント。黒田家は福岡築城 (慶長6年〜同12年)の前に一時的に名島城に入っていた。よって、この書状は慶長5年ではない。この書状は慶長6年〜同12年か?

▼文中に「於大坂、公儀為遣方」とあり、これが豊臣公儀を指すとすれば、慶長6年以降も豊臣公儀が存在したことを証明する事になる。とすれば、笠谷先生の二重公儀論の論証のうえで貴重な文書である。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)17号文書】

▼文中に、龍造寺隆信の十七年忌法要のことが書かれている。龍造寺隆信は天正12年 (1584)死没なので、この書状は慶長5年である。

▼文中に、「北国之様子」がいまだ済んでいないので、鍋島直茂は(豊臣秀頼から) 暇(いとま)がとれないと述べている。よって、慶長5年2月9日の時点で、いまだ家康による前田討伐が決着せず緊張状態にあったことがわかる。

▼文中で、「隆信」と呼び捨てにしている点に注意すること。当時の書状では「輝元」、「景勝」など呼び捨てにした用例は存在する。この場合、呼び捨てにすることは必ずしも失礼な意味ではない。 』



――――――――――――


★ 分割してUPします。後日に続きます、お楽しみに!





posted by 主宰 at 23:31| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする