2016年12月20日

第三回 佐賀戦国勉強会・座談会 【加藤清正、鍋島直茂】


★2016年12月17日 第三回 佐賀戦国勉強会・座談会

年末の御忙しい中遠近より御参加頂いた皆様、有難うございました。

お陰様で、今年の分の企画も無事に終えることができました。感謝申し上げます。

■勉強会のホスト:中西豪先生
■御参加頂いたゲスト:白峰旬先生

構成は、中西先生による講話と、全体での質疑応答会でした。今回も光栄な事に、白峰先生にも質問にお答えを頂きました。


★以下添付は、講話の収録音源を編集したものです。清正ファン、直茂ファン、そして戦国〜関ヶ原ファンに非常にお薦めの内容です。ぜひお聴き下さい。(41分)





【Podcast用】
Artwork






この他の内容は、後日追ってレポートをまとめてUPしたいと思います。


★来年2017年は、歴史雑誌「忘却の日本史」様とコラボ企画を構想中です。(先方に御相談した所、内諾頂きました!)「関ヶ原合戦を再検討する −黒田・加藤・鍋島からみる慶長五年ー」という主旨の内容で、講義やパネルディスカッション形式を検討しています。今後のお知らせをお楽しみに^^


■2017年の勉強会座談会は、偶数月(2・4・6・8月・・・)に企画したいと思います。こちらも追って詳細を告知いたします。

どうぞ宜しくお願いします。





posted by 主宰 at 00:37| 佐賀 ☁| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月14日

『第二回佐賀戦国勉強会・座談会覚書』



★佐戦研蒼寿氏が、先日の第二回勉強会のノートをUPしてくれたので、こちらで紹介します。感謝です。

■勉強会のホスト:中西豪先生
■御参加頂いたゲスト:白峰旬先生

http://mixi.jp/show_friend.pl?id=477388

以下転載



第二回佐賀戦国勉強会・座談会覚書

先日の佐賀戦国研究会の勉強会&座談会で、私が走り書きしたメモをもとに、
覚えていることを整理して箇条書きにしたいと思います。
聞き違いや記憶違いもあるかもしれませんので、
もし誤りを見つけられましたら、コメント等で指摘の上、ご寛恕下さい。

以下本文*****

・吉川広家宛黒田如水書状によって、慶長五年(1600年)8月4日時点で如水と加藤清正が協力関係にあったとする説は、時期的に早すぎる。高橋陽介氏は8月20日時点との見解に傾いてきている。当該史料は上旬のものか下旬のものかで解釈が変わってくる。8月上旬ではまだ旗色が鮮明になっていない。
→(開催後TELで聴取:高橋さんは、20日説を採用確定との事です。)

・黒田如水が、慶長五年七月中旬の三成挙兵を知って、九州で募兵を行ったという説は、『黒田家譜』によるものであり、甚だ怪しい。黒田長政は全軍を率いて、上杉景勝征伐に向かい、関ヶ原で戦ったのではなく、黒田如水のもとには家臣団が大人数程いた。田舎ではいくら金銭を使って募兵しても兵数は集まらない。

・「直江状」について。「直江状」は上杉征伐のきっかけとなった書状とされてきたが、実際には、この書状が家康の上杉征伐を招いた訳ではないのではないか。「直江状」は、後に写本されていったが、最初の写本に比べて、後世(江戸期)の写本は、どんどん整ったものになっていった。

・毛利勝永は、真田信繁より後、戦いが始まった後に大坂城に入城している。

・毛利勝永は、慶長五年の一連の戦いでは伏見城攻めや伊勢方面の戦いにも参戦している。

・朝鮮出兵での武断派・文治派の対立のような話も、江戸期に作られ、定着したもの。「五大老」の制も同様。

・加藤清正は体育会系の武将ではなかった。

・石田三成が戦下手であったというのも後世の説。

・三成と清正の不仲の話もどこまで本当か分からない。

・家康の東上(上杉征伐)の際、家康は江戸を通っていない。所謂「小山会議」も後世の創作であるとする説もある(実在説もあるが、それほど世間で喧伝されるようなドラマチックなものではない)。

・山内一豊の土佐転封は実はそれ程石高的には加増されていない?

・毛利輝元は、重臣の妻を奥方に迎え、跡継ぎを生ませている。

・吉川広家こそ家康の天下取りの立役者。

・佐賀では、幕末のことは称揚するが、戦国期は龍造寺タブーもあって、語られることが少なかった。龍造寺タブーは戦後まで佐賀に残り、年配の方は「龍造寺八幡宮」のことを、単に「八幡さん」と呼んでいた。

・後世の編纂物や軍記物、実録体小説は二次史料。

・韓国の歴史家は、まず「結論ありき」で、思い込みで歴史書を書くことが多い。

・「起居注」とは、君主の言行を記録した史官の記録のこと。朝鮮の『李朝実録』は記録の対象となる王の時代のことを次代の王の時に編纂するが、日本でいう文禄・慶長の役の時の王である「宣祖」の記録は、一次史料的な部分を多く含んでいる。

・宣祖の後継である光海君は廃立され、その次の仁祖の時に、『宣祖修正実録』が編纂された(ウェブで調べると『宣祖修正実録』は、仁祖時代の大臣たちが自分たちを正当化するためにでっちあげたもののようです)。

・史料の恣意的な利用は戒めるべきであること。

・鍋島勝茂が西軍に属して各地を転戦したのに対し、親の鍋島直茂は家康方であると考えられてきたが、その根拠とされてきた「川崎氏所蔵文書」第一号の鍋島直茂の黒田如水宛書状(八月十日付け)をよく読んでも、直茂を家康与党と考えるのに充分であるとは言えない。同史料は、伏見城が落城したので、直茂は、上坂を急ぐ必要がなくなったとし、上坂を延期する旨を如水に伝えている。またこの史料では、この時点で直茂が、増田長盛・長束正家・安国寺恵瓊等を中央の豊臣正統政権メンバーと見ていることが指摘できる。

・鍋島直茂は、関ヶ原本戦の九月十五日の後の九月二十六日になっても、西軍の森兵庫に対して、さも味方であるかのような書状を送っている。

・石高百石に付き三人役の軍役が課せられているので、龍造寺・鍋島(三十一万石)には九千三百人の軍役が課されているはず。

・江戸期の龍造寺四家(多久・諫早・武雄鍋島・須古鍋島)の領民は、地元の殿様が元々龍造寺氏であることを知らなかった。
→(佐戦研主宰は黒板に村田家を書きましたが、正しくは諫早家でした、失礼しました)

・佐賀側の記録では、立花征伐は上方で家康が勝茂に命じたことになっている(黒田長政に口をきいてもらった)。

・柳川合戦(江上・八院の戦い)で、立花宗茂が柳川城から出なかったのは、家中不和、薦野(増時ヵ)と小野(鎮幸ヵ)の対立が原因と考えられる。家中不和のまま、家臣たちが五月雨式に打って出たのを、鍋島軍が各個撃破した。

・立花家の家中不和は、立花の家付き家臣の存在が原因である可能性がある。

・柳川合戦の鍋島直茂の本陣である城島から江上・八院までは5キロ。江上・八院から柳川までは、3キロ。

・天正十八年(1590年)の龍造寺政家の隠居後は、鍋島直茂が龍造寺・鍋島軍を統率した。

・「化け猫騒動」は幕末から明治にかけての時期に成立した。三大化け猫:岡崎・有馬・鍋島。

・筑紫氏について。筑紫広門は豊臣政権により勝尾城から、筑後国上妻郡へ転封。関ヶ原で西軍につき、改易。その子も広門を名乗る(ウィキでは養子。実は父・惟門の子とのこと)。その家系は後に旗本となった。

・大勢は決したのに、如水はなぜ島津攻めをしようとしたのか?

・鍋島直茂は家康に通じていて、子の勝茂に使者を遣わして、関ヶ原本戦直前に西軍から離脱させた、というのが従来の説であったが、直茂が家康与党でなく、むしろ西軍寄りとも受け取れる立場にいたことを考えると、従来の説には疑問を持たざるを得ない。関ヶ原本戦直前に西軍本隊から離脱する口実として挙げた「伊勢長島の東軍に備えるため」という理由は案外本音だったのかもしれない。

・何種類かある関ヶ原合戦図の中には、南宮山に鍋島勢が描かれているものもある。

以上。


2016年11月8日 07:30 』
posted by 主宰 at 03:48| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月13日

★慶長五年関ヶ原合戦時期における佐賀城外郭の防衛普請考 A




★@ http://sagasengoku.seesaa.net/article/441818339.htmlの続きです。


■参考資料追加:
(12):『佐賀市史』第二巻 近世編(佐賀市 刊)昭和52年 7月29日発行
(13):『神埼郡郷土誌』上・下合本、復刻版(名著出版 刊)昭和49年3月26日刊(原本は大正4年に刊)


【2016.9/13付】
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歴代の蓮池城主(龍造寺時代以降)■ 【参考資料(7)・(8)・(11)・(3)・(13)】


・永禄11年 月は不明〜 龍造寺長信 (11)巻之十七

・元亀元年9月〜 龍造寺家晴 (11)巻之二十では10月(後年一貫して城主だったかは不明)

・天正12年4月〜 鍋島直茂 (8)

・天正17年1月〜 江上家種(文禄2年、江上家種、朝鮮にて没) (8)

★慶長5年 7月末〜8月頃 城番として鍋島生三 (参考資料(10)『坊所鍋島家文書』155号 白峰旬先生慶長5年比定)

・それ以降、いつからか不明だが、慶長年間〜元和元年一国一城令まで、石井一門が直茂の意向によって城代・城番を務めた。(8)



【補考情報】

■天正13年 龍造寺隆信没後、戸次道雪・高橋紹運ら豊後勢が筑後へ侵攻して来た時、直茂は柳川城に入って防戦に努めた。柳川城主の家晴は城を出て、久留米方面で龍造寺政家と共に布陣。【参考資料(8)P.503 】

■参考資料(8)P.823に、蓮池城の縄張り上、本丸とは別に「南小曲出城」とある。龍造寺鍋島氏の蓮池城が、小田氏の旧蓮池城(小曲城)の主郭を包摂し拡張されていたことが想像できる。

■「直茂の意向で」石井一門が城代・城番をつとめたという記事の典拠→【参考資料(8)P.823 】

■慶長7年 鍋島勝茂の嫡男、元茂が蓮池城で生まれる。 【参考資料(7) 御年譜二 P.32】

■慶長16年 佐賀城の修築成り、蓮池城にいた(勝茂の?)「御子様方は皆々」佐賀城へ移る。【参考資料(8)P.823】

■元和元年6月13日〜 一国一城令によって、蓮池城を破却開始。

■参考資料(13)P.323に、蓮池城歴代城主の変遷についてまとまった先行研究あり。その考察では江上家種没後は、慶長年間概ね鍋島直茂の支配下が続き、その後元和元年、一国一城令での破却から『寛永十六年蓮池支藩分封まで即ち約二十五ヶ年間は佐賀藩の直轄となれるものゝ如し』とある。

■資料(13)では、長信が蓮池城主になったのは永禄十年頃か、としてあるが資料(11)では永禄11年。『隆信公御年譜』でも永禄11年である。

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★今回:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html 2016年8/26付白峰先生御解釈上、7月16日付鍋島勝茂書状が「慶長5年」と明確に比定される時、歴代蓮池城主変遷の先行研究に付加して、慶長5年7月末〜8月頃には勝茂の命により鍋島生三が蓮池城番を務めた可能性を、新たに指摘できる。

★一次史料である坊所鍋島家文書を根拠に参考資料(3)や(12)上「慶長年間に佐賀城と蓮池城が連動して普請された事が分かる」旨論じられているが、資料(8)『直茂公譜考補』五乾 P.490を読むと『旧記』からの引用として天正12年6月頃『政家公直茂公へ御相談あって、佐嘉・蓮池の両城を修補され、要害を設けられけるに、直茂公世を御伺いあるの由謳説あり、玆に因り公御蟄居あって更々世事に御構いなし、』とある。つまり慶長年間より以前、天正12年6月頃、すでに佐賀城と蓮池城は連動しての普請構想があり、着手もされていた可能性がある。普請の理由は、沖田畷敗戦後、敵軍の襲来に備えるためである事は明らかである。


★『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)19号文書、直茂→平五郎茂里・生三宛書状について、参考資料(1)や(2)では、佐賀蓮池間の普請を含めて慶長12年のものと比定している。

ここで考察を試みる。上記の資料(8)『直茂公譜考補』五乾 P.490、天正12年の佐賀蓮池間の普請には、2つの特徴がある。ひとつは沖田畷敗戦後、島津や大友ら敵軍の佐賀襲来に備えた普請である事、ふたつめは直茂に「世を伺っている」との噂が立った事。

慶長の19号文書を、慶長5年と比定した時、関ヶ原合戦の年の2月晦日付なので政情は不穏、有事に備えて佐賀蓮池間を普請するのは天正12年を先例として自然であり、必然である。同時に19号文書で直茂が「目立たぬように、少しづつ行ってくれ。他方の批判が生まれては云々」とするその心情は、先例として天正12年の佐賀蓮池間普請時に、「他方の批判」=家中からの批判に遭っている事が理由であろう。天正12年は「直茂は御家を乗っ取る気があるのでは?」という噂が立ち、不本意な直茂は蓮池城に引き籠ってしまったとある。また白峰旬先生が先日御指摘の通り、19号文書を慶長5年と比定した時には「他方の批判」の他方=近隣の大名諸家からの批判・風説とも考えられる。結論として19号文書は慶長5年に比定の余地があり、天正12年6月の状況、2つの特徴「争乱に備えての普請」・「直茂への批判云々」において似ている。


(つづく)





posted by 主宰 at 05:09| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする