2018年12月06日
★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートE【2018.10/27】
引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその6です。
★レポート1は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート2は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
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★レポート4は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462953239.html
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いよいよ決戦地に近づいてきました。
下は島原市・中心部周辺の地図です。左の赤丸●は「丸尾城(砦)」、真ん中の赤丸●は「森岳(森嶽)」、右下の青丸●は「浜の城」。
まずは各城の位置関係を俯瞰します。※現在島原城がある所は当時、城は無く「森岳」つまり高台となる小山がありました。あるとすれば臨時的な出城です。
沖田畷の古戦場比定地は、地図上の森岳の北一帯。
史料と読み合わせても、1キロ四方に収まってしまう狭さなのです。
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●丸尾城(砦) :守将:猿渡信光、猿渡弥次郎など。
●森岳(森嶽):島津・有馬軍の本陣あり。島津家久、島津彰久、島津忠長、島津豊久、川上忠堅(左京亮)、新納忠元、鎌田政近、有馬晴信、赤星統家など。
●浜の城(龍造寺方。海に突出した構造の城):守将:島原純豊、安富純治(純泰の父)、安富新七郎(純泰の弟)。(安富氏の浜の城籠城は『深江町郷土誌』参照)大村からの援軍も入城(フロイス日本史)。
※森岳と、浜の城の中間に、平田光宗の手勢が置かれる。
「平田殿というジョアンの一指揮官には、敵が戦の最中に島原城(=浜の城と比定)から出て来て味方の背後を衝くことがないように、千人の兵を率いて島原城の正面に布陣するようにとの命令が下された。」『完訳フロイス日本史10』P.281
『藤原有馬世譜』(肥前有馬氏の歴史を綴った編纂史料):「(3月)二十四日未明に押出して、島津家久三千を先陣とし、森か嶽の麓に備え、御旗本二千人森か嶽に備えたまひ、長田安芸守貞運等と、島津勢五百人を豕子村(いのこむら?)の東浜手の林の中に伏せ置き、安富越中守に鉄砲三百挺を司らしめ、兵船十三艘に取乗せ、夜中に東の海上漕出して、敵の進むを待たしむ」
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<3>森岳の砦 (現・島原城周辺)(長崎県島原市城内1丁目1183-1)
【駐車場あり、島原城駐車場・有料。混んでいなければある程度の台数の車が駐車可能。島原城の建物には入城料あり。】
浜の城址(中央公園)から、車で10分未満の距離です。
森岳頂上(現・島原城天守)から丸尾城方向を眺める。
中央すこし右の小高い森が、丸尾城址です。森岳から丸尾城はかなり近い事が分かります。
『有明町史 上巻』P.755によると、「森岳の地は、西側に八一九米の眉山が聳え、東側は有明海、海から射撃をしても弾は届かない。北は沖田原の湿田が続き、南側は平地が拓けて見通しが良かった」と記されています。
しかしこの地域は典型的な火山麓扇状地です(橋本靖明先生ご指摘)。地質として「扇端」の海辺近辺は湿地になる可能性があるも、扇状地のすそ野「扇央部」は、逆に水はけがよく、湿地にはなりにくいのです。現在の島原城下は自墳による湧水が散見されますが、ただし江戸時代に島原城ができた際、沖田畷の戦い激戦地に比定されている島原高校北門前あたりには、武家屋敷群が建設されています。湿地帯に武家屋敷が整然と建つでしょうか。(12/8追記:もともと有った湿地帯から、水が抜かれて整地された?などの可能性も調べる必要がありそうです)
つまり地質から考えると、決戦地は扇端と言うより扇央部の東端とも見え、所々、ぬかるみ・深田があったにせよ「広大な湿地帯であった」とは考えにくいことになります。深田の中の一本道という地理を分かっていた上で、歴戦の雄・龍造寺隆信公が、譜代の重臣(先陣の小川・納富)に死を厭わぬ強攻を命じるとも考えにくい。
さらに、沖田畷の戦いについて或る程度信頼度が高い「フロイス日本史」には、湿地帯の描写が一切ないのです。この事も沖田畷の戦いの実像を探る上で、重要な参考になります。現在のところ、湿地帯が戦地にあったのか、どの位の範囲あったのか、または激戦地に湿地帯は無かったのではないか・・、この辺りが重要な謎です。
■現在の島原城の天守(最上階)から、前方の沖田畷を眺望。
■真ん中少し右に、島原高校の校舎とグラウンドが見えます。その更に前方が、合戦の激戦地と伝わっている地区です。左から右に向って、沖田畷当時からあったと思われる、火山麓扇状地のスロープも目視できます。(島原城以北は、江戸時代の島原大噴火による地形変動の影響を殆ど受けていません)
■島原高校・北門前(門に向って左隣の藪)の石碑。
島原市文化財保護委員会会長・松尾卓次先生に数年前伺ったお話しによると「この石碑は、沖田畷の戦いで戦死した龍造寺方の兵を弔う供養塔と伝わっています。この石碑の位置によって、この辺りが沖田畷攻防の最前線、激戦地と比定されます」との事。島原高校北門前が激戦地である説は、石碑の位置および、松尾先生の見解に依拠しています。
■434年前の宿敵は今日の友、の図。
島原城天守台にて、沖田畷方面を俯瞰する、橋本靖明先生(龍造寺氏末裔・左)、大山格先生(島津家臣子孫・中央)、中西豪先生(『歴史群像』で沖田畷の戦いを執筆・右)。
地理を眺めながら、龍造寺方・島津方お揃いで、沖田畷の戦いについてあれこれ、話合われておられました。
沖田畷の戦いの史跡巡りをされる方は、ぜひ、島原城の天守(最上階)から、沖田畷方面を眺めてみてください。
森岳の陣地から島津家久公・有馬晴信公が見下ろした高さは、島原城天守程は無かったかもしれませんが、島津方として、前方の龍造寺の大軍を迎え撃つ気持ち、扇状地の地形、また戦場域の広さ、距離感・・・体験として得られる情報が多いです。
島原城の天守は、非常に重要な、沖田畷の戦い史跡踏査スポットです。
― レポートFへ続きます ―
2018年12月02日
★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートD【2018.10/27】
引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその5です。
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★レポート2は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート3は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462939263.html
★レポート4は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462953239.html
「沖田畷の戦いは浜の城(島原城)をめぐる後詰決戦であった」と明確に主張したのは拙稿「沖田畷の戦い」(『歴史群像』2003年8月号掲載)が最初、と言い切る自信はないが、ずいぶんと希少な主張だったのではないかなあ。
— 中西豪@史道不覚悟 (@take_nakanishi) 2018年10月7日
沖田畷の戦いとは、浜の城(島原城)をめぐる後詰決戦であった事が、中西豪先生により2003年に指摘されています。
つまり、島津有馬軍に包囲された味方の城を救うため、龍造寺隆信公率いる大軍は南下してきたのです。
地図上、「島原市」と記載のある所の青色の●が、浜の城。
<3>浜の城址 (島原市新町2丁目103-1、中央公園内)
龍造寺方。沖田畷当時の城主:島原式部大輔純豊公。
大村氏からの加勢も籠っていました。
現在の島原城のすぐ南、浜の城比定地は、寛政4年(1792)の普賢岳大噴火(「島原大変」・「眉山崩れ」)の影響で大幅に地形が変化しています。沖田畷当時は、海岸線が現在より内陸側にあり、浜の城は「海に突き出た城」だったそうです。
【駐車場あり。霊丘公民館横・コインパーキング】
「深江から一里近く先に島原が続くが、それは有馬(日之江城下)に次ぐ有馬領の主要な領地で、そこの城主、かつ領主は、ドン・プロタジオ(有馬晴信)に叛逆した首魁であり、その人物が他のすべての有馬領における謀叛の強力な要因となった。」『完訳フロイス日本史10』(中央公論新社・2000年)P.264
→実際は、深江城から二里近く先。島原市街地まで約10q、車で20分程走る距離です。
■浜の城石碑
『有明町史』P.736〜P.737の解説によると、島原氏は肥前有馬氏の支族であり、島原の領主であったことから、有馬家中では「島原殿」と称されていたそうです。山田城(長崎県雲仙市吾妻町栗林名)の城主・山田氏は島原氏の分枝。
浜の城の築城は明応年間とされ、島原氏は浜の城を本城とし、北に寺中城、西に丸尾城、南に今村の砦を構えていたとされます。(ちなみに、森岳に城や砦があったとはされていない事に注目。)
(しばらく碑文を読まれる、東統禅先生)
以下、
『有馬氏の領国支配』外山 幹夫 氏(長崎大学教育学部社会科学論叢49、1995年)長崎大学学術研究成果リポジトリより。
「ルイス・フロイスは、有馬氏の領国において、『同国のもっとも身分の高い殿のうちの二人』として、島原純茂(純豊の父)と西郷純堯の両名をあげている。もちろん、これ以外にも、先述した安富徳円、谷川弾正左衛、土黒淡路守、本田出雲守、鷹屋純次、西玄蕃、久能賢治、堀斎宮純政等の老職があったことはいうまでもない。
ところが、島原純茂・西郷純堯の二人は、右にみるように、有馬氏領国にあって、「もっとも身分の高い殿」ではあるが、「殿に次ぐ要職」である要職ではなかったらしい。それは、ルイス・フロイスの『日本史』の中で、両人、及びその父子に関する記述は少なくないが、老職を思わせる記述がないことがそれを示している。つまり、「身分の高い殿」が、直ちに老職という状況にはなっていない。有馬氏の場合、の老職が、また軍事指揮官である「士将」とも必らずしも一致しないのであるが、島原、西郷両氏は、老職とはならなかったが、「士将」となることはあったらしい。
老職は必らずしも大領主ではなく、有馬氏の下にあって有能、かつ誠実な領主でなければならない。これに対して島原・西郷両氏は大領主であり、対外戦争に際しては、彼等のもつ多くの家臣を中核とし軍編成をさせる便宜があって「士将」とされるが、平時にあって有馬氏の補佐、或いはその諮問に応ずるべき老職としては不適とみなされたものであろう。
島原の領主島原純豊の父が島原純茂である。純茂の妻は安富徳円の女であり、かつ有馬義貞の妻の妹である。「有馬の国主、ならびにその近親で島原の城と市の殿である島原殿」というのはそれを示している。有馬氏の家臣は、その領内をどのように統治していたのであろうか。この点について、ルイス・フロイスは、『これらの殿たちは、そのすべての領地に家令、管理人、もしくは収入役に相当するような一人の官吏、もしくは長官を有しており、(日本語ではこれを)役人という。それは「役職を持つ人」という意味である。』として、それぞれの知行地に、徴税その他にあたる役人のいたことを指摘する。当然のことである。有馬氏の直轄地にあっては、それが代官であったこと先述した通りである。
この点について、島原氏の膝下である島原の地に、別当という役の者があった。この別当に関し、ルイス・フロイスは、『島原には当時、刑部殿という人がいたが、仏僧の並々ならぬ親友であり、偶像崇拝にいとも熱中し、したがってキリシタンの大敵であった。』とする。別当の任務内容等について触れるところなく、単にキリスト教との関係から見ているのみであるが、島原氏のこの別当に対する扱いが峻巌を極めたものであったことについて、ルイス・フロイスは次の様に述べる。『すなわち、島原駐在の修道士アイレス・サンチェスを追放して間もない頃、彼は出陣することとなった。その時、彼は、何か重大で、かつ愚かな失態を演じたため、馬の綱で両手を後方で縛られ、その場で首を斬られた』という。島原氏膝下の島原の町に、別当があった事実は、その後近世にまで継承された。
先に述べたように、島原氏(純茂)は老職ではなかったが、軍事指揮にあたる「士将」であった。すなわち、彼は有馬晴純の命によって、西郷純堯と共に、多久城の防衛のため軍を率いて赴かせられている。ところが、のちこの多久城は竜造寺隆信の攻撃によって陥された。そのため、彼は西郷純堯と共に平戸に逃れた。しかし、その後、西郷純堯が有馬氏に叛いた時、島原純茂は、西郷氏がまず自分に対して攻撃するのではないかと恐れた。この時、両者間は緊迫したのである。」(引用おわり)
→主に島原純豊公の父で先代の、純茂公の時代の詳細です。
★有馬晴純(仙岩)公の全盛期は、軍を率いて東肥前・小城郡へ赴任していた事が分かります。フロイスが記述したように、島原半島において島原氏が龍造寺氏に従属したと言う事は、かつて肥前守護職を獲得した大名・有馬氏の衰退、御家存亡の窮地が迫っていた事を物語ります。
※浜の城について非常に参考になる論文⇒:『肥前浜城と島原城下町の復元的考察』西田博 氏(2017.6月)九州大学学術情報リポジトリより。
一点、文中「中西豪氏は、森岳城・戦国期島原城・浜城をそれぞれ別個の城郭と考えている」と記されていますが、中西先生ともお話しした結果、誤認と思われ、2008年当時から中西先生は沖田畷当時の島原城=浜の城という論旨です。両城同一視への疑義はご尤もなのですが、では逆に、沖田畷時に島原軍が籠っていた城はどこになるのか?また、籠れる規模の城がどこにあるのか?と考えた時、森岳に従来きちんとした城があった記録が無い事、また島原半島東海岸沿いに神代城、寺中城、堂崎城などが存在している事を思えば、浜の城を「島原殿」が籠る「島原の城」と考える事が現在の所、妥当ではないでしょうか。
『完訳フロイス日本史10』(P.282)でも森岳は城ではなく単に「山頂」と描写されています。
(左から、中西豪先生、橋本靖明先生、大山格先生、岡本澄雄先生。)
浜の城石碑前にて。
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2018年11月28日
★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートC【2018.10/27】
引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその4です。
★レポート1は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート2は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html
★レポート3は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462939263.html
堂崎から北に7.5q、車で12分程走ると、●深江城址に着きます。
(●青色の城=龍造寺方。●赤色の城=有馬・島津方。)
★深江城址 (南島原市深江町丙1241周辺)
【駐車場なし。石碑前の路側帯に、4台程一時停車可能】
「最強、かつ不落を誇っていた深江城」とルイス・フロイスが評しており、屈強な城だったのでしょう。(『完訳フロイス日本史10』 中央公論新社 発行、2000年10月、P.292)
ひとつ整理をしておきますと、前回書いた安徳城の城主は、安徳(あんとく)氏、深江城の城主は、安富(やすとみ)氏です。一字違いますので、ご注意下さい。ちなみに両者、親戚関係です。
深江城主・安富下野守純泰公は、全盛期の龍造寺氏に従属を誓って後、一貫して龍造寺方の武将として踏ん張りました。
★以下『深江町郷土誌』P185〜によれば、天正11年(1583年)純泰公の幼い息子は龍造寺氏へ人質として出されており、柳川に在ったそうです。龍造寺氏を離反した有馬氏が島津氏と結託、隣の城の安徳氏も有馬・島津方となる中、孤立した深江城に、佐賀方面から加勢が続々到着します。
精鋭たる藤津衆、嬉野、辻、永田、上滝、久間、犬塚、徳島各氏、さらに東目衆の横岳家実、安武式部太輔が入城したそうです。藤津の軍衆は、ほぼ総出で加勢に出かけていると言えるのではないでしょうか。また、膨張した深江城の人数のために、龍造寺隆信公は、多比良村(島原半島北部)において、五十町の地を兵粮料所として安富氏に与え、気を励ましたとされます。
同天正11年、沖田畷合戦の前年、6月13日、安徳の百姓と深江の百姓が、薪取りに関して喧嘩を起こし、これを知った安徳城中の新納刑部大輔(新納忠堯。新納忠元の長男)、川上左京亮、蓑田右馬助らが深江の民を追い、深江城下まで入ってしまったので、深江城から安富三介、横岳、安武らが出陣し、合戦となります。この時、新納忠堯、蓑田右馬助は討死を遂げ、川上左京亮は負傷、島津勢は安徳城へ敗走。8月1日には安富純泰公と龍造寺勢が安徳城を攻めますが、落とせずに引きました。
天正12年(1584年)2月2日〜3月初旬、肥後から続々渡海してきた島津軍に包囲され、深江城は危機に陥ります。
このため龍造寺隆信公は、大村純忠公が大村に残していた300人の中から精鋭を選りすぐり、深江城へ加勢として送りました。三会〜浜の城方面へ向けて陸路を北上しようとする島津軍を、妨害するためです。しかしすでに深江城の包囲は堅く、大村勢は入城叶わず、引いて島原城(浜の城)へ入ります。
(『完訳フロイス日本史10』 中央公論新社 発行、2000年10月、P.269〜P.270より。)
現・島原城下の水路に泳ぐ鯉。
― レポートDへ続きます ―
ラベル:有家町史 新納刑部大輔 薩摩 深江町郷土誌 安徳氏 森嶽合戦 完訳フロイス日本史 島原純豊 横岳家実 フロイス日本史 佐賀県 歴史 多比良 有家町郷土誌 佐賀市 日本史 戦国九州三国志 講演会 戦国史 安徳城 九州三国志 深江城 龍造寺家 島津家 龍造寺隆信 中西豪 堂崎城 沖田畷合戦 南島原市 隆信公御年譜 安富純泰 安徳純徳 安徳純俊 安富下野守 安徳上野介 島津義久 安富氏 竜造寺隆信 島津家久 佐賀戦国勉強会 龍造寺氏 雲仙市 佐賀戦国研究会 神代貴茂 島原市 長崎県 佐賀の戦国史 歴史群像 沖田畷の戦い 川上左京亮 鍋島直茂 川上忠堅 有馬晴信 島津氏 大村純忠 新納忠堯 浜ノ城 藤津衆 島原戦国史 肥前 ルイスフロイス 新納忠元 新納忠元の長男 河上左京 蓑田右馬助