2018年07月06日

★龍造寺鍋島政権交代についての、論者による表現の比較




「経緯については、種々問題とされるところである。」川副義敦氏・『戦国の肥前と龍造寺隆信』 /



「勝茂が竜造寺氏の家督を相続する前年の慶長11年、竜造寺・鍋島一門等の重臣は、直茂・勝茂に忠節を尽す起請文を提出(中略、のちに、)竜造寺本家が断絶し、その家督問題が幕閣で取上げられるに至って、諫早・多久・須古の竜造寺一門は、江戸において、直茂の嫡子勝茂が相続すべきであることを主張し、これが公儀権力の認めるところとなって、名実ともに鍋島佐賀藩が成立した」藤野保氏・『佐賀藩の総合研究』/



「鍋島氏、龍造寺氏に代る」「(高房の父)政家もあとを追うかのように死去した。やがて龍造寺の家督も信濃守勝茂に継承せられた。龍造寺一族の申し出によるものであったと伝えられる。」三好不二雄氏・『佐賀市史』第1巻(中世Uー5)/



「竜造寺本家が滅んだが大きな動揺はなかったようで、龍造寺一族はむしろ鍋島直茂・勝茂に協力的で鍋島氏の支配は安定していた。」小宮睦之氏・『佐賀市史』第2巻(近世1-1)/



「高房・政家が相ついで死亡したため、竜造寺家家督を勝茂が継ぎ、ここに佐賀藩主の家督と国政の不統一が解消し、」佐賀県近世史料編さん委員会・『鍋島直茂公譜等解題』(佐賀県近世史料1-1)/



「直茂・勝茂体制の鍋島佐賀藩がスタートすることになった。関ヶ原の敗戦以後の藩存亡の危機感のなかで、直茂ー勝茂ラインの政治運営に旧龍造寺一族や家臣団が期待したためである。『佐賀城の総普請』は龍造寺体制から鍋島体制への移行の一環として行われた。」小宮睦之氏・『佐賀城の歴史』(『海路』第7号)/



「竜造寺氏の旧領を継いだ鍋島氏は、その支配組織・体制を固めるに当たって、二つの特徴がみられる。その一つは、竜造寺氏の旧家臣団を解体しないで温存したことであり、二つ目には、徳川幕府の全国的な大名統制方式と類似していることである。(後年の鍋島御三家、親類同格、旧龍造寺系大身≒外様)」杉谷昭氏・『郷土史再発見@ −幕藩体制の中の鍋島氏―』/



「一般的な家中騒動、御家騒動とは異質な、いわば静かな下克上なのであるが」「(『諫早家系事跡』によると)鍋島氏を大名の座につかしめたのは、ほかでもない龍造寺系一門家臣という認識なのである。」高野信治氏・『大名の相貌』/



「後世において鍋島氏が竜造寺氏の立場を乗っ取ったとするような状況ではなかったことも本稿で明らかにした。」野口朋隆氏・『佐賀学T』/



「鍋島氏が政家の二男村田安良を竜造寺本家として存続させたことは、偏に当時の佐賀藩が、竜造寺一門による政権運営(請役家老制)に代表される鍋島・竜造寺両氏による連合政権的な権力構造であったことばかりに起因するのではなく、まさに鍋島氏が旧主の家の存続に配慮するという、いわば伝統の保護政策があったことも考慮する必要があるだろう。」野口朋隆氏・『中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏』/



「変転きわまりない戦国の世に生きた直茂を、一つの主義・主張を持って主君に対して忠節を尽くした律儀な武将としてとらえることは困難である。(中略)直茂は政家や高房が御しうる人物ではなく、直茂の長命は平穏裏のうちに龍造寺氏から鍋島氏への勢力の交代をなさせ、時の権力者も認めるところとなった。」岩松要輔氏・『鍋島直茂』/



「政家・高房が没したため、肥前国を引き継ぎ、(直茂は)鍋島佐賀藩の藩祖(初代藩主は勝茂)となる。」田久保佳寛氏・『千葉一族入門事典』/



「鍋島氏は、竜造寺四家および国人系有力家臣団が家中で強大な勢力を占める現実と、藤八郎(高房)死去後の家督継承の際に、彼らの承認を受けたことに対する政治的代償によって、当主権力の深化に大きな制約を受ける状況にあった。この連合政権的な権力状態」木島孝之氏・『城郭の縄張り構造と大名権力』(補注篇・鍋島領)/



「(高房・政家死後)龍造寺一門が合議で、肥前国主の後継者に鍋島勝茂を推挙する結論を出したことで、大名家としての龍造寺氏は断絶した。ここに、鍋島氏の下に龍造寺氏が持つ「国主の家督権」が吸収されることになった。ただし、高房には実弟安良がおり、鍋島氏への臣従を誓ってはいたが、龍造寺宗主家を継承する別格的家格の大身家臣として健在であった。」木島孝之氏・『九州にとって「織豊」とは』(『海路』第11号)/



「享保年間成立とされる『直茂公譜』『勝茂公御年譜』においても、竜造寺から鍋島氏への家督継承の正当性を謳うため、(中略)意図的に高房関係の事実が省略化・歪曲化された可能性は十分に考えられる。」大平直子氏・(佐賀大学地域学歴史文化研究センター 研究紀要第9号) /



「(沖田畷)後しばらく龍造寺氏が家督を継ぎ、鍋島氏が領国支配を行うという体制がとられるが」「慶長12年の龍造寺氏断絶により家督・支配ともに鍋島氏に統一され、名実ともに佐賀鍋島藩が成立する。」松川博一氏・『戦国武将の誇りと祈り』(九州歴史資料館図録)/



「龍造寺家が断絶したため、直茂は名実ともに肥前の大大名となった。」荒木和憲氏・『戦国大名』(九州国立博物館の図録)/



「竜造寺本家は断絶した。それを継いだのが鍋島家である。」谷口眞子氏・『 佐賀藩の殉死にみる「御側仕え」の心性』(早稲田大学高等研究所紀要7)/



「政家が最後に羽柴政権から文書を出された(文禄四年)八月を最後にして、龍造寺家は大名としては認められなくなったと考えられる。以後においては、執政の鍋島家が、事実上は肥前国の大名として(公儀に)扱われていくことになる。」黒田基樹氏・『羽柴を名乗った人々』/



「直茂の子勝茂が竜造寺氏の家督を継ぐかたちで鍋島佐賀藩が成立」日本史広辞典編集委員会・『日本史小辞典』(山川出版社)/



「竜造寺氏の家督を勝茂がつぐことで、完全に鍋島氏が領することとなった。」(郷土の戦国時代・佐賀県/肥前一部)の項「政家・高房父子の死後、鍋島直茂の子勝茂が竜造寺氏の家督を相続、鍋島姓のまま佐賀藩主となる。」(戦国領主155家の系譜)『クロニック戦国全史』編集委員会・『クロニック戦国全史』/



「戦国大名 鍋島直茂 −平和裡に主家を乗っ取った簒奪者ー」「勝茂は龍造寺を名乗らなかったため、ここに於いて肥前龍造寺家の家名は実質的に絶え、以後、鍋島家が代々家督を継いでいくことになった。平和裡に行われた主家の簒奪である。」服部崇氏・『歴史文化遺産 戦国大名』/



「幕府にとっては、長い間の鍋島直茂・勝茂の活躍とその実績を見、又、龍造寺各氏の動きをみて、政権は鍋島家が妥当であると確信したのであろう。又、直茂もそのようになるように、動いたのではないだろうか。」市丸昭太郎氏・『龍造寺家と鍋嶋直茂』 /





「幕府は龍造寺一門の主だった者の意見も徴し、信生(直茂の前名)の嫡子勝茂に龍造寺氏家督を継承させた。『法的』には何ら問題のない政権交代である。しかし最晩年の信生の言動には深い憂慮が現れている。やむを得ぬ仕儀とはいえ主家を事実上簒奪したことを悔いるところが大きかったのであろう。信生が龍造寺の無二の忠臣であったことに疑いはない。」中西豪氏・『戦国九州三国志』(歴史群像ムック)/



「最終的には宗家は高房の代で途絶え、鍋島氏の家督相続が徳川幕府より認められた。」中西豪氏・『全国版 戦国精強家臣団』(歴史群像ムック)/



「禅譲の完成」『史伝鍋島直茂』(単行本) → 近年では「領主交代の完成」『歴史群像 No124』という表現。中西豪氏 /



「高房の龍造寺家家督と、鍋島父子の領国支配は完全に分離して、今や別個の存在となっていたのである。」「高房死後、佐賀城下に白装束の幽霊が現れるという噂が立ち、いろいろ異変が起き、人びとを恐怖におとし入れたと(『元茂公譜』中に)伝えている。世に流布された佐賀の『化け猫騒動』は、この幽霊話の所産であり、若くして悲運の死をとげた高房への庶民の憐情を感じる。」「(政家は)後を追うようにこの世を去った。五十二歳であった。龍造寺家本家は、遂に断絶、鍋島三十五万七千石の藩政がここに確立した。」吉永正春氏・『九州戦国の武将たち』/



「五州二島の覇者が、大名の座を家臣にのっとられた事情とは?」「鍋島氏は、初代藩主は直茂ではなく、高房没後の勝茂として、あくまで龍造寺氏から政権を譲られたという形をとっている。」「(鍋島化け猫騒動の)伝説が生まれたということは、たとえ正当な継承であっても、主従の逆転に陰謀を感じ、龍造寺の滅亡を憐れむ者も多かったのだろう。滅びゆく者に、人々はなぜか心を寄せる。」鷹橋忍氏・『滅亡から読みとく日本史』/















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2018年05月20日

★佐賀戦国研究会とは


当会から各行政機関・学術機関へお問合せや申請を行う際に、「インターネットで、当会の活動履歴を確認させて頂きます」と、担当者様から言われる事があります。そういった時のために、また、佐賀戦国研究会とはどういう会なのか、来歴を公開しておきます。

(2018年7月22日現在)



【印刷用】「佐賀戦国研究会について」詳細PDF資料はこちらからダウンロードをお願いします:佐賀戦国研究会について1.pdf


【印刷用】佐賀戦国研究会の規約は、こちらからダウンロードをお願いします。:佐賀戦国研究会規約.pdf





★佐賀戦国研究会について


■発足は2012年。民間社会人による歴史サークル兼研究会。全国的に戦国ブームの昨今、佐賀の戦国武将(龍造寺隆信、鍋島直茂)がゲームの影響で全国的に人気になる中、肝心の佐賀では幕末明治の紹介ばかりで、戦国時代のPRは全くなされない。その為「無いなら自分たちで顕彰しよう」という趣旨で有志市民で活動開始。講師に学研の雑誌「歴史群像」へ寄稿中の歴史家、中西豪先生を迎え、第一回講演会を平成25年3月に開催。157名もの地元歴史ファン及び、遠くは関東・中部から龍造寺鍋島ファンが佐賀城本丸に集まり、新聞にも大きく取り上げられる。



■目的と理念:


一、佐賀の戦国時代における文化や人物等を研究し、魅力を発掘・配信する。            
一、学術性とともに創造性を重視する。                                        
一、市民の自発的企画である事。自由度が担保される事。結果公共に資する事。



■講演会開催履歴: 
・ 第一回 「世評における龍造寺氏・鍋島氏」 H25. 3/23 (157名)
・ 番外篇 「1から始める龍造寺史」 H25. 8/4 (105名)
・ 第ニ回  「沖田畷に見る戦国軍事史研究の現在」 H25. 11/16 (85名)
・ 第三回 「救世主・鍋島直茂」 H26. 4/12 (84名)
・ 第四回 「救世主・鍋島直茂(統一政権下のサバイバル)」 H26. 8/24 (92名)
・ 第五回 「質疑応答会 〜龍造寺鍋島氏から日本の戦国時代」 H26.12/27 (33名)
・ 第六回 「肥前千葉氏と戦国前夜」 H27.10/4 (75名)
・ 第七回 特別編「戊辰会津戦争の真実 −会津・薩摩・佐賀の関わり―」 H28.5/29 (156名)
・ 第八回 「関ケ原の戦いを再検討する−龍造寺・黒田・加藤を中心に−」 H29.8/20 (140名)

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※ 大阪市主催、「大坂の陣400年天下一祭」に連動参加。豊臣政権と鍋島政権は密接に関わるため。
※ 歴史雑誌『忘却の日本史 西日本編 特別号』に「佐賀戦国研究会が選ぶ九州の武将ランキング100」執筆。
※ 嬉野市の肥前夢街道忍者村からの委託により、嬉野市の忍者調査事業に参加。嬉野市史上に忍者を発見。


■過去に後援頂いた自治体や企業:
佐賀県立佐賀城本丸歴史館、小城市教育委員会、千葉市教育委員会、佐賀新聞、西日本新聞、サガテレビ、雑誌『歴史群像』、雑誌『忘却の日本史』、千葉氏顕彰会、大坂の陣400年天下一祭、十六世紀史研究学会、株式会社歴史と文化の研究所、勝永座談会、東海古城研究会


★佐賀市民活動プラザでの勉強会・座談会を定例会とし、ゲストを招き佐賀城本丸歴史館にて、講演会や座談企画を開催中。佐賀県の戦国史を主軸に日本の戦国史を勉強・紹介する趣旨。広告は若者にPRできるようにアニメ風のグラフィックチラシ。また、ミドルメディアとなる事を志向し、ItunesのPodcast、及びYoutubeで講演会や勉強会の音源を配信中。(Itunes Store のPodcastで佐賀の戦国史で検索すると無料購読可能。)


★YOUTUBEのアカウント:https://www.youtube.com/user/Cogito907



★Twitter: https://twitter.com/sagasengoku

★チラシデザインのアーカイブス(Tumblr):http://sagasengoku.tumblr.com/



★(理念) グローバリズムの日本かつ人口減、地方経済衰微で、古い郷土史はインパクトが薄れる傾向。
 行政による佐賀の戦国史のPRや顕彰不足を補いつつ、市民レベルで歴史に学び、自発的かつ自由に、カジュアルに活動する企画。



■今後の予定

メンバーそれぞれ仕事をしながら、できる範囲で無理なく活動。 
※NPO法人化を目指しています。


2018年5月27日、7/15(日)、9月、11月、定例の「佐賀戦国勉強会・座談会 −隆信公御年譜を読むー」佐賀市市民活動プラザ(白山)4Fにて(申込不要・自由参加)


2018年9月8日〜9月9日 「第二回 国際忍者学会」(佐賀県嬉野市で開催)にて、嬉野市忍者調査の結果と「佐賀藩における忍者」について、佐賀戦国研究会 代表 深川直也 (国際忍者学会 会員)が、基調講演を仰せつかりました。
詳細HP:https://intlninja.com/convention/

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★次回、2018年10月28日、佐賀大学経済学部講義棟にて「幕末維新を再検討する −西郷、江藤、会津龍造寺ー」と題した歴史シンポジウムを開催します!(プレスリリース:https://www.value-press.com/pressrelease/205086

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佐賀戦国研究会 代表 深川 直也
(佐賀市在住。佐賀西高等学校卒、関西大学文学部国語国文学科卒。)

Mail: sagasengoku@live.jp


佐賀県立図書館の郷土室にて、いくつかの研究報告書が閲覧可能です。

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2018年05月01日

【天正14年4月17日付】鍋島直茂書状についての考察【島津氏へ従属中】




先日のブログ(http://sagasengoku.seesaa.net/article/459013034.html)中でもご紹介した、天正14年4月17日付・鍋島直茂から成富十右衛門(成富兵庫茂安)への書状について、さらに考察を加えます。


『佐賀県近世史料第一編第一巻』中『直茂公譜考補五乾』には、沖田畷合戦で龍造寺隆信が戦死した直後から、豊臣秀吉の九州征伐に至るまでの佐賀藩の「正史」が記載されています。

大局としては、

■敗戦した龍造寺家では、当主・龍造寺政家の依願と家中の同意をもって、鍋島直茂が国政を取り仕切り始める。


■その後秋月種実の仲介によって島津家と和平。


■天正12年6月下旬から、筑後の奪還を狙い出兵してきた大友軍と交戦。


■同年9月には成富十右衛門が小早川隆景のもとへ派遣され、成富は上洛し豊臣秀吉に拝謁。龍造寺氏が豊臣秀吉に恭順の意を示す。


■天正13年、筑後で大友軍と龍造寺軍の交戦が続き、10月に戸次道雪が陣没。


■天正14年春、成富十右衛門が安芸国広島へ赴き、小早川隆景と面会、その後大坂へ上り安国寺恵瓊を頼み秀吉へ謁見。隆景から龍造寺政家宛2月23日付書状に「九州の義は前回お送りした書状の通り、静謐の儀、京都が御下知されるので、安心されて良い。」とある。3月初旬に龍造寺家から、千布相右衛門を大坂へ人質に出す。


■同年4月6日、龍造寺家から秀島進士左衛門を、島津氏へ人質に差し出す。


■同年7月、高橋紹運の籠る岩屋城攻めへ、島津方として龍造寺家から龍造寺家晴、江上家種、後藤家信、田尻鑑種、西牟田家親が参陣。


■同年秋、秀吉の九州征伐の動きが具体化する中、龍造寺家から島津家へ「義絶」を伝える。



★通説となっている上記編纂史料の内容ですが、特徴として、沖田畷合戦後、島津氏と龍造寺氏が具体的にどういう連携・連帯をしたのか、また筑後の支配権について島津氏がどういう対応であったのかが、殆ど記載されていません。おそらく敗戦・従属の屈辱と、往年からの筑後国領有の自意識が故に、島津氏との具体的な交渉記録が省かれているのではないかと考えられます。


この辺り、島津氏側からの視点で研究され、沖田畷合戦後の龍造寺家の動向がよく分かる良著があります。『島津四兄弟の九州統一戦』新名一仁 著 星海社 発行(2017年11月)P.142以降。Twitterで度々お薦めしていますが、改めて九州の戦国史ファンには、ご購読をお薦めします。

佐賀側の史料では見えてこない、島津氏側から見た龍造寺氏の動きがよく分かり、示唆に富む内容です。筑後領について、鍋島直茂が島津氏に対し強気の主張をしている事も興味深く、新知見でした。


また、ご存知の方はご存知かもしれませんが、高橋紹運以下が玉砕を遂げた岩屋城の戦いには、島津方として龍造寺軍も加わっていました。



さて、上記の情勢を踏まえまして、

ここから天正14年4月17日付・鍋島直茂から成富十右衛門(成富兵庫茂安)宛書状の考察です。


上記内容から分かるように、龍造寺氏は島津氏に従属しながら、豊臣政権へ恭順の意を伝え、毛利氏、小早川隆景を奏者として連絡を取り合っていました。



【原文】


三月廿二、案住小兵へ伝書、卯月十七日到着、披見、得其意候、
一、薩衆豊州入就彼是、急速質人之儀被申候条、此内申拵、此方存分之儀候、神文銘々被相調候上、種実人質此方へ被召置、四月六日、秀嶋進士左衛門被差出候、於此上二雖難有異儀存候、于今も種々違目之義、無正躰候条、熟談之一着無之候、如此相違於増長者、此方地盤無緩候、手前聊気遣被申間敷候矣、
一、爲質人、千惣被差登候、定而可爲参着候間、弥安国寺可爲御指南之由、千惣引合細砕申渡、其方事は早々下向待申候、其元様子被聞召度候由候条、申事候、
一、廣門・紹運事、人質取替、聢被申談候間、種実・廣門間之儀、弥隔心之躰、可有推量候矣、
一、隈部親永父子各別二て、親泰事は長野要害へ楯籠候処、従薩被差続候、永事者(→親が脱字と思われる。親永事者)、親類尽同心を以、多久河内江引入候、親人は自豊州少々加勢候由候へ共、難儀之通申来候、就其肥後国衆なとへも雑説無心事候由、申散候矣、
一、対馬波多親被仰談到平戸被差懸候、数度親へ異見雖被申候、如此候条、従是も寄々衆被差出、ひう、はい方両城切崩、敵弐百餘討取、被得大利事、
一、右之趣細書相認、芸州迄差遣候ツ、自然遅参もやと、任幸便、又々申遣候、其外筑後境目なと少も無替儀候、爲存知候、恐々謹言、
 卯月十七日  信生 (御判)
   成十  万いる  旅所   」


佐賀県史料集成 第二十六巻 『有馬雑記餘事』 P.268〜269


【簡潔意訳】:

鍋島直茂曰く「薩摩軍は豊後へ出兵するにあたり、当方に速やかに人質を出すよう伝えて来た。そのため、こちらも準備や起請文を調え、秋月種実から人質が当方へ送られて来た事でもあるので、4月6日、秀島を島津氏へ人質として差し送った。ここまでしたからには島津殿に異存はないだろう。島津氏との話し合いは、今まで意見の相違があり、落着していない。島津氏が増長するのなら、当方にも固い覚悟がある。この件に関しては、十右衛門、気遣いは無用じゃ。

一、上方への人質としては千布惣右衛門を送った。到着したら安国寺恵瓊殿の御指南の件を千布へ細かく申し聞かせて、その方は早々に佐賀へ帰ってきて欲しい。またその方の今の状況を手紙で知らせてくれ。

一、筑紫広門と高橋紹運との間で人質交換の相談がされている事は、反島津となる筑紫広門と、親島津の秋月種実との関係が、こじれるという事だ。推して知るべしという所だ。

一、隈部父子の事だが、隈部親泰は長野の砦に籠城し島津氏へ反抗している。隈部親永は龍造寺家中みなの同意のもと、多久の河内に匿い、保護している。隈部親人は大友氏から少々加勢をもらっているようだが、島津氏への抵抗が困難な状況だと知らせが来ている。肥後国衆たちの動向にも根拠のない噂があり、不安定だ。

一、唐津の波多親が、平戸松浦氏へ合戦を仕掛けるという。数度、制止をしたのだが、この如くである。我々からも、最寄りの軍を加勢に出した。そして日宇、早岐の両城を切り崩し、敵200余を討ち取り、大勝利を得た。

一、これらの詳細は書状に認め、毛利氏へ差し出した。もし到着が遅れるといけないので、この様にそなたへ書状を書いて送った次第だ。その他は、筑後境目の事などは少しも変わりは無い。上記お知らせしておく。

(天正14年)4月17日、鍋島信生(直茂)  
成富十右衛門へ  」



【考察】


▼島津氏が「豊州入」豊後侵攻を計画するにあたって、龍造寺氏に人質を差し出すよう求めた事が分かる。つまりこの時、関係性として龍造寺氏は島津氏に従属していた。

▼島津氏に龍造寺氏が人質を送るにあたり、秋月種実が仲介の骨折りをしていた。島津氏の要請について龍造寺氏がスムーズに従うように、秋月氏から龍造寺氏へ人質まで送っていたことが分かる。仲介者・秋月氏の人質を召し置いた事で、龍造寺氏が島津氏に人質を送ることになった点は重要である。

※ここの辺りからも、龍造寺氏は島津氏に対し、強気の姿勢であったことが考察できる。同時に『島津四兄弟の九州統一戦』で検証された、反大友・親島津の秋月氏の暗躍ぶりが窺える。

▼沖田畷敗戦後、島津氏に実質従属した龍造寺氏だが、「種々違目之義、無正躰候条、熟談之一着無之候」島津氏との話し合いの中では意見の相違があり、良好な関係ではなかった。

▼当該書状は、鍋島直茂が、秋月種実、高橋紹運、筑紫広門、隈部親永、隈部親泰まど、沢山の同時代の武将について一度に言及しており、その点で興味深い。

▼のちに肥後国衆一揆で誅罰を蒙る隈部親永は、この時期、龍造寺氏によって佐賀県多久市に匿われていた事が分かる。息子の親泰は島津氏に対し、出城に籠って抵抗を試みており、『島津四兄弟の九州統一戦』P151、新名一仁氏曰くの「(天正14年10月、田尻鑑種や黒木実久から肥後の島津氏に対し、筑後への出兵の要請がなされたのは)龍造寺氏が大友勢を排除するために仕掛けた策略と見える 」「龍造寺政家が『幕下』に入るとまで言って島津氏との和平を急いだのは、島津氏を大友氏との戦いに引きずり込むためであろう」との考察をベースとして考えると、父の隈部親永のみの身柄を保護し、息子の親泰が肥後で島津氏に抵抗を試みている点は、龍造寺氏が隈部氏を陰で支援することで、島津氏の北上を遅らせようと図ったのではないか。
この時、抵抗する隈部氏へ若干大友氏から加勢がきていた点も興味深い。大友氏も龍造寺氏もこの時期、島津氏の北上を遅らせることを図っていたとも考えられる。


▼佐賀側では殆ど知られていない、佐世保市での「井手平城の戦い」だが、この書状内容と、先日ブログに紹介した波多親の書状から、「従是も寄々衆被差出、ひう、はい方両城切崩」はつまり、「井手平城の戦い」と比定できる。※この点は、郷土史上新たな指摘かと思われる。

さらに、長崎県側の解説では、「大村氏・波多氏・有田氏連合 VS 平戸松浦氏の領地争い」とされる所、波多氏への加勢として龍造寺軍も参加していた事が判明する。※この点も一次史料を根拠とした、新たな指摘となるかと思う。そして、早岐の城を井手平城と比定すると、同時に日宇のどこかの城も、落城していた事が分かる。200名余の戦死者がでている事で、大規模な軍事衝突であった事が分かる。



以上です。



佐賀戦国研究会










posted by 主宰 at 01:08| 佐賀 ☀| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする