2019年01月06日

平成31年、明けましておめでとうございます。



謹賀新年


明けましておめでとうございます。
旧年も、沢山の方々にお世話になりました。厚く御礼申し上げます。
今年もどうぞ、宜しくお願い致します。


さて、今年の佐賀戦国研究会のお知らせを致します。


平成31年 2019年 佐賀戦国勉強・座談会

★連続テーマ:『隆信公御年譜を読む』
講師:中西 豪 (歴史家)
戦国大名・龍造寺隆信の生涯を追います。  


■ 第一回:平成31年 2月9日(土) 13:00 〜 16:30
場所:佐賀市市民活動プラザ(白山) 4階

■ 第二回:平成31年 3月24日(日) 13:00 〜 16:30
場所:佐賀市市民活動プラザ(白山) 4階


■ 参加費:各 300円

■参加自由、事前予約・連絡は不要です!


【その他の予定】

■『忘却の日本史』VOL.15、16、そして西日本編特別号(深川連載執筆中)
書店にて販売中です(無い場合は書店で注文可能)。
2019年春、第3稿「神代勝利」執筆予定。


★2019年6月下旬 「第二回 関ヶ原の戦いを再検討する」

ゲスト:白峰旬先生、高橋陽介先生、乃至政彦先生、各内諾済
※但し、福岡県北九州市小倉で開催します。



新年のご多幸をお祈り致します!

先年より書き進めております沖田畷の戦い史跡踏査会レポートも、順次UPします。



佐賀戦国研究会

posted by 主宰 at 02:48| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月30日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートG【2018.10/27】


引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその8です。

★レポート7は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/463274501.html


【俯瞰】下は島原市・中心部周辺の地図です。左の赤丸は「丸尾城(砦)」、真ん中の赤丸は島津・有馬本陣の「森岳(森嶽)」、右下の青丸は「浜の城」。(赤は島津有馬方、青は龍造寺方) 


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『上井覚兼日記』に、天正12年3月23日(沖田畷決戦の前日)に「三会の町(寺中城下)で龍造寺軍との小競合いが有ったようだ」と記されています。通説だと3/23には龍造寺隆信公本隊が寺中城周囲に布陣しているので、島津有馬方の斥候隊か、陽動隊でしょうか。いずれにせよ持ち帰られた情報が、島津有馬方の翌日の構えに活かされたのかもしれません。


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 (寺中城=三会城、踏査会の風景)


『北肥戦誌』P.680には、3/20〜3/23の間、龍造寺軍が続々と島原へ到着し、味方を援けるために「所々へ押詰め、防戦せられ」とあるので、島津有馬方も、状況を静観していた訳ではなく、決戦前に所々で(3/23三会の例の様に)小競り合いをしかけたり、逆に龍造寺方も押しつめて小競り合いとなっていたと思われます。

『直茂公譜考補四』には「廿日より有馬方の者共と矢合ありて、所々の敵を皆打散らされ、同廿四には・・」とあるので、やはり3/20〜3/23間は、本戦前の小競り合いが数件あったと考えられます。これらから、龍造寺方の人数が急増した事は島津方も把握したと考えられますが、ただしフロイス日本史の記述だと決戦前日に「龍造寺隆信自らが全軍を率いて接近しており、明日にも総攻撃に出る模様」という情報を、島津有馬方が得ているので、つまり3/20〜3/23の小競り合いから「敵が続々と増えているので、いつかは総攻撃に出て来るだろう」と予想はしていたが、「まさか明日とは」思っていなかった、という事でしょうか。


たしかにフロイス日本史の記述の様に、龍造寺隆信公の強さとは、過去の傾向上「相手が油断している内に、迅速に動き、急襲して勝つ」(例:村中水ケ江復帰戦、少弐冬尚&江上討伐、小田討伐)ことなので、今回も敵に知られない様にして、総力での急襲を仕掛けたのかもしれません。



           (必読本)
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完訳フロイス日本史10』P.275、島原半島のイエズス会宣教師たちを緊張させ不安にさせた事に「薩摩から派遣されてきた援軍は、当時はまだ少数だったことである。」とあります。

また『上井覚兼日記』に「(3月24日付)新納忠元と鎌田政近からの書状を預かった。『これまで味方の軍勢が少ない状況だったが、又四郎(島津彰久)殿、図書頭(島津忠長)殿、平田(光宗)殿などが着岸されたので、島原の落城は間もなくだろう』との事だ」とあり、彰久公は21日に渡海となっているので、少なくとも3/22頃まではイエズス会宣教師たちや民衆の認識として、島津の援軍は目に見えて不足していたのでしょう。

さらに、情報戦が垣間見える興味深い記述があります。「さらに有馬の幾人かの捕虜の若者たちが逃走したことも、司祭たちに不安を抱かせていた。これらの連中は、何らかの恩賞に与かろうとして密かに主君の家を脱出し、隆信に情報を提供してこう伝えた。有馬はいかに孤立し見離されていることか。もし貴殿がそれを占領しようと思うなら、先方には誰も抵抗する者はいないし、そのほか彼らは多く動揺し、不安に襲われ続けている、と。」『完訳フロイス日本史10』P.275


これ以前の時期、浜ノ城の城主・島原純豊公から龍造寺隆信公へ援軍を要請する際「必ずや勝利を博すでしょう。なぜなら薩摩の軍勢はごく少数であり、容易に撃破できると見えるからです」といった言上をしたとあります。(『完訳フロイス日本史10』P.269)


これら続々ともたらされたであろう情報を良く吟味した上で(実際、島津彰久公たちの増援軍が来るまで明らかに島津方は少数だったため)、龍造寺隆信公が島津軍をあなどった可能性は、大きいと考えられます。ただしそのあなどりは、単純な隆信公の「熊の豪気」や「暴君の傲岸」ではなくて、歴戦を勝ち抜いてきた戦略家による、冷静な情報分析の結果だったと言えるでしょう。



隆信公は、勝てると確信した。


一方、「果敢な武将である中務(島津家久公)は、従来よりいっそうの入念さをもって陣屋を固めさせ、陣地を整備させた。ドン・プロタジオ(有馬晴信公)も、自らは不便な地点に位置していたけれども、同様に堅実に構えた。」『完訳フロイス日本史10』P.275



かくして龍造寺隆信公は、進路を山手・中央道・浜手と三つに分け、徐ろに大軍を動かします。


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いよいよ決戦の時は近づきました・・・






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軍装の大山格先生と、晴天の普賢岳。(堂崎にて)







― レポートHへ続きます ―





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2018年12月19日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートF【2018.10/27】



引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその7です。

★レポート6は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/463095928.html


【俯瞰】下は島原市・中心部周辺の地図です。左の赤丸は「丸尾城(砦)」、真ん中の赤丸は島津・有馬本陣の「森岳(森嶽)」、右下の青丸は「浜の城」。(赤は島津有馬方、青は龍造寺方)

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<4>丸尾城(島原市本光寺町3380、本光寺境内の裏山)

【本光寺の門前に駐車場あり。車4台程は駐車可能】 

島原城から西へ、直線距離で1km程。緩やかな勾配を山手へと進み、車で7分程で着きます。

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本光寺の山門。

境内の裏手へ歩くと小山があり、その一帯が沖田畷合戦当時、島津家の勇将・猿渡信光公が拠った丸尾城址です。頂上は江戸時代に、島原藩主・深溝松平家歴代の御廟所として整備されました。

たしかに戦国時代に砦となりそうな遺構です。沖田畷激戦地から1km程の距離のため、頂上から見下ろせば戦況が確認できたとも思われます。

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(↑丸尾城跡の高みから。木立の向こうに、沖田畷方面の市街地が見下ろせています。)


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『有明町史』P.736の解説によると、島原土着の国衆・島原氏は、浜の城を本城として、北に寺中城、西に丸尾城、南に今村の砦を構えていたとされ、同P.737中、「山手西口方面を防禦する為の城砦として築かれた」とあり、「現在、城跡には石垣や石塁が残っており、附近には『辰の元』『出口』『折橋』等の地名が残っている」そうです。築城時期は不明。

つまり島原の郷土史研究上、丸尾城は沖田畷合戦以前から、島原氏の西の支城として存在していたと考えられています。

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運命の、天正十二(1584)年3月24日



「(龍造寺)隆信は三列を作って布陣した。その一つは山に沿って前進し、他は通常の道を通り、いま一つは海岸に沿って進んだ。」/『完訳フロイス日本史10』P.280


「(三月)廿四日には有馬、島津が本陣、森岳の要害を攻めらるべしと、備を三つに分けらる。一手は(鍋島)直茂公を大将にて中道へ向わる、(中略・その後)御旗本より俄に御下知ありて、御手分相替り、中道へは(龍造寺)隆信公向かわれ候條、山の手には飛騨守(鍋島直茂)殿向かわるべしと仰遣られけり。依って直茂公はすなわち山の手に御勢を直され・・」/『隆信公御年譜』(『直茂公譜考補 四』も同内容)


なお当時、鍋島直茂公は筑後・柳川城主であり、史料上も「筑後衆」を率いて参戦しています。



激突!丸尾城の戦い ―  鍋島直茂 V.S. 猿渡信光


「直茂公は山の手へ相向かわる。この陣は島津家人・猿亘越中守指堅め、柴垣を以て取囲い、其の蔭に弓の射手数百人、矢先を揃えて持懸しが、味方押上りし時、敵一同に柴垣を蹈倒し、雨の降る如く射掛て切懸る。時に味方すでに早敗すると見ゆ、されども(直茂)公の御勢入り乱れ猿亘弥次郎(信光の嫡男)を討捕り、中野式部以下の御手の者進んで、敵を討ち相戦いしに、・・・」/『直茂公譜考補 四』


「鍋島飛騨守信生(直茂の前名)は、政家の副将として山の手へ向われけり。時に神代次郎家良の家人等、同名(神代)弾正忠を陣代として信生の手に相加わる。斯くて合戦未だ乱れなき前、馬渡賢斎・矢作小右衛門純俊、味方に先を懸け、島津勢の陣場より艮の方、丸尾より乗入る。然るに此山の手は、薩州の猿亘越中守・同子息弥次郎以下、差固めたり。其勢の中より村岡加右衛門良珍と馬渡賢斎、太刀を合わせ、賢斎、村岡に討たれぬ。家人も一所に戦って疵を蒙る。村岡も亦手を負いけり。矢作小右衛門は敵中へ切入って、薩摩の侍・香西右馬助を討取りたり。斯くて敵味方乱れ合い、火を散らして戦いしに、佐嘉勢大に利を得、薩摩陣を切崩し、軍将・猿渡弥次郎を討取り、勇み進んで見えける處に、中の手(中央道)の佐嘉衆敗軍して、隆信落命ありし由、陣中風聞ありしかば、致家(政家か)・信生の士卒、忽ち力を失い悉く敗走す。(敗走の際に、神代弾正忠を始め神代家中が多く討死を遂げる・・)」/『北肥戦誌』青潮社発行 P.689~690


★【補考】:『フロイス日本史』では、当時の龍造寺家当主・龍造寺政家公も、兄弟と共に島原へ参陣しており、『北肥戦誌』でも政家公が参戦したとされ、その一手の副将が鍋島直茂公だったとあるのですが、ここでひとつ謎な事に、『直茂公譜』『直茂公譜考補 四』では、出陣者リストの中に、龍造寺政家公の名前は無いのです。出陣が事実の場合、龍造寺政家公は、直茂公を先手として山の手の丸尾城攻めを督戦していたことになります。
(追記)『隆信公御年譜』では「政家公は佐嘉の御城に御座なられ、隆信公御戦死の由聞召され、御泪を流され御悲哀大形ならず、」とあり、政家公は島原へは出陣せず、佐嘉城に居たことになっています。


「猿渡越中守信光、鍋島加賀守直茂が百騎許にて敗北するを追討、二男与次郎戦死す」/『藤原有馬世譜』


『後編 薩藩旧記雑録』十五(殉国名藪中)に、沖田畷合戦の戦死者として「猿渡與次郎」の名前あり。


→佐賀側の史料は「猿渡弥次郎」と記していますが、有馬家の史料では「与次郎」、さらに本国薩摩の史料には「猿渡與次郎(与次郎)」とあるので、「やじろう」ではなく「よじろう」の名が正しいと考えられます。

また、猿渡與次郎公は、有馬家の編纂史料では「鍋島の敗軍へ追い打ちを懸けている際、不慮の戦死を遂げた」というニュアンスですが、佐賀側の史料『北肥戦誌』では「薩摩陣を切崩し、軍将・猿渡弥次郎を討取り、勇み進んで見えけるところに」と、優勢の時に討ち取った事になっています。どちらが正しいのか、真相は藪の中です。


(2019.1/13追記)「主水戦功記」(『佐賀県近世史料』1-1、P.477)によると、丸尾城の攻防で島津家臣・猿亘與次郎(猿亘信光の息子)を討取ったのは、鍋島主水茂里であり、與次郎の太刀は主水家に相伝されている由、記されています。ここでは「與次郎」と記されています。



結果的には、丸尾城攻防中、龍造寺隆信公戦死の報を知った鍋島直茂軍は退却に転じる事となり、次々と戦死者を出しながら、柳川城へ向けて撤退して行きます。



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中央:大山格先生、右:橋本靖明先生。

主郭部へと続く石段を、上られています。


 


― レポートGへ続きます ―







posted by 主宰 at 01:10| 佐賀 ☁| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする