2019年12月05日

★東松浦表の錯乱について(一次史料雑記・備忘)



「戦国時代の鶴田家文書、後藤家文書、有浦文書、横岳家文書をざっと読んで分かったこと。


▼大友宗麟の言った「松浦表錯乱」が良く分かる。時々刻々、後藤・鶴田両家・波多の各氏が、同盟と手切れを繰り返しながら争い、大勢力には巧みな外交策で立場を確保している。誰がどう動くのか、訳が分からない印象。

一方、想像以上に大友氏の東松浦表介入が見て取れる。これは筑前支配に軸をおいた介入で、博多〜糸島から唐津は陸海で近い。


▼大村純忠の動きが「外側から」見えてこないか、東松浦の史料を探っていたのだが、大村は、唐津〜東松浦方面の紛争に、ほぼ介入していないと言って良いようだ。


この理由は『新編大村市史』を読むと分かるが、純忠の前半生、伯父系の庶家(純種や純重など)が林立・割拠しており強固な統一権力を得ていない。従って遠隔地の問題に介入する余裕はない。そしてやはり『佐賀県史料集成』で見えるのは、後藤との確執。大村の名前は後藤関係の文書に見えることが多い。(弓箭した、延引した、人質を籠めた・・)


▼今山合戦の時の、鶴田越中守前の二股外交の謎。たしかに大友方として大友派諸士と連動しているが、一方で鍋島信昌(直茂)とは戦争の最中に、味方同士としか読み取れない文面の書状を複数交わしている。どちらも一次史料に見える史実である。
一瞬鍋島信昌は「戦が負けそうなので保身のため鶴田と内通していたのか?」と疑ったが、信昌の文面を読んでも、大友は敵と明言してあり、鶴田は龍造寺の味方であるという前提の意思疎通が見える。しかし鶴田も、大友が圧勝する見込みの所を、何故龍造寺方と通じているのか?


→私見、上位権力の要請に従う=完全臣従ではないため、当時の豪族や国衆は、味方と通じながらも、敵とも通じていたということは良くあったのではないかと推測。白黒つけない処世術。


▼後藤貴明が悩み苦しんでいる書状。平戸と同盟は固いが、龍造寺にも良い顔をしないと、攻めて来そうだ。誓約は身命を賭して守るべきものであるが、このたび遵守できていない辛さ、忸怩たる思いである。いっそ切腹しても良いと私は思っている、しかし今は、なすべき事をなさねばならないので、恥をしのぶ。と言うような旨。戦国領主のストレスが満面に出た書状。ただ、こんな時代なので、受け取り手も「さてさて、本心か?」と冷笑したものかもしれない。当時の正邪は、良く分からない。


▼三根郡の横岳氏は、もうこれは完全な大友家臣。鉄砲や兵粮の支給を受けている。あとかなり忠実に、大友家の指令に従って活動しており、度々褒賞されている。交流関係も、肥前の田舎にいながら錚々たる大友家重臣や文官と音信しており、年末年始の進物も見える。「沈香」を横岳家はどうやって入手していたのだろう。


―――――――


有馬仙岩(晴純)→波多家中宛「御札披見候、御室豊州に被差遣候節、大小被下置之由に候、殊に藤童殿仮名並御字拝領、千秋万歳目出度候、従後室被加冠日(一字欠字)御書被持候之条、白地大慶此時に候、猶期後喜可略候恐々謹言 七月十一日 仙岩 判」(年欠)

/「松浦叢書」『北波多村史 資料編』H19.


興味深い文書を見つけた。御室は波多つぼね(真芳)で、夫死没後に一時期、波多家の政治外交を仕切っていた女性。豊州は大友家。藤童は波多親の幼名。この文書が、大友氏から波多藤童丸が、仮名と一字を拝領したという根拠史料か。
仮名は他文書から察して「太郎次郎」、一字は「鎮」。波多鎮のこと。


▼有馬仙岩が大喜びしている。この点においても、外山幹夫先生説(『大館常興日記』天文8年7月3日条により有馬仙岩は肥前守護職を得ていた事が判明)に対しての、佐伯弘次先生からの疑義(同日記に仙岩が肥前守護とあるのは検討を要する)が想起される。守護職なら有馬家通字「純」を自ら下賜すればよいはず。わざわざ豊州に打診しているのは、有馬晴純が大友家を上位権力と認めていた事になるだろう。


▼波多つぼね(真芳)は『大曲記』や『厳木町史 中巻』に依れば前多久氏の姫である。藤童丸は、波多家の跡取りとして有馬家から養子に入った男児。西肥前の覇王・有馬仙岩の意のままかと思いきや、藤童丸の仮名と諱一字は、大友家の威光を拝している。これをどう考えるべきか。


▼『北波多村史 資料編』の戦国期の一次史料群を見て行くと、波多氏は、対馬の宗氏とは基本的に非常に親密。大内氏、大友氏、毛利氏に対しては時宜を見て従属・鞍替えし、巧みに世渡りしている。波多鎮は平戸松浦氏とは基調として仲がよろしくない様子。後年、龍造寺隆信の攻勢に屈伏。


▼145号波多鎮→有浦四郎左「平戸へ永後可為儀絶のよしを被書載候て肝要候」(年欠) ⇔ ■146号 (平戸)松浦隆信・鎮信→ 鶴田因幡守「一、於波多鎮、為某、向後入魂有間敷事」 あとは、天正13〜14年の波多鎮書状に、波多家の所領であった壱岐島を、松浦氏に奪われたままである事への恨みが記載有。」







↑ 『忘却の日本史』第16号 「大友宗麟と毛利氏包囲網」 /

大友宗麟の覇業がよく分かります。お薦めの一冊です。龍造寺隆信の側近「肥前田原氏」についても収載です。全国に読まれることを願います。






佐賀戦国研究会 深川 記










posted by 主宰 at 23:50| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月27日

【まとめ】嬉野の忍者・佐賀の忍者と調査事業について




最近、全国メディアやローカルメディアから「佐賀に忍者がいた事を知りましたが」「どういう内容ですか?」「どういう発見ですか?」というようなお問合せが複数有り、世間は本当に忍者ブームなのだなと実感しています。


ただ、金銭的仕事ではなく問合せに応じるのみなので、複数社こられて期限付きの回答を求められると、さすがに負担を感じます。

公共に資する内容であるため、できるだけ誠実かつ遅滞のない様に回答していく方針です。しかし、よくある問合せに対しましては、以下の【まとめ】を参照して頂きますよう、お願い致します。

(メールでも、まずはこちらを参照頂くよう、返信する方針です。)


★前提


【忍者の定義・忍者とは】 

情報収集が主たる任務。間牒、間者、スパイ。工作員。忍術を使用する者。
日葡辞書 「Xinobi」の用例「Xinobiuo suru」により、“忍びをする”者。
忍の仕事は、忍び “が” するもの(専任)とは限らず、忍び “を”する者が忍者と考える。

※吉丸雄哉先生からの御教示によれば、戦国期の臨時の任務 → 江戸時代の組織編成された職業へ変遷。厳密には、時代によって定義は変わると考えられる。



【忍術とは】 総合的知識に基づくサバイバル術。

山田雄司先生の定義 に基づく。「忍術書には、心構え、侵入術、破壊術、武術、変装術、交際術、対話術、記憶術、伝達術、呪術、医学、薬学、食物、天文、気象、遁甲(とんこう)、火薬など多様な記述がなされている。何事にも耐え忍び、人間の気質や自然環境、社会環境を掌握する(術)」。



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★佐賀戦国研究会とは:
http://sagasengoku.seesaa.net/article/459492959.html



【まとめ】(2017年〜2019年)


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★忍者研究の専門家、三重大学教授 山田雄司教授に認定された、

嬉野市に実在した忍者
とは。(3名)


彦山八天狗 弁慶夢想 【タイ捨流の剣術そして忍法を極めた山伏】 基本は肥後相良藩所属、一定時期嬉野(塩田)に滞在。

田原安右衛門良重 【細作】 蓮池藩から島原藩内へ密偵として派遣された。その後、塩田役所長官へ出世。   

古賀源太夫 【聞合方御用】外国船が長崎に来航した時に、2度、情報探索を命じられ、長崎へ派遣されている。






↑第二回国際忍者学会 基調講演「佐賀藩における忍者」 深川直也(佐賀戦国研究会)/ 佐賀の歴史と忍者について、基調講演の内容です。31分程。

International Ninja Research Association” convention. https://intlninja.com/

日時 :2018年9月8日(土)〜9日(日)
場所: 佐賀県嬉野市公会堂 (嬉野市)
主催 :国際忍者学会、特定非営利活動法人九州忍者保存協会
共催: 日本忍者協議会、三重大学国際忍者研究センター
後援 :佐賀県、嬉野市、佐賀新聞社、NHK佐賀放送局、サガテレビ、NBCラジオ佐賀、エフエム佐賀、肥前夢街道





★Yahooニュースにまでなった佐賀には忍者が14人いた!について。

正確には「先年まで忍者情報が判然としなかった佐賀県において、嬉野市の忍者発掘事業を契機に、忍やそれに類する者の史料情報が14名分提示できるまでになった。」という論旨の発表が大げさな報道見出しになってしまったものです。

★正確な論旨はこちらをご参照下さい: 三重大学 人文学部・人文社会科学研究科公式HP(深川発表要旨)http://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2019/2019-2.html





↑佐賀戦国研究会特別出張公演「ここまで分かった佐賀の忍者史」(約75分)

日時:令和元年7月15日(月/祝)
会場:嬉野温泉 入船荘
主催:特定非営利活動法人 九州忍者保存協会
共催:佐賀戦国研究会
後援:リタジャパン


※レジュメを全体公開しますので、必要な方はダウンロードをお願いします。
原文のほとんどや、典拠情報が全て収載です。↓
(修整版)5月18日(佐賀・深川レジュメ).pdf




レジュメ内容:


【1】「間者」・無名 / 龍造寺隆信配下。離間計の遂行者。天文22年8月 


「伝に曰く、此時神代方へは隆信と小田、江上と内通有て神代を倒さんとすべき術也と。拵へ又小田、江上へは神代と隆信と内通有て小田、江上を計らるべき術ありと。出家商父の雑説交々有し故、互に心を置き合て隆信帰城の時此三家出勢なく、隆信輙(たやす)く城に入しと也。若し神代、江上、八戸、高木、小田一致して戦はば、今度の帰城叶ふ間敷を。隆信之を了簡せられ間者を以て斯く所々に雑説を云はせられし也。是れ能き謀なり勝利公も後に称美し玉ひける。」 (『神代家伝記』)



【2】「間者」「内間」・小副川左衛門 / 神代勝利配下。天文22年8月〜天文24年8月までの間


「(神代勝利は)小副川何某と云ふ者に心を合せ態と科を設け、勘当して佐賀へ内聞(※おそらく内間の翻刻誤り)の為めに出だされけり。此者隆信を頼むの色を見ずして勤仕しければ、隆信山内へ案内の為め常に懇ろを加はれ所領を給りけり。此者の内外に付能く伺ひ、密符を以て勝利公へ時々告ける故、毎度隆信の術に落ち玉はず。(中略、その後、龍造寺隆信による神代勝利への不意討ち作戦の際、)今度は隆信の不意なる術なる故に、内間之を知らず告げざりしかば(神代勝利の城は落城した。)」 (『神代家伝記』)
(『葉隠聞書 第六』 に同様の記述あり、間者と書かれている。)



【3】「草履取り」・無名(見事な七方出)/ 神代長良(勝利の継嗣)配下。永禄8年8月中旬


「茲に又長良公の御草履取何某と言ふ者、偽りて狂気となり、様を変え山内を巡り戯言を云ひ囃し、或は人形を舞はしめ又は猿を使ひ、常に三瀬の城辺に至て窺ひける。彼の城番も之を呼びて様々に嬲(なぶ)り翫(もてあそ)ぶこと度々に及び、後には心安く城に出入りしけるが、或時城番油断しける隙を能く見澄まし、急ぎ駈返り近所に有合う味方の浪人共へ告げたりしかば、即時に藤原山の内、西川寄合原に会合し、密かに会議を凝らし、草履取を城中に忍び入らせ、火を放たしむ。味方の浪人共之を見て、一度に鯨波を作りて押寄せ散々に攻め掛かる。城番は不意の事なれば防ぐべき様もなく、」(『神代家伝記』)




【4】「斥候」・無名 /鍋島直茂配下。元亀元年8月


「或はいふ、此時信生(鍋島直茂)、宵より今山の(大友)八郎が陣へ斥候を遣しけるに、走り帰りて告げるは、豊後衆、明日は城乗とて大将も士卒も首途の祝、上下酒宴し、夜討などの事は努々思寄らず候、弥々御勢を急がるべしと申す。依りて信生、弥々力を得られしとなり。此斥候の士、成松刑部大輔とも、又秀島源兵衛が与力合満何某といふ者なりとも。」 (『北肥戦誌』巻之十九)  P.61〜P.62




【5】「間牒」・無名 /鍋島直茂配下。肥前国杵島郡・須古城攻め、天正2年3月

「攻伐不自由、横辺田滞在弥月、鍋島氏通間牒於平井直秀、」(『泰巌公御年譜』)




【6】「肥前の坊さん」(剣術指導・安楽平城)/神代長良配下か。天正7年3月〜9月頃 ※口伝


・福岡市早良区脇山の古老・吉岡氏が語った口伝。肥前の坊さんが安楽平城主の嫡男、小田部九郎に剣術を教えにきていた。その内、諜報を目的に来るようになり、長らく籠城を続ける安楽平城の水の供給源を把握し、龍造寺方へ伝えた。龍造寺軍は池田の山伏を案内役に、城の水の手を急襲・破壊し、以後の籠城を困難にさせた。/『安楽平城物語』 (その3)P.31〜P.32 (1979年5/27の記事とあり)
著者はこの坊さんについて、密偵に任じられた者ではないかという旨を指摘している。(P.34)



【7】「忍」・無名 / 鍋島直茂配下。天正7年(1579)3月下旬


「(小代)宗全は是を聞大に怒り、同名越前守と長臣荒尾摂津守家経に人数二千を副へ、芥田~と云所迄押寄る。(鍋島)直茂公兼て梅尾に忍を被入置者走り来り、此由り告るに依て、伏兵を被起、越前守を木下四郎兵衛討捕けり。荒尾は辛々遁れ、梅尾に引返す。直茂公の御勢、梅尾迄押詰、町小路に火を掛る。於爰宗全先非を悔降参す。是肥後衆御手に入初也。」(『隆信公御年譜』)




【8】「忍」・無名 /空閑三河守光家(可清入道)配下。忍衆を組織していた? 天正8年6月下旬


「此空閑三河守、于時入道号可清、六百町を領し中佐嘉の内、渕に在城す、常に忍びの上手を多く抱置、盗乱妨を指免して、無扶持に召仕し者也、其故に此時も、彼家人一番に城中へ忍び入り、大将小佐井を生捕りけると也、」『直茂公譜』(三)
空閑三河守は龍造寺隆信の重臣(知行5千石程)で、度々武功を挙げ、隆信の信頼も厚かった。




【9】「茶売」・無名 / 筑紫広門配下(たまこ火のスキル) 天正11年3月7日


「天正拾壹年癸寅(未)三月七日之夜、甲待(庚申待)之時、筑紫家より為策略、茶売を仕立候而、岩屋に登せ申候、虚空蔵台より茶を売下、人目をはからひ、家の作相々にたまこ火をなげすてて大手迠、茶売体に而下候而、其儘武蔵城之ごとく走入候、如此たまこ火仕廻候てより、帆足弾正方へ申候へば、則(筑紫)広門へ忠進申候へば、覚悟仕候人数打立候へと觸申候間、はや暮に成申候、然ば彼なげ火所々より焼立申候間、先焼申候所をけし二人数寄候へば、そこも焼ここも焼あわて申候間、夜半程岩屋之家一ツも不残焼落申候所に、筑紫衆乗取為可申、観世音寺辺迠人数を寄せ候へ共、宝満之衆かけ付被申候間、焼落申計に而引取申候、此由立花には八日朝巳ノ刻計に相聞へ申候間、」/『豊前覚書』 城戸清種 著、元和元年(1615)2月成立。信頼できる貴重な史料と評される。/『博多・筑前史料豊前覚書』城戸清種 著 川添昭二・福岡古文書を読む会 校訂 文献出版 発行(1980年9月)P.34




【10】「忍にて見積り」・吉武弥右衛門 / 多久安順の陪臣(田代組の組子) 慶長5年8月中旬


「某共先祖吉武弥右衛門儀、廿歳にて高麗陣江、天叟(多久安順)様致御供罷立候、其節田代二良左衛門与に被相付候、其時分は五拾人与にて御座候、其後伊勢陣に相立候、然時津城御当り被成候間、津城懸り場夜忍びにて見積、二良左衛門方へ被仰付候、与よりは右弥右衛門壱人相付候、城之間潮満川にて候間、某川之瀬蹈可仕とかけ渡り、城廻見届、塀之様子見候得ば弱御座候間罷帰候、二良左衛門へ城懸り場能、塀弱候条、此方より御懸り可然由申候得共、其方斗にては無覚束候と被申渡候て、見被申候得ば、弥右衛門見如申候御座候故、右段々様子御前に被仰上、其後二良左衛門手引にて、此方御一手無別条、城を御乗取被成候、一方よりは何之宰相殿とやらん御懸り被成候由、関原相澄、其後柳川陣に罷立、已後与不相替、只今迠代々御奉公申上候事」 /「田代長右衛門与 吉武六左衛門 吉武宇左衛門 吉武弥右衛門 (連署)」由緒差出 (元禄年間1688〜1703年頃) 『水江臣記』巻第三 P.132 秀村 選三・細川章・多久古文書学校 編集校訂 文献出版発行(1986年11月)




【11】「忍之者」・無名  鍋島勝茂宛 細川忠利書状  (寛永14年)12月28日付


「一、原之城は人多と、我等は承候、其わけは新丸を二丸取出候由申候、人すくなにては左様には仕間敷候、もはや仕寄も近可有之候間、頃は様子も聞合申、おしこみ候共、事之外御人数損可申候、(闕字)上使之衆は如何御申付候哉、一、石火矢は内之かこい能候て、さのみ迷惑不仕由、承候、是又如何、一、城内へ忍之者など御入候事、定成かね可申候、但如何候、人数は何程内に御座候哉、落人など御座候はばしれ可申候、」『細川忠利文書 十四』3901号 (寛永14年)12月28日付 細川忠利→鍋島勝茂(佐賀藩初代藩主)宛書状(『大日本近世史料』・東京大學史料編纂所編)  → 鍋島藩も忍之者を使役できた?




【12】「細作」・田原安右衛門良重 佐賀藩支藩・蓮池藩の侍 寛文7年


「寛文7年(1667)(中略)、是の年島原城主高力左近罪有り。国除かる。島原騒擾す。(鍋島直澄)公、田原安左衛門(安右衛門)をして細作となし島原に遣り、以て其の動静を探らしむ。安左衛門は才学有り。官塩田頭人に至り、嘗て蓮葉隠一部を著し後世に伝う。」 /『蓮池日史略』第一巻
安右衛門は鉄砲足軽組頭や細作を務め、最終的に嬉野塩田役所の長官という高い地位に昇りつめた。




【13】「忍法」・彦山八天狗 弁慶夢想(伝林坊頼慶) 嬉野市に滞在し、タイ捨流剣術を指導。


先行研究上、山伏かつ剣術家の「彦山八天狗 弁慶夢想」と、伝林坊頼慶(肥後相良藩所属)は同一人物とされている。ただし頼慶が丸目蔵人の直弟子であるので、元禄の伝林坊は世襲数代後の人か(兵法タイ捨流 師範 山本隆博先生曰)。
「タイ捨の一流、佛の勧行と共に修行すべし、忍法修業も同じ、秘事を守り日夜の修行也。」

・「犬隠れの術」・「柴隠れの術」・「木の葉隠れの術」

「鎖の大事。ヒバカリ蛇を生きながら息を込めて黒焼きにして、成程粉にして持つべし。鉄鎖によし、身に付いても切れず、縄を腐らすによし、かたびらにも塗る也。」

「右の條々、忍の内、秘事なり。毛頭侘見・侘言これ有るまじきもの也。」/『タイ捨流忍之内極意秘密之巻(写)』元禄2年3月




【14】「内密の御用」「聞合方」・古賀源太夫 幕末期蓮池藩の下級武士、生没年不明。


諜報活動:嘉永6年8月〜安政3年4月、主に異国船渡来の事情を探る任務であった。安政2年正月時点での役職「御火術方」、安政2年6月時点での役職「御作事方」。(一次史料『日記』・『(蓮池藩)請役所日記』)




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★調査事業参加のきっかけと経過。


2017年夏頃に、肥前夢街道忍者村から調査参加依頼を受け、佐賀戦国研究会代表深川が参加。以降、忍者村さん及び三重大学山田雄司教授と協働調査・研究を行う。

2018年2月までに、史料により田原安右衛門、弁慶夢想(伝林坊頼慶)、古賀源太夫を特定。公式発表。「嬉野に忍者はいた」

2018年9月8日 第二回 国際忍者学会(佐賀県嬉野市にて開催)基調講演にて、佐賀戦国研究会 深川が詳細を講演。

2019年5月・三重県伊賀市にて、7月・佐賀県嬉野市にて、忍者調査事業によって、忍者に関する14名のデータを発表。「佐賀県全体の忍者情報へアップデート」

2019年10/12〜 中冨記念くすり博物館(佐賀県鳥栖市)企画展「忍者とくすり展」入口前解説パネルにて、佐賀の忍者について掲示される。




★メディアリンク:

佐賀元祖忍者村 肥前夢街道 HP:https://www.hizenyumekaidou.info/

九州忍者保存協会 YOUTUBE:https://www.youtube.com/user/KuNinKai

九州忍者保存協会 HP:https://www.kyushu-ninja-association.jp/



★三重大学 山田雄司教授のYOUTUBE:https://www.youtube.com/channel/UCYuLjt9Ixq1AVVnl3yPHA5Q/videos

★忍者の歴史や概説が分かりやすい「NINTUBE」:https://www.youtube.com/channel/UCoT2xOCQqOKjDCaNZv2aMVg

★有名な忍者研究・情報サイト「忍びの館」:https://ninja-yakata.net/

★佐賀戦国研究会 YOUTUBE:https://www.youtube.com/user/Cogito907





★佐賀の忍者を知るための図書、2冊




★『そろそろ本当の忍者の話をしよう』 (最新版忍者ビジュアルガイドブック) 単行本 – 2018/8/25
佐藤 強志 (著, 写真), 山田 雄司 (監修), ふるかは ひでたか (イラスト), 清川 繁人 深川直也 伊藤誠之 (その他)

※佐賀藩、蓮池藩の成り立ちと忍者関連について詳しく掲載されています。


↑AMAZONで購入可能です。







★『忘却の日本史』第15号(2018/8/6)
P.58~67 「佐賀の忍者・山伏・天狗」深川 直也 著 / 2018年までの情報は網羅されています。佐賀の忍者を詳しく知りたい方にはお薦めです。


↑AMAZONで購入可能です。




【 Q&A履歴 】:



Q:佐賀県の忍者のルーツは、伊賀・甲賀どちらがルーツになるのでしょうか?
それとも全く別の発祥というイメージですか?


A:佐賀県の忍者のルーツは、今のところ伊賀・甲賀との繋がりは見えません。
発祥は不明という感じです。だた九州発祥とも言えず、何とも分からない状況です。




Q:忍者全般への質問なのですが、伊賀者・甲賀者が、戦国時代〜江戸時代にかけて、どのように全国に広がっていったのか、一説としてで結構なので、ご存知でしたら教えて頂けますか?可能であれば、その理由も合わせて教えてください。


A:
戦国時代の近畿圏で、優れた城攻めの技術を持っていた傭兵集団の伊賀衆・甲賀衆は、織田信長の「天正伊賀の乱」などの被害もありながら、それ以降も、伊賀衆・甲賀衆として織田軍〜豊臣軍のもとで活躍をつづけ、天下統一した秀吉の兵農分離政策で「衆」としての組織が否定、解体されます。

秀吉が配置した新領主・新体制のもと、伊賀衆は浪人になるか百姓になるかの選択が迫られ、この風潮に抵抗する者は国外追放となるなど、甲賀でも同じような状況で、これ以降、個々人で他の地域の大名に仕官したり、各地に散らばる事になります。(それより前から、他の地域の大名に仕えていた者もいます)

江戸時代になると、徳川家康の家臣・服部半蔵正成が、江戸の半蔵門前に屋敷を構え、城の警備を任されます。このように伊賀者・甲賀者はその「忍の技術」でもって各地の大名に召し抱えられ、下級武士として、警備役や情報収集などの公務を行いました。

※上記の典拠資料:「伊賀者・甲賀者考」藤田達夫 著(三重大学)『忍者研究』第一号(2018.8月発行)に収載。


★地方に散らばった例:徳島県徳島市HP:https://www.city.tokushima.tokushima.jp/smph/johaku/meihin/page02-00/tokushimahistory19.html

★青森県、弘前藩の甲賀系忍者「4代藩主の津軽信政公が甲賀出身の中川小隼人を召し抱え、中川流忍者集団を形成、長い間、活動していた」https://www.sankei.com/economy/news/170909/ecn1709090016-n1.html

★島根県松江市:「松江藩に忍者」古文書で裏付け/三重大教授講演 (朝日新聞 2019年10月13日)
https://www.asahi.com/articles/ASMBD4QBQMBDPTIB009.html
本文より:「1620〜33年ごろの松江城下の町割りが描かれた『堀尾期松江城下町絵図』を調べたところ、現在の外中原町付近に『伊賀久八』など伊賀国(三重県)出身者とみられる名前が約40軒密集していることを発見。その後、岡山池田家の古文書で松江藩に『忍者』が存在したことが裏付けられたという。山田教授によると、織田軍と争った天正伊賀の乱の後、伊賀を逃れて浜松(静岡県)の堀尾吉晴に仕えたという。堀尾家とともに松江に入り、大坂夏の陣に鉄砲隊として参加するなど忠晴の代まで松江藩にいたという。山田教授は『普段は治安維持や情報収集のほか、鉄砲の訓練をしていたのではないか』と話した。」



Q:江戸時代以降に、甲賀流・伊賀流の全国への広がり方に傾向はあるものでしょうか?想定される理由も分かれば、合わせてお伝えください。

A:この全国分布については、私は把握しておりません。



Q:佐賀の忍者に特徴はありますか?

A:管見の限り特別な特徴は、現在のところ無く、「佐賀独自」の忍法・忍術も見いだせておりません。

具体的には、上記に掲げた空閑三河守の配下の忍の記録から、戦国時代には組織編成されていたケースも窺えますし、私見では山伏がその技能でもって忍者に近い役割を果たしていたと思われる事や、その他、臨時の役割として武士が務めたケース、江戸時代には藩の公務として忍を務めたケースなどが散見されますが「統一的な何か」は見いだせておりません。



Q:九州の他の県にも忍者はいたか、ご存知ですか?

A:戦国時代の九州一円には、必要に応じ雇われるフリーランスの忍者が存在していた可能性が高いです。

孫引きですみませんが、以下の内容を紹介します。


『新版 雑兵たちの戦場』藤木久志 著 朝日新聞出版 発行(2005年6月)より /
P.133  相良氏法度(1555年 晴広法度) 三十三条  (相良氏は熊本県球磨地方の領主)

「一、人よりやとわれ候て、夜討、山立(山賊)、屋焼き(放火)の事、やとわれ主・雇主、同前に成敗」
訳:(人から臨時に雇われて、夜討、山賊、放火の事については、雇われた側、雇った側、どちらも成敗する)

上記に掲げた佐賀県鳥栖市の戦国国衆・筑紫広門の「茶売り」の特殊な放火スキル「たまご火」の事も含め、臨時で雇われる技能者がいたものと考えます。


また、薩摩の島津氏が忍者を使役していた話は、歴史研究家・桐野作人先生が2019年に詳細を発表されました。
http://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza/2019/2019-3.html




以上、よろしくお願い致します。

特に、講演動画:「ここまで分かった佐賀の忍者史」について、
(一)レジュメをダウンロードして頂き、
(二)動画をざっと見流して頂ければ、

「佐賀の忍者がどのような人物で」
「どのような動きをしたか」
「根拠史料はなにか」

が分かるようになっていますので、まずは御覧下さい。




佐賀戦国研究会 代表 深川 直也    



(2019.11/27現在の情報です。)






posted by 主宰 at 03:23| 佐賀 ☀| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月25日

★肥前千葉氏(九州千葉氏)が、歴史雑誌の記事になりました。



★『忘却の日本史』第20号(2019.11/25)発売されました!メイン特集は明智光秀です。

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連載枠、今回は、佐賀戦国研究会 代表 深川による「肥前千葉氏と戦国前夜(前篇)」(P.78~P.86)です。


歴史雑誌史上一番詳しい肥前千葉氏(九州千葉氏)記事となり、
これは九州発の歴史雑誌だからこそ、できる事でしょう。

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前篇12,000字については、千葉氏の肥前下向から、応仁文明の乱までの、歴代当主の列伝的なまとめです。当会は2016年に肥前千葉氏の小冊子を出したことがあるのですが、近年の佐賀大学の論文を踏まえる等、大幅にアップデートしています。中でも「千葉元胤が朝鮮貿易をしていなかった」という新たな学説には、大変驚きましたが、これも佐賀大学で肥前千葉氏研究が進んでいる証ですね。そうした内容も紹介しています。



『忘却の日本史』のキャッチコピーは「今甦る!忘れ去られた真の九州史!」。まさに千葉氏が九州に下向した後、北は福岡県から南は鹿児島県にまで及ぼした影響の大きさは、ほとんど知られていません。

鎌倉以来の名門、肥前千葉氏が、少弐、大友、大内各氏とどのような関係にあったのか・・・・?


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全国そして千葉県の千葉氏ファン、そして佐賀・小城の肥前千葉氏ファンには是非お読み頂きたい内容です。


佐賀県内では、積文館や明林堂書店の歴史コーナーで購入可能。

↑アマゾンでも購入できます。




どうぞよろしくお願いします。




佐賀戦国研究会







posted by 主宰 at 02:04| 佐賀 ☀| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする