2019年10月09日

★神代勝利は筑紫惟門の「反大友同盟」に属していたのか?




この文章は『忘却の日本史』第19号「神代大和守勝利(後篇)」に収めきれなかったもので、本編の考補である。併せてお読み頂きたい。 


全盛期を迎えた神代勝利は筑紫惟門の主導する「反大友同盟」に属していたのか。以下に、或る一次史料を紹介する。

「態令啓候、兼而可遂案内之処、乍存知相過候、然ば東表豊州衆程近取寄候条、少荷物指遣候、堅固被召置可給候、本田起秀深重候条、不可有御気遣候哉、尚彼者申含候条、不能重翰候、恐々謹言」

年欠8月19日付、立林坊宛・神代勝利書状
(『丹邱邑誌』深江順房 撰、多久古文書の村・秀村選三・細川章 校訂、文献出版発行、平成5年10月、192頁)


内容は「連絡をする必要がありながら御無沙汰しております。近日、大友軍が東肥前へ攻め寄せるようなので、荷物を少し遣わします、堅固に召し置かれて下さい」といったもので、以下に内容を検討する。


▼ 立林坊は現在の佐賀県多久市の有力な山伏であり、神代勝利が山内のみならず、小城市の西の多久市域にまで影響を及ぼしていた事が指摘できる。勝利が阿含坊や、東持坊、実相坊などの山伏を配下として使役していた事は『神代家伝記』等で判明しており、立林坊との交流も、山伏集団の広域的ネットワークを活用したものであったのかもしれない。

▼ この書状は年欠であるが、『肥前勝尾城主筑紫氏に関する基礎的考察』(堀本一繁著 1997)や『西国の戦国合戦』(山本浩樹 著 吉川弘文館 発行 2007)、『北肥戦誌』(佐賀藩の軍記物)などを参照するに、弘治元年から三年にかけ、現在の佐賀県鳥栖市の国衆である筑紫惟門や、福岡県朝倉市の秋月文種を中心とした「反大友同盟」が形成される中にあって、弘治3年7月に秋月文種が大友軍に攻略され、直後、龍造寺隆信が大友氏の東肥前侵攻を見越して恭順の意を示した同年7月24日と同時期の、弘治3年8月19日の可能性が高いと考える。

そして神代勝利の存命中かつ彼が成人して以降(1511年〜1565年、つまり今山の戦いの5年前には死去)、豊州衆(大友軍の事)が東表(神代領から東の方面)へ、取寄る(※)→軍事目的で東肥前へ接近するような機会は、筑紫惟門征伐の時くらいしかない。なお惟門が大友氏に敗れ隠居させられた後、筑紫鎮恒(のちの筑紫広門)が当主となり、以後大友方として活動する。

(※)取寄る(とりよる):日葡辞書によると、対象に近づくこと。異義に、ひとにとりよる、つまり取り入る、親交を結ぶ意味があるが、ここでは前者の意味と捉える。


背振山系を俯瞰すれば筑紫氏と神代氏の勢力は隣合っており、独立不羈を保つため筑紫惟門と神代勝利が協働する事は不自然ではないが、この書状だけでは、神代勝利が反大友同盟に加担していた証明にはならない。その理由など、以下で諸々考察する。


▼ 豊州衆は明らかに東肥前に接近しており、神代勝利は何かの荷物を、逆に西方面の立林坊へ「堅固に召し置くように」と預けている。この事から大友軍の行動を警戒している、何かに備えていることは間違いない。そして大友軍が東表に現れたのは、筑紫惟門征伐のためであるので、その事態に対しての備えである。

▼ 文中で勝利は、豊州衆が寄せるので、私等も出向くとも、加勢のため物資を送るとも言っていない。つまり大友方に協力姿勢は見えない。

▼ 筑紫氏に言及がない。味方の姿勢も見えない。

▼ 勝利は「お気遣いは不要です」と書いているので、緊急の危機には瀕していない事が分かる。

▼ 過去大内氏による少弐氏征伐が催された際の進軍ルートを鑑みるに、筑紫氏の本拠地である鳥栖市方面から、神埼郡へ進み、小城郡を制圧している。つまり東表の筑紫氏が戦で敗れると、大友軍は勢いを得て神埼、小城、佐賀、つまり神代領へと攻め寄せる可能性がある。(そのリスクのために龍造寺隆信は、早々と大友方に恭順の使者を送った)

上記のことなどから、神代勝利が大友氏の味方なのか、筑紫氏の味方なのかは不明。


ここからは想像の域だが、



・龍造寺のように実際は大友氏に恭順の使者を送っていて、万が一大友とトラブルになった場合も想定して備えていたか。

・または筑紫惟門の「反大友同盟」に加担し、背後から筑紫氏を支援しながら、今後の大友軍の動向を静かに覗っていたのか。

・または二股外交で、大友氏に恭順しながら、背後でひそかに筑紫氏を支援していたか。



ともあれ、結果的には、この書状だけでは、神代勝利は筑紫惟門の主導する「反大友同盟」に属していたとは言えないが、今後なにか興味深い史料が見つかり、新たな神代勝利像が見えて来ることを願う。



佐賀戦国研究会 代表 深川 直也   (2019.10/9 記)





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↑『忘却の日本史』第19号「神代大和守勝利(後篇)」本編は、AMAZONで購入ができます。





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2019年10月05日

★「龍造寺隆信」と「神代勝利」が歴史雑誌に掲載!




2019年9月同月、別々の歴史雑誌に「龍造寺隆信」そして「神代勝利」が掲載されました。

肥前の戦国史関係では、稀有のことです。



★『歴史群像』2019.10月号、No.157 (学研プラス) P.94〜P.103

“肥前の熊” 龍造寺隆信 【前編】国衆から肥前の覇者へ」 中西 豪 著

「佐賀平野の一国衆だった龍造寺氏を、一代で九州三強の一角にまで急成長させた龍造寺隆信。その肥前統一までの「下剋上」の過程を見る。」※後篇が、2020年4月号に掲載予定との事。

『史伝鍋島直茂』著者・中西豪先生が紐解く、龍造寺隆信の人物像と政治的実態。九州戦国史クラスタには必読の記事となっています!内容は勿論手堅く、非常にお薦めです。ぜひお読み下さい。


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★『忘却の日本史』2019.9月号、第十九号(株式会社ドリームキングダム)P.64~P.75

神代大和守勝利 【後篇】 − 流星光底、龍を逸す −」 深川 直也 著

同誌17号(前篇):神代家の由来や、天才剣士神代新次郎が山内の盟主となるまで。

18号(中篇):龍造寺氏との確執や謀略戦、谷田崩れの事や、福岡県糸島の神代姓の事など

19号(後篇):山内復帰から、龍造寺隆信との決戦。阿含坊の詳細。また大友氏、少弐氏、筑紫氏などの周辺状況。遺骨の行方についての伝説など。完結編。


神代勝利の一生がここまで詳細な記事になったのは、歴史雑誌史上初めての事です。(3篇、4万字。系図、年表、現地写真付き)
これまでの通説以上のことをお知りになりたい方は、ぜひお読み下さい。


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上記こちらも、AMAZONで購入ができます。



奇しくも佐賀戦国研究会史学顧問の中西先生と、会主宰の深川が、偶然同月に記事を発表することになりました。

両冊、あわせて読めば、より佐賀の戦国時代、龍造寺氏、神代氏、鍋島氏への理解が深まるはずです。

全国の戦国史ファンに、広く読まれることを願います。

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★【お知らせ】

関ヶ原の戦いの研究や著書で知られる高橋陽介先生が、なんと『秀吉の遺言は「家康政権」だった(仮) − 太閤の死から関ヶ原合戦までの2年間の謎 − 』という新刊を、河出書房新社から出版されます! & 「関ヶ原合戦と加藤清正」と題した講演会が開催されます。
詳細はまた後日、UPしたいと思います。
(高橋陽介先生ご夫妻のブログ: http://takahasiyo.blog.fc2.com/blog-entry-223.html



佐賀戦国研究会








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2019年10月03日

【立花家の牢人武士が鍋島家に召抱えられ、忠節を全うした話。】




慶長5年10月、江上八院の戦いの後、徳川氏の裁定で柳川立花家は一旦改易されますが、一部の武士は、鍋島藩で召抱えとなったようです。


先日、『忘却の日本史』第17〜19号「神代大和守勝利」執筆にあたり多大な取材協力を賜った佐賀県小城市芦刈町の福田寺(永禄年間開基の古刹)、東統禅先生へ御礼の御挨拶に伺った所、福田寺さんへも、柳川立花家改易後に浪人となってしまった十時氏の男子が、養子に入った記録があるそうです。

そうした中で、今回は『水江臣記 巻第三』中 大石長右衛門 同 覚兵衛 による由緒差出に書き留められた興味深い内容を、御紹介します。(簡潔現代語訳)





『筑後柳川の立花左近が家臣、大石備後は、朝鮮の役の時、立花左近のお供として抽んでた軍功があった。そのため帰国後には太閤様の御前にて「汝は無類の槍突き、比類の無い者と聞き及んだぞ」と褒美にあずかった。

備後の子、六良兵衛、のちに内蔵允と申す者は、関ヶ原の際の大津城攻めにお供し、少数で大勢の敵中へ駆け入り散々に切り立てた。大津城攻めの時立花左近(立花宗茂公)が下された感状は今も有る。柳川城降伏(江上八院合戦)の時は物頭にて親子4人奮って佐賀勢と戦ったが、息子の才蔵、小平次は、兄弟ともに討死した。

鍋島勝茂様はこの事を聞かれ、使者をもって「肥前へまかり出るように」との御意につき、当国へ内蔵允の子、作兵衛がまかり出た。佐賀に着くと勝茂様へお目通りし、直に、「武士の名誉、槍の達人であるによって、召抱える。当家の為に励めよ」とお言葉を掛けられた。その時、家老の多久安順様が御同座されており、「かの者、宜しければそれがしにお預け下さいませんか」と仰せになられ、作兵衛は初めて多久にまかり出、多久家に仕えた。

その後島原の乱では、作兵衛は御指物奉行を仰せつかり、原城乗り入れの前夜、茂辰様(安順の子)から召し出され、「明日は総勢より一番に城中に旗を差し入れ、天下の諸勢の目を驚かしたいのだ」とのお気持ちにて、作兵衛、御命に代えてと誓った。そうして茂辰様から酒盃と大魚の肴を直に頂いた。明けて早朝の内に作兵衛は原城へ近づき、一番に旗を差し入れんとしたが、城まで2,3間程の所を、2発の玉に撃ち抜かれ、14日、相果てた。

この節、柳川衆の十時左助と申す人が、茂辰様に申し入れられ「作兵衛は一門の者にて、安否を見廻りに参りました」と言うので、御前にて御意を得られ、東島与七兵衛が十時の持物を持って歩いた。この者も作兵衛と同じく、その場に撃ち伏せられた。 』



佐賀戦国研究会




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添田一平氏画 (2017年・当会 鍋島勝茂公イラストコンテスト 優勝作品)






posted by 主宰 at 22:40| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする