2018年05月20日

★佐賀戦国研究会とは


当会から各行政機関・学術機関へお問合せや申請を行う際に、「インターネットで、当会の活動履歴を確認させて頂きます」と、担当者様から言われる事があります。そういった時のために、また、佐賀戦国研究会とはどういう会なのか、来歴を公開しておきます。

(2018年5月20日現在)



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【印刷用】佐賀戦国研究会の規約は、こちらからダウンロードをお願いします。:佐賀戦国研究会規約.pdf





★佐賀戦国研究会について


■発足は2012年。民間社会人による歴史サークル兼研究会。全国的に戦国ブームの昨今、佐賀の戦国武将(龍造寺隆信、鍋島直茂)がゲームの影響で全国的に人気になる中、肝心の佐賀では幕末明治の紹介ばかりで、戦国時代のPRは全くなされない。その為「無いなら自分たちで顕彰しよう」という趣旨で有志市民で活動開始。講師に学研の雑誌「歴史群像」へ寄稿中の歴史家、中西豪先生を迎え、第一回講演会を平成25年3月に開催。157名もの地元歴史ファン及び、遠くは関東・中部から龍造寺鍋島ファンが佐賀城本丸に集まり、新聞にも大きく取り上げられる。



■目的と理念:


一、佐賀の戦国時代における文化や人物等を研究し、魅力を発掘・配信する。            
一、学術性とともに創造性を重視する。                                        
一、市民の自発的企画である事。自由度が担保される事。結果公共に資する事。



■講演会開催履歴: 
・ 第一回 「世評における龍造寺氏・鍋島氏」 H25. 3/23 (157名)
・ 番外篇 「1から始める龍造寺史」 H25. 8/4 (105名)
・ 第ニ回  「沖田畷に見る戦国軍事史研究の現在」 H25. 11/16 (85名)
・ 第三回 「救世主・鍋島直茂」 H26. 4/12 (84名)
・ 第四回 「救世主・鍋島直茂(統一政権下のサバイバル)」 H26. 8/24 (92名)
・ 第五回 「質疑応答会 〜龍造寺鍋島氏から日本の戦国時代」 H26.12/27 (33名)
・ 第六回 「肥前千葉氏と戦国前夜」 H27.10/4 (75名)
・ 第七回 特別編「戊辰会津戦争の真実 −会津・薩摩・佐賀の関わり―」 H28.5/29 (156名)
・ 第八回 「関ケ原の戦いを再検討する−龍造寺・黒田・加藤を中心に−」 H29.8/20 (140名)

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※ 大阪市主催、「大坂の陣400年天下一祭」に連動参加。豊臣政権と鍋島政権は密接に関わるため。
※ 歴史雑誌『忘却の日本史 西日本編 特別号』に「佐賀戦国研究会が選ぶ九州の武将ランキング100」執筆。
※ 嬉野市の肥前夢街道忍者村からの委託により、嬉野市の忍者調査事業に参加。嬉野市史上に忍者を発見。


■過去に後援頂いた自治体や企業:
佐賀県立佐賀城本丸歴史館、小城市教育委員会、千葉市教育委員会、佐賀新聞、西日本新聞、サガテレビ、雑誌『歴史群像』、雑誌『忘却の日本史』、千葉氏顕彰会、大坂の陣400年天下一祭、十六世紀史研究学会、株式会社歴史と文化の研究所、勝永座談会、東海古城研究会


★佐賀市民活動プラザでの勉強会・座談会を定例会とし、ゲストを招き佐賀城本丸歴史館にて、講演会や座談企画を開催中。佐賀県の戦国史を主軸に日本の戦国史を勉強・紹介する趣旨。広告は若者にPRできるようにアニメ風のグラフィックチラシ。また、ミドルメディアとなる事を志向し、ItunesのPodcast、及びYoutubeで講演会や勉強会の音源を配信中。(Itunes Store のPodcastで佐賀の戦国史で検索すると無料購読可能。)


★YOUTUBEのアカウント:https://www.youtube.com/user/Cogito907

★Twitter: https://twitter.com/sagasengoku

★チラシデザインのアーカイブス(Tumblr):http://sagasengoku.tumblr.com/



★(理念) グローバリズムの日本かつ人口減、地方経済衰微で、古い郷土史はインパクトが薄れる傾向。
 行政による佐賀の戦国史のPRや顕彰不足を補いつつ、市民レベルで歴史に学び、自発的かつ自由に、カジュアルに活動する企画。



■今後の予定

メンバーそれぞれ仕事をしながら、できる範囲で無理なく活動。 
※NPO法人化を目指しています。

2018年5月27日、7/15(日)、定例の「佐賀戦国勉強会・座談会 −隆信公御年譜を読むー」佐賀市市民活動プラザ(白山)4Fにて(申込不要・自由参加)

2018年9月8日〜9月9日 「第二回 国際忍者学会」(佐賀県嬉野市で開催)にて、嬉野市忍者調査の結果と佐賀の忍者についての研究報告を、佐賀戦国研究会 代表 深川直也が担当予定。

次回は2018年10月28日、佐賀大学経済学部講義棟にて「幕末維新を再検討する −西郷、江藤、会津龍造寺ー」と題した歴史シンポジウムを開催。




佐賀戦国研究会 代表 深川 直也
(佐賀市在住。佐賀西高等学校卒、関西大学文学部国語国文学科卒。)

Mail: sagasengoku@live.jp


佐賀県立図書館の郷土室にて、いくつかの研究報告書が閲覧可能です。

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2018年05月01日

【天正14年4月17日付】鍋島直茂書状についての考察【島津氏へ従属中】




先日のブログ(http://sagasengoku.seesaa.net/article/459013034.html)中でもご紹介した、天正14年4月17日付・鍋島直茂から成富十右衛門(成富兵庫茂安)への書状について、さらに考察を加えます。


『佐賀県近世史料第一編第一巻』中『直茂公譜考補五乾』には、沖田畷合戦で龍造寺隆信が戦死した直後から、豊臣秀吉の九州征伐に至るまでの佐賀藩の「正史」が記載されています。

大局としては、

■敗戦した龍造寺家では、当主・龍造寺政家の依願と家中の同意をもって、鍋島直茂が国政を取り仕切り始める。


■その後秋月種実の仲介によって島津家と和平。


■天正12年6月下旬から、筑後の奪還を狙い出兵してきた大友軍と交戦。


■同年9月には成富十右衛門が小早川隆景のもとへ派遣され、成富は上洛し豊臣秀吉に拝謁。龍造寺氏が豊臣秀吉に恭順の意を示す。


■天正13年、筑後で大友軍と龍造寺軍の交戦が続き、10月に戸次道雪が陣没。


■天正14年春、成富十右衛門が安芸国広島へ赴き、小早川隆景と面会、その後大坂へ上り安国寺恵瓊を頼み秀吉へ謁見。隆景から龍造寺政家宛2月23日付書状に「九州の義は前回お送りした書状の通り、静謐の儀、京都が御下知されるので、安心されて良い。」とある。3月初旬に龍造寺家から、千布相右衛門を大坂へ人質に出す。


■同年4月6日、龍造寺家から秀島進士左衛門を、島津氏へ人質に差し出す。


■同年7月、高橋紹運の籠る岩屋城攻めへ、島津方として龍造寺家から龍造寺家晴、江上家種、後藤家信、田尻鑑種、西牟田家親が参陣。


■同年秋、秀吉の九州征伐の動きが具体化する中、龍造寺家から島津家へ「義絶」を伝える。



★通説となっている上記編纂史料の内容ですが、特徴として、沖田畷合戦後、島津氏と龍造寺氏が具体的にどういう連携・連帯をしたのか、また筑後の支配権について島津氏がどういう対応であったのかが、殆ど記載されていません。おそらく敗戦・従属の屈辱と、往年からの筑後国領有の自意識が故に、島津氏との具体的な交渉記録が省かれているのではないかと考えられます。


この辺り、島津氏側からの視点で研究され、沖田畷合戦後の龍造寺家の動向がよく分かる良著があります。『島津四兄弟の九州統一戦』新名一仁 著 星海社 発行(2017年11月)P.142以降。Twitterで度々お薦めしていますが、改めて九州の戦国史ファンには、ご購読をお薦めします。

佐賀側の史料では見えてこない、島津氏側から見た龍造寺氏の動きがよく分かり、示唆に富む内容です。筑後領について、鍋島直茂が島津氏に対し強気の主張をしている事も興味深く、新知見でした。


また、ご存知の方はご存知かもしれませんが、高橋紹運以下が玉砕を遂げた岩屋城の戦いには、島津方として龍造寺軍も加わっていました。



さて、上記の情勢を踏まえまして、

ここから天正14年4月17日付・鍋島直茂から成富十右衛門(成富兵庫茂安)宛書状の考察です。


上記内容から分かるように、龍造寺氏は島津氏に従属しながら、豊臣政権へ恭順の意を伝え、毛利氏、小早川隆景を奏者として連絡を取り合っていました。



【原文】


三月廿二、案住小兵へ伝書、卯月十七日到着、披見、得其意候、
一、薩衆豊州入就彼是、急速質人之儀被申候条、此内申拵、此方存分之儀候、神文銘々被相調候上、種実人質此方へ被召置、四月六日、秀嶋進士左衛門被差出候、於此上二雖難有異儀存候、于今も種々違目之義、無正躰候条、熟談之一着無之候、如此相違於増長者、此方地盤無緩候、手前聊気遣被申間敷候矣、
一、爲質人、千惣被差登候、定而可爲参着候間、弥安国寺可爲御指南之由、千惣引合細砕申渡、其方事は早々下向待申候、其元様子被聞召度候由候条、申事候、
一、廣門・紹運事、人質取替、聢被申談候間、種実・廣門間之儀、弥隔心之躰、可有推量候矣、
一、隈部親永父子各別二て、親泰事は長野要害へ楯籠候処、従薩被差続候、永事者(→親が脱字と思われる。親永事者)、親類尽同心を以、多久河内江引入候、親人は自豊州少々加勢候由候へ共、難儀之通申来候、就其肥後国衆なとへも雑説無心事候由、申散候矣、
一、対馬波多親被仰談到平戸被差懸候、数度親へ異見雖被申候、如此候条、従是も寄々衆被差出、ひう、はい方両城切崩、敵弐百餘討取、被得大利事、
一、右之趣細書相認、芸州迄差遣候ツ、自然遅参もやと、任幸便、又々申遣候、其外筑後境目なと少も無替儀候、爲存知候、恐々謹言、
 卯月十七日  信生 (御判)
   成十  万いる  旅所   」


佐賀県史料集成 第二十六巻 『有馬雑記餘事』 P.268〜269


【簡潔意訳】:

鍋島直茂曰く「薩摩軍は豊後へ出兵するにあたり、当方に速やかに人質を出すよう伝えて来た。そのため、こちらも準備や起請文を調え、秋月種実から人質が当方へ送られて来た事でもあるので、4月6日、秀島を島津氏へ人質として差し送った。ここまでしたからには島津殿に異存はないだろう。島津氏との話し合いは、今まで意見の相違があり、落着していない。島津氏が増長するのなら、当方にも固い覚悟がある。この件に関しては、十右衛門、気遣いは無用じゃ。

一、上方への人質としては千布惣右衛門を送った。到着したら安国寺恵瓊殿の御指南の件を千布へ細かく申し聞かせて、その方は早々に佐賀へ帰ってきて欲しい。またその方の今の状況を手紙で知らせてくれ。

一、筑紫広門と高橋紹運との間で人質交換の相談がされている事は、反島津となる筑紫広門と、親島津の秋月種実との関係が、こじれるという事だ。推して知るべしという所だ。

一、隈部父子の事だが、隈部親泰は長野の砦に籠城し島津氏へ反抗している。隈部親永は龍造寺家中みなの同意のもと、多久の河内に匿い、保護している。隈部親人は大友氏から少々加勢をもらっているようだが、島津氏への抵抗が困難な状況だと知らせが来ている。肥後国衆たちの動向にも根拠のない噂があり、不安定だ。

一、唐津の波多親が、平戸松浦氏へ合戦を仕掛けるという。数度、制止をしたのだが、この如くである。我々からも、最寄りの軍を加勢に出した。そして日宇、早岐の両城を切り崩し、敵200余を討ち取り、大勝利を得た。

一、これらの詳細は書状に認め、毛利氏へ差し出した。もし到着が遅れるといけないので、この様にそなたへ書状を書いて送った次第だ。その他は、筑後境目の事などは少しも変わりは無い。上記お知らせしておく。

(天正14年)4月17日、鍋島信生(直茂)  
成富十右衛門へ  」



【考察】


▼島津氏が「豊州入」豊後侵攻を計画するにあたって、龍造寺氏に人質を差し出すよう求めた事が分かる。つまりこの時、関係性として龍造寺氏は島津氏に従属していた。

▼島津氏に龍造寺氏が人質を送るにあたり、秋月種実が仲介の骨折りをしていた。島津氏の要請について龍造寺氏がスムーズに従うように、秋月氏から龍造寺氏へ人質まで送っていたことが分かる。仲介者・秋月氏の人質を召し置いた事で、龍造寺氏が島津氏に人質を送ることになった点は重要である。

※ここの辺りからも、龍造寺氏は島津氏に対し、強気の姿勢であったことが考察できる。同時に『島津四兄弟の九州統一戦』で検証された、反大友・親島津の秋月氏の暗躍ぶりが窺える。

▼沖田畷敗戦後、島津氏に実質従属した龍造寺氏だが、「種々違目之義、無正躰候条、熟談之一着無之候」島津氏との話し合いの中では意見の相違があり、良好な関係ではなかった。

▼当該書状は、鍋島直茂が、秋月種実、高橋紹運、筑紫広門、隈部親永、隈部親泰まど、沢山の同時代の武将について一度に言及しており、その点で興味深い。

▼のちに肥後国衆一揆で誅罰を蒙る隈部親永は、この時期、龍造寺氏によって佐賀県多久市に匿われていた事が分かる。息子の親泰は島津氏に対し、出城に籠って抵抗を試みており、『島津四兄弟の九州統一戦』P151、新名一仁氏曰くの「(天正14年10月、田尻鑑種や黒木実久から肥後の島津氏に対し、筑後への出兵の要請がなされたのは)龍造寺氏が大友勢を排除するために仕掛けた策略と見える 」「龍造寺政家が『幕下』に入るとまで言って島津氏との和平を急いだのは、島津氏を大友氏との戦いに引きずり込むためであろう」との考察をベースとして考えると、父の隈部親永のみの身柄を保護し、息子の親泰が肥後で島津氏に抵抗を試みている点は、龍造寺氏が隈部氏を陰で支援することで、島津氏の北上を遅らせようと図ったのではないか。
この時、抵抗する隈部氏へ若干大友氏から加勢がきていた点も興味深い。大友氏も龍造寺氏もこの時期、島津氏の北上を遅らせることを図っていたとも考えられる。


▼佐賀側では殆ど知られていない、佐世保市での「井手平城の戦い」だが、この書状内容と、先日ブログに紹介した波多親の書状から、「従是も寄々衆被差出、ひう、はい方両城切崩」はつまり、「井手平城の戦い」と比定できる。※この点は、郷土史上新たな指摘かと思われる。

さらに、長崎県側の解説では、「大村氏・波多氏・有田氏連合 VS 平戸松浦氏の領地争い」とされる所、波多氏への加勢として龍造寺軍も参加していた事が判明する。※この点も一次史料を根拠とした、新たな指摘となるかと思う。そして、早岐の城を井手平城と比定すると、同時に日宇のどこかの城も、落城していた事が分かる。200名余の戦死者がでている事で、大規模な軍事衝突であった事が分かる。



以上です。



佐賀戦国研究会










posted by 主宰 at 01:08| 佐賀 ☀| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月26日

【新説】井手平城の戦いには「龍造寺軍も加勢していた」と鍋島直茂が言っている。



豊臣秀吉の九州征伐前、天正十四年4月頃に勃発したとされる、長崎県での「井手平城の戦い」。
従来は「大村純忠+有田盛+波多親+有馬晴信 VS 松浦鎮信」 の戦いとされてきました。

しかし実は、一次史料、鍋島直茂の肉声によれば、
龍造寺軍も参加していたのです。



★天正14年 4月17日 鍋島直茂から成富十右衛門(成富兵庫茂安)への書状。



三月廿二、案住小兵へ伝書、卯月十七日到着、披見、得其意候、
一、薩衆豊州入就彼是、急速質人之儀被申候条、此内申拵、此方存分之儀候、神文銘々被相調候上、種実人質此方へ被召置、四月六日、秀嶋進士左衛門被差出候、於此上二雖難有異儀存候、于今も種々違目之義、無正躰候条、熟談之一着無之候、如此相違於増長者、此方地盤無緩候、手前聊気遣被申間敷候矣、
一、爲質人、千惣被差登候、定而可爲参着候間、弥安国寺可爲御指南之由、千惣引合細砕申渡、其方事は早々下向待申候、其元様子被聞召度候由候条、申事候、
一、廣門・紹運事、人質取替、聢被申談候間、種実・廣門間之儀、弥隔心之躰、可有推量候矣、
一、隈部親永父子各別二て、親泰事は長野要害へ楯籠候処、従薩被差続候、永事者(→親が脱字と思われる。親永事者)、親類尽同心を以、多久河内江引入候、親人は自豊州少々加勢候由候へ共、難儀之通申来候、就其肥後国衆なとへも雑説無心事候由、申散候矣、
一、対馬波多親被仰談到平戸被差懸候、数度親へ異見雖被申候、如此候条、従是も寄々衆被差出、ひう、はい方両城切崩、敵弐百餘討取、被得大利事、
一、右之趣細書相認、芸州迄差遣候ツ、自然遅参もやと、任幸便、又々申遣候、其外筑後境目なと少も無替儀候、爲存知候、恐々謹言、
 卯月十七日  信生 (御判)
   成十  万いる  旅所   」


佐賀県史料集成 第二十六巻 『有馬雑記餘事』 P.268〜269



→ この書状は極めて重要で、『佐賀県近世史料第一編第一巻』P510〜511「直茂公譜考補 五乾」に収載の書状と、『有馬雑記餘事』収録の文面では、内容が若干異なります。
異同の結果、『有馬雑記餘事』の方を簡潔に意訳します。


鍋島直茂いわく、
「薩摩軍は豊後へ出兵するにあたり、当方に速やかに人質を出すよう伝えて来た。そのため、こちらも準備や起請文を調え、秋月種実から人質が当方へ送られて来た事でもあるので、4月6日、秀島を島津氏へ人質として差し送った。ここまでしたからには島津殿に異存はないだろう。島津氏との話し合いは、今まで意見の相違があり、落着していない。島津氏が増長するのなら、当方にも固い覚悟がある。この件に関しては、十右衛門、気遣いは無用じゃ。

一、上方への人質としては千布惣右衛門を送った。到着したら安国寺恵瓊殿の御指南の件を千布へ細かく申し聞かせて、その方は早々に佐賀へ帰ってきて欲しい。またその方の今の状況を手紙で知らせてくれ。

一、筑紫広門と高橋紹運との間で人質交換の相談がされている事は、反島津となる筑紫広門と、親島津の秋月種実との関係が、こじれるという事だ。推して知るべしという所だ。

一、隈部父子の事だが、隈部親泰は長野の砦に籠城し島津氏へ反抗している。隈部親永は龍造寺家中みなの同意のもと、多久の河内に匿い、保護している。隈部親人は大友氏から少々加勢をもらっているようだが、島津氏への抵抗が困難な状況だと知らせが来ている。肥後国衆たちの動向にも根拠のない噂があり、不安定だ。

一、唐津の波多親が、平戸松浦氏へ合戦を仕掛けるという。数度、制止をしたのだが、この如くである。我々からも、最寄りの軍を加勢に出した。そして日宇、早岐の両城を切り崩し、敵200余を討ち取り、大勝利を得た。

一、これらの詳細は書状に認め、毛利氏へ差し出した。もし到着が遅れるといけないので、この様にそなたへ書状を書いて送った次第だ。その他は、筑後境目の事などは少しも変わりは無い。上記お知らせしておく。

(天正14年)4月17日、鍋島信生(直茂)  
成富十右衛門へ  」



なお、井手平城の戦いの前には、波多親から龍造寺氏へ何度か内談があった事が判明します。
7日前、4月10日付の下記書状へ。



★天正14年 4月10日 波多親から龍造寺政家への起請文


 敬白起請文之事
西目弓箭之儀、毎々遂御内談候、彼企之儀、乍勿論、對政家信生非野心之企候、壹州之儀累代之本領候、彼一嶋、一度如前々落着有度之心底迄候、至平戸去々以来純熟之儀、高嶋之以大曲右京亮、連々雖盡口能候、今日迄者、従平戸無許容候、従爰許平戸二申遣候入魂篇目之事、
一、任御内儀、田布施久千代殿御袋至鎮信相嫁之事、種々雖申拵候、従平戸被申切候事、
一、至道可息女、藤童相嫁之儀、去々年冬時分より申遣、去師走下旬時分迄雖申試候、今日迄是非之返事無之事、
一、高嶋傳一圓無取相候間、野上清也を以内意申越、互神戴之儀共雖申候、是又終二無承引之事、
 右之趣、聊無偽候、為御分別細碎申分候、此旨於表裏者、
梵天帝釈四大天王、惣而日本国六拾余州大小神祇冥道、別而者肥前国鎮守千栗八幡大菩薩、河上大明神、殊氏神田嶋大明神、佐志若宮八幡両社、波多権現八幡両社、唐津両大明神、鏡両大明神、天満大自在天神、神罰冥罰可罷蒙者也、仍起請文如件、
 天正十四年卯月十日  波多下野守 親(花押)
 政家 参 」  

佐賀県史料集成 第三巻 『龍造寺家文書』 一七三号文書


→簡潔意訳します。

波多親曰く、「西肥前での合戦の事は、度々内談した通りです。この企ては、もちろんながら政家・信生に対して野心を企てているものでは無い。壱岐は、当家累代の本領である。この島については納得できるようにしたく、高嶋の大曲右京亮を以て、平戸へ先年から深く相談を重ねてきたが、今日まで平戸から許容は無かった。当方からは平戸には入魂に筋を通したつもりだ。
一、田布施久千代殿御袋を松浦鎮信に嫁がせる話を、色々と段取りしていたが、平戸は断ってきた。
一、松浦道可(隆信)の娘と、藤童の婚姻の事、天正12年の冬頃から申し遣わし、天正13年12月下旬頃まで対応を伺っていたが、今日まで返事は無かった。
一、高嶋伝一圓の事について、野上清也を以て相談し、起請文を交わす話を持ち掛けたが、最終的に平戸は承知しなかった。
これらの事に、いささかの偽りも無い事を誓う。詳しく説明したので、(これから戦を仕掛ける事になった経緯の)理解をお願いしたい。」


→ 【考察】波多興の時代に領地化した壱岐は、波多氏にとって飛躍のきっかけであり、後に松浦鎮信に奪取されますが、波多親は壱岐を波多氏の「累代の本領」として意識していた事、それ故に取り戻したい気持ちが分かります。松浦氏と様々交渉するも上手くいかず、「西目弓箭」つまり西肥前で松浦氏と合戦を決意し、かつその件は、龍造寺氏へ何度も内談していた事が分かります。



つまり西目弓箭とは、佐賀郡や唐津から見て西の西肥前・長崎県域。時期的にも天正14年4月頃、「大村純忠+有田盛+波多親+有馬晴信 VS 松浦鎮信」の、井手平城の戦いの事に当たります。

結果的には波多氏は、合戦を行う目的を達成はできませんでしたが、注目すべきは、龍造寺隆信死後も、波多氏は龍造寺氏を疎略にすることなく、盟友として緊密な関係にあった事が分かります。(龍造寺政家に過度の敬称が付かない事、かつ龍造寺氏と婚姻関係があるため、へりくだる従属関係ではなく、親密な盟友関係であると考えて良いと思います。)


【井手平城の戦いに関する概説】


「『境目』争いのなかでも焦点となったのは、小森川流域の井手平城と広田城をめぐって天正十四年(一五八六)に起こった平戸松浦氏と大村氏との戦いである。井手平城をめぐっては、すでに天正二年(一五七四)、当時大村方であった城主遠藤千右衛門(生没年不詳)が平戸方につき、大村純忠は大村純晴(生没年不詳)に命じてこれを攻撃したことがあった。『印山記』によると、遠藤千右衛門はその後龍造寺隆信(一五二九〜一五八四)に内通したらしく、松浦隆信によって滅ぼされている。『印山記』では天正二年の時点をもって、佐世保・日宇が平戸領になったと見なしている。その後龍造寺氏の勢力拡大によって、松浦氏、大村氏はともに逼塞を余儀なくされたが、天正十二年(一五八四)、龍造寺隆信が島原の沖田畷(現島原市)の戦いで討死し、有馬・島津勢に破れたことから龍造寺氏の勢いが急速に衰え、平戸、大村の境目争いは再燃することとなった。
 大村方には波多鎮、有馬勢、そして有田盛も加わったようである。これに対して平戸方は、井手平城、広田城に籠城し、大村勢の攻撃に備えた。しかし、波多・有田勢は有田方面より、大村・有馬勢は早岐の神徳寺方面よりそれぞれ井手平城を包囲し、城は陥落、城代岡甚右衛門(?〜一五八六)以下の城兵は奮戦虚しく討死した。その後広田城も包囲されたが、有馬勢が帰したのと、平戸松浦の援軍が到着したことによって、大村氏らの軍勢も撤収したと、『印山記』などの記録には記されている。なおこの戦いの後、松浦隆信は、薬王寺(現佐世保市新替町)を建立し、戦没者を供養した。境内には城代岡甚右衛門らの供養塔などが残されている。
 この戦いを経て、平戸領と松浦領との境界が舳峰峠(へのみねとうげ)(現佐世保市重尾町・瀬道町)に定められ、近世の平戸藩領と大村藩領との境界となった。したがって現在の佐世保市のうち、この峠より北は江戸時代には平戸藩、南は大村藩と分かれていたのである。

 第四節 秀吉の天下統一と朝鮮侵略
 1  九州国分

 織田信長(一五三四〜一五八二)の天下統一事業を継いだ豊臣秀吉(一五三六〜一五九八)は、天正十三年(一五八五)の末には、すでに薩摩の島津氏に対し、九州における戦国大名間の領土紛争を停止すべき旨の停戦令が伝えられていた。秀吉のこの停戦令を察知した平戸松浦氏は、井手平城・広田城の戦いの直前と思われる天正十四年(一五八六)三月十三日に、秀吉に対し書状を送っており、秀吉のもとには五月二十六日に到着している。その二日後には「松浦肥前守」に充てて次のような文書が発給されている。

『豊臣秀吉書状』

  将又孔雀進上之儀、珍敷思召、自愛并南蛮笠・象牙・猩猩々(ママ)皮胴張、是又被悦思食候、以上
 三月十三日書状、今月二十六日到来候、抑九州之儀、対毛利・大友・島津某々国分儀、雖被仰付候、其方儀者、先年書状等差上、懇被申越之条、人質以下如御存分於進上者、進退之儀無別条候、各々可被仰出候間、心安可存候、猶尾藤左衛門尉可申候也、
  (天正十四年) 五月二十八日  (豊臣秀吉 花押)
 松浦肥前守とのへ (松浦文書)

(中略)この史料によれば、松浦氏がこれ以前すでに秀吉に書状を送っていたので、人質を差し出せば「進退之儀」、つまり領国支配は変わりなく認める、と秀吉側から伝えてきている。この文書が井手平城をめぐる争いのさなかに、豊臣政権側と交わされていたことは重要であって、大村氏との「境目」であった早岐の地を実力で争うような行動は、豊臣政権による惣無事令以降は「私戦」として禁止される。このため、大村氏は平戸領化しつつあった早岐の地を、豊臣政権による領土確定の前に自領化しておきたいと考えていたのかもしれない。一方の松浦氏は、やはり来るべき豊臣政権による領土確定の際には、あくまで松浦氏支配下に置いておきたかったのであろう。
 そして翌天正十五年(一五八七)、秀吉は大軍を率いて九州征伐に向かい、島津氏は秀吉に降伏した。秀吉は、同年六月、九州国分を行い、松浦鎮信、大村純忠ともにその所領を安堵された。近世に続く平戸藩、大村藩の基礎は、ここに定まることとなった。」


『佐世保市史 通史編 上巻』 佐世保市発行 (平成十四年四月)P.442〜444 より














posted by 主宰 at 00:05| 佐賀 🌁| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする