2013年08月29日

中世の日本人の「学び」というメカニズム



(黄石公と張良について)

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『『張良』の師弟論についてはこれまで何度か書いたことがありますけれど、もう一度おさらいさせてください。教訓を一言で言えば、師が弟子に教えるのは「コンテンツ」ではなくて「マナー」だということです。

 張良は黄石公に二度会います。黄石公は一度目は左の沓(くつ)を落とし、二度目は両方の沓を落とす。そのとき、張良はこれを「メッセージ」だと考えました。一度だけなら、ただの偶然かもしれない。でも、二度続いた以上、「これは私に何かを伝えるためのメッセージだ」とふつうは考える。そして、張良と黄石公の間には「太公望の兵法の伝授」以外の関係はないわけですから、このメッセージは兵法極意にかかわるもの以外にありえない。張良はそう推論します。(別に謡本にそう書いてあるわけではありません。私の想像。)

 沓を落とすことによって黄石公は私に何を伝えようとしているのか。張良はこう問いを立てました。その瞬間に太公望の兵法極意は会得された。

 瞬間的に会得できたということは、「兵法極意」とは修行を重ねてこつこつと習得する類の実体的な技術や知見ではないということです。兵法奥義とは「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向かって問うことそれ自体であった。論理的にはそうなります。「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。それが中世からさまざまの芸事の伝承において繰り返し選好されてきたこの逸話の教訓だと私は思います。「何を」学ぶかということには二次的な重要性しかない。重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。


「日本辺境論 」 内田樹 著 新潮社 刊(2009) P.143〜P.144  より 



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昔からあって、いつまでもある。



『私が最近、根底から考える必要があると思っているのは、

「日本という国は昔からあって、いつまでもある」というぼんやりした意識、

「日本は孤立した島国だ」、

「日本は農業社会である」という常識の三点で、これらは、現代の日本人の歴史認識の「公理」になっていると思います(笑)。 −中略ー

 この三つの点に全て関係してくるのは、明治以降百数十年、とくに敗戦までの七十年に及ぶ国家的な教育の果たした役割が、極めて大きいということです。』



/ 「新版 歴史の中で語られてこなかったこと」 網野善彦+宮田登 洋泉社
  「第一部 歴史から何を学べばいいのか? P.146」 網野善彦



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2013年08月27日

江藤淳の歴史論




『少くともひとりの人間が世界を喪失しつつあると感じるとき、その原因を彼の外側にある時代や社会のなかなだけに求めようとするのは公正さを欠いている。こういう人間にとっては、すでに「時代」とか「社会」とかいう概念そのものが崩壊して行く現実の一部と感じられているからだ。

 だからひとりの人間のなかでおこっていることの切実さを、実状に即してとらえようとするなら、むしろ彼のなかに内在する問題が、私たちが「時代」とか「社会」と呼んでいるものの力で、どのような表現をとることを余儀なくされたかという角度からとらえなければなるまい。

それはいわば人間を、歴史を超えたものと歴史との交点としてとらえようとすることである。私たちはたしかに国民として国家に忠誠を誓わされたり、ある集団の一員としてその利益や理想に奉仕させられたりしている。しかし私たちはそのためだけに生きているわけではない。私たちはまず単に生きているのである。いわば生まれて母親に育てられ、父親という最初の他人に出逢い、教育され、やがて自分の家族というものをつくり、そのうちに死んでいく永遠の生物学的存在として。

 この事実がまず見えていなければ、実は私たちがかりに「時代」とか「社会」と呼んでいるもの、あるいは「歴史」と呼んでいるものとのかかわりあいも切実なものとして感じられるわけがない。なぜなら私たちは「歴史」のために、ないしは「時代」の理想のために生きているのではなく、生きるために「歴史」や「時代」を呼びよせているからである。

ここで「生きる」というのは、もちろん単純な自己保存の欲求のことではない。私たちは「生きている」と感じたいために自己を破壊することもある。そのことも含めて私たちは生きるために「時代」や「歴史」を呼びよせようとし、あるいは拒否しようとする。

 ところで、それではそうして世界を喪失しつつあると感じている私が、生きているのはなぜだろうか。この問題はもちろん簡単には答えられない。しかしおそらく私は、自分から剥落して行ったものを言葉の世界に喚び集めようとして生きているように思われる。

世界を言葉におきかえること ―――― それは実在を不在でおきかえることだ。この言葉はもとより私の言葉でなければならない。もし世界が完全なかたちで実在していたなら、当然そう感じられたであろうような親密な感触を、私とのあいだに持ち得る言葉でなければならない。』



 
/ 「一族再会」 江藤淳 講談社(P.7〜9)
posted by 主宰 at 22:09| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■歴史から何を学ぶか (論評集) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする