2015年03月14日

美しい歴史を持つ






『「白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける」という歌があるが、
くにの歴史の緒が切れると、それにつらぬかれて輝いていたこういった宝玉がばらばらに散りうせてしまうだろう、それが何としても惜しい。他の何物にかえても切らせてはならないのである。そこの人々が、ともになつかしむことのできる共通のいにしえを持つという強い心のつながりによって、たがい結ばれているくには、しあわせだと思いませんか。ましてかような美しい歴史を持つくにに生まれたことを、うれしいとは思いませんか。歴史が美しいとはこういう意味なのである。』


/ 『春宵十話』 岡潔 著 角川ソフィア文庫   P.61 『日本的情緒』より 
 (S44.11月初版)


岡潔は世界的な数学者。数学史上に巨大な足跡を残した。


posted by 主宰 at 21:35| 佐賀 ☀| Comment(0) | ■歴史から何を学ぶか (論評集) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月08日

戦国時代とキリスト教






司馬(遼太郎):
『ともかくふしぎだと思っています。戦国時代に(国内のキリスト教信者数が)三十万人というのは、当時の人口から考えれば大変な数ですね。それが秀吉から江戸初期にかけて禁制になったというのは、ひとつには最初に日本に上陸したイエスズ会が、非常に攻撃的、戦闘的な精神をもっていた。それがいやがられたんじゃないかと思います。お寺やお宮を焼いてしまえというぐらいの勢いになっていくから、秀吉としてはやはりコツンとくる。しかも傍証がいろいろ出てきて、たとえば長崎県の大村はカトリック領になった。日本国は外国領になるのかと秀吉は思います。そのうえ、土佐の港に漂着したスペイン船の船長がフランシスコ会の影響を受けてイエスズ会に敵対意識をもっていて、スペインはフランシスコ会の神父を派遣して日本を占領するつもりだということを言ったものだから、秀吉は断固としてキリシタン禁制に踏み切った。あとの徳川幕府も、もし憲法があったとしたら憲法第一条にキリシタン禁制をうたっただろうと思われるほどのつよい禁制をしくわけです。それほど厳しい禁制をしく必要があったのだろうか。

 カトリックが江戸時代に三十万人でいいから自由に信仰が許されていたら世界の情報がいろいろ入ってきたんじゃないかということを、二十年ほど前に遠藤周作さんに話したことがあるんです。しかし遠藤さんは大いなる人ですな、「そんなことしてたら日本はスペインに占領されてしまう」とおっしゃった(笑)。カトリックの遠藤さんをしてそんなことを言わしめるほど、とくに当時のフランシスコ会は、日本に先鞭をつけたイエズス会に敵対感情を持っていたんですね。またイエズス会はイエズス会で、陰謀とか政治的に動くのがクセだった。』


井上(ひさし):
『クセですね、たしかに。イエズス会はとかく情報商社のように動くクセがあります(笑)。』


司馬:
『いまでもスペイン人が「あの人はジェスイットです」というと、その人は銀行の頭取であっても相当裏のある人だと受け取られるそうですね。だから秀吉の感覚は正しかったかもしれない。』


井上:
『日本をカトリック国、要するに植民地にしようとした証拠もありますし。やはりあのころカトリックのなかには、自分たちの教えを信じない者は馬鹿だという傾向があったと思いますね。』


司馬:
『フランシスコ・ザビエルは私にとって好きな人ですけれども、それでも鹿児島の坊津に上陸したあとで地に跪いて祈りますね、この国を大天使ミカエルだったかな―に捧げます、と。要するに、ぼくらは捧げられてしまったんです(笑)。』


井上:
『まことに余計なお世話です(笑)。』


司馬:
『中近東をのぞく東洋人は世界を相対的にとらえるんですが、西洋人はキリスト教以来、絶対主義というものを持っていますから、どうしてもそうなってしまうんですね。ザビエルさんといえども、その枠からははみ出せない。』




「国家・宗教・日本人」 司馬遼太郎・井上ひさし 講談社文庫 刊 より引用
(初出誌「現代」宗教と日本人 1995年6月号)



posted by 主宰 at 16:34| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■歴史から何を学ぶか (論評集) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月29日

中世の日本人の「学び」というメカニズム



(黄石公と張良について)

――――――




『『張良』の師弟論についてはこれまで何度か書いたことがありますけれど、もう一度おさらいさせてください。教訓を一言で言えば、師が弟子に教えるのは「コンテンツ」ではなくて「マナー」だということです。

 張良は黄石公に二度会います。黄石公は一度目は左の沓(くつ)を落とし、二度目は両方の沓を落とす。そのとき、張良はこれを「メッセージ」だと考えました。一度だけなら、ただの偶然かもしれない。でも、二度続いた以上、「これは私に何かを伝えるためのメッセージだ」とふつうは考える。そして、張良と黄石公の間には「太公望の兵法の伝授」以外の関係はないわけですから、このメッセージは兵法極意にかかわるもの以外にありえない。張良はそう推論します。(別に謡本にそう書いてあるわけではありません。私の想像。)

 沓を落とすことによって黄石公は私に何を伝えようとしているのか。張良はこう問いを立てました。その瞬間に太公望の兵法極意は会得された。

 瞬間的に会得できたということは、「兵法極意」とは修行を重ねてこつこつと習得する類の実体的な技術や知見ではないということです。兵法奥義とは「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向かって問うことそれ自体であった。論理的にはそうなります。「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。それが中世からさまざまの芸事の伝承において繰り返し選好されてきたこの逸話の教訓だと私は思います。「何を」学ぶかということには二次的な重要性しかない。重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。


「日本辺境論 」 内田樹 著 新潮社 刊(2009) P.143〜P.144  より 



posted by 主宰 at 01:40| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■歴史から何を学ぶか (論評集) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする