2013年09月04日

【勝茂公譜】大阪騒乱(関ヶ原序章)@



■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。簡潔訳です。(P.208〜)
敬称略御免。

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慶長5年。鍋島勝茂、21歳。

今年正月、鍋島直茂・藤八郎(龍造寺高房・龍造寺隆信の直系の孫)殿、3人一緒に大阪の玉造の屋敷で年越し。

今年の夏、上杉景勝、会津の領地において反逆を企て、居城に引き籠った旨の飛脚が到来。征伐の為に、豊臣秀頼の名代に、徳川家康、6月中旬大阪を進発。諸国の大小名25人がお供する。この節、勝茂も直茂も同じくお供を願い出たが、家康より『今天下危急のみぎり、加賀守(直茂)は、加藤清正と同様、国へ罷り下り、黒田如水と相談し、九州筋の事を押さえるように。』と仰せが有ったため、直茂は家康の関東行きにお供する用意をしていたけれども、早速大阪を発ち佐賀へ帰国。勝茂も出陣の支度は出来ていた。

この時直茂から勝茂へ、陣中での法度5ヶ条を定めたものが手渡された。内容は以下。


一、我々の事はもちろん、下々の者まで喧嘩をしないよう申しつける。

一、若輩ではあるが、信濃守(勝茂)の下知に従う事。

一、特に合戦の際、信濃守(勝茂)が誰かへ下知をする他は、一切みなバラバラに下知をしてはならない。
 (付記:物見、陣見回りの際は人数を立てて、それがどんな用事であっても混乱を招かないようにする事)

一、いかに邪な事が裏表に有っても、軍勢中、悪しき事は停止を命じ、武辺一篇に覚悟すべし。当然、無理な事も有るが、その時は信濃守(勝茂)へ申し出て、判断を仰ぐ事。自己判断で動かない事。

一、秀頼様のお役に立つ覚悟で大阪を出立した上は、内府公(徳川家康)へ指示を請い、身命を惜しまず御用に立つように。
  
    6月15日   加賀守(御判)


 今年正月、直茂、勝茂、高房、ともに大阪に居り、多久安順(龍造寺家久)も一緒だった。この時、豊臣秀頼は大阪城に在り、徳川家康は西の丸に居て、ひとしく諸侯の年賀の挨拶をうけられた。会津の上杉景勝は参勤が無く、また逆心の噂があった。春から夏の頃、大阪と会津で文書の往復があった。上杉景勝はついに、反逆の動きに出た。


 同6月19日、豊臣秀頼の名代として徳川家康が伏見を出発、関東に下向した。時に、勝茂と高房は、関東への御供として京都へ赴いた。多久安順これに従う。息子(養子)の多久茂冨は、直茂に従って佐賀へ帰国した。
勝茂が出陣するにあたり、大阪・玉造の館の留守の事が心配であったが、頼れる所もなかった。そこで御用聞きの町人、甚左衛門という者が西本願寺の坊主につてが有ったため、西本願寺へ行きこの事を相談した。坊主たちは相談し、引き受けてくれる事になったため、勝茂から早速使者を遣わして「何かあった場合は、母や妻たちの保護を宜しくお願い致します」という旨を伝え、本願寺からも別条なく請けてもらえたので、勝茂は大変機嫌が良かった。まずこれで居館の留守の心配は、安心できたので、龍造寺鍋島軍は出発。なお、留守中の玉造屋敷の用事は万端、甚左衛門にととのえさせた。   

(続)


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■参考:大阪 玉造は大阪城の南。地図周辺です。









posted by 主宰 at 00:41| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月27日

直茂公譜考補十、関ヶ原(P.786〜)



 佐賀県近世史料第1巻(直茂公譜)に、関ヶ原の時に龍造寺高房と鍋島勝茂軍がどう動いたか、記述があります。Twitter用に簡潔訳したものを、ここにまとめて置きます^^結構面白いですよ! 

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直茂公譜考補十、関ヶ原(P.786〜)


 慶長五年正月。
龍造寺高房・鍋島直茂・勝茂は大阪で年を越す。この年の夏、上杉景勝が領地にひきこもり反逆の由、堀越後守より飛脚が来る。退治すべしとて豊臣秀頼の名代・徳川家康、6月中旬大阪を進発。
この時鍋島直茂もお供したいと申し出たが、家康曰く、今は天下危急の時、九州の事が心元ない。直茂殿は急ぎ佐賀へ下り、黒田如水と申し合せ、九州を守って欲しい、と。加藤清正も同じく家康に下向を指示された。


 鍋島直茂は、龍造寺高房・鍋島勝茂に、徳川方として関東へ行くよう指示を出し、6月15日に大阪を出立、下国する。この時、葉次郎右衛門を徳川家康に遣わし、この度私は厳命を任され本国へ下ります。関東へのお供には高房・勝茂を出陣させますので宜しくお願い致します、と言上させた。


 また、牟田大蔵を本願寺准如へ遣わし、私は家康様の仰せで本国へ下り、高房と勝茂は関東へ出陣します。ついてはその後、もし伏見大阪で騒乱が起こった場合、妻子たちを御寺で預かって頂けないか、と伝えた。
准如上人は委細承知した。(しかし実際、妻子を預けるには至らなかった。)


 
 龍造寺高房・鍋島勝茂は徳川方加勢のため近江(滋賀県)の愛智川まで出陣し、すこし行軍を止め徳川軍を後から追う形となった。この間に石田正澄(三成の兄)が愛智川に関所を構え、関東へ向かう者を1人も通さなかった。これにより止むを得ず高房・勝茂は大阪へ引き返す事になった。


 8月。

 龍造寺高房・鍋島勝茂の軍勢は西軍として伏見城を攻略、その後伊勢の安濃津城を攻略した。その時、関ヶ原で一戦あり、西軍が敗走したとの知らせが飛ぶ。龍造寺家は危急存亡の時であった。(関ヶ原の大戦はたった1日で決着)


 戦後処理である。井伊直政、本多正信、円光寺佶長老などの取持ちにより、鍋島直茂の忠誠に対して御赦免があり、同時に柳川の立花宗茂を成敗するよう厳命が下った。


 8月26日から27日。


 鍋島勝茂は一党引連れて佐賀へ下国。戦後処理の結果は先に直茂に知らせを出した。この時龍造寺高房は、徳川家康の命で大阪へ留まった。


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 さて関ヶ原の時、佐賀の鍋島直茂のこと。高房・勝茂が西軍として伏見城・安濃津城を攻陥し、松坂城を攻めているとの知らせに仰天。急ぎ下村左馬助を勝茂へ遣わした。


 直茂曰く「まず事情をよく考えると、大阪で西軍が決起したのは、幼い秀頼君の裁量では無い、ひとえにあの奉行たちが私怨を晴らす為に徳川家康殿を討とうとしているのだ。私は兼ねてより家康殿に、何かあった場合に誓約がある。それをお前、徳川方を襲うとは・・!」 「分かるか、亡き太閤秀吉様の仰せの如く、秀頼君に叛かず、徳川殿の命を重んじるべきであったのだ!」


 直茂から制された勝茂も仰天。

 「私は若輩にて察しがついていなかった・・。また母上が大阪で人質に取られていた故、大阪の奉行達の策に落ちた。誤ってしまった。」

 「返す返すも無念なり。後悔すれど手遅れは明白だ。この上は徳川様の御使いを乞い速やかに腹を切る。父に罪を被せてはならぬ。」

 絶望する勝茂に対し、家臣たちが諌める。

 「まずもっては徳川様に申し開きをし、許しが無い場合には御自害も考えるべきでございますが、殿は21歳、まだ御若い。」

 「殿。徳川様も、兼ねてよりの直茂様との誓約を思し召され、寛容な御沙汰もあるやも知れませぬ。まず申し開きを。」とて、鍋島勝茂より甲斐弥左衛門を家康の陣に遣わし、西軍に加担してしまった経緯等を弁明した。


 一方で、勝茂家臣の久納市右衛門が、ひそかに黒田長政の陣に向かい、家康への取りなしを懇願した。

 
 黒田長政も、久納の志に心動かされ、井伊直政と語らって、処分が軽くなるように徳川家康に言上した。


 結果的に徳川家康は言明して曰、「私はそなたの父直茂と約束がある。約束は守るぞ。」とて立ちどころに龍造寺高房・鍋島勝茂は赦免された。同時に急ぎ下国の上、柳川の立花宗茂成敗を命じられた。

 
 鍋島直茂は佐賀に居て、関ヶ原以後の政局の動静を窺って居た。
とにかく勝茂の安否が心配であったが、今回島津、立花、毛利などが西軍に加担したため、徳川の大軍が九州討伐へ寄せて来る事も予測された。これを覚悟し、備えのための仕組みを早くも手配していた。

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参考:近江 愛智川はこの地図の辺りです。



万一、西軍に組した咎で徳川方が攻めて来る場合、鍋島直茂が何か「覚悟の一手」を打っていた事を匂わせる一文があります。同内容の文は勝茂公譜にも記録があります。その一手が如何なものか非常に気になりますね!

posted by 主宰 at 00:51| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする