2013年08月27日

直茂公譜考補十、関ヶ原(P.786〜)



 佐賀県近世史料第1巻(直茂公譜)に、関ヶ原の時に龍造寺高房と鍋島勝茂軍がどう動いたか、記述があります。Twitter用に簡潔訳したものを、ここにまとめて置きます^^結構面白いですよ! 

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直茂公譜考補十、関ヶ原(P.786〜)


 慶長五年正月。
龍造寺高房・鍋島直茂・勝茂は大阪で年を越す。この年の夏、上杉景勝が領地にひきこもり反逆の由、堀越後守より飛脚が来る。退治すべしとて豊臣秀頼の名代・徳川家康、6月中旬大阪を進発。
この時鍋島直茂もお供したいと申し出たが、家康曰く、今は天下危急の時、九州の事が心元ない。直茂殿は急ぎ佐賀へ下り、黒田如水と申し合せ、九州を守って欲しい、と。加藤清正も同じく家康に下向を指示された。


 鍋島直茂は、龍造寺高房・鍋島勝茂に、徳川方として関東へ行くよう指示を出し、6月15日に大阪を出立、下国する。この時、葉次郎右衛門を徳川家康に遣わし、この度私は厳命を任され本国へ下ります。関東へのお供には高房・勝茂を出陣させますので宜しくお願い致します、と言上させた。


 また、牟田大蔵を本願寺准如へ遣わし、私は家康様の仰せで本国へ下り、高房と勝茂は関東へ出陣します。ついてはその後、もし伏見大阪で騒乱が起こった場合、妻子たちを御寺で預かって頂けないか、と伝えた。
准如上人は委細承知した。(しかし実際、妻子を預けるには至らなかった。)


 
 龍造寺高房・鍋島勝茂は徳川方加勢のため近江(滋賀県)の愛智川まで出陣し、すこし行軍を止め徳川軍を後から追う形となった。この間に石田正澄(三成の兄)が愛智川に関所を構え、関東へ向かう者を1人も通さなかった。これにより止むを得ず高房・勝茂は大阪へ引き返す事になった。


 8月。

 龍造寺高房・鍋島勝茂の軍勢は西軍として伏見城を攻略、その後伊勢の安濃津城を攻略した。その時、関ヶ原で一戦あり、西軍が敗走したとの知らせが飛ぶ。龍造寺家は危急存亡の時であった。(関ヶ原の大戦はたった1日で決着)


 戦後処理である。井伊直政、本多正信、円光寺佶長老などの取持ちにより、鍋島直茂の忠誠に対して御赦免があり、同時に柳川の立花宗茂を成敗するよう厳命が下った。


 8月26日から27日。


 鍋島勝茂は一党引連れて佐賀へ下国。戦後処理の結果は先に直茂に知らせを出した。この時龍造寺高房は、徳川家康の命で大阪へ留まった。


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 さて関ヶ原の時、佐賀の鍋島直茂のこと。高房・勝茂が西軍として伏見城・安濃津城を攻陥し、松坂城を攻めているとの知らせに仰天。急ぎ下村左馬助を勝茂へ遣わした。


 直茂曰く「まず事情をよく考えると、大阪で西軍が決起したのは、幼い秀頼君の裁量では無い、ひとえにあの奉行たちが私怨を晴らす為に徳川家康殿を討とうとしているのだ。私は兼ねてより家康殿に、何かあった場合に誓約がある。それをお前、徳川方を襲うとは・・!」 「分かるか、亡き太閤秀吉様の仰せの如く、秀頼君に叛かず、徳川殿の命を重んじるべきであったのだ!」


 直茂から制された勝茂も仰天。

 「私は若輩にて察しがついていなかった・・。また母上が大阪で人質に取られていた故、大阪の奉行達の策に落ちた。誤ってしまった。」

 「返す返すも無念なり。後悔すれど手遅れは明白だ。この上は徳川様の御使いを乞い速やかに腹を切る。父に罪を被せてはならぬ。」

 絶望する勝茂に対し、家臣たちが諌める。

 「まずもっては徳川様に申し開きをし、許しが無い場合には御自害も考えるべきでございますが、殿は21歳、まだ御若い。」

 「殿。徳川様も、兼ねてよりの直茂様との誓約を思し召され、寛容な御沙汰もあるやも知れませぬ。まず申し開きを。」とて、鍋島勝茂より甲斐弥左衛門を家康の陣に遣わし、西軍に加担してしまった経緯等を弁明した。


 一方で、勝茂家臣の久納市右衛門が、ひそかに黒田長政の陣に向かい、家康への取りなしを懇願した。

 
 黒田長政も、久納の志に心動かされ、井伊直政と語らって、処分が軽くなるように徳川家康に言上した。


 結果的に徳川家康は言明して曰、「私はそなたの父直茂と約束がある。約束は守るぞ。」とて立ちどころに龍造寺高房・鍋島勝茂は赦免された。同時に急ぎ下国の上、柳川の立花宗茂成敗を命じられた。

 
 鍋島直茂は佐賀に居て、関ヶ原以後の政局の動静を窺って居た。
とにかく勝茂の安否が心配であったが、今回島津、立花、毛利などが西軍に加担したため、徳川の大軍が九州討伐へ寄せて来る事も予測された。これを覚悟し、備えのための仕組みを早くも手配していた。

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参考:近江 愛智川はこの地図の辺りです。



万一、西軍に組した咎で徳川方が攻めて来る場合、鍋島直茂が何か「覚悟の一手」を打っていた事を匂わせる一文があります。同内容の文は勝茂公譜にも記録があります。その一手が如何なものか非常に気になりますね!

posted by 主宰 at 00:51| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする