2014年01月13日

【勝茂公譜】 伏見城攻め (関ヶ原序章)C



■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.212〜214)
 敬称略御免。

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※『内府ちか(違)ひの条々』の内容については、ここのブログをご参考に!本文中にては省略。
http://www.geocities.co.jp/Bookend/5055/seki-ivst.htm


 さて大坂城では、毛利輝元が徳川家康の留守居、佐野肥後守をしりぞけて、自ら西の丸に入り、家康にかわって天下の成敗を司る事となった。



 7月下旬、豊臣秀頼の軍が伏見に向かう。大将は金吾(小早川)秀秋にて、これに従う者には羽柴侍従(島津)義弘、同、忠恒島津家久、龍造寺高房、鍋島勝茂、毛利吉政(のち勝永)毛利輝元と宇喜多秀家の一族、増田長盛の臣、石川式部丞、長束正家の臣、家所帯刀、銃将には鈴木孫三郎、弓将には松浦安大夫、河口久助など、士卒都合、23,000余騎。



 7月25日の夜より伏見城を攻める。石田三成も3,000の兵を率いて来陣。(水江事畧)



 この頃、藤八郎殿(龍造寺高房)へ毛利輝元の姫との縁組が済んだ事で、高房は毛利吉政の妹婿ゆえ、その縁で西軍に味方することになったという。(舊記)(←?? この縁組の話は誤り?要注意)



 8月朔日の未明、伏見城へ押し寄せ、ひたひたと大手の攻口に付いて鉄砲をつるべかかる。先手(先陣)は成富茂安。未宵より進み鉄門に至って即時に打ち破らんと、成富の家臣、副島九郎兵衛が一番に門口に付く。月貫四郎、淵川鷲之丞も続いて働くところに、門の内側をひし(犇)と打って、門扉の下から槍、長刀を突き出して、近づくものを打ち払う。



 これを見てかの三人を先頭に、成富の隊列のうち、目心効きたる者どもが走り寄り、門の下から繰り出される槍、長刀を20余本ほど奪取した。この時、成富茂安が指揮し、『石を集め扉の下を塞げ。内部からの防御をおさえて搔楯、竹束、虎落、柵木など壊して積み集め、門に火を掛けよ!』と下知した。与力の川浪作右衛門、一番に火を掛け、城門を即時に焼き崩し、鬨(とき)の声を上げて成富隊が一斉、同時に城中に乗り入って旗を立て、『鍋島信濃守内、成富十右衛門、一番乗り!』と呼ばわった。



 その時、鍋島勝茂は采配を揚げ、士卒を指揮する。毛利豊前守(吉政)勢も同時に進撃。伏見城兵も弓鉄砲を撃ちかけて防戦すること中々烈しい所、龍造寺(多久與兵衛)家久、とくに進んで攻め近づき、鍋島七左衛門、大木兵部少輔、石井六兵衛、田原右馬丞、中島権右衛門、月見の櫓の石垣に取りつき、はしごを使って櫓の上に乗り上がり、それぞれ名を叫んで『先登りなり!』と申す。土肥清右衛門は鍋島勝茂の御旗を差して、敵の第一塁に押し立てた。



 その他、堀江五右衛門、城中で働き深手を負い、仁戸田與右衛門、石垣に上がり敵の旗を奪取。馬渡又兵衛、太鼓櫓の下にて上林竹庵を討取り、小柳清右衛門も分捕いたし、綾部太兵衛、澤野八兵衛、大塚勝右衛門、成富仁右衛門、大村三郎兵衛、石尾安兵衛、綾部兵五郎、西村平兵衛、百武源五郎、五郎川杢左衛門、高木権兵衛、納富千兵衛、甲斐弥左衛門、大木権之丞、水町正五郎、葉次郎右衛門、藤山久大夫、石井仁右衛門など、おのおの進み戦い、或は傷を負い、或は分捕りした。



 毛利・島津・筑前の諸手も大いに挑み戦い、小早川秀秋の手勢より火矢を放ち、伏見城天守を焼き崩した。これにより城中の諸将、鳥居元忠をはじめ、松平主殿助、松平五郎左衛門、内藤弥次右衛門、内藤小次郎以下、みな城を出て激しく防戦する所に、鍋島の手勢、金丸孫七が火矢を放ち本丸を焼き立て、城兵の防戦もすべを失い、西の丸に引き籠って行った。この時諸手、西の丸へ押し寄せ、ひと押しに攻める。これにて、鳥居元忠は、大坂勢の内、鈴木孫三に討たれ、松平主殿助は島津の家来、別所某に首を授け、その他士卒、800余人討死して、城は落去した。



 この伏見城攻めでの龍造寺・鍋島勢が挙げた首級は100余であった。されば、故・関白(秀吉)殿下が心を留め造り磨かれた天守櫓、月見櫓、太鼓櫓、松ノ丸、一時の灰燼となりしこそ、あさましき事であった。




 さて伏見落城の段、さっそく大坂城へ知らせが飛び、このとき大老衆、奉行衆より、鍋島勝茂・毛利吉政宛に感状がもたらされた。




『 御本丸、御手前より乗取られ候由、御手柄共是非に及ばす候。為御見舞承懸、先ず先ず此者参候。恐惶謹言  八月朔日  増右 長盛(判)  鍋島信濃守殿・毛利豊前守殿 』




『 伏見城本丸を乗崩され、西之丸逃落候処、槍を合わせられ、御手前に首百程打ち取られし由、御手柄是非に及ばず候。何も各申達、是に従い申入るべき候条、巨細能わず候。 八月二日  長大 正家(判) 増右 長盛(判) 徳善 玄以(判)  鍋島信濃守殿・毛利豊前守殿  』



(続)






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2013年10月27日

【勝茂公譜】大阪騒乱(関ヶ原序章)B




■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.211〜)
 敬称略御免。

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慶長5年、7月下旬。

 鍋島勝茂が大坂へ引き返した所に、石田三成の主導で五奉行が談合し、徳川家康に対し逆意を企て「関東より家康が帰って来た所を、美濃の関ヶ原にて待ち受け、討ち果たすべし」と評定相極まった。まず家康の伏見城を攻め崩すべき旨、これは豊臣秀頼公の上意なりと、西国大小名へ五奉行より申し渡した。

 
 かの伏見城には、徳川家康より城代として鳥居元忠、その他、松平家忠、松平近正、内藤家長が置かれていた。しかるに7月25日の夜中より、備前中納言、宇喜多秀家を大将に、筑前中納言小早川秀秋、島津兵庫入道惟新義弘、毛利中納言輝元の手勢、かれこれ合わせて60,000余騎、増田長盛を軍監と定め大坂を出陣。


 この節、鍋島勝茂もこの中に参加せねばらならず、龍造寺藤八郎(高房)も同様、毛利吉政と合流して伏見へ出発した。お供には、龍造寺家久、龍造寺信昭、納富長周、龍造寺茂成、千葉胤信、鍋島茂正、神代家良、馬場茂員、鍋島茂忠、鍋島茂良、成富兵庫茂安、山代茂貞、鍋島種巻(城原衆)、石井茂清、久納市右衛門茂俊、出雲茂可らの物頭、その他士卒4,500余騎。


 
この時、五奉行より、幼君の命と称し、徳川家康の不義12ヶ条を書し諸将に示す。その文に曰く、(歴代畧記)



一、五人の奉行・五人の年寄共、上巻の誓紙連判、幾程も無く、年寄どもの内二人(石田三成、浅野長政を蟄居に)追い籠めらるる事。


一、五人の奉行衆の内、羽柴肥前守(前田利長)の事。遮り、誓紙を遣わされて(1599年9月から翌年春までの前田家討伐騒動を収めた誓書)身の上すでに果てらるるべき(すべきことはした)所に、先の上杉景勝を討ち果たすべく人質(利長の母:芳春院)を取り、追い籠め申され候事。


一、上杉景勝、何の咎これ無く、誓紙(家康の署名した誓紙)の筈違え、また太閤(秀吉)様の(私戦禁止の)御置目に背かるる、今度上杉の討伐は嘆かわしい事、種々様々の理を申したが(1600年4月〜5月に中老等から上杉征伐の中止を勧告されていた)、遂に許容なく出馬され候事。



(続)





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2013年10月21日

【勝茂公譜】大阪騒乱(関ヶ原序章)A



佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.209〜)
 敬称略御免。

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慶長5年、7月初旬。

 
 鍋島勝茂、毛利豊前守吉政と合流し、龍造寺藤八郎(高房・15歳)も同様、龍造寺家久、龍造寺信昭らを召し連れて大阪を出陣。近江の愛智川まで進んだが、進軍を少し引延ばしたため、早その間に石田正澄(石田三成の兄)10,000の軍を以て愛智川に関を据え、関東へ向かう軍勢を1人も通さなかった。

 
 当家の軍勢も力及ばず、足取りが定まらない(蹌)所に、石田三成方から安国寺恵瓊の使者が来て、関東行きを無理に差し止めた。その上、菊首座と申す出家を遣わし、徳川家康の非道を一々書き立て西国大名・小名を残らず招き、演説したものであるから、大半の者は石田方の下知に加担した。勝茂は、父・直茂が命じた(徳川方への参加)事が有り、もとよりその覚悟であったが、ここに至って関東へ向かうことはできなくなった。是非も無く無念であったが、力及ばず行き掛りにて愛智川より軍勢を引き返し、まず大坂へは帰らず、美濃の八日市の近辺へ滞在した。鷹狩などをする体にて事の状況を窺っていた所に、大坂・五奉行から書状を以て、急ぎ大坂へ帰るよう指令が有ったため、勝茂はやむを得ず大坂へ引き返した。

 


 異説には、6月15日、徳川家康が関東へ向けて大坂を出発した時、黒田長政より鍋島勝茂へ「本日内府公、御征伐軍を関東へ向かわせられたが、信濃守(勝茂)殿も我等と同じ道を進もう。早速に出立なされよ。」の旨書状が来た。この時、黒田長政と同じくして出発していたら障害なく関東へ向かうことができたのだが、この誘いを受けて、龍造寺家・鍋島家・宿老中の詮議が有り、様々意見が出た。「当家の士卒武具ら損失が大きく、これを京都に登らせて修理を加えている。まだ中途半端なこの状態では、傍目に隊列が見苦しくないだろうか?」あるいは、「勝茂公は最近腫れ物のため、馬に乗られるのに病で苦痛されるのでは?」・・こういった詮議に時間が掛かってしまい即決できず、黒田長政と共に出陣するに至らなかった。当家は7月初旬まで、出立を延期したため、その間に石田方が愛智川に関所を設けた、との事。

 石田三成、愛智川に関を据え、また禅僧の菊首座という者を鍋島勝茂へ派遣し、度々関東へ向かう事を止めた。勝茂はこれについて諸々の重臣と会議をした。龍造寺七郎左衛門・龍造寺與兵衛(家久)・龍造寺市兵衛(信昭)・神代大炊助、その他皆が言う。

 「御母公(陽泰院・彦鶴姫)が今、人質となって大坂にあります。直茂公がここに居られれば、即時にこの関を打ち破って通られる事は必定。妻子を捨て、武士の本意を遂げる事。古今その例は多うございます。しかしながら、勝茂公はこの様になさらずとも良いのでは。秀頼公を裏切り、御母公を見殺しになされれば、戦をするに神仏の加護も無くなりましょう。今はだた目の前の状況を重視し、まず上方(大坂)へお帰りある事が一番良いかと存じます。」

 勝茂はこれに同意し、軍勢を美濃の八日市に返し3日余り逗留。情勢を見ている時に、大坂の大老、毛利輝元、宇喜多秀家、五奉行より書状が来て招かれたため、大坂へ帰った。(水江事略)

 
 納富市佑は、徳川家康の会津征伐出馬の知らせを受け、早速佐賀を発ち鍋島勝茂のもとへ登ったが、勝茂は動員人数を議定しており、お供には加わることができなかった。そのため自覚悟(勝手に個人的に)愛智川までお供でついて行き、終始働いた。(納富家記)


↓八日市 はこの辺りです。
勝茂公譜には「濃州」と書いてあるけど、美濃に引き返すのはおかしいですよね(笑)愛智川の関越えてるって話ww   正しくは滋賀県八日市と思われます。これならつじつまが合う。



posted by 主宰 at 15:29| 佐賀 ☀| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする