2013年10月27日

【勝茂公譜】大阪騒乱(関ヶ原序章)B




■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.211〜)
 敬称略御免。

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慶長5年、7月下旬。

 鍋島勝茂が大坂へ引き返した所に、石田三成の主導で五奉行が談合し、徳川家康に対し逆意を企て「関東より家康が帰って来た所を、美濃の関ヶ原にて待ち受け、討ち果たすべし」と評定相極まった。まず家康の伏見城を攻め崩すべき旨、これは豊臣秀頼公の上意なりと、西国大小名へ五奉行より申し渡した。

 
 かの伏見城には、徳川家康より城代として鳥居元忠、その他、松平家忠、松平近正、内藤家長が置かれていた。しかるに7月25日の夜中より、備前中納言、宇喜多秀家を大将に、筑前中納言小早川秀秋、島津兵庫入道惟新義弘、毛利中納言輝元の手勢、かれこれ合わせて60,000余騎、増田長盛を軍監と定め大坂を出陣。


 この節、鍋島勝茂もこの中に参加せねばらならず、龍造寺藤八郎(高房)も同様、毛利吉政と合流して伏見へ出発した。お供には、龍造寺家久、龍造寺信昭、納富長周、龍造寺茂成、千葉胤信、鍋島茂正、神代家良、馬場茂員、鍋島茂忠、鍋島茂良、成富兵庫茂安、山代茂貞、鍋島種巻(城原衆)、石井茂清、久納市右衛門茂俊、出雲茂可らの物頭、その他士卒4,500余騎。


 
この時、五奉行より、幼君の命と称し、徳川家康の不義12ヶ条を書し諸将に示す。その文に曰く、(歴代畧記)



一、五人の奉行・五人の年寄共、上巻の誓紙連判、幾程も無く、年寄どもの内二人(石田三成、浅野長政を蟄居に)追い籠めらるる事。


一、五人の奉行衆の内、羽柴肥前守(前田利長)の事。遮り、誓紙を遣わされて(1599年9月から翌年春までの前田家討伐騒動を収めた誓書)身の上すでに果てらるるべき(すべきことはした)所に、先の上杉景勝を討ち果たすべく人質(利長の母:芳春院)を取り、追い籠め申され候事。


一、上杉景勝、何の咎これ無く、誓紙(家康の署名した誓紙)の筈違え、また太閤(秀吉)様の(私戦禁止の)御置目に背かるる、今度上杉の討伐は嘆かわしい事、種々様々の理を申したが(1600年4月〜5月に中老等から上杉征伐の中止を勧告されていた)、遂に許容なく出馬され候事。



(続)





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2013年10月21日

【勝茂公譜】大阪騒乱(関ヶ原序章)A



佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.209〜)
 敬称略御免。

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慶長5年、7月初旬。

 
 鍋島勝茂、毛利豊前守吉政と合流し、龍造寺藤八郎(高房・15歳)も同様、龍造寺家久、龍造寺信昭らを召し連れて大阪を出陣。近江の愛智川まで進んだが、進軍を少し引延ばしたため、早その間に石田正澄(石田三成の兄)10,000の軍を以て愛智川に関を据え、関東へ向かう軍勢を1人も通さなかった。

 
 当家の軍勢も力及ばず、足取りが定まらない(蹌)所に、石田三成方から安国寺恵瓊の使者が来て、関東行きを無理に差し止めた。その上、菊首座と申す出家を遣わし、徳川家康の非道を一々書き立て西国大名・小名を残らず招き、演説したものであるから、大半の者は石田方の下知に加担した。勝茂は、父・直茂が命じた(徳川方への参加)事が有り、もとよりその覚悟であったが、ここに至って関東へ向かうことはできなくなった。是非も無く無念であったが、力及ばず行き掛りにて愛智川より軍勢を引き返し、まず大坂へは帰らず、美濃の八日市の近辺へ滞在した。鷹狩などをする体にて事の状況を窺っていた所に、大坂・五奉行から書状を以て、急ぎ大坂へ帰るよう指令が有ったため、勝茂はやむを得ず大坂へ引き返した。

 


 異説には、6月15日、徳川家康が関東へ向けて大坂を出発した時、黒田長政より鍋島勝茂へ「本日内府公、御征伐軍を関東へ向かわせられたが、信濃守(勝茂)殿も我等と同じ道を進もう。早速に出立なされよ。」の旨書状が来た。この時、黒田長政と同じくして出発していたら障害なく関東へ向かうことができたのだが、この誘いを受けて、龍造寺家・鍋島家・宿老中の詮議が有り、様々意見が出た。「当家の士卒武具ら損失が大きく、これを京都に登らせて修理を加えている。まだ中途半端なこの状態では、傍目に隊列が見苦しくないだろうか?」あるいは、「勝茂公は最近腫れ物のため、馬に乗られるのに病で苦痛されるのでは?」・・こういった詮議に時間が掛かってしまい即決できず、黒田長政と共に出陣するに至らなかった。当家は7月初旬まで、出立を延期したため、その間に石田方が愛智川に関所を設けた、との事。

 石田三成、愛智川に関を据え、また禅僧の菊首座という者を鍋島勝茂へ派遣し、度々関東へ向かう事を止めた。勝茂はこれについて諸々の重臣と会議をした。龍造寺七郎左衛門・龍造寺與兵衛(家久)・龍造寺市兵衛(信昭)・神代大炊助、その他皆が言う。

 「御母公(陽泰院・彦鶴姫)が今、人質となって大坂にあります。直茂公がここに居られれば、即時にこの関を打ち破って通られる事は必定。妻子を捨て、武士の本意を遂げる事。古今その例は多うございます。しかしながら、勝茂公はこの様になさらずとも良いのでは。秀頼公を裏切り、御母公を見殺しになされれば、戦をするに神仏の加護も無くなりましょう。今はだた目の前の状況を重視し、まず上方(大坂)へお帰りある事が一番良いかと存じます。」

 勝茂はこれに同意し、軍勢を美濃の八日市に返し3日余り逗留。情勢を見ている時に、大坂の大老、毛利輝元、宇喜多秀家、五奉行より書状が来て招かれたため、大坂へ帰った。(水江事略)

 
 納富市佑は、徳川家康の会津征伐出馬の知らせを受け、早速佐賀を発ち鍋島勝茂のもとへ登ったが、勝茂は動員人数を議定しており、お供には加わることができなかった。そのため自覚悟(勝手に個人的に)愛智川までお供でついて行き、終始働いた。(納富家記)


↓八日市 はこの辺りです。
勝茂公譜には「濃州」と書いてあるけど、美濃に引き返すのはおかしいですよね(笑)愛智川の関越えてるって話ww   正しくは滋賀県八日市と思われます。これならつじつまが合う。



posted by 主宰 at 15:29| 佐賀 ☀| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月04日

【勝茂公譜】大阪騒乱(関ヶ原序章)@



■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。簡潔訳です。(P.208〜)
敬称略御免。

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慶長5年。鍋島勝茂、21歳。

今年正月、鍋島直茂・藤八郎(龍造寺高房・龍造寺隆信の直系の孫)殿、3人一緒に大阪の玉造の屋敷で年越し。

今年の夏、上杉景勝、会津の領地において反逆を企て、居城に引き籠った旨の飛脚が到来。征伐の為に、豊臣秀頼の名代に、徳川家康、6月中旬大阪を進発。諸国の大小名25人がお供する。この節、勝茂も直茂も同じくお供を願い出たが、家康より『今天下危急のみぎり、加賀守(直茂)は、加藤清正と同様、国へ罷り下り、黒田如水と相談し、九州筋の事を押さえるように。』と仰せが有ったため、直茂は家康の関東行きにお供する用意をしていたけれども、早速大阪を発ち佐賀へ帰国。勝茂も出陣の支度は出来ていた。

この時直茂から勝茂へ、陣中での法度5ヶ条を定めたものが手渡された。内容は以下。


一、我々の事はもちろん、下々の者まで喧嘩をしないよう申しつける。

一、若輩ではあるが、信濃守(勝茂)の下知に従う事。

一、特に合戦の際、信濃守(勝茂)が誰かへ下知をする他は、一切みなバラバラに下知をしてはならない。
 (付記:物見、陣見回りの際は人数を立てて、それがどんな用事であっても混乱を招かないようにする事)

一、いかに邪な事が裏表に有っても、軍勢中、悪しき事は停止を命じ、武辺一篇に覚悟すべし。当然、無理な事も有るが、その時は信濃守(勝茂)へ申し出て、判断を仰ぐ事。自己判断で動かない事。

一、秀頼様のお役に立つ覚悟で大阪を出立した上は、内府公(徳川家康)へ指示を請い、身命を惜しまず御用に立つように。
  
    6月15日   加賀守(御判)


 今年正月、直茂、勝茂、高房、ともに大阪に居り、多久安順(龍造寺家久)も一緒だった。この時、豊臣秀頼は大阪城に在り、徳川家康は西の丸に居て、ひとしく諸侯の年賀の挨拶をうけられた。会津の上杉景勝は参勤が無く、また逆心の噂があった。春から夏の頃、大阪と会津で文書の往復があった。上杉景勝はついに、反逆の動きに出た。


 同6月19日、豊臣秀頼の名代として徳川家康が伏見を出発、関東に下向した。時に、勝茂と高房は、関東への御供として京都へ赴いた。多久安順これに従う。息子(養子)の多久茂冨は、直茂に従って佐賀へ帰国した。
勝茂が出陣するにあたり、大阪・玉造の館の留守の事が心配であったが、頼れる所もなかった。そこで御用聞きの町人、甚左衛門という者が西本願寺の坊主につてが有ったため、西本願寺へ行きこの事を相談した。坊主たちは相談し、引き受けてくれる事になったため、勝茂から早速使者を遣わして「何かあった場合は、母や妻たちの保護を宜しくお願い致します」という旨を伝え、本願寺からも別条なく請けてもらえたので、勝茂は大変機嫌が良かった。まずこれで居館の留守の心配は、安心できたので、龍造寺鍋島軍は出発。なお、留守中の玉造屋敷の用事は万端、甚左衛門にととのえさせた。   

(続)


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■参考:大阪 玉造は大阪城の南。地図周辺です。









posted by 主宰 at 00:41| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする