2014年02月17日

【勝茂公譜】 伊勢の陣 〜安濃津城攻め〜(関ヶ原序章)E


■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.217)一部中略
 
敬称略御免。

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 然るに鍋島勝茂、津の城の要害・地形・攻口の様子を見ながら作戦を立てるべく、武功のある家臣たちと巡見した所、この口(布陣した山輪という場所近辺)は利を得難いと評議が定まり、「遠瀬川を渡って浜の手に向かい攻め掛かるべし」という事になった。


 まず斥候に、神代家臣・梅野右馬助を差し向かわせた。戻ってきて報告した事には、「右の攻め口であれば、勝利は必定の様です」との事。いよいよその箇所から攻め掛かる事が決定した。この斥候の最中、右馬助は敵の鉄砲に撃たれ、乗っていた馬も撃ち倒されてしまった。しかし流血するままに徒歩で河上に到着し、川の浅深も見計らい、攻め口の地理をも良く窺って戻り、かように報告した事、鍋島勝茂感じ入り、その勇気を賞美した。


 大坂方の諸勢。30,000余騎、安濃津(阿ノ津)城に攻め掛かる。
 
 軍奉行は長束大蔵大輔正家。鍋島勝茂は毛利秀元と同陣し、山の手に在り。ここから鍋島軍は二手に分かれ、一隊は龍造寺高房を大将とし山の手に布陣。その先手は龍造寺家久(後の多久安順)。もう一手は鍋島勝茂が大将にて、浜の手へ向かう。(水江事畧)


 この時、梅野右馬允、物見として城際まで窺い寄った所、城中よりすき間なく鉄砲を撃ちかけられ、とっさに城門の近くでオロオロしていた女を捕えて、その体を楯に鉄砲玉を防いだ。しかし周りに味方も無く、二カ所を撃たれ負傷した。門の近くに乗り捨てた馬があったので飛び乗り、味方の陣へ退却した。(神代戦功記)



 8月22日。

 安濃津城に籠城している武将は、富田信高、分部光嘉。その数わずか1,700騎。

 鍋島勝茂、軍勢を繰り出し城へ攻め掛かる所に、地侍どもが城中を支援すべく、川を渡り城に入ろうとしていた。これに追い掛かり、その勢いのままニノ丸へ乗り込もうとするが、城兵が打って出て戦闘となった。しかし鍋島勢、進んで塀壁を打ち破り、ついに二ノ丸に乗り入れ、鍋島七左衛門、成富十右衛門(茂安)、大木兵部、綾部太兵衛、石井六兵衛、田原右馬允、城島六右衛門、秀島卯右衛門、田代次郎助、南里隼人、梅野右馬助、奮って活躍し、御厨源太郎討死す。その時、他の諸勢も攻め口に詰め寄り、なかんずく、毛利秀元の軍が進んで攻め口を打ち破り、激しく戦った。こうして防ぎ様も無くなった城主、富田信高、分部光嘉は本丸へ退き籠った。


 この節、鍋島勝茂へ増田長盛より感状が遣わされた。


「津の城、南の浜手を請け取り、即時に二の丸まで乗り詰め、敵を多く打ち捕えられらた事、お手柄である。本城の落去まで、いよいよ御粉骨が肝要である。恐惶謹言 八月二十六日 増右長盛(判) 鍋島信濃守殿 」



こうして城の両将、本丸へ引き籠った所を、諸勢は勝ちに乗じて一斉に突き進み、本丸を攻めるべしと取り詰めた。ここで大坂の軍監、長束正家、城中へ申談し、和議が成立。富田信高、分部光嘉は、城を降り、海辺の一向寺(一身田の専修寺)に入る。軍は相留まる。



(続)



三重県津市、安濃津城の位置。





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2014年01月17日

【勝茂公譜】 伏見城攻め〜伊勢へ (関ヶ原序章)D





■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.214〜217)一部中略
 敬称略御免。

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『一昨年以来、内府(徳川家康)背き、太閤(豊臣秀吉)様が定めた法令の上巻に違反され、ほしいままに行動したため、法令を順守するために一戦を交える。まず伏見城の事。留守役を追い出し、関東の凡下(愚人・身分の低い武士)野人のものども、御座所を踏み荒らした事は是非も無い次第のため、今度伏見城を攻め即座に乗り崩し、鳥居元忠をはじめ800名余を討ち果たした事、比類の無い功績である。ことに貴所、御手前粉骨の至り、秀頼様、御感斜めならず。よって金子20枚併せて知行3000石を加増する。なお以て忠功に励まれるよう。仰出の状、件の如し。  

   慶長5年 8月5日 芸中 輝元(判) 備中 秀家(判) 鍋島信濃守殿 毛利豊前守殿 』




 徳川家康は上杉退治のため、去る6月15日大坂を出立、関東に向かった所に、上杉景勝反逆は最初から計略上の事にて無事に鎮まったので、早々に京へ戻る所、石田三成が張本人にて大老衆、奉行衆が結託し、豊臣秀頼の威を借り、四国・中国・九州の諸将を呼び集め、8月朔日、伏見城は早、焼き払い、8月20日、都合30万騎、美濃の関ヶ原へ出向かい、軍旗空を掠め、兵馬地を動かし、家康を待ち構え討ち果たそうとした。


 しかるに伊勢の安濃津城には、家康に味方する富田信濃守信高、分部左京亮政寿が籠っていた。奉行中の指図にて、西国衆へ攻略が命じられ、8月中旬、吉川蔵人広家、長曽我部宮内少輔盛親、中江式部少輔直澄、山崎右京允定勝、松浦安大夫宗清、蒔田権之助などが馳せ向かう。



 鍋島勝茂もこの中にあり、毛利吉政と共に安濃津城へ向かい、津の城浜の南、遠瀬川のあたり、山輪という所に布陣した。


(続)



三重県の安濃津城(津城)址はコチラ↓↓




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2014年01月13日

【勝茂公譜】 伏見城攻め (関ヶ原序章)C



■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.212〜214)
 敬称略御免。

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※『内府ちか(違)ひの条々』の内容については、ここのブログをご参考に!本文中にては省略。
http://www.geocities.co.jp/Bookend/5055/seki-ivst.htm


 さて大坂城では、毛利輝元が徳川家康の留守居、佐野肥後守をしりぞけて、自ら西の丸に入り、家康にかわって天下の成敗を司る事となった。



 7月下旬、豊臣秀頼の軍が伏見に向かう。大将は金吾(小早川)秀秋にて、これに従う者には羽柴侍従(島津)義弘、同、忠恒島津家久、龍造寺高房、鍋島勝茂、毛利吉政(のち勝永)毛利輝元と宇喜多秀家の一族、増田長盛の臣、石川式部丞、長束正家の臣、家所帯刀、銃将には鈴木孫三郎、弓将には松浦安大夫、河口久助など、士卒都合、23,000余騎。



 7月25日の夜より伏見城を攻める。石田三成も3,000の兵を率いて来陣。(水江事畧)



 この頃、藤八郎殿(龍造寺高房)へ毛利輝元の姫との縁組が済んだ事で、高房は毛利吉政の妹婿ゆえ、その縁で西軍に味方することになったという。(舊記)(←?? この縁組の話は誤り?要注意)



 8月朔日の未明、伏見城へ押し寄せ、ひたひたと大手の攻口に付いて鉄砲をつるべかかる。先手(先陣)は成富茂安。未宵より進み鉄門に至って即時に打ち破らんと、成富の家臣、副島九郎兵衛が一番に門口に付く。月貫四郎、淵川鷲之丞も続いて働くところに、門の内側をひし(犇)と打って、門扉の下から槍、長刀を突き出して、近づくものを打ち払う。



 これを見てかの三人を先頭に、成富の隊列のうち、目心効きたる者どもが走り寄り、門の下から繰り出される槍、長刀を20余本ほど奪取した。この時、成富茂安が指揮し、『石を集め扉の下を塞げ。内部からの防御をおさえて搔楯、竹束、虎落、柵木など壊して積み集め、門に火を掛けよ!』と下知した。与力の川浪作右衛門、一番に火を掛け、城門を即時に焼き崩し、鬨(とき)の声を上げて成富隊が一斉、同時に城中に乗り入って旗を立て、『鍋島信濃守内、成富十右衛門、一番乗り!』と呼ばわった。



 その時、鍋島勝茂は采配を揚げ、士卒を指揮する。毛利豊前守(吉政)勢も同時に進撃。伏見城兵も弓鉄砲を撃ちかけて防戦すること中々烈しい所、龍造寺(多久與兵衛)家久、とくに進んで攻め近づき、鍋島七左衛門、大木兵部少輔、石井六兵衛、田原右馬丞、中島権右衛門、月見の櫓の石垣に取りつき、はしごを使って櫓の上に乗り上がり、それぞれ名を叫んで『先登りなり!』と申す。土肥清右衛門は鍋島勝茂の御旗を差して、敵の第一塁に押し立てた。



 その他、堀江五右衛門、城中で働き深手を負い、仁戸田與右衛門、石垣に上がり敵の旗を奪取。馬渡又兵衛、太鼓櫓の下にて上林竹庵を討取り、小柳清右衛門も分捕いたし、綾部太兵衛、澤野八兵衛、大塚勝右衛門、成富仁右衛門、大村三郎兵衛、石尾安兵衛、綾部兵五郎、西村平兵衛、百武源五郎、五郎川杢左衛門、高木権兵衛、納富千兵衛、甲斐弥左衛門、大木権之丞、水町正五郎、葉次郎右衛門、藤山久大夫、石井仁右衛門など、おのおの進み戦い、或は傷を負い、或は分捕りした。



 毛利・島津・筑前の諸手も大いに挑み戦い、小早川秀秋の手勢より火矢を放ち、伏見城天守を焼き崩した。これにより城中の諸将、鳥居元忠をはじめ、松平主殿助、松平五郎左衛門、内藤弥次右衛門、内藤小次郎以下、みな城を出て激しく防戦する所に、鍋島の手勢、金丸孫七が火矢を放ち本丸を焼き立て、城兵の防戦もすべを失い、西の丸に引き籠って行った。この時諸手、西の丸へ押し寄せ、ひと押しに攻める。これにて、鳥居元忠は、大坂勢の内、鈴木孫三に討たれ、松平主殿助は島津の家来、別所某に首を授け、その他士卒、800余人討死して、城は落去した。



 この伏見城攻めでの龍造寺・鍋島勢が挙げた首級は100余であった。されば、故・関白(秀吉)殿下が心を留め造り磨かれた天守櫓、月見櫓、太鼓櫓、松ノ丸、一時の灰燼となりしこそ、あさましき事であった。




 さて伏見落城の段、さっそく大坂城へ知らせが飛び、このとき大老衆、奉行衆より、鍋島勝茂・毛利吉政宛に感状がもたらされた。




『 御本丸、御手前より乗取られ候由、御手柄共是非に及ばす候。為御見舞承懸、先ず先ず此者参候。恐惶謹言  八月朔日  増右 長盛(判)  鍋島信濃守殿・毛利豊前守殿 』




『 伏見城本丸を乗崩され、西之丸逃落候処、槍を合わせられ、御手前に首百程打ち取られし由、御手柄是非に及ばず候。何も各申達、是に従い申入るべき候条、巨細能わず候。 八月二日  長大 正家(判) 増右 長盛(判) 徳善 玄以(判)  鍋島信濃守殿・毛利豊前守殿  』



(続)






posted by 主宰 at 00:46| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする