2014年02月18日

【勝茂公譜】 伊勢の陣 〜安濃津城攻め〜(関ヶ原序章)F


■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.218−220)一部中略
 
敬称略御免。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


8月22日、塀柵を打ち破り、鍋島勢いずれも我先に進んでいる所、龍造寺家久(後の多久安順)の家人、南里三郎左衛門、二ノ丸へ登り上がり、敵二人を突き伏せ従者に首を取らせた。石井源左衛門も同じく分捕りし、先登りと名乗る。その他、田代九郎左衛門・野田清兵衛、岸權左衛門、大河内五右衛門、吉武弥右衛門、服部内蔵允・山田円右衛門、副島五郎左衛門、各力戦し、敵数輩を討ち取る。別て南里・石井戦功あり。「多久戦功記」



又いう、8月20日(本文22日)、伊勢の野伏数百、富田信高を支援し城に入る。鍋島勝茂の先手、鍋島七左衛門(深堀・茂賢)、成富十右衛門(茂安)以下、付き従ってニノ廓へ乗り入れた。

ここで龍造寺高房率いる山手の部隊、先手、龍造寺家久の家人、南里三郎左衛門が城中に乗り入ろうと石井源左衛門と議し、乗り口をうかがう。

そこに敵が出て来て一ノ丘に駐屯した。そこへは武備が堅固のため、近寄ることができない。

これによって、二人は密かに山の裏に回って、険しい崖をよじ登る。

先に、鎧武者が一人よじ登っていた。これは敵であった。南里は敵の足に取りつく。敵は振り返って「何者ぞ!」と問う。南里は偽って「味方だ!」と答え、石井と共に無事に高い丘によじ登り、また低い所に下り、南里・石井両人、槍を並べ、主従共に10数名攻め掛かり、たちまち一陣を突破した。

南里、敵を2人突き伏せる。従者が首を取る。石井も敵を討って、同音に一番乗りと名乗る。野田清兵衛もまた駆け来たり、ひとしく槍をそろえて逃げる敵を追いまくる。城兵は敗退し悉く、本丸へ退く。服部内蔵允、山田円右衛門、副島五郎左衛門も各力戦して、また敵数十人を討ち取る。

龍造寺家久も進んで鍋島勝茂の先陣に出会う。ここにまた、家久の鳥銃頭、田代二郎左衛門は、家久の命で夜中に与力の吉武弥右衛門を連れて潮満川を渡り、密かに乗り口を見定め、翌朝、龍造寺勢の攻め入りを先導した。

龍造寺高房及び龍造寺氏の一族が多数、城に乗り入ることができたのは、田代の手柄である。また、大河内五右衛門も、城内にて首数級を取り、家久は賞賛して大河内の姓を、松坂氏に改めさせたそうだ。一説には、安濃津城落城の時、鍋島勝茂は松坂城に向かった。家久らはこれに従い松坂城も落城した。これにちなんで改姓したともいう。大河内の事績を見れば、松坂城攻めの説の方が正しいようだ。「水江事畧」


この時、敵の足軽大将分の侍、2〜30人にて土手際に控えていたのを、堺小兵衛が忍び寄り、三寸の雁俣(弓矢)を放って射殺し、首を取ろうとするのを、敵の30人ほどの者が遺体を引き去り、奥へ退却していく。そこへ多数の矢を射かけたが、敵は逃げ去り力及ばず、小兵衛も傷を負って、退却した。「堺戦功記」


今回の一番首は、田原右馬允、二番首、石井六兵衛が打ち取る。六兵衛は槍矢手のために2カ所を負傷したという。「石井戦功記」


これ以前、伏見にて水町弥太右衛門、問題があってお暇を出され、佐賀へ帰国していたが、上方の乱を知って早速駆け付け、安濃津城攻めに加わった。「水町戦功記」


伏見城攻めの時、水町弥太右衛門の組の中で、寒水六郎右衛門重辰が活躍し、名を上げる。鍋島勝茂はこれを見て、大塚勝右衛門を使者として銀子2枚を褒美に与えた。伊勢の陣の時は弥太右衛門は病気により、その50人の組が寒水六郎右衛門へ付けられ、活躍したという。「寒水戦功記」


またこの前、水町弥太右衛門、直筆でしたためた書状を以て鍋島勝茂へ言上するには、「今回、直茂公が石田三成方に味方し上方へ出陣されては、御家のためにならないと存じます。直茂公は徳川家康方となって、佐賀に在国なさるが宜しいかと存じます。なぜなら今回の戦、関東方の勝利は必定と思われるためです。」このような手紙を差しだしたそうだ。「水町戦功記」


今度上方騒動について、鍋島直茂も出陣するために、轟木(鳥栖市轟木町??)まで馬を進めていたが、病気のため、下村生運に意志を言い含め上方に派遣し、直茂自身は佐賀に帰城した。かくして下村生運は上方に登ったが、時すでに伏見城は落城の後。その後に大坂に着いたが、安濃津城攻めの時にようやく鍋島勝茂の所へ到着したそうだ。
「下村戦功記」


(続)





posted by 主宰 at 23:12| 佐賀 ☁| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月17日

【勝茂公譜】 伊勢の陣 〜安濃津城攻め〜(関ヶ原序章)E


■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.217)一部中略
 
敬称略御免。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



 然るに鍋島勝茂、津の城の要害・地形・攻口の様子を見ながら作戦を立てるべく、武功のある家臣たちと巡見した所、この口(布陣した山輪という場所近辺)は利を得難いと評議が定まり、「遠瀬川を渡って浜の手に向かい攻め掛かるべし」という事になった。


 まず斥候に、神代家臣・梅野右馬助を差し向かわせた。戻ってきて報告した事には、「右の攻め口であれば、勝利は必定の様です」との事。いよいよその箇所から攻め掛かる事が決定した。この斥候の最中、右馬助は敵の鉄砲に撃たれ、乗っていた馬も撃ち倒されてしまった。しかし流血するままに徒歩で河上に到着し、川の浅深も見計らい、攻め口の地理をも良く窺って戻り、かように報告した事、鍋島勝茂感じ入り、その勇気を賞美した。


 大坂方の諸勢。30,000余騎、安濃津(阿ノ津)城に攻め掛かる。
 
 軍奉行は長束大蔵大輔正家。鍋島勝茂は毛利秀元と同陣し、山の手に在り。ここから鍋島軍は二手に分かれ、一隊は龍造寺高房を大将とし山の手に布陣。その先手は龍造寺家久(後の多久安順)。もう一手は鍋島勝茂が大将にて、浜の手へ向かう。(水江事畧)


 この時、梅野右馬允、物見として城際まで窺い寄った所、城中よりすき間なく鉄砲を撃ちかけられ、とっさに城門の近くでオロオロしていた女を捕えて、その体を楯に鉄砲玉を防いだ。しかし周りに味方も無く、二カ所を撃たれ負傷した。門の近くに乗り捨てた馬があったので飛び乗り、味方の陣へ退却した。(神代戦功記)



 8月22日。

 安濃津城に籠城している武将は、富田信高、分部光嘉。その数わずか1,700騎。

 鍋島勝茂、軍勢を繰り出し城へ攻め掛かる所に、地侍どもが城中を支援すべく、川を渡り城に入ろうとしていた。これに追い掛かり、その勢いのままニノ丸へ乗り込もうとするが、城兵が打って出て戦闘となった。しかし鍋島勢、進んで塀壁を打ち破り、ついに二ノ丸に乗り入れ、鍋島七左衛門、成富十右衛門(茂安)、大木兵部、綾部太兵衛、石井六兵衛、田原右馬允、城島六右衛門、秀島卯右衛門、田代次郎助、南里隼人、梅野右馬助、奮って活躍し、御厨源太郎討死す。その時、他の諸勢も攻め口に詰め寄り、なかんずく、毛利秀元の軍が進んで攻め口を打ち破り、激しく戦った。こうして防ぎ様も無くなった城主、富田信高、分部光嘉は本丸へ退き籠った。


 この節、鍋島勝茂へ増田長盛より感状が遣わされた。


「津の城、南の浜手を請け取り、即時に二の丸まで乗り詰め、敵を多く打ち捕えられらた事、お手柄である。本城の落去まで、いよいよ御粉骨が肝要である。恐惶謹言 八月二十六日 増右長盛(判) 鍋島信濃守殿 」



こうして城の両将、本丸へ引き籠った所を、諸勢は勝ちに乗じて一斉に突き進み、本丸を攻めるべしと取り詰めた。ここで大坂の軍監、長束正家、城中へ申談し、和議が成立。富田信高、分部光嘉は、城を降り、海辺の一向寺(一身田の専修寺)に入る。軍は相留まる。



(続)



三重県津市、安濃津城の位置。





posted by 主宰 at 00:49| 佐賀 ☁| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月17日

【勝茂公譜】 伏見城攻め〜伊勢へ (関ヶ原序章)D





■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.214〜217)一部中略
 敬称略御免。

―――――――――



『一昨年以来、内府(徳川家康)背き、太閤(豊臣秀吉)様が定めた法令の上巻に違反され、ほしいままに行動したため、法令を順守するために一戦を交える。まず伏見城の事。留守役を追い出し、関東の凡下(愚人・身分の低い武士)野人のものども、御座所を踏み荒らした事は是非も無い次第のため、今度伏見城を攻め即座に乗り崩し、鳥居元忠をはじめ800名余を討ち果たした事、比類の無い功績である。ことに貴所、御手前粉骨の至り、秀頼様、御感斜めならず。よって金子20枚併せて知行3000石を加増する。なお以て忠功に励まれるよう。仰出の状、件の如し。  

   慶長5年 8月5日 芸中 輝元(判) 備中 秀家(判) 鍋島信濃守殿 毛利豊前守殿 』




 徳川家康は上杉退治のため、去る6月15日大坂を出立、関東に向かった所に、上杉景勝反逆は最初から計略上の事にて無事に鎮まったので、早々に京へ戻る所、石田三成が張本人にて大老衆、奉行衆が結託し、豊臣秀頼の威を借り、四国・中国・九州の諸将を呼び集め、8月朔日、伏見城は早、焼き払い、8月20日、都合30万騎、美濃の関ヶ原へ出向かい、軍旗空を掠め、兵馬地を動かし、家康を待ち構え討ち果たそうとした。


 しかるに伊勢の安濃津城には、家康に味方する富田信濃守信高、分部左京亮政寿が籠っていた。奉行中の指図にて、西国衆へ攻略が命じられ、8月中旬、吉川蔵人広家、長曽我部宮内少輔盛親、中江式部少輔直澄、山崎右京允定勝、松浦安大夫宗清、蒔田権之助などが馳せ向かう。



 鍋島勝茂もこの中にあり、毛利吉政と共に安濃津城へ向かい、津の城浜の南、遠瀬川のあたり、山輪という所に布陣した。


(続)



三重県の安濃津城(津城)址はコチラ↓↓




posted by 主宰 at 09:58| 佐賀 ☀| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする