2020年07月04日

★(4)『御家聞書 天』に見る、鍋島家の関ヶ原大乱と江上八院の戦い(2020.7/4)



まえがきと、本文(1):http://sagasengoku.seesaa.net/article/475972672.html

本文(2):http://sagasengoku.seesaa.net/article/476023166.html
本文(3):http://sagasengoku.seesaa.net/article/476039208.html




『御家聞書 天』(4)

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主水が曰「時分は能ぞ、者共」とて甲の緒をしめ侯処に、後藤左衛門生年十八歳なるが勇み進みて押出す。諫早石見守が郎従共「我後備の後藤をば通すべからず」と云けるを、とかく断て通りける。主水が与の者共「今日の先陣は我等也、はるばると跡なる後藤をば通すまじき」とて既に同士、軍せんとす。

主水が云く「敵を次にして先陣後陣を争事、忠無し。其上後藤は若き者なれば、我が下知にて軍をさすべし」とて、軍使をして云けるは、「今日の先陣をば同姓七左衛門と後藤殿に渡す也。時分は能侍るく早掛り給え、我は是にて見物す」と云ければ、後藤心得て候と返事して、横合に懸て戦う。左衛門若武者にて侍れ共、心賢き者にて、下知して曰「敵の鉄炮高く来うは、下きと云べし。かく云はば、味方の鉄炮を下て討べし、亦、下く来らば是に逆して云べし」と約束す。

然るに、敵の射ける失、馬印・指物に中るを見て「敵の鉄炮下を来るぞ、味方には高く射よ」と下知しけるを、敵聞付て、猶高く討ければ、味方には失に中る者なし。味方には是を心得て、下げて重討に射ければ、失玉の通りたる一筋は、草木の風になびく如に射たをしける。

是を見て、始に七左衛門が手より敗したる者ども取てかえし、七左衛門下知に随いければ、二方よりも見合わせ、一度にどっと突かかりければ、立花方は立足もなく、一度にはつと敗軍す。

直茂公の曰く「軍には勝たるぞ、先き一陣乱して敵を討べし、次に、軍は直ぐに柳川の城を乗取、火を放つべし、次一軍は柳川近辺の町屋其外、城の廻を焼べし、次一軍は備を不乱、備を堅め、ふいを待べし。我も父子旗を進め下知すべし」と、軍使くしのはを引が如く掛廻て下知す。

かかる処に、加藤清正・黒田如翠より使来て云けるは、「今日の御合戦、誉に言葉なし。立花が命を助給へ、城をも我々両人に渡し給へ。立花が領知の民を殺し給うな、早軍兵を召つれられ御帰国有べし。是家康公の密の御命也。是偽にて後難有らば、我等にかけ給え」と、證文分明に出さるる。

直茂公の曰く「立花に私の意恨なし、内府の命に依て罰する者也。止め給うも上意なれば、兎も角も仰に任せ侍る」とて、軍兵を上げ給い、分国へ退き給いて、高名の勝劣を撰び給い、それぞれに宝録を給ると也。

 直茂公より立花左近将監殿へ被出候御書

【※ 書状文は草書体で記されており、白峰旬先生の翻刻文は、UPしてよいものか分かりませんので省略します。大意としては、石田三成が天理に背いて「濃州青野」で一戦し、「其方」は石田方に味方していたので、討果すべしとの上意を受けて、息子の勝茂が近日そちらへ大軍で侵攻する、云々、という、宣戦布告文です。恐々謹言の結句もなく、白峰先生は偽文書と判断されておられます。】


 慶長五年九月日      加賀守 直茂
  立花左近将監殿
   



柳川戦死名付

(戦死者の名簿にて、省略します。)





以上、(4)で完結です。 

− 『御家聞書 天』に見る、鍋島家の関ヶ原大乱と江上八院の戦い −

複製本(57頁〜71頁)は、佐賀県立図書館の郷土史料室(ガラス張りの小部屋の方です)で読めますので、興味の有る方はぜひご覧下さい。

https://www2.tosyo-saga.jp/archives/opac/switch-detail.do?bibid=1700062989



江戸時代後期の鍋島藩において、関ヶ原の戦いと江上八院の戦いが、「聞書」としてどの様に内々に伝わっていたのか、それ分かる一例と言えるかもしれません。龍造寺家の、りの字も出てこない点や、関ヶ原の決戦場が「青野」と記されている事も、興味深く思いました。




佐賀戦国研究会 深川 記








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2020年07月03日

★(3)『御家聞書 天』に見る、鍋島家の関ヶ原大乱と江上八院の戦い(2020.7/2)


まえがきと、本文(1):http://sagasengoku.seesaa.net/article/475972672.html

本文(2):http://sagasengoku.seesaa.net/article/476023166.html


※読めなかった字は、■としています。



『御家聞書 天』(3)


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一、水田の村四五町此方にて、後陣え軍使をして「押留るべし」と御下知有て、先陣を立堅め侯、
「此所より先に進むべからず、敵かかり来らば、ここにて戦うべし」と定め給い、後陣間を下知して備を立堅め給う。水田の村、先陣の間、大道一筋にて治縄手也、又、四五町の間は横二三筋の通り、堀あり。

直茂公見玉いて、江口・豆津・千栗の村より鍬の者七百人よび給て、「夜に入ければ、味方より一町五段計先にある横堀の土橋を堀切りて、本の土橋の有ける処より左右一町に、道筋より脇に新に土橋を二筋付」と仰られて、曰く「敵は定て夜明に押来るべし、相浦三兵衛、二人の与・鉄炮百挺を召つれ、夜の中に水田の村近くに伏して、敵見えば鉄炮討かけ、悪口を吐せ、敵を偽曳べし。敵押かからば、くりかえくりかえ、鉄砲を退き討にして引取べし。自身の高名に心懸べからず、敵を味方の備近く偽曳付て、急に左右に開て味方に加り、横矢に討べし」と仰含られて、直茂公は本陣に返り給う。其後、軍使は、くしのはを引が如し。亦、主水え仰遣しけるは「最前下知の如く備を張出す事なかれ、又、敵見へば申送るべし」と也。

主水返事せず、軍使「御返事は」と云ければ、主水忿(怒)て曰「今日の先陣大将は我也。味方を可張出も引取べきも御下知を守るまじ。敵出来りつば、人を付て見給へ、我申送べからず」と云。

軍使帰て、かくと申上ければ、直茂公の曰「軍には一定勝たるぞ、其故は、将能而君不御者勝(※)と云事有。主水知勇の将也、其上我が下知を不守ば軍に可勝端也」と、よろこび給事不常。

暫して、夜はほのぼのと明にける。直茂公の玉如く、明ぼのには敵数人、水田の村へをし来る。敵見ると等く、悪口を吐せ鉄炮を打掛ければ、案の如く和泉守、最前正札に「降参せよ」と云れ口惜き事に思い、又、足軽に悪口せられ、無二無三に切かからんとするを見て、立花三太夫「和泉に先をせられし」と、六百計の人数にて、くわう言を吐ちらし押出す。伏たる足軽の二大将、最前直茂公の御下知の如く、一与鉄炮を打ければ、一与は曳取て備を立、如此くりかえくりかえ、押打にぞ曳けるを、我も我もと進掛る。

然る処に、主水が弟・七左衛門一陣に有けるが、堀の此方にて備を立て見せければ、三太夫、引退く足軽には目も不掛、大勢に討てかからんとす。かかる処に土橋をほり切て有ければ、案に相違して迷惑す、されども後陣には是を不知、いやがうえに重て堀の中にぞ入にける。味方の兵ども、さしづめ弓鉄砲にてさんざんに射けれども、敵はゆめにも不知して縄手一筋より、えいや声を出して押掛りければ、柳川の先陣の大将・三太夫を始として、残少く堀の中にぞ落入ける。

是を見て七左衛門、新土橋を渡て和泉守と戦う。和泉武功の者なれば、七左衛門備をつき崩し、七左衛門もあやうく見えて、纔七八人に成けれども、猶本の陣を不退戦ける。七左衛門が郎従に田代幸右衛門と云者、立帰て主水に云けるは「味方悉く敗軍す、七左衛門殿御傍に残り留る者、纔七八人に不過也、今一度敵掛り来り侍らば、七左衛門殿討死と覚え侍る、後を詰給へ」と云ければ、

主水が曰く「今日の軍に味方多く敗す、是七左衛門が軍立拙きに有り。命生て何の面目有てか我に面を向べし、急ぎ討死せよと云うべし。又、汝、是迠返し来るは、主に忠有様なれども、臆病にて■来るらん」と云ければ、幸右衛門太に腹を立て、「御舎弟の眼前に討死あるを眼に見え不給、闇として御座すによりて告に来る処也。何ぞ臆にて侍るべし、今討死して御目にかくべし」と、本の陣へ的りける。七左衛門が自身討取敵七人、千騎が一騎に成迠、田代猪ノ助、同幸右衛門、二人者は主の傍を不離と也。




(※)「将能而君不御者勝」(将能にして、君御せざる者は勝つ)

→『孫子』「謀攻篇」から引用されている言葉。意味は「将が有能で、しかも君主がその将軍の指揮権に介入しようとしなければ勝つ。」
(『孫子・三十六計』湯浅邦弘 著、角川ソフィア文庫を参照)





(4)へ続く(→ http://sagasengoku.seesaa.net/article/476066574.html




佐賀戦国研究会 深川 記







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2020年07月02日

★(2)『御家聞書 天』に見る、鍋島家の関ヶ原大乱と江上八院の戦い(2020.7/1)




まえがきと、本文(1)はこちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/475972672.html



※読めなかった字は、■としています。



『御家聞書 天』(2)


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一、直茂公、石井正札(原文ママ)を召て仰らるるは、「汝は小野和泉と知音が知たると云」仰られて曰「和泉守が方へ書音(使は大江太郎左衛門)を通じて云うべし、今度内府家康公の仰を蒙り、加賀守父子其表へ出勢せらるる処也、大勢と云、大将と云、立花家を討亡さん事掌の内にあり、然と云ども、勇の誉有和泉殿を討取ん事、国の宝を失うに似たり。願は我に降参して来り給へかし、御命を申免、其上本知行に加増して申与へ侍るべし。急御降参の返事承度侍る■、兼ての智音なれば、御痛しく存る也、筑州の地に此方の兵を出して後は、御降参有と云ども詮有べからず。其上城の門戸を開き玉う事も有まじく侯」と云遣ければ、和泉守よりは、忿(怒の意味)を含たる返事来る。

直茂公聞召「案の内なり」と玉いて、ひしひしと出陣の御用意、備定有り。先陣・鍋島主水、二番・諫早石見守、三番・後藤左衛門、此外備段々多し、其外本陣左右の備あり、後陣あり。夫小荷駄は川を不渡と也、馬場一手千八百人は筑後と肥前との境なる寺井、江のき、つつの渡しえ遣さる、含られて曰く「立花少智あり、和泉守武功の者なれば、出陣の■をうかがい、舟にて寺井に渡て、佐賀の城に寄るか、我が後口に寄る事もあらんか、然る時は待■て、舟より上らんとする処を海へ追入、一人も不残討取べし。又、敵渡事なくば舟を揃、我が下知を可待、戦半なる時に渡させて、思いもよらぬ方より横を入させば、一定味方の勝軍たるべし。相かまいて下知なきに進事なかれ。万に一つ、味方負軍たらば、八ノ院迠も飛騨守旗を進、城との間遠くならんずるぞ、然処へ汝が人数を渡させて柳川の城を乗取、早く放火すべし。城の火を見て、敵後口に廻りたると驚て飛騨守引返さん事無疑、引かば付■て、水田の細縄手を越ん所にて、一人も不残討取べし」と、委細に謀を廻し馬場を寺井に被遣。

直茂公勝茂公、両将にて肥前と筑後の境なる豆津の渡をし筑州え越給う。前日より江口・豆津の百姓どもを柳川領と久留米領の境に付置、「柳川より敵出ると見は早く告よ」と言含て遣さる、されども、敵一人も不出は、河を難なく十二段の備を不乱越けると也。

一、川を越と等く、直茂公は騎馬十騎召具し玉いて、先陣に加り押給う。其時成富兵庫、諸陣へ触て曰く「直茂公は敵の模様見給んために、先陣に加て押玉う。兼て軍法の如く一人も私に御供すべからず」と、備頭え申触ると也。




(3)へ続く (→http://sagasengoku.seesaa.net/article/476039208.html




佐賀戦国研究会 深川 記










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