2019年09月25日

【出版されました】『最新研究 江上八院の戦い』中西豪・白峰旬 共著本




お薦めの新刊です。

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慶長五年十月、筑後国においての決戦。

立花宗茂  VS  鍋島直茂 

江上八院の戦いについて、初めての本格的研究書!

徳川の督戦官として黒田如水、加藤清正も関係します。




『最新研究 江上八院の戦い』


中西豪・白峰旬 共著

日本史史料研究会 発行(2019.8/30


★日本史史料研究会様のオフィシャルHPで購入が可能です。どうぞご覧下さい。
http://www13.plala.or.jp/t-ikoma/page032.html#sensho14


★当ブログでも発売直前にPRさせて頂きました。
推薦文あり。画像添付の注文用紙も、使用は可能と思われます。注文書をダウンロード・印刷して、記入の上、郵送やFAX、メール添付で日本史史料研究会様へ送られて可。
http://sagasengoku.seesaa.net/article/467454981.html


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「目次

はじめに  白峰 旬 5頁

第1章 龍造寺・鍋島氏にとっての「関ヶ原」、江上八院の戦い  
中西 豪 11頁

第2章 戦国時代龍造寺氏の盛衰と鍋島直茂  
中西 豪 53頁

第3章 江上八院の戦いに関する立花宗茂発給の感状と軍忠一見状  
白峰 旬 91頁

第4章 江上八院の戦いの実戦状況  
白峰 旬 139頁

おわりに  白峰 旬 177頁

あとがき  中西 豪  197頁

参考文献 201頁

初出一覧 207頁

人名索引 巻末  」




おもに、龍造寺鍋島史の概説は中西先生、立花氏の軍事については白峰先生が担当されています。

人名索引付も非常に、有難いです。


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【所感と推察】



▼鍋島直茂は書状でなぜ、三池伊兵衛を伝兵衛と書き間違えたのでしょう(P.164)。生捕にした立花兵から得た情報ですが、「い」と「でん」は発声も大きく異なりますし、三池伊兵衛は2,150〜2,300石取りの大身(P.113)です。影写を注視しても明らかに「伝(傳)」で、翻刻誤りでもなさそうですし、謎が残ります。


▼三池伊兵衛について、大身でありながら、小野和泉の覚、そして佐賀側編纂史料でも、江上八院で働いた描写がありません。しかし、P.132で、三池伊兵衛隊は戦死者6名、鉄砲による負傷者5名、矢による負傷6名が出ていることが判明しているので、戦闘には加わっています。
何故、働きが記されていないのでしょうか。


考察するに、直茂の書状には「小野和泉・矢嶋左介・三池傳兵衛、この者ども大将にて罷り出候由」と、特に3名の立花方の将が書き留められています。このうち矢嶋左介は、小野和泉の覚(P.147)において、後備として控えており、矢嶋がここ一番の局面で動かなかったことが敗因であると、小野は指摘しています(矢嶋は最後まで動かず)。つまり、直茂書状で「矢嶋左介・三池傳兵衛」と並記されている事から、三池も矢嶋と同じく後備に居り、趨勢が決した後で参戦した為に、名前が挙がらなかったものかと察します。


▼矢嶋左介について、小野和泉が「戦に加わらなかった」と記した通り、立花宗茂からこの戦に関して矢嶋への感状発給は見当たりません。そうすると、戦に参加していない矢嶋の名前が、なぜ鍋島直茂の書状で挙がるのか? これは直茂の情報源となった生捕の立花兵が、後方、後備に近いところに居たため、付近で認識できた将名を伝えた、という事かもしれません。



▼鬼神の如き戦働きと、敵味方に激賞された立花三太夫のことは、従来有名ですが、これに対し鍋島軍(先手・鍋島茂忠隊の内)にも鬼武者と言うべき中嶋将監が居ました。これは別途、白峰旬先生の論文中:『江上八院の戦い(慶長5年10月20日)における鍋島家の頸帳に関する考察. その2』白峰旬氏 2019.3月 P.103より http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=gk02107

「中嶋将監は、柳川八ノ院で立花三太夫の前衛8名の首を取り(証人有)、自らも深手を負った。この大功に手厚い恩賞があった」旨の記録があり、果敢に突撃してくる立花三太夫隊と真っ向から対峙した人物のようです。それにしても、他の鍋島方の人物が、首1〜2つを取ったとして賞されている所、首を8つも取っているのは壮絶な話です。想像もしたくない様な惨劇が、繰り広げられていたのでしょう。



▼千手六之允(※せんじゅ、ではなく、ぜんず、と読みます)
(P.174)千手六之允は、小野和泉の覚において、先手の将として登場、前進したは良いものの、突如理由不明の撤退をして立花軍を混乱させています。『葉隠聞書校補』『佐賀県近世史料 第一編 第一巻』などを確認すると、元は筑後の豪族であり、文禄慶長の役の際には、なんと、龍造寺鍋島家の出征者の名簿に千手六之允がいるのです。それが何故か、江上八院の戦いの時には、立花方の先手に属し、鍋島軍と対峙しています。この六之允の動きも謎が多いです。



▼筑後の坂東寺について
先年、「加藤清正の実像」大浪和弥氏著【熊本市 市政だより連載、平成23年5月号〜平成25年4月号】を読みました。
https://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=2846&sub_id=3&flid=16201
内容中、加藤氏が筑後の坂東寺に禁制を発行している事を知りました。

それを基に、筑後市へ調べものに行き、結果として鍋島直茂・勝茂も10月15日付で坂東寺に禁制を発行しており、黒田如水は近隣である下広河へ10月18日付で禁制を発行している事を知りました。そうした内容を、P.178にて白峰先生に御紹介して頂きました。引き続き考察を深めるべく活動したいと思います。



▼P.191 10月18日付 龍造寺家久(多久安順)書状写について
当会において異本調査及びレポート活動をしまして、白峰先生により異同校訂の上翻刻された文章が、紹介されており、研究書上、初出と思われます。この書状は今迄何故か、唯一『水江事略』に収載されているのみで、他の編纂史料、そして多久市史等にも採用されておらず、検討された形跡がありませんでした。一見して明らかですが、江上八院の戦い直前の、龍造寺鍋島軍の動向が分かる重要な史料です。今回、白峰先生によってきちんと検証が加えられた事は幸いでした。

当会の調査活動に際し、多久市郷土資料館の志佐喜栄様、多久市立図書館の係の方に御協力を賜り、感謝申し上げます。




上記のように新たな情報が満載の『最新研究 江上八院の戦い』を基として、さらに今後、研究が深化していく事を祈念します。

江上八院合戦に際しての、龍造寺鍋島家と立花家それぞれの家中に見える、動揺・対立・統制、及び戦闘経緯と結果から見いだされる沢山のファクターこそ、その後・江戸時代初期の両家の有り様に直結するものだと思います。





佐賀戦国研究会






posted by 主宰 at 01:24| 佐賀 ☀| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月09日

★地方の関ヶ原合戦 ー多久市VS唐津市ー



『庭木右近の儀、慶長5年9月28日於唐津呼子討死、右子細は上方御防戦最中に付、兵糧ならびに武具など船へ乗組、為頭人罷越候、寺沢殿は東方にて候故、唐津衆取籠防戦、無拠討死仕候事』 /『水江臣記』 南里助右衛門差出。

――――

慶長5年9月28日、多久市の龍造寺長信から上方の龍造寺鍋島勢へ支援物資を発送。多久→唐津の海へ出て、海路を上方へ向かうコース。これを察知した唐津領主寺沢氏、この輸送隊を呼子の海辺で殲滅。(龍造寺長信が激怒したとされる。)

翌日の、9月29日。報復のため多久の龍造寺氏は、唐津領から祭礼事のために多久へ参っていた人々を悉く捕縛し、同時に多久衆が椋瀬口や、はばら坂で不穏な動きを見せた。/ 唐津と多久が「手切」(戦闘状態)の様相となったが、元来唐津の寺沢氏の領地は小さいため「今後佐賀と難しい事になってはかなわぬ」と寺沢氏で判断し、やむなく輸送隊を襲撃した寺沢方の部隊長2名を処刑。首が多久へ送られてきた。又、事件の時に唐津方の城代だった侍も一人処刑されたとも伝わる。

――――――


典拠:『水江臣記』 南里助右衛門の差出分。

水江臣記とは、多久市の領主、後多久氏(龍造寺長信の子、龍造寺家久が改姓し多久氏となる)の家臣団それぞれの家の由緒や昔話を書き、差し出したものです。
水江、とは長信が継承した『水ヶ江龍造寺氏』を意味します。


★今回読んでいてはじめて輸送隊襲撃事件後に、後日談が有ったことを知りました。寺沢氏の判断・・・『リアル』、ですね。

この時は、あきらかに佐賀多久は西軍、寺沢は東軍、という認識だったでしょう。敵対する勢力の輸送隊を殲滅する事は、手柄です。

しかし・・、大河ドラマ『真田丸』に見える国衆の悲哀と同様、寺沢サイドは東軍ながら、領国が小さいため、いろいろと苦渋の判断をして、本来手柄をあげたはずの家臣の首をはねて詫び、敵ながら隣近所である龍造寺鍋島氏との遺恨を回避した・・。

ここには、かの大河ドラマの信濃同様、地方小領主の実情が垣間見えて、興味深く、・・ある種の悲哀を感じますね。


[ここに地図が表示されます]
posted by 主宰 at 23:02| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月15日

【歴史群像6月号】P.96 『W龍造寺領国W存続の試練 鍋島父子の関ヶ原』中西豪先生 筆



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【歴史群像6月号】P.96 『W龍造寺領国W存続の試練 鍋島父子の関ヶ原』中西豪先生 筆(書店で販売中)

/ 文禄慶長→関ヶ原→江上八院合戦、時代を俯瞰しながら龍造寺家と鍋島直茂・勝茂の動向を追う。ここまで詳しい記事や本は、他にない。

★佐戦研主宰感想★

 私が他になく一番怒っていたのは、江上八院合戦(柳川合戦)についての、世間の概説書や雑誌、地元の町村誌の胡乱、杜撰な記事です。ちょっと調べたら分かる事も、調べずに書いている物ばかり。おそらく通説が使い回しされています。中西先生のこの「不気味な程詳しい」一連の記事及び江上八院合戦の記事は、金字塔です。先づはどなたもこれを読み、この記事を基準に裏取りやソース調査をしてみてください。そして世間の概説書と比較を。

念の為ですが、『小野和泉隊や立花三太夫隊に鍋島陣が9段崩された』という通説のために怒っていた訳ではありません。私も最初、その通説を信じて居て「さすが立花軍は、強いな」と唸っていた一人です。

問題はこの、名目を立てるだけの、実質意味のない両者の合戦、人首が600以上落とされたような世にも凄惨な激戦であるのに、世間の本では、合戦はほぼ無かった・ちょっと鍔迫り合いして黒田加藤が止めの合図をして大団円で終結という、軒並みがその論調である事に、怒っているのです。名のある学者さんの著書ですら、ピントの外れた5〜6行の文章で適当にこの戦を世に喧伝している。これは流石にいけません。佐賀や筑後では双方で合わせて600人を超える御先祖様がこの合戦で亡くなってる。適当に記事にされては我々、堪ったものではありません。

そういう中で、中西先生が見事に今回「史料を読んで調べて行けば必然的に判明する部分」を、順当に、集大成的に記事にしてくれました。江上八院合戦は、史料が少ないと言われます。しかし世間の歴史本では、その少ない史料にすら、まともに当たられていなかった。嘘だと思ったら、今回の歴史群像の中西先生の記事を読み、過去に出ている他の雑誌や概説書本と比較してみてください。屹度お分かり頂けるはずです。






[ここに地図が表示されます]


posted by 主宰 at 23:37| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする