2020年07月13日

★七月の大雨洪水を逆手に取った軍事作戦 − 龍造寺家兼、三津山の戦い − (2020.7/12)



2020年7月。

先日発生した豪雨と洪水の被害に遭われた方々には、心よりお見舞申し上げます。依然として梅雨前線が停滞しておりますので、引き続き警戒を続けたい所です。

一刻も早い事態の鎮静化と復旧を、祈念するばかりです。



さて、徒然に歴史を振り返ってみますと・・・・・

佐賀の戦国史上、7月に発生した大雨洪水を逆手にとって、村里や道も無くなった水面を密かに北上し、大内軍の陣へ夜襲して勝利した、という武将がいます。

龍造寺山城守家兼(剛忠入道)です。

説明は不要かと思いますが、家兼は龍造寺隆信の曽祖父であり、本家の惣領・康家の五男。水ヶ江龍造寺家の祖です。本家である村中龍造寺家を支え、一門の重鎮にして、龍造寺家の軍事的指導者とされます。

家兼は昨今、雑誌などで「戦国屈指の長寿武将」として有名ですが、81歳にして自ら戦場へ繰り出し、大内軍に奇襲を仕掛けた「三津山の戦い」は、全国的に余り知られていないように思います。


下記、2つの編纂史料の原文を、読みやすく修整して御紹介いたします。


※三津山は、「佐賀県神埼郡吉野ヶ里町三津」の山岳地で、勢福寺城から東、ほど近い距離で対峙する立地と考えられます。




『歴代鎮西志』(上巻)青潮社 発行 P.736〜738

(元禄年間 1688〜1703年頃成立と考えられている編纂史料です。)


「天文3年正月、陶道麒(興房)が率いる大内氏の軍勢は、少弐資元の拠る勢福寺城を攻めるために、三津山に布陣。その後数回攻撃を加えたが、決着がつかないまま戦況は膠着していた。秋7月、少弐氏は、龍造寺山城守家兼に援兵を求めた。家兼はこれを応諾した。

同7月中旬、連日大雨が降っていた。さらに暴風が吹き、海潮が内陸へと遡り、佐賀・小城・神埼郡は、洪水と海潮が交わり満ちて、村や里は一面まるで海のようになってしまった。

三津山の陶軍は、この光景を眺めて喜び、『合戦をせずとも、ここに居ながら敵を水攻めにしている格好だ』と言って、武備を忘れて終日酒宴をしていた。

これを知った佐賀の龍造寺家兼は、『好機』として息子の家純、家門、純家以下300騎を率いて水ヶ江を発し、水の深いところは筏(いかだ)や舟を使い、浅いところは泳ぎ渡って進み、三津山の敵の不意を狙って、夜襲を仕掛けた。

一陣が伐り崩された大内氏諸軍は大騒動となり、取るものも取り合えず、混乱しながら逃走していった。龍造寺軍は勝ちに乗じて陶道麒本陣へ掛かり、陶は反撃ができず夜を侵して東へと撤退を開始、筑前へと退いた。龍造寺軍は逃げる敵を追い討ちして、数百の首級を挙げ、凱歌を発し、勢福寺城の少弐資元を詣でた。

司馬資元(太宰少弐都督司馬少卿 少弐資元)は家兼の大軍功を称賛し、小城、佐賀に数県の地を加封した。巨勢、尼寺、大町、小城などの地が、水ケ江龍造寺氏の領地に属したのは、けだしこの時の恩賜である。

なお、家兼が三津山に向かう日、木像が一体、大潮に流されて、南から水ヶ江へ漂流してきた。これは十一面観音の尊像であった。家兼は偶然これを拝し得て、出陣の勝利を祈願した。万事うまく行った事により、家兼はこの十一面観音像に深い敬意を示し、寺を建立して像を安置させた。水ヶ江の慈教院の観音像がこれである。」




『北肥戦誌』(巻之十)青潮社 発行 P.204~206

(正徳年間 1711〜1715年頃成立と考えられている編纂史料です。)


「この時、陶道麒、石動(いしなり)但馬守を案内者として、千栗(ちりく)山の衆徒を攻め、周辺の神社を焼滅させた。社僧や神官も防ぐ事ができず、皆兵火にかかって焼死してしまった。かくして道麒は、いよいよ三津山に陣を据え、5月16日、龍造寺山城守家兼の居城、佐賀の水ヶ江へ侵攻したが、水ヶ江城はよく防戦し、大内勢は利あらず三津山の本陣へ退却した。ここにまた、7月13日、有馬晴純の軍勢が少弐資元の留守を狙って多久城へ侵攻。しかし城番の龍造寺伯耆守盛家らが、命を賭けて防戦したため、これも有馬勢は撤退した。

しかるに明くる7月14日、夕方から風が吹き出し、15日の朝から大雨となり、強風が木の梢を折り、有明海から大潮がみなぎって、風に随って海潮が渦巻き、内陸へと遡ること高さ一丈(約3メートル)、須古、白石、佐賀、神埼の村里、ことごとく混溺して、一万人余りの死者を出した。

この夜、龍造寺家兼は水ヶ江城にあり、周辺の様子を見て、息子へ囁き言うには『この大風・大水に、敵は三津山の陣にあって合戦の事はよもや思い寄るまい。いざ、今夜風雨に紛れて陶の陣を夜討し、不意撃ちにて討ち散らしてくれよう』と、談合した。家門も『もっともの事』と同意し、選りすぐりの精鋭を率いて、7月15日の朧夜に出陣、水の深い所は泳ぎ、浅い所は渡って、三津山の籾岳へ押し寄せた。

されば、家兼の読みのように、陶の籾岳の陣中では佐賀・神埼の民家が潮に浸かってしまい、森林もみな梢が水に浸かって見えなくなった程の光景を遠望し「さても、龍造寺の者どもは、我らが攻めなくても自滅したものだな」と笑い、酒宴を開いていた。その折、龍造寺軍300余騎が突如、鬨の声を上げて襲い掛かって来たので、大内軍は夢にも思い寄らず、大混乱へ陥り、防ぐ事ができず、馬、物具、弓矢、太刀、刀など陣屋に置き捨てたまま、我先にと四方へ逃亡を開始した。龍造寺軍は勝ちに乗じて追い討ちを掛け、多くの敵を切捨てて、追い崩した。

こうして龍造寺家兼は、暫時の夜討にて大勝利し、勝どきを揚げ、16日の夜明け、水ヶ江城に帰った。

その時、潮に流れて浮かび来る物があり、何であろうかと家兼が取り上げて見ると、観音の木像であった。家兼は不思議に思い、これへ礼拝し、『私が今夜、はからずして大敵を追い崩し、帰陣してこの仏像に出会った事は、ひとえに子孫繁栄すべき瑞兆である』と、懐中へ抱えて、水ヶ江へ帰着した。その後家兼は、居城の南に新造の堂を建立し、その仏像を安置した。今の水ヶ江の慈教院の観音像がこれである。

なお、7月15日の夜、家兼の夜討で陶入道が敗退した時、取り捨てた金銀や陣具などが、今も三津山の辺りの土中から出土することがあるそうだ。

(中略)今年7月、陶道麒が、龍造寺山城守家兼の夜討によって散々に敗北した報告が中国地方へ伝わり、大内義隆は大いに立腹した。」



上記の通り、家兼90歳代での馬場頼周征伐以前に、81歳での、陶道麒軍撃退の武功話があったのでした。「老黄忠」とはまさに彼に相応しい言葉ですね。体も頑丈な人だったのでしょう。


龍造寺家兼の志と「山城守」の受領名は、曾孫の隆信に継承されるのでした。


(旧暦の天文3年7月15日は、新暦では8月24日です。)



★上記関連コンテンツ:「龍造寺家兼の時代へ」中西豪(2013.8/4)★
YOUTUBE


少弐氏、大内氏、千葉氏と、龍造寺家そして龍造寺家兼について簡潔概説。
講義中の「少弐政資(まさすけ)」は、少弐資元の父です。

10分の音源です。ぜひ本稿と併せてご視聴下さい。






佐賀戦国研究会







posted by 主宰 at 01:52| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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