2020年06月23日

最近の所感・考察まとめ(2020.6/23)


【大友氏関連】

「戦国大名大友氏の権力機構の最上位に位置し、当主の意を奉じて奉書を発給した重臣たちは一般に『加判衆』と称されている。しかし、『加判衆』という語はごく限られた史料に確認されるにすぎない。またそうした重臣たちは、史料中では他に、『老中』『宿老』『年寄』などとも称されている。その中でも最も多く史料において散見されるのは『年寄』であるため、本稿中では従来用いられてきた『加判衆』ではなく『年寄』の称を使用することにする。」
「戦国期大友氏権力の文書発給システムと権力構造」八木直樹氏 /『日本歴史』671号・2004.4月号


▼ ガーン・・・・加判衆という「常識」が崩れました。
(もとい、2004年には刷新されていたのか・・)




【龍造寺氏関連】

「(戦国龍造寺氏は)国人領主あるいは地侍を給人として掌握し、さらにその給人を媒介として村落内諸階層を『衆』という軍事的編成に依存することによって(原文ママ)、肥前支配に成功したのである。それを支える条件はまさに兵農未分離の村落構造にあったといえよう。」

「肥前における竜造寺氏の支配の安定性に比して、筑後・肥後・筑前・豊前における竜造寺氏分国の不安定さの背景には、田尻氏の激しい動きにみるように大友氏・島津氏の鎌倉以来の中世的伝統にかわるだけの竜造寺氏権力の正当性が、その短期的な軍事作戦や積極的な新恩給与の方策のみでは新たな主従関係として容認されなかったことが、一つの原因となっていたことは否定できない」

「竜造寺体制の展開と知行構造の変質」加藤章 氏 /『九州文化史研究所紀要』第26号(1981年3月)


▼ 「肥前における竜造寺氏の支配の安定性に比して」と加藤氏は述べておられるが、私見「速い」は「脆い」に通じていて、龍造寺氏の肥前支配の安定性もあやしいと思う。代表例として有馬氏は反旗を翻したし、龍造寺隆信が沖田畷合戦へ向かった時期に、波多親と原田隆種が「鹿家合戦」を行っている。




「龍造寺氏の肥前西部侵攻と龍造寺長信」中村知裕氏(『古文書研究』第83号 2017年)を拝読しての所感。

▼政治機構(支配機構)が未熟の段階から、龍造寺隆信・長信がテキパキと実務を差配し処理した結果「龍造寺氏は肥前国内における敵対勢力を圧倒するとともに、同国内における勢力基盤をある程度構築することに成功したと判断してよい。」という事になれば、一般的に龍造寺隆信は、高座にふんぞり返っている偉そうな大将みたいなイメージが有るが、実務官として細かい面倒も見ることができる人だったのだろう。

龍造寺隆信と長信間において、城や防御施設の普請、土木工事についての指図、資材調達、宿の手配についてかなり細かく書状をやり取りしているのは、龍家の政治機構が未熟の為だろう。例えば長い歴史を持つ大友氏の政治機構なら、宗麟ではなく年寄がこうした細かい指示を担うものと思う。


「(龍造寺隆信の)肥前西部侵攻の過程では、夫丸動員や普請が滞る事態が度々起こっている。例えば、隆信が大崎村において堀普請を行おうとした際、周辺の村が夫丸の動員を懈怠している。また、隆信が橋の普請を行おうとした際も、大半の村が普請のための道具を持ってきたが、志久村だけがこれに応じなかったため、普請が滞る事態に至っている。」
→隆信はこれに対し、厳しい態度で臨むよう長信に命じている。権力に反抗する村もあり、長信はこうした村への対応も行っていた。
「龍造寺氏の肥前西部侵攻と龍造寺長信」中村知裕氏 『古文書研究』第83号 2017年


▼この補考として、弘治3年・龍造寺隆信が神代勝利に大敗した金敷峠の戦いの頃の、隆信→長信宛書状(『佐賀県史料集成 第10巻』「多久家書物 一」18号)がとても面白い。西肥前侵攻以前から、長信は隆信の政治を支える存在だった事がわかる。(内容を検討した結果、私見で弘治3年10月比定。鍵は春日要害および久松源太左衛門への言及。)

以下簡潔意訳↓

「荻野村(佐賀市嘉瀬町荻野)に馬渡兵部丞が『少作』していたが、そなたは丸刈りしようとしているのか。あそこの土地は、中河内右近允へ直に申し談じて、作半(さくはん:日葡辞書では、作物を半分収穫すること/田を折半して耕作すること)の約束をしていたのだ。約束のようにするように。とは言え、中河内右近允はむちゃくちゃ(むさくさ)な申立て内容なので、ひとまず長信に相談しなさいと申しておいた。種々取乱している故、小さな事は失念しがちだ。彼の耕作地のことも、そなたで処置を考えてほしい。こういう訳で、連絡は密に取らないといけないが、諸事私の無理一我意を押し付けようとは毛頭思っていない」

▼この書状が私見の弘治3年10月比定で合っているのであれば、龍造寺隆信が軍勢や物資を調えて、神代軍の籠る春日山城に侵攻する頃の書状である。
軍記物では神代と龍造寺の反目と合戦模様しか書かれていないが、一次史料でみると、軍事と同時に、こうした領地経営の細かい実務を隆信・長信がこなしていたことが判る。

とりあえず長信に丸投げしている様に見える書状で、且つ内政実務について隆信が「種々取乱している故、小さな事は失念しがち」と、当時の雑感を吐露している事も、興味深い。


―――

尚、上掲の「多久家書物 一」18号は、拙稿「神代大和守勝利(後編) − 流星光底、龍を逸す −」歴史雑誌『忘却の日本史 第19号』(2019.9月発行)でも考察・言及しております。龍造寺・神代のバトルの詳細をお知りになりたい方は是非、ご入手下さい。


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佐賀戦国研究会 (深川)






posted by 主宰 at 02:16| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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