2020年05月05日

大村純忠についての考察(2020.5/4)


『中世九州社会史の研究』外山幹夫著、吉川弘文館発行(S61年)P.186~によると、『岩永文書』永禄12年正月十八日付・大村純忠所領預置状にて、藤津郡長野村(現佐賀県鹿島市能古見字長野)が、純忠領であった事が指摘されており、永禄12年(1569)時点で藤津内に確固とした基盤があった事に留意すべしとあります。

また同本に、純忠が所領を預けた岩永和泉守忠茂は、純忠の偏諱を受けたと思われる旨、外山先生が記しておられます。ここで『北肥戦誌』を愛読されている方は、ピンと来ると思うのですが、龍造寺の藤津侵攻に抵抗したのが「有馬家臣・岩永和泉守」。

外山先生の考察を踏まえると、つまり岩永和泉守は、『岩永文書』で考えれば実は陪臣(主家・有馬氏に従属する大村氏の配下)であり、『北肥戦誌』では見えづらいながら、天正四年の龍造寺氏藤津平定戦には、具体的には「大村軍」の岩永が抵抗していた、と言えるかもしれません。


補考、史料価値は高くないとされる『歴代鎮西志』中、例の有名な逸話、藤津郡の四将「両弾二島」のうち一人が「大村弾正」ですね。彼の屋敷が五町田(嬉野市塩田町)にあったとされますが、素性は全くもって不明。しかし、岩永和泉守の立場を参考にすれば、大村弾正は純忠の親類または配下で、藤津郡の大村領を守っていた者なのかもしれません。(参考エピソード



『中世九州社会史の研究』に詳しく解説されていますが、大村氏は基本的には有馬氏に従属し、介入を受けていました。フロイス日本史でも大村純忠は「有馬家における高貴な身分の領主」というような書かれ方で、両家の動向を読んでも上位に有馬氏が居ることが判ります。これも踏まえて、岩永は有馬の陪臣であると考えます。

そもそも、龍造寺の藤津侵攻に晒された、永田氏や原氏、そして大村氏も元々同族で「原氏」が枝分かれしたものと近年の研究で言われています。藤津郷士が結集して龍造寺に対抗する中に大村氏がいても不思議ではありません。『鹿島市史 上巻』に詳しいですが、大村氏の元々の根拠地は、鹿島市古枝大村方と考察されています。大村氏は、佐賀県と深い関りがあるのです。

また、外山先生は彼杵の大村氏を「藤津郡からの亡命政権」と言い切っておられますが、よく考えると、大村純忠と真田昌幸には、国衆として似た部分がある気がする。(領地が飛び飛びで、郷士も割拠してまとめるのに苦労。ただし戦は巧みで、外部の力を利用しながら基盤を固め拡大していき、龍造寺の圧迫にも耐えて、大村藩の基礎を創った。)

大河ドラマ「真田丸」中、草刈正雄さん演じる真田昌幸の有名なセリフになぞらえると、純忠にとってキリスト教入信は 、まさに ”大博打のはじまり”で、同年にはさっそく、反発勢力から領地を焼かれて逃亡するも、復帰に成功し、後年は南蛮船の軍事力の援け(奇特の振舞)で、松浦氏などの侵攻を跳ね除け、領国を維持していきます。諸説ありますが、外山先生は純忠受洗を、信心というよりは戦略的行為だったと説かれています。

大博打というのは、大友宗麟ですら「当主である自分がキリスト教の洗礼を受ければ、家臣の謀叛に遭うリスクがある」と長年躊躇っていた政治的な大問題のところ、純忠はおそらくそのリスクを承知していて、他に先駆けて領主自ら、キリスト教受洗を決断した。これはかなりの”賭け”であったと思われます。リスクを取った先にあるものは、小領主の生存戦略としての南蛮貿易。

「異色の戦国大名 大村純忠」外山幹夫著(『海路』第8号、海鳥社発行、2009年)には、
「純忠の受洗は(中略)布教と不可分の関係にあるポルトガル貿易の利をことのほか期待していたことによるとみられる。こうしたことから入信初期の彼は必ずしも熱心な信徒ではなかった。入信後も彼のもとには朝長家出身の阿金法印が近侍し・・、」とあり、

『キリシタン大名 大村純忠の謎 没400年記念シンポジウム』(西日本新聞社、1989年)では、まさに歴史学者と宗教者(学者)が複数で、純忠受洗について真剣にパネルディスカッションをされており、歴史学者の外山幹夫氏が「結城先生は教会内部の方としての発言だから、やっぱり色つきなんですよね。」と、イライラしたのかキツイ発言をなさっておられます。

そして、同書P.140〜141で外山氏は、「大村の久田松和則さんも(純忠の)伊勢信仰を裏付ける史料を見つけていらっしゃる。こういうものをあれこれ見ると、純忠入信からの十一年間は、神仏とキリスト教の同時崇拝である。純忠入信は、キリスト教への改宗ではなく、キリスト教を取り込んだ、単なる入信である、という事です。これは大友宗麟も似ています。宗麟の場合、純忠とは順序が逆ですが、ザビエル以来、キリスト教に急接近する。宣教師たちは入信してくれるのではないかと大変な期待を持つ。ところが突然、京都・大徳寺の怡雲禅師を招いて禅を学び始める。(中略)純忠、宗麟、ともに神仏とキリスト教を合せて信仰した時期があり、同時崇拝は純忠だけの特有なものではない。こういう観点から見てみると、仏教徒からキリスト教徒にスッキリ、パッと切り替わるのではなく、その間にモタモタした時期があるということを理解すべきではないか。その時期を卒業して、そのあと純粋なキリスト教徒になる、こういう意味で、キリシタン大名というものをもう一度、見直してみるべきではないのか、というのが私の意見です。」と述べられています。


外山先生の主張には、当然ですが歴史研究者としてのエビデンスがあります。それは『福田文書』特に147号、152号です。

上記のシンポジウム本P.133で外山氏は「日本側の史料は、外国の宣教師が書かれた史料と違います。宣教師の方は、思ったことを思う存分に書かれている。ところが日本で出てくる史料は型にはまったもので、所領を与えたり、よく活躍してくれてありがとうとか、類型的なものが多いわけで(中略)、日本の史料では、あまりパーソナリティは出てこないんですね。」と語られており、

要は、良質な史料とは言えキリシタン側の記録のみに基づき「大村純忠」像が形成されるのは危うく、日本の一次史料、純忠本人の当時の肉声である『福田文書』147号では、「南蛮船がもたらす銃火器を、他の領主に多く購入されてはならぬ。」や「彼宗躰(キリスト教のこと)噂も難申事候へ共」(キリスト教の評判が良くないと認識している)とあり、152号では「今度親類衆の企によって不慮の躰に罷成て無念至極候、各味の儀、此前別輩にて、無沙汰にあつかひ候衆かと存候、口惜次第までに候」(親類の謀叛に遭ってこの有様になってしまった。彼らは厚遇していなかった衆だと思う)と書かれています。支配基盤の脆弱性を物語るものです。

大友宗麟は大勢力であり、入信を躊躇う時間もあったでしょうが、大村純忠は一介の国衆で、領国もまとまらず滅亡の危機に晒されていた。そこで南蛮貿易によって軍事・経済を強化したいと考え、まずは自らキリスト教に入信したのではないか。

『大村純忠没400年記念シンポジウム』(西日本新聞社、1989年)中で、上記、純忠受洗の「初期の動機」についての見解は外山幹夫氏・松田毅一氏ともに概ね一致しています。後年で、純忠は信仰心を深めていった、と。



★上記に引用した、必読のお薦め図書 2冊:



★『大村純忠没400年記念シンポジウム』(西日本新聞社、1989年)

大村純忠のみならず大友宗麟への言及も多く、その点でも九州戦国史ファンへはおすすめです。パネリストは、中村質、松田毅一、外山幹夫、結城了悟、ジャイメ・コエーリョ各氏、司会は市川森一。




★『海路』第8号(海鳥社発行、2009年)

収載の「異色の戦国大名 大村純忠」外山幹夫著は、外山先生の論旨が、コンパクトにまとめられていて、非常にお薦めです。キリシタン大名と形容するまえに戦国領主としてどうだったのか、丁寧に紐解かれています。その上で、キリシタン大名純忠論も展開。他に「大友宗麟(鹿毛敏夫著)「再考 第十三代有馬晴信(木村岳士著)」等有り、充実した本です。





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posted by 主宰 at 01:55| 佐賀 ☁| 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする