2020年04月12日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート(11)(2020.4/12)



引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポート その11です。


★前回のレポート(10)は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/474148173.html



今回は史料がメインです。


『日本西教史 全』ジャン・クラッセ著(初版は1689年)(太陽堂 発行、昭和6年)の、沖田畷関連の部分について。

■補考:「Histoire de l'eglise du Japon, t. 1, 2(クラセ『日本教会史』)」http://office.nanzan-u.ac.jp/library/digilib/histoire-de-leglise-du-japon-t-1-2.html 南山大学図書館の解説より:

「著者であるジャン・クラセ(CRASSET, Jean, 1618-1692)はフランスのイエズス会司祭。ディエプに生まれ、1638年8月イエズス会に入会。69年以来、パリ修練院の哲学および人文学教授として、また、説教者としても活躍。フランソワ・ソリエに依拠しつつ、ソリエの著した『日本教会史』を、在日宣教師の書翰や報告、また日本布教史、殉教史などに基づいて改めて史実の洗い出しに取り組んだものが本書であり、稀覯の初版本である。この資料は、1715年に第二版が刊行されたほか、諸国語に訳され、日本殉教教会の名を高らしめ、日本でも1878年太政官により『日本西教史』と題して翻訳、出版された。本書は日本におけるキリスト教史の最初の翻訳であり、しばらくキリシタン史研究の唯一の原典となったが、後に多くの誤謬が指摘され、またほかに多くの原典が紹介されるにおよび今日ではあまり用いられなくなった。とはいえ、従来秘められていた歴史の紹介と解明に役立った功績は大きい。」


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ここで、『日本西教史』と、これまで当ブログ@〜Iで見てきた、沖田畷関連資料を照合してみましょう。


先に結論を述べると、沖田畷の戦い前後の部分に関しては、他と異同して明らかな誤謬や矛盾はありません。



「ドム・プロテー(有馬晴信)は龍造寺が己れの下たるを以てこれを軽んじ、降服することを拒むを以て、此反逆者(龍造寺隆信)は之を怒り、兵を率いて有馬の国内に入り、島原城を囲みて之を抜き、且其近傍の地を奪ふ。龍造寺は漸く此侵地を収めんとするにあたって、筑後の国士等皆服せざるの新報を聞くを以て、此徒を征伐せんために有馬を解兵し、筑後に出兵せざることを得ず。然れども此侵地を保有せんと此に戌兵を残し置き、自ら筑後に向て進撃したり。」/『日本西教史 全』P.440


→ かつて肥前一国を掌中に収めそうな強大な勢いのあった有馬氏。佐賀郡にも大きな影響を及ぼしており、龍造寺政家の正室は有馬義貞の娘で、有馬晴信の姉か妹に当たります。有馬晴信が自家の栄光を誇り、心中で龍造寺を低く見ていた可能性はありそうです。その一方、戦国時代の「成り上がり」である龍造寺隆信は、天正10年頃には名実共に北部九州の大々名化しており、臣従勧告に従わない有馬氏に怒った可能性もあるでしょう。

天正10(1582年)初旬から、筑後国の国衆が龍造寺氏へ続々と反旗を翻し、龍造寺氏は鎮定に追われます。同年12月には島津軍が島原へと渡海して有馬氏を支援。



「ドム・プロテー(有馬晴信)は(島原半島から)龍造寺の退軍するを看て、速やかに島原城を快復せんことを決定し、其叔父たる大村の国主と薩摩の国主に援兵を請へり。大村の国主ドム・バルテルミー(大村純忠)は之を承諾せしと雖も、質たる所の三子が龍造寺に殺戮せられんことを恐れ、自ら将となりて此援軍に出陣せず。薩摩の国主は龍造寺の勢力倍猖狂なれば、終に其強兵を以て攻め来り、或は其領地を奪はんことを恐れ、有馬の国主に援軍を送れり。ドム・プロテー(有馬晴信)は一萬の軍兵を以て五千の守兵ある島原城を囲みけり。逆将龍造寺は筑後を鎮静し、直に熟練したる二萬五千の軍兵を率いて再び馳せ来る。此前軍は銃兵千人、槍兵五百人、槍と矛とに類する長刀の一大隊及び騎兵一隊ありて、弓兵を以て組成したるものなり。後軍は銃兵八千人と槍兵の大隊を合せ、此軍隊中に許多の軍器及び軍用諸品を充備したり。」/『日本西教史 全』P.440〜441


→ 筑後の鎮定のため、龍造寺軍が筑後へと転向。この機を逃さず有馬晴信は旧領回復を目指します。

晴信の叔父・大村純忠は、もとは有馬家の男子・有馬晴純の二男であるため概ね有馬氏親派ですが、当時、フロイス日本史によれば龍造寺隆信によって波佐見に蟄居させられ、身動きが取れない状況でした。有馬島津連合軍は龍造寺方の島原城=浜の城を攻囲しますが、救援のために、龍造寺の大軍が天正12年(1584)3月、再び島原半島へとやって来ます。

反逆者・逆将と指摘されているのは、言うまでもない事ですが、龍造寺隆信が有馬・大村らキリシタンの敵であるため、宣教師側の記録からは「悪」として描写されます。


「直に熟練したる二萬五千の軍兵」と記されているのは興味深く、佐賀藩の記録でも主に「直に熟練したる」将兵が動員されている印象です。龍造寺隆信は、新参の降伏勢力を、損害の多く出る先鋒に任じた上で敵地へ侵攻する事が多いのですが、天正12年(1584)3月の島原侵攻では、先鋒や主力が、龍造寺家譜代の重臣や親族で固められているのが特徴であり、これは龍造寺隆信が勝利を確信していたことによるものと考えます。



★島原半島俯瞰図:
(青色の城=龍造寺方。赤色の城=有馬・島津方。)
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「龍造寺は軍中に十五人もしくは十八人の仏僧を誘い、自ら轎中に在りて、其周囲は兵を以て警衛せしめたり。此仏僧等の内に一人の高僧あり、蓋龍造寺は毎夜悪僧等と共に会話せると衆人の謂へるは此僧の事なるべし。逆将龍造寺は眼下に島原城を俯瞰する所の小山に至り、敵兵を注観すること暫時にして笑て曰く、吾が出陣したるは有馬薩摩の両軍が此に来りて、吾に大勝利を得せしめんが為めなるやと。」/『日本西教史 全』P.441


→ 「けだし龍造寺は、毎夜悪僧等と共に会話せると衆人の謂へる」という風評こそ、『日本西教史』のみで得られる収穫です。

この記述で考えると、龍造寺隆信は『北肥戦誌』はじめ俗説のイメージにあるような「女と酒と歌舞音曲で酒池肉林」ではなく、毎夜、仏僧たちと何事か密に語り合っていたようです。
隆信は幼少期、平家物語を愛読し暗唱できる程だったと『隆信公御年譜』に記され、彼自身も少年期は宝琳院の仏僧であり、成長してからは曹洞宗を手厚く庇護した仏教徒でした。


奇しくも沖田畷の決戦、3月24日は、壇ノ浦の戦いの日と同じ。

「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し・・」と仏僧が諳んじるのを聞きながら、決戦前夜の寺中城(三会城)で隆信公は、悠然と杯を傾けたのかもしれません。

兵数も物量も敵を凌駕している。ここは一気に森岳を抜き、救援を待っている深江城の解放を目指し、更に日之江城まで落とす。有馬島津軍を破り、窮地に陥った味方を解放し、肥前における権威・有馬家の本城まで落とせば、それこそ愈々「大名」としての外聞が立ちます。





★浜の城址の石碑と、東統禅先生。
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当時森岳には、今の様な「島原城」は無く、クラッセが書いている島原城とは、島原純豊らが籠る「浜の城」を指すと考えます。現在は平地になっていますが、当時は海に突き出た城だったとされます。



なお、東統禅先生は今年2020年中、小城郷土史研究会の機関誌『小城の歴史』および、葉隠研究会の機関誌『葉隠研究』にて、永禄6年の丹坂峠の戦い(有馬対龍造寺の決戦)についての玉稿を発表される予定です。一部内容をお知らせ頂き、素晴らしい研究成果である事が分かっています。発刊後、またお知らせします。




★寺中城址から森岳方面を望む。
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― レポート(12)へ続きます ―





posted by 主宰 at 02:47| 佐賀 ☀| Comment(0) | ■沖田畷の戦いについて再検討する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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