2020年02月17日

「塩田のたっちゅうさん」伝説を考察する



今回は「塩田のたっちゅうさん」で有名な、鍋島茂治(助右衛門)の事。


鍋島信房の二男。茂良とも。天正12年、沖田畷で久間城主原豊後守一門が討死した為、茂治が久間城主に任じられ、末子に原家を継がせる。
茂治家の家系図『鍋島六良兵衛家系抜書』の記述によれば、沖田畷後、島原の神代(こうじろ)貴茂が有馬島津方に誅殺されたため、茂治は神代城(鶴亀城)の城番に任じられ、数年務める。つまり、沖田畷大敗後も龍造寺は、島原の神代を領有していた事になる。

(有馬島津がそれを本当に許すのだろうか。龍造寺は降参したという事で、ひとまず容認したのだろうか。)

その状態のまま、秀吉の九州国割の前段階で、神代領は鍋島直茂領として安堵され(※『佐賀藩の総合研究』藤野保 著 P.221)、江戸時代の慶長14年に、藤津郡に鹿島藩が創設されるに及び、父信房と兄茂昌そして茂治の一族は、藤津から退去し、島原半島の神代領主家となる。



<年表で整理する>

・天正4年(1576) 龍造寺隆信が藤津郡を掌握。郡代として鍋島信房(直茂の実兄)とその一家が赴任。

・天正12年(1584) 龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死。藤津郡の塩田(嬉野市塩田)の久間城主、原豊後守一族も複数戦死したため、茂治が久間城主に任じられ、原家は茂治の末子が相続する(末子は後に、鍋島又兵衛貞恒と称し、蓮池藩家老となる)。

・同年 島原の神代領主、神代貴茂とその一門が、有馬島津方に降参せず抵抗していた為、有馬島津方によって誅殺された。この為、茂治が神代城の城番として入った。(『鍋島六良兵衛家系抜書』による)

(2/18追記:「直茂公譜考補 五乾」(『佐賀県近世史料1-1』P493)、天正12年頃の、龍造寺政家公御側御本丸詰衆 四番の組に、鍋島平五郎(主水茂里)と共に、鍋島助右衛門(茂治)がいる。 ※久間にいるのか、神代にいるのか、佐賀城本丸にいるのか、さっぱり分からない。茂治の事跡については、一から精査する必要性あり。

・天正15年(1587) 豊臣秀吉の九州国割。島原の神代領はそのまま龍造寺家に安堵される。

・文禄慶長の役 系図によれば「加藤清正を援けて奮闘した鍋島茂治、清正と昵懇の間柄となり、茂治の娘を、加藤家の家臣の妻に迎える約束を交わす。」

・慶長14年(1609)藤津郡に鹿島藩創設されるため、茂治含む信房一門は、藤津郡を退去し、島原の神代へ移る。これが神代鍋島家の始まり。同年(または翌年)信房死去。長男の茂昌(茂正、弥平左衛門)が跡を継ぎ、神代鍋島家は鍋島藩家老家として代々続く。一方、二男の茂治も神代鍋島家中にあった。

・慶長16年(1611) 加藤清正死去

・慶長18年(1613) ★事件。鍋島茂治・織部父子と、茂治の娘が自害を仰せ付けられる。娘は佐賀城下の寺で自害、茂治織部父子は、家臣多数と共に屋敷で自害。彼らの潔い最期(生きざま)は『葉隠聞書 六』に残った。



<事件の経緯>

『勝茂公譜考補 三坤』によれば、『葉隠』(聞書 六)『御系図』『成富家譜』と典拠明示された上で「娘が若者と駆け落ちして肥後に逃亡してしまい、佐賀藩の法律上許されない事なので、加藤清正に交渉して取り戻す話」。
(取り戻しの交渉に行ったのは、成富兵庫茂安とされる。清正は成富とも昵懇のため、交渉に折れ、娘を返した。)
しかしこの年慶長18年は、清正の没後で、つじつまが合わず。

一方、『鍋島六良兵衛家系抜書』では、
「文禄慶長役の時に昵懇の間柄となった加藤清正と鍋島茂治は、茂治の長女を加藤家の家臣の妻へ迎える約束をしていたが、佐賀藩法で他国者との婚姻禁止となり、茂治は断らざるを得なかった。その後、茂治が神代番中、肥後から来た山伏の様なる者が下女や若党に金銀を与えて買収工作し、娘が肥後に連れ去られた。」つまり加藤家が過去の約束通り、嫁取りを強行したという話。(連れ去られた当時に、清正が出てきて云々とは書いていない。)

同系図の文章の続きは、「連れ去られた事により、娘は生害仰せ付けられ、茂治父子は御国法が相立たずの旨をもって慶長18年10月切腹仰せ付けられ・・」と、加藤藩から娘が取り戻されていることは分かるが、どのように取り戻したのかは記載がない。

(肥後から来た山伏のようなる者が、手練れの忍者のような動きで興味深い。)


慶長18年10月、肥後加藤藩から取り戻された娘は、佐賀城下の朝日町の威徳院に籠められ、自害する。
藩法破りの責任を問われた鍋島茂治・織部父子も切腹仰せ付けられ、殉死を希望する家臣多数と共に、一挙に屋敷で自害した。現場は血みどろの大惨事だったという。

『鍋島六良兵衛家系抜書』によれば、茂治の末子2名は乳母に匿われて逃げのび、後に赦免される。織部の息子(茂治の直孫)の幼児も、母(桂昌院)に守られて逃げ、長く芦原で忍び暮らし、成人後に鍋島勝茂の許しを得て、召抱えとなった。

滝口康彦の小説「血染川」の題材になった鍋島茂治一家の悲劇。
しかし後年この家系が再興されていた事は、世間的に知られていない。
処断を命じたのは鍋島勝茂だが、再興を許したのもまた、鍋島勝茂であった。


以後、この家系は佐賀本藩に属する。150石〜250石程で推移した中堅クラスの本藩藩士。江戸後期に取り潰しに遭い(理由不明)、鍋島直正の命で再び文久2年に再興。直正に仕え、幕末期に活躍した。



【考察】


▼茂治一家の自害の場(「血染川」の場所)は、これまでの経緯から考えると嬉野市塩田ではなく、島原の神代鍋島城下と思われる。なぜなら鍋島勝茂からすれば無下には扱えない伯父信房の二男。これを罪人といって島原から佐賀にしょっ引く訳にも行かないだろうし、茂治の方も罪を申し渡されて、いそいそ佐賀城に出向くより、普段居住している神代の屋敷でさっと潔く死ぬほうが武士の面子が立つと思われる。そして、この時わざわざ、旧領の塩田久間に行って死ぬ理由がない。

たっちゅうさんの石碑があるため、一般的に塩田で起きた惨劇と思っておられる方が多いと思うが、『塩田町史 上巻』P301でも「茂治の館が下久間にあったのか、切腹の場所が久間であったのかはっきりしない」とされている。

『鍋島六良兵衛家系抜書』に、”神代番中に”娘がさらわれた旨があるので、当時茂治は神代に住んでいたと思われる。


▼なぜ塩田に石碑が建立されたのか。それはおそらく事件で殉死した家臣の中に、塩田出身の侍が複数いた為ではないか。
茂治に従い藤津郡を退去した塩田の家臣団には、故郷に身内・親類がいる。悲劇からしばらくした後(お上の目もあるだろうから「33回忌」の節)、彼らの「ふるさと」塩田久間で、彼らを偲び、慰霊祭が営まれたのではないだろうか。

(茂治の徳政を慕っての石碑建立というのが通説で、勿論その可能性もある。)


▼鍋島直茂が悲しんだというのは、本当かもしれないという事。悲劇の事件後、御隠居であった鍋島直茂が「処罰を止める者が誰もいなかったのか・・」と嘆いた話は『葉隠聞書 六』にあるが、『塩田町史 上巻』収載の系図上、茂治の息子・鍋島織部も連座して自害した所、織部の墓は、後に「宗智寺に改葬」とある。宗智寺と言えば、鍋島直茂の死去の同年(元和4年)、慰霊のため直茂隠居所の跡に建立されたお寺で、直茂の遺骨も当初、宗智寺に埋葬されていた。その寺に、いわば罪人の遺骨を改葬するというのはとんでもない事である。しかしそれが為されているという事は、実際に生前、鍋島直茂が悲しんでおり、鍋島勝茂以降、藩祖の気持ちを尊重し、織部の遺骨は、鍋島直茂菩提寺の宗智寺へ移して祭ったのではないだろうか。それは察するに、鍋島一門である信房の二男家に重罰を科した直茂勝茂父子の負い目の緩和、家中の風聞の緩和措置でもあっただろう。


▼茂治の娘が駆け落ち、または、さらわれて肥後へ行ったとすれば、『鍋島六良兵衛家系抜書』中、”神代番中に”娘がさらわれたの記載から、鹿島藩創設され神代に退去した、慶長14年(1609)から慶長18年(1613)10月までの間となるか。そもそも娘がいなくなった時期、連れ戻された時期が不明。


▼肥後に行ってしまった茂治の娘を佐賀藩が取り戻し、藩法破りの罪で、娘もろとも茂治父子を自害させてしまうという「筋書き」はどの位信憑性があるのだろうか。第一、加藤藩にも意地があるだろうから、清正は没後といっても、もっと揉めそうなもの。
遠目で考えてみると、慶長18年頃は、鍋島勝茂が支配体制を固める時期であり、この茂治父子は何か別の理由で、例えば「元々鍋島本家である信房の二男、茂治は、系譜的プライドもあり、鍋島勝茂のやり方を良しとせず不満を露わにしており・・」という様な所で、何かの節に、支配体制を整えるべく粛清されたのではないだろうか。茂治一家を粛清する事は、当然家中の意識を引き締め、鍋島直茂から勝茂への代替わりを意識させる事になる。

鍋島直茂は通説上、兄・信房を優遇し、配慮を欠かさなかったとされるが、この粛清劇は、信房死去後に、勝茂が決断したものである。



<補考>


『葉隠聞書校補』(五)、鍋島茂治(助右衛門)家の累代の歴史がまとめてある。
織部の息子、真成(鍋島源右衛門)は成人後100石で召し出され(『塩田町史上』P302にて、佐賀本藩で「番頭」として召抱と確認)、島原乱で功あり最終303石取にまで出世。(鍋島一門衆である事も高禄引き立ての要因か。)

その子、真次の時に浪人となり(理由記載なし)、その息子義陳が、141石でもって再び佐賀本藩に復帰。次代の直長が享保〜寛保年間で加増され合計280石、その子、直喬は宝暦8年に50石加増受けるも隠居浪人となり、その孫の真聖はまた文政9年50石加増。病死し上意で家名取潰(理由記載なし)。

真聖の子、真敏(宮門)が天保4年(藩主は鍋島直正の時)物成85石で召出され、『葉隠聞書校補』が編纂された時期に真敏の息子、鍋島宮門真徳が存在した様子。鍋島直正の家臣として文久2年頃名前が見える鍋島宮門(『蓮池藩日誌』P615』)は、この人物か?

そうであれば宮門は「塩田のたっちゅうさん」鍋島茂治の家系となる。

色々考えるに、歴代の鍋島藩主は、直茂の兄、信房の次男であった茂治の「たっちゅうさん事件」の悲劇を知っていて、この家系が存続するように、代々気にかけていたのではないだろうか。そのため、度々断絶しても再興されるのではないか。


佐賀戦国研究会 深川 直也 記 (2020.2/17)



★2/19追記:

上記は『鍋島六良兵衛家系抜書』の内容を中心に検討したが、
先行研究上、「鍋島茂治は天正19年頃から慶長18年没年まで、久間城主であった」とされている。

そうなると、慶長14年に鍋島信房や茂昌が神代に退去した時には、神代鍋島家とは分かれ、佐賀本藩領の久間領主として茂治は「別家」を立てていた事になる。

鍋島茂里と共に、龍造寺政家の側仕えをしていた事もある鍋島茂治の立場は低いものではないため、鍋島信房とは別個の分家を立てた可能性もあり得る。


今の所「鍋島茂治は天正19年頃から慶長18年没年まで、久間城主であった」とされている資料に、その根拠史料の明示がない。何に基づくのか、当時の佐賀藩の着到(分限帳)などで鍋島茂治を調べる必要がある。

たっちゅうさんの石碑が塩田にある理由の考察。茂治の末子の鍋島又兵衛貞恒が、後に蓮池藩に属すので、蓮池藩が成立したとされる1639年、蓮池藩が塩田を領した後、1645年・正保2年(33回忌)に、蓮池藩家老の鍋島又兵衛かその家系が、父祖を偲んで一家の旧領に石碑を建てたのではないだろうか。
(『塩田町史 上巻』によれば、この近隣、塩田町久間中通りにある丹生寺に鍋島又兵衛貞恒の墓碑が存在する。そして『久間村郷土志』には、昭和5年の役場台帳上、たっちゅうさんの存在する土地一帯は、蓮池藩士の家系である鍋島紀庸氏の所有とある。)
これであれば、茂治・織部がもし久間ではなく神代に移住していたとしても、子孫の鍋島又兵衛が蓮池藩内で供養したことになり矛盾しない。


その他、本題ではないが、
鍋島勝茂の時代、慶長16年、老臣である馬場清兵衛(龍造寺清兵衛)が「科有りて」自害仰付けらる。慶長18年、同じく老臣の鍋島茂治が科有りて自害仰付けらる。

馬場清兵衛の娘が、田尻監物春種の妻。
田尻監物春種の娘が、鍋島真成(茂治の孫、家の再興を許される)の妻。

春種と清兵衛娘との間の実娘が真成の妻なら、息子の真次は、鍋島氏、馬場氏、田尻氏と血縁あり。
鍋島六良兵衛家(真常)の家は、先祖に鍋島信房、馬場頼周、田尻鑑種を持つことになる。






posted by 主宰 at 02:50| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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