2019年10月03日

【立花家の牢人武士が鍋島家に召抱えられ、忠節を全うした話。】




慶長5年10月、江上八院の戦いの後、徳川氏の裁定で柳川立花家は一旦改易されますが、一部の武士は、鍋島藩で召抱えとなったようです。


先日、『忘却の日本史』第17〜19号「神代大和守勝利」執筆にあたり多大な取材協力を賜った佐賀県小城市芦刈町の福田寺(永禄年間開基の古刹)、東統禅先生へ御礼の御挨拶に伺った所、福田寺さんへも、柳川立花家改易後に浪人となってしまった十時氏の男子が、養子に入った記録があるそうです。

そうした中で、今回は『水江臣記 巻第三』中 大石長右衛門 同 覚兵衛 による由緒差出に書き留められた興味深い内容を、御紹介します。(簡潔現代語訳)





『筑後柳川の立花左近が家臣、大石備後は、朝鮮の役の時、立花左近のお供として抽んでた軍功があった。そのため帰国後には太閤様の御前にて「汝は無類の槍突き、比類の無い者と聞き及んだぞ」と褒美にあずかった。

備後の子、六良兵衛、のちに内蔵允と申す者は、関ヶ原の際の大津城攻めにお供し、少数で大勢の敵中へ駆け入り散々に切り立てた。大津城攻めの時立花左近(立花宗茂公)が下された感状は今も有る。柳川城降伏(江上八院合戦)の時は物頭にて親子4人奮って佐賀勢と戦ったが、息子の才蔵、小平次は、兄弟ともに討死した。

鍋島勝茂様はこの事を聞かれ、使者をもって「肥前へまかり出るように」との御意につき、当国へ内蔵允の子、作兵衛がまかり出た。佐賀に着くと勝茂様へお目通りし、直に、「武士の名誉、槍の達人であるによって、召抱える。当家の為に励めよ」とお言葉を掛けられた。その時、家老の多久安順様が御同座されており、「かの者、宜しければそれがしにお預け下さいませんか」と仰せになられ、作兵衛は初めて多久にまかり出、多久家に仕えた。

その後島原の乱では、作兵衛は御指物奉行を仰せつかり、原城乗り入れの前夜、茂辰様(安順の子)から召し出され、「明日は総勢より一番に城中に旗を差し入れ、天下の諸勢の目を驚かしたいのだ」とのお気持ちにて、作兵衛、御命に代えてと誓った。そうして茂辰様から酒盃と大魚の肴を直に頂いた。明けて早朝の内に作兵衛は原城へ近づき、一番に旗を差し入れんとしたが、城まで2,3間程の所を、2発の玉に撃ち抜かれ、14日、相果てた。

この節、柳川衆の十時左助と申す人が、茂辰様に申し入れられ「作兵衛は一門の者にて、安否を見廻りに参りました」と言うので、御前にて御意を得られ、東島与七兵衛が十時の持物を持って歩いた。この者も作兵衛と同じく、その場に撃ち伏せられた。 』



佐賀戦国研究会




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添田一平氏画 (2017年・当会 鍋島勝茂公イラストコンテスト 優勝作品)






posted by 主宰 at 22:40| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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