2019年04月20日

★更新版★【仮説】”九州の関ヶ原”の時、鍋島直茂は黒田如水の調略に失敗していた? + 「心疎」用例の検討



慶長五年比定 九月十日付 黒田如水宛 鍋島直茂書状(『佐賀県史料集成』第11巻「坊所鍋島家文書」26号)についての事。

※当該文書の詳細な解釈は、『愛城研報告』第22号(愛知中世城郭研究会 発行 2018年8月) P.4、白峰旬先生によりなされています。

補足になるかどうか分かりませんが、「心疎」の意味について、考察を加えます。



先日、邦訳日葡辞書を見ておりましたら「心疎」が熟語であった事を、初めて知りました。(皆様ご存知でしたら大変すみません)

(日葡辞書より「Xinso」シンソ・心疎。ある人から離反すること、またはある人と何の関係ももたず、交際もしないこと。
用例:”Xinsono yǒni gozaru."(心疎のやうにござる。)



そうしますと、当該の直茂書状につきまして、

「幸便候条、用愚札候、上方到来口上二申含候間、可被聞召候、連々可申入候へ共、貴邊之儀者内府一篇之御覚悟に候間、心疎、かさねて申入間敷候、可□其御心得候・・・・」

「無心疎」(しんそなく)を、あるひとから離反する事が無い、と解釈すると、

「如水殿は内府(徳川家康)一辺倒の御覚悟で居られますので、内府を離反する気持ちも無く 、以後情報は伝えることはできない」

となり、黒田如水が内府の味方として揺るがない事が、鍋島直茂の心情として強調された文章であると同時に、反面で鍋島直茂自身もまた奉行方として固い気持ちで居る事が覗えます。

両者の摩擦、いわば内府方と奉行方の気持ちの摩擦があって、もはや「かさねて申入間敷候」という宣言で、締めくくられているものと考えました。なぜなら、直茂が如水に今後情報を伝えない理由は、如水が「内府一篇之御覚悟」だからです。


ここからは、深読みの仮説ですが、鍋島直茂の怒気が少し感じられるこの書状は、もしかして、前々から黒田如水を味方に引き入れるべく鍋島直茂が説得交渉・調略を試みてきたが(伏線として、これまで何らか情報を共有してきたことは、書状から分かります)、失敗した、という事ではないでしょうか。

無心疎を、日葡辞書に従って「あるひとから離反する事が無い」と解釈し、

「貴方と私の仲であるから、以前から音信を交わしてきたし、今後も連々情報を伝えるべきだと思うけれども、あなたは内府一辺倒の覚悟で、(私が勧めてきた)内府からの離反をする事もない。それなら私は、もはや今後貴方に情報を伝える事はできない」


この「貴邊之儀者内府一篇之御覚悟に候間、無心疎、かさねて申入間敷候」は、

「貴邊之儀者内府一篇之御覚悟に候間、かさねて申入間敷候」と、別に「無心疎」と書かなくても成立します。


敢えて、この「無心疎」が見えるのは、
「心疎させたかったが、心疎が無かった、貴方は。」

という事ではないでしょうか。


曰、”九州の関ヶ原”の時、智謀の将で知られる鍋島直茂は、黒田如水の調略に失敗していた?


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★(2019.4/21 追記)

上記、鍋島直茂が記した「無心疎」の解釈について、白峰旬先生より、非常に詳細なご教示を頂きました。御多忙の所、有難うございます。許可を頂き、下記へ紹介いたします。


@:

「『邦訳日葡辞書』には語義として「心疎かな」とありますので、直茂書状での用法は「こころおろそかな」という意味の否定形になりますね。東大史料編纂所のホームページでのデータベース選択画面→全文の検索→古文書フルテキストデータベースで「心疎」で検索すると43件ヒットします。どの用例も否定形で出ているようなので、「心疎」がない、という形で使用しています。
御心疎」で検索すると1件ヒットします(吉川家文書 1198号)。この用例も否定形で使用されています。

御指摘のように、『日葡辞書』によって「心疎」=「ある人から離反すること」と解釈して、その否定形として「内府を離反する気持ちも無く」というように解釈することが可能かどうか、という点ですが、現時点では、私見では「無心疎」はその次の「かさねて〜」に続いていると見て、強調の意味のようにとりたいと思います。

御指摘の解釈のようであれば「依無心疎対内府」というような文になるのではないか、と思うからです。つまり「無心疎」が「内府」に対してのものであると明確に書いてないことが少しひっかかります。これは、現時点での私見の解釈ですので、今後かわるかもしれません。

※私見としては、「無心疎、かさねて申入間敷候」は、「(今後はこれまでのように)親しく重ねて申し入れることはない」と解釈します。」





A:『時代別国語大辞典』室町時代編に引用されている日葡辞書「心疎」の解説では、「ある人から離反すること」ではなく、★「あるひとから遠ざかること」と記されています。両者、表現に差異が出ている件について。


「『時代別国語大辞典』室町時代編において引用されている語の『日葡辞書』の意味の記載と、『邦訳日葡辞書』(岩波書店)における語の意味の記載は、同じ言葉であっても異なることがあります。これは訳した人の違いによるものと思いますが、典拠になっている『日葡辞書』のバージョンの違いかもしれません。

ですから、「心疎」の場合も、両者を比較すると微妙に言い回しが違いますね。御指摘のように、誰に対して無心疎で、主語が誰なのか、という問題はあると思います。」 (引用おわり)



→※ 私は序盤で「(如水殿は)内府を離反する気持ちも無く」と紹介しましたが、この部分、あくまで「無心疎」には、主語の明示がありませんので、黒田如水が内府(徳川家康)に対し「無心疎」なのか、はたまた、鍋島直茂が奉行方(いわゆる西軍)に対し「無心疎」なのか(この場合、文脈としては”如水殿は内府一辺倒の御覚悟であり、私鍋島直茂は、奉行方に無心疎でありますから”、となる)、断定ができず、解釈が難しい所です。


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折角、白峰先生より貴重な御教示を頂きましたので、勉強のために「心疎」の用例をできるだけ下記へ挙げ、考えてみたいと思います。
(九州における14例、年代順)



「重々御自訴之段承候、必各申談、其取合不可有心疎候、」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」42号 (天文4年頃比定 7/11)入田親廉→田尻親種宛書状




「毎々御辛労之条、必此度之事者、可被成御感候、涯分可致御取合之由被申事候、彼山御隙明候者、可為帰陣候条、御用等至 御座所蒙仰、不可有心疎候、」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」92号 (年欠・元亀元年以前比定 10/19)木付鑑盛→田尻親種宛書状




「秋月於宅所一段御粉骨之趣、銘々遂披露候処、忝被請 上意候、尤珍重候、倍相応之儀、不可有心疎候、殊(田尻)鑑種御申事之儀、不可有心疎候、」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」91号 (弘治3年頃比定 8/25)臼杵鑑速→田尻鑑種宛書状




「不寄自他家、至隆信様、於心疎之衆者、鶴田因幡守事、聊不可有同意之事」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」105号 (永禄10年6/9)鶴田(因幡守)勝起請文写




「隆信事、連々之貞心不可有別儀候處、中国之者共渡海之砌、案外之覚悟、讒人之所行候哉、無心元存、可糺邪正之段、就申出候、無心疎之趣、至年寄共、始中終入魂之次第、具令承知候、」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」138号 (永禄13年10/23)大友宗麟 → 龍造寺隆信・政家宛起請文




「一、改先非、対龍造寺隆信・同鎮賢、為草野鎮永、盡未来際不可有相違之事、一、留守弥次郎、并、吉井民部少輔事、為鎮永、当末心疎有間敷事、」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」163号 (天正3年1/18)草野鎮永請文写



7
「対龍造寺隆信、同鎮賢、為道嘉、鎮信、当末無心疎可申談之事」

『佐賀県近世史料』第3巻 龍造寺家文書 125号 (平戸)松浦道嘉(隆信)・鎮信連署起請文 (年月日メモ忘れ)



8
「至龍造寺隆信・同鎮賢、為蒲池鎮並、不可有心疎之事、」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」153号 (天正6年11/26)蒲池鎮並起請文写



9
「至龍造寺隆信・同鎮賢、為田尻宗達、不可有心疎之事、」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」131号 (天正6年11月晦日)田尻宗達起請文写



10
「対田尻宗達、為隆信・鎮賢、当末不可有心疎之事」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」169号 (天正6年12/22)龍造寺隆信・同鎮賢連署→田尻宗達宛 起請文



11
「今度、閣先々吉凶、小代宗禅・宗虎・親泰事、至龍造寺隆信・鎮賢申談候上者、何様盡未来際、右三人不可有心疎之事、」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」160号 (天正7年4/4)小代親泰起請文写



12
「此方親子、対鑑種毛頭無心疎之条、弥無御疑心様以御神文申入候」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」194号 (天正9年7/20)龍造寺隆信・同久家連署→田尻鑑種宛 起請文



13
「一、今度改先非、鑑種・隆信・政家申談候之条、当時行末、対鑑種、無心疎可申承之事」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」203号 (天正11年7/21)龍造寺隆信・同政家連署→田尻鑑種宛 起請文



14
「一、今度被改先非、至隆信・政家被仰談候条、為鍋島飛騨守、対田尻鑑種、不可存心疎之事」
『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」204号 (天正11年7/21)鍋島信生(直茂)→田尻鑑種宛 起請文




★ 上記に加え、高村不期氏より、「心疎」について、関東の戦国時代の用例を御教示頂きました。ご厚意に感謝申し上げます。

高村氏による大変な労作データベース(全体公開されています): historical_resource065から、「心疎」の検索結果を、以下へ引用・紹介いたします。(全4例)




「自今以後別而可有御相談旨候間、於氏政不可存心疎、無二無三可申合候、悉皆其方御馳走任入迄候、」

『戦国遺文後北条氏編』1964号(天正6年比定 1/25)北条氏政 →遠藤内匠助宛 書状(斎藤報恩館所蔵遠藤文書)




「貴辺鬱憤之擬も更難叶儀候歟、乍出角氏政父子ニ被相談候者、始中終涯分無心疎、大小事共ニ可申合候、」

『戦国遺文後北条氏編』2347号(天正10年比定 6/11)北条氏政 → 滝川左近将監宛 書状(高橋一雄氏所蔵文書)




「疾以直状雖可申述候、不知案内之間、先以遅ゝ非心疎候」

『戦国遺文後北条氏編』2439号(天正10年比定 10/25)北条氏政 → 上野筑前守宛 書状(館山市立博物館所蔵上野文書)




「炎天之砌着府、誠御辛労ニ候、雖然入魂之筋目珍重ニ候、殊息子当地ニ被指置由及承候、先以肝要候、於氏直遂日可為懇切条不及申立候、於愚老も相当之儀不可有心疎候」

『戦国遺文後北条氏編』2473号(天正10年比定)北条氏政 書状 (月日欠/差出人欠/宛所欠、上書:長尾入道殿 截流斎)(上杉文書十一)






※興味深いことに、4例全て、北条氏政による用例です。







→上記、九州の戦国時代の用例(全てではありません、他にも用例を確認しました)を挙げて検討した結果、九州では主に、家中ではなく、他家と交わされる起請文中に、打消しの「無」・「不可有」などを伴って「心疎」が用いられている事が分かりました。

(家中の下から上への起請文では、”無二心野心” ”無別心” ”無逆心” などの言葉が主のようです)



以上からの私見ですが、堅い・フォーマルな言い方を醸したい場合や、”鷹揚な口ぶり”にしたい場合に、「心疎」が用いられていると言えないでしょうか。





佐賀戦国研究会 深川 直也



ーーーー

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posted by 主宰 at 01:30| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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