2018年12月30日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートG【2018.10/27】


引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその8です。

★レポート7は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/463274501.html


【俯瞰】下は島原市・中心部周辺の地図です。左の赤丸は「丸尾城(砦)」、真ん中の赤丸は島津・有馬本陣の「森岳(森嶽)」、右下の青丸は「浜の城」。(赤は島津有馬方、青は龍造寺方) 


InkedInkedInkedスクリーンショット 2018-09-29 02.22.29_LI - コピー.jpg


―――――――――――――――――――――――


『上井覚兼日記』に、天正12年3月23日(沖田畷決戦の前日)に「三会の町(寺中城下)で龍造寺軍との小競合いが有ったようだ」と記されています。通説だと3/23には龍造寺隆信公本隊が寺中城周囲に布陣しているので、島津有馬方の斥候隊か、陽動隊でしょうか。いずれにせよ持ち帰られた情報が、島津有馬方の翌日の構えに活かされたのかもしれません。


2018-10-27 10.35.36.jpg

 (寺中城=三会城、踏査会の風景)


『北肥戦誌』P.680には、3/20〜3/23の間、龍造寺軍が続々と島原へ到着し、味方を援けるために「所々へ押詰め、防戦せられ」とあるので、島津有馬方も、状況を静観していた訳ではなく、決戦前に所々で(3/23三会の例の様に)小競り合いをしかけたり、逆に龍造寺方も押しつめて小競り合いとなっていたと思われます。

『直茂公譜考補四』には「廿日より有馬方の者共と矢合ありて、所々の敵を皆打散らされ、同廿四には・・」とあるので、やはり3/20〜3/23間は、本戦前の小競り合いが数件あったと考えられます。これらから、龍造寺方の人数が急増した事は島津方も把握したと考えられますが、ただしフロイス日本史の記述だと決戦前日に「龍造寺隆信自らが全軍を率いて接近しており、明日にも総攻撃に出る模様」という情報を、島津有馬方が得ているので、つまり3/20〜3/23の小競り合いから「敵が続々と増えているので、いつかは総攻撃に出て来るだろう」と予想はしていたが、「まさか明日とは」思っていなかった、という事でしょうか。


たしかにフロイス日本史の記述の様に、龍造寺隆信公の強さとは、過去の傾向上「相手が油断している内に、迅速に動き、急襲して勝つ」(例:村中水ケ江復帰戦、少弐冬尚&江上討伐、小田討伐)ことなので、今回も敵に知られない様にして、総力での急襲を仕掛けたのかもしれません。



           (必読本)
写真 2018-12-30 1 10 18.jpg



完訳フロイス日本史10』P.275、島原半島のイエズス会宣教師たちを緊張させ不安にさせた事に「薩摩から派遣されてきた援軍は、当時はまだ少数だったことである。」とあります。

また『上井覚兼日記』に「(3月24日付)新納忠元と鎌田政近からの書状を預かった。『これまで味方の軍勢が少ない状況だったが、又四郎(島津彰久)殿、図書頭(島津忠長)殿、平田(光宗)殿などが着岸されたので、島原の落城は間もなくだろう』との事だ」とあり、彰久公は21日に渡海となっているので、少なくとも3/22頃まではイエズス会宣教師たちや民衆の認識として、島津の援軍は目に見えて不足していたのでしょう。

さらに、情報戦が垣間見える興味深い記述があります。「さらに有馬の幾人かの捕虜の若者たちが逃走したことも、司祭たちに不安を抱かせていた。これらの連中は、何らかの恩賞に与かろうとして密かに主君の家を脱出し、隆信に情報を提供してこう伝えた。有馬はいかに孤立し見離されていることか。もし貴殿がそれを占領しようと思うなら、先方には誰も抵抗する者はいないし、そのほか彼らは多く動揺し、不安に襲われ続けている、と。」『完訳フロイス日本史10』P.275


これ以前の時期、浜ノ城の城主・島原純豊公から龍造寺隆信公へ援軍を要請する際「必ずや勝利を博すでしょう。なぜなら薩摩の軍勢はごく少数であり、容易に撃破できると見えるからです」といった言上をしたとあります。(『完訳フロイス日本史10』P.269)


これら続々ともたらされたであろう情報を良く吟味した上で(実際、島津彰久公たちの増援軍が来るまで明らかに島津方は少数だったため)、龍造寺隆信公が島津軍をあなどった可能性は、大きいと考えられます。ただしそのあなどりは、単純な隆信公の「熊の豪気」や「暴君の傲岸」ではなくて、歴戦を勝ち抜いてきた戦略家による、冷静な情報分析の結果だったと言えるでしょう。



隆信公は、勝てると確信した。


一方、「果敢な武将である中務(島津家久公)は、従来よりいっそうの入念さをもって陣屋を固めさせ、陣地を整備させた。ドン・プロタジオ(有馬晴信公)も、自らは不便な地点に位置していたけれども、同様に堅実に構えた。」『完訳フロイス日本史10』P.275



かくして龍造寺隆信公は、進路を山手・中央道・浜手と三つに分け、徐ろに大軍を動かします。


島原3-1.jpg


いよいよ決戦の時は近づきました・・・






2018-10-27 13.47.00.jpg

軍装の大山格先生と、晴天の普賢岳。(堂崎にて)







― レポートHへ続きます ―





posted by 主宰 at 01:45| 佐賀 ☔| Comment(3) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めてメールいたします。素晴らしいレポートありがとうございます。 一年ほど前、松尾先生から、沖田畷に登場する大木戸は、浜の城の北側の川沿いと伺って、目から鱗でした。とすると戦場正面がかなり狭く、わずかな時間でも島津有馬方は段丘と木柵で強固な防備が可能になりますし、龍造寺側は、例え湿地帯が大したことがなくとも中央は大渋滞になりそうです。まして、浜手は砲撃を受けて進まず、山の手も鍋島直茂のために話が盛ってあるとすれば(歴代鎮西史でも猿渡与次郎は決戦後の追撃中に後藤勢に討たれてますよね)、数の優位も薄れ、前陣後陣の入替えの隙間を衝かれれば、龍造寺本陣も危ないですよね。
 ところで、政家の参陣があるかないか悩みますね。常識からは両大将が同じ戦場に来るとは思えませんが、もし、政家の率いた軍勢に、隆信が須古から独断で突然加わり、さらに指揮権まで取り上げたとしたら。。。憶測の積み重ねですいません。第九番目の記事を楽しみにしています。
Posted by 河島直樹 at 2019年01月13日 02:03
>河島様

御丁寧なメッセージを頂き、有難うございます。励みになります。
松尾先生による大木戸の位置のご考察、非常に興味深いです。
今後ともどうぞ、よろしくお願い致します。
Posted by 主宰 at 2019年01月17日 20:56
久々にスマホを開いたら、懇切な返信をいただきありがとうございました。で、大変な間違いに気づきました。沖田畷の戦いの後、薩摩の猿渡与次郎が、後藤勢に討たれたと書いておりましたが、これは鍋島信生勢の間違いです。慎んでお詫び申し上げます。意図は鍋島信生の優勢を何気なく強調する北肥戦誌の怪しさを言うものだったのですが、主語を間違うようでは情けないですね。びっくりされたことでしょう。初心者のこととお笑いください。これからの先生の記事を楽しみにしております。
Posted by 河島 at 2019年01月25日 01:59
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。