2018年11月19日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートA【2018.10/27】




引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその2です。

★前回のレポート1は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html




10/27(土) 

嬉野市の入船荘を出発し、鹿島市→多良岳オレンジ街道→ 諫早湾干拓堤防道路→島原半島へ。(車で約1.5時間)

天正12年(1584)3月18日、龍造寺隆信・政家父子が率いる57,000余騎もの大軍の兵船が、須古城の南方の海岸・龍王崎より出航。

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(中西豪先生の甲冑姿です。編集によって口髭を付けたり、目の表情などを通説どおりの隆信公風に加工しています。御大将出陣ノ図)


順風に乗って3月20日前後に神代(こうじろ)へ着港、軍勢も上陸、布陣します。軍議の後、3月21日には南下し、寺中城(三会城)に入城。龍造寺隆信は、21日から23日まで寺中城に駐屯します。(『隆信公御年譜』・『北肥戦誌』)



★軍議【島原半島の見取り図】 青色の城=沖田畷合戦当時、龍造寺方であった城。赤色の城=有馬・島津方の城です。

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神代湊には、龍造寺方の武将・神代貴茂の居城(海城)、鶴亀城(神代城)がありました。

ちなみに佐賀郡の神代(くましろ)氏と島原の神代(こうじろ)氏は同祖説もありますが、ひとまず、別の氏族です。


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この神代湊からおよそ13.5km南下、車で20分程走ると、寺中城に至ります。



<1> 寺中城(三会城)跡(場所:島原市中野町丙1469-3)

★【駐車場なし、道路脇に駐車スペースあり】

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川に挟まれた小高い所が城址です。海辺に屹立した城であった事がイメージできます。

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島原市による解説板。おそらく近年設置されたものと見え、新しいです。

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城址には登る事が出来ます。ここに物見の櫓など拵えれば、4キロほどしか離れていない森岳方面(沖田畷付近)まで眺望できたかもしれません。3月21日から23日までここに滞在した隆信公は、決戦まで何を思い過ごしたのでしょう。

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■左:東統禅先生(福田寺御住職)、右:大山格先生。 寺中城址にて。

島津方の大山先生も、いつのまにか赤い戦装束姿に。沖田畷を前に、臨戦態勢となられました。



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★『上井覚兼日記』によると、3月16日には、龍造寺軍と戦うための先手の軍が既に島原半島へ渡海済。3月18日、島津忠長一行が渡海。3月21日、島津又四郎(島津彰久)と他数名が渡海。同日、島原半島にて有馬晴信を支援中(龍造寺方・島原純豊の籠る浜の城を攻囲中)の島津家久、島津忠長、平田、新納、各位の辛労への慰問も兼ねて、上井覚兼の船十二段帆が渡海している。(『有明町史 上巻』「伊勢守日記」)


★『島津四兄弟の九州統一戦』新名一仁著 星海社 発行(2017.11月)P.139によると、3/21〜3/23までの龍造寺軍の迅速な動きを、島津方は掴めていなかったという。P.140「島原包囲中の有馬渡海衆が、龍造寺勢本隊の到着に気づいたのは、決戦前日のことだったのであり、(肥後)佐敷からの援軍は間に合わなかったのである。」







― レポートBへ続きます ―


【PODCAST】
H25. 3/23、佐賀の戦国史ー龍造寺鍋島伝ー 第一回講演会 @佐賀城本丸歴史館 /「世評における龍造寺氏・鍋島氏」より抜粋。講師:中西豪先生。







posted by 主宰 at 21:03| 佐賀 ☁| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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