2018年07月06日

★龍造寺鍋島政権交代についての、論者による表現の比較




「経緯については、種々問題とされるところである。」川副義敦氏・『戦国の肥前と龍造寺隆信』 /



「勝茂が竜造寺氏の家督を相続する前年の慶長11年、竜造寺・鍋島一門等の重臣は、直茂・勝茂に忠節を尽す起請文を提出(中略、のちに、)竜造寺本家が断絶し、その家督問題が幕閣で取上げられるに至って、諫早・多久・須古の竜造寺一門は、江戸において、直茂の嫡子勝茂が相続すべきであることを主張し、これが公儀権力の認めるところとなって、名実ともに鍋島佐賀藩が成立した」藤野保氏・『佐賀藩の総合研究』/



「鍋島氏、龍造寺氏に代る」「(高房の父)政家もあとを追うかのように死去した。やがて龍造寺の家督も信濃守勝茂に継承せられた。龍造寺一族の申し出によるものであったと伝えられる。」三好不二雄氏・『佐賀市史』第1巻(中世Uー5)/



「竜造寺本家が滅んだが大きな動揺はなかったようで、龍造寺一族はむしろ鍋島直茂・勝茂に協力的で鍋島氏の支配は安定していた。」小宮睦之氏・『佐賀市史』第2巻(近世1-1)/



「高房・政家が相ついで死亡したため、竜造寺家家督を勝茂が継ぎ、ここに佐賀藩主の家督と国政の不統一が解消し、」佐賀県近世史料編さん委員会・『鍋島直茂公譜等解題』(佐賀県近世史料1-1)/



「直茂・勝茂体制の鍋島佐賀藩がスタートすることになった。関ヶ原の敗戦以後の藩存亡の危機感のなかで、直茂ー勝茂ラインの政治運営に旧龍造寺一族や家臣団が期待したためである。『佐賀城の総普請』は龍造寺体制から鍋島体制への移行の一環として行われた。」小宮睦之氏・『佐賀城の歴史』(『海路』第7号)/



「竜造寺氏の旧領を継いだ鍋島氏は、その支配組織・体制を固めるに当たって、二つの特徴がみられる。その一つは、竜造寺氏の旧家臣団を解体しないで温存したことであり、二つ目には、徳川幕府の全国的な大名統制方式と類似していることである。(後年の鍋島御三家、親類同格、旧龍造寺系大身≒外様)」杉谷昭氏・『郷土史再発見@ −幕藩体制の中の鍋島氏―』/



「一般的な家中騒動、御家騒動とは異質な、いわば静かな下克上なのであるが」「(『諫早家系事跡』によると)鍋島氏を大名の座につかしめたのは、ほかでもない龍造寺系一門家臣という認識なのである。」高野信治氏・『大名の相貌』/



「後世において鍋島氏が竜造寺氏の立場を乗っ取ったとするような状況ではなかったことも本稿で明らかにした。」野口朋隆氏・『佐賀学T』/



「鍋島氏が政家の二男村田安良を竜造寺本家として存続させたことは、偏に当時の佐賀藩が、竜造寺一門による政権運営(請役家老制)に代表される鍋島・竜造寺両氏による連合政権的な権力構造であったことばかりに起因するのではなく、まさに鍋島氏が旧主の家の存続に配慮するという、いわば伝統の保護政策があったことも考慮する必要があるだろう。」野口朋隆氏・『中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏』/



「変転きわまりない戦国の世に生きた直茂を、一つの主義・主張を持って主君に対して忠節を尽くした律儀な武将としてとらえることは困難である。(中略)直茂は政家や高房が御しうる人物ではなく、直茂の長命は平穏裏のうちに龍造寺氏から鍋島氏への勢力の交代をなさせ、時の権力者も認めるところとなった。」岩松要輔氏・『鍋島直茂』/



「政家・高房が没したため、肥前国を引き継ぎ、(直茂は)鍋島佐賀藩の藩祖(初代藩主は勝茂)となる。」田久保佳寛氏・『千葉一族入門事典』/



「鍋島氏は、竜造寺四家および国人系有力家臣団が家中で強大な勢力を占める現実と、藤八郎(高房)死去後の家督継承の際に、彼らの承認を受けたことに対する政治的代償によって、当主権力の深化に大きな制約を受ける状況にあった。この連合政権的な権力状態」木島孝之氏・『城郭の縄張り構造と大名権力』(補注篇・鍋島領)/



「(高房・政家死後)龍造寺一門が合議で、肥前国主の後継者に鍋島勝茂を推挙する結論を出したことで、大名家としての龍造寺氏は断絶した。ここに、鍋島氏の下に龍造寺氏が持つ「国主の家督権」が吸収されることになった。ただし、高房には実弟安良がおり、鍋島氏への臣従を誓ってはいたが、龍造寺宗主家を継承する別格的家格の大身家臣として健在であった。」木島孝之氏・『九州にとって「織豊」とは』(『海路』第11号)/



「享保年間成立とされる『直茂公譜』『勝茂公御年譜』においても、竜造寺から鍋島氏への家督継承の正当性を謳うため、(中略)意図的に高房関係の事実が省略化・歪曲化された可能性は十分に考えられる。」大平直子氏・(佐賀大学地域学歴史文化研究センター 研究紀要第9号) /



「(沖田畷)後しばらく龍造寺氏が家督を継ぎ、鍋島氏が領国支配を行うという体制がとられるが」「慶長12年の龍造寺氏断絶により家督・支配ともに鍋島氏に統一され、名実ともに佐賀鍋島藩が成立する。」松川博一氏・『戦国武将の誇りと祈り』(九州歴史資料館図録)/



「龍造寺家が断絶したため、直茂は名実ともに肥前の大大名となった。」荒木和憲氏・『戦国大名』(九州国立博物館の図録)/



「竜造寺本家は断絶した。それを継いだのが鍋島家である。」谷口眞子氏・『 佐賀藩の殉死にみる「御側仕え」の心性』(早稲田大学高等研究所紀要7)/



「政家が最後に羽柴政権から文書を出された(文禄四年)八月を最後にして、龍造寺家は大名としては認められなくなったと考えられる。以後においては、執政の鍋島家が、事実上は肥前国の大名として(公儀に)扱われていくことになる。」黒田基樹氏・『羽柴を名乗った人々』/



「直茂の子勝茂が竜造寺氏の家督を継ぐかたちで鍋島佐賀藩が成立」日本史広辞典編集委員会・『日本史小辞典』(山川出版社)/



「竜造寺氏の家督を勝茂がつぐことで、完全に鍋島氏が領することとなった。」(郷土の戦国時代・佐賀県/肥前一部)の項「政家・高房父子の死後、鍋島直茂の子勝茂が竜造寺氏の家督を相続、鍋島姓のまま佐賀藩主となる。」(戦国領主155家の系譜)『クロニック戦国全史』編集委員会・『クロニック戦国全史』/



「戦国大名 鍋島直茂 −平和裡に主家を乗っ取った簒奪者ー」「勝茂は龍造寺を名乗らなかったため、ここに於いて肥前龍造寺家の家名は実質的に絶え、以後、鍋島家が代々家督を継いでいくことになった。平和裡に行われた主家の簒奪である。」服部崇氏・『歴史文化遺産 戦国大名』/



「幕府にとっては、長い間の鍋島直茂・勝茂の活躍とその実績を見、又、龍造寺各氏の動きをみて、政権は鍋島家が妥当であると確信したのであろう。又、直茂もそのようになるように、動いたのではないだろうか。」市丸昭太郎氏・『龍造寺家と鍋嶋直茂』 /





「幕府は龍造寺一門の主だった者の意見も徴し、信生(直茂の前名)の嫡子勝茂に龍造寺氏家督を継承させた。『法的』には何ら問題のない政権交代である。しかし最晩年の信生の言動には深い憂慮が現れている。やむを得ぬ仕儀とはいえ主家を事実上簒奪したことを悔いるところが大きかったのであろう。信生が龍造寺の無二の忠臣であったことに疑いはない。」中西豪氏・『戦国九州三国志』(歴史群像ムック)/



「最終的には宗家は高房の代で途絶え、鍋島氏の家督相続が徳川幕府より認められた。」中西豪氏・『全国版 戦国精強家臣団』(歴史群像ムック)/



「禅譲の完成」『史伝鍋島直茂』(単行本) → 近年では「領主交代の完成」『歴史群像 No124』という表現。中西豪氏 /



「高房の龍造寺家家督と、鍋島父子の領国支配は完全に分離して、今や別個の存在となっていたのである。」「高房死後、佐賀城下に白装束の幽霊が現れるという噂が立ち、いろいろ異変が起き、人びとを恐怖におとし入れたと(『元茂公譜』中に)伝えている。世に流布された佐賀の『化け猫騒動』は、この幽霊話の所産であり、若くして悲運の死をとげた高房への庶民の憐情を感じる。」「(政家は)後を追うようにこの世を去った。五十二歳であった。龍造寺家本家は、遂に断絶、鍋島三十五万七千石の藩政がここに確立した。」吉永正春氏・『九州戦国の武将たち』/



「五州二島の覇者が、大名の座を家臣にのっとられた事情とは?」「鍋島氏は、初代藩主は直茂ではなく、高房没後の勝茂として、あくまで龍造寺氏から政権を譲られたという形をとっている。」「(鍋島化け猫騒動の)伝説が生まれたということは、たとえ正当な継承であっても、主従の逆転に陰謀を感じ、龍造寺の滅亡を憐れむ者も多かったのだろう。滅びゆく者に、人々はなぜか心を寄せる。」鷹橋忍氏・『滅亡から読みとく日本史』/















posted by 主宰 at 04:04| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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