2017年08月18日

山口昌志先生より『関ヶ原前後の鍋島家の動向(小説を書くとしたら)』を寄稿頂きました。


★明後日はいよいよ、佐賀城本丸歴史館にて『関ケ原の戦いを再検討する』講演会・シンポジウム開催当日ですが、光栄にも、良いタイミングで山口昌志先生に、2017年8月18日付で表題の文章を寄稿頂きました!

山口先生は2014年の「九州さが大衆文学賞」において、『老虎の檻』で大賞・笹沢左保賞を受賞され、メディアで話題となりました。


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選考委員の北方謙三氏は「小説としての切り口をきちんとみせて物語を展開し、読者を最後まで引っ張っていく。」「武田家の一時期をうまく切り取って描き出した。この作者は可能性を秘めている。」と評価し、故・夏樹静子氏は「文章の安定感は抜群によかった。」、また審査委員長の森村誠一氏は「武田信虎と信玄父子という有名な権力争いをテーマに、今川家を絡ませ、同盟、裏切り、同盟といった時代背景の中で物語が進んでいく。登場人物でよかったのは、信虎に仕える相木鹿之助の存在。」「私も『老虎の檻』は今回の中ではトップの作品だと思う。」と評されています。



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「九州さが大衆文学賞」の過去5年間の大賞・笹沢左保賞受賞作品を集めた作品集(5)に収載されています。県内主要書店の棚では、現在も見かける事があります。AMAZONでは中古が高騰している様です。佐賀新聞社による詳細は、こちらのURLをご参照下さい。http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/232802

歴史小説がお好きな方には是非ご一読をお勧めします。
読了後に余韻の残る、印象的な作品です。



さて、以前、白峰旬先生、水野伍貴先生、高橋陽介氏、各位から、鍋島直茂の一次史料にみる関ケ原時の動向についてご考察を寄稿頂いておりました。今もブログ内で読むことができます。
今回もその流れで、山口先生に「小説を書くとしたら」という切り口で、ご考察頂きました。



下記にご紹介します。広く読まれることを願います。


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『関ヶ原前後の鍋島家の動向(小説を書くとしたら)』  山口 昌志


私の小説の書き方は、一次史料を丹念に解釈して先行研究に勝負を挑む――、というよりは、一次史料を眺めつつ、先行研究のおいしいところをつまみ食いして、史料には見えない隙間隙間を空想で埋めながら人物像をつくって行く――、という感じで進めることが多いです。

関ヶ原前後の鍋島家の動向について、多くの史料と、皆様の丹念な研究を拝見し、私などに何か新しい解釈ができるとは到底思われませんが、小説を書く身として鍋島直茂の関ヶ原前後を描くとしたら――というところで、以下、考えてみました。

物語の発端として、まず、鍋島直茂は、徳川家康をどのくらい知っていたのだろうかと考えます。

(たぶん、あまり知らないな)

と、すぐ想像されます。
豊臣秀吉については、九州征伐や朝鮮出兵で自ら乗り込んできているので、その凄さ、実力は知っているはずですが、家康については、

(何か、東の方の強い大名)

くらいにしか思えなかったのではないでしょうか。
もちろん、鍋島家としても上方などに人を置いていたでしょうし、中西先生が指摘された、円光寺元佶(閑室元佶)という、たいへん興味深い人物などから情報を得て、鍋島家も、相当詳細に状況を把握していたはずですが、実感としては、他の多くの九州戦国人と同様、

(家康なんて知るか)

ではなかったか。

九州諸大名の関ヶ原合戦時の動向を見ると、大きなところでは黒田官兵衛と加藤清正だけが東軍ですが、この二人は東から来ていますので、家康をよく知っている。
 でもほかは、あまり家康のことは知らない。
 だから「西軍側」についた。

 ただ、私としては、九州諸大名について、単純に「西軍」「東軍」で分けるのはどうなのか、とも思います。
 というのも、鍋島家もそうでしょうが、彼らにしてみれば、徳川が勝とうが豊臣(石田三成)が勝とうが、

(別に、どっちでもいい……)

 というのが、本心だったはずだからです。
 自分の家が保てるならOK。
 勢力を拡大できるなら、なおOK。

 観応の擾乱とか、今川了俊の九州経営、それから応仁の乱などの記録を見ますと、
「おまえどっちの味方やねん」
 という動きをする諸大名は、九州だけでなく全国的に多いですが、それぞれの家や人が、それぞれ保身と勢力拡大を企んで動く、というのを丹念に見て行けば、

(意外と、不思議ではない……)

と思うのと同じ感じです。

 白峰先生が、関ヶ原合戦時期の如水と清正の動きを、直茂が疑心暗鬼の目で見ていた――と指摘されていますが、まさに、直茂だけじゃなく九州勢の大半にとって、

(何がどうなっているんだ? どうするのが正しいんだ?)

 と困っていたというのが、本心だったのではないでしょうか。

 いずれにしても、昔の距離感覚を思うと、上方や東海道の諸大名ほど、
「天下分け目の関ヶ原!」
 なんて意識は持てなかったように思われます。
 
 そんな中、興味深く思われたのは、『川角太閤記』の、「鍋島家は、実は家康に荷担していた、米を送っていた」といった記述です。

『川角太閤記』は、川角三郎右衛門という人が聞き知ったことを、元和年間に記したもの――ということで、割と信憑性の高い史料に位置付けられるようです。
高橋先生は、こちらは軍記ものなので使わない――とされていましたが、使わないのはもったいない。

 とはいえ白峰先生ほか皆様の解釈等を拝見すると、川角太閤記の記載は史実に反してしまう印象を持ちます。
 そこで私は、

(とはいえ、川角三郎右衛門が、鍋島の動向について耳にした、ということ自体は、信じられるのではないか?)

 と、割と単純に、思います。
 三郎右衛門は、正直に、

「世間にその節専ら申しあへると相聞え申候事」

 と、噂を聞いた旨書いていますので、噂があったことは、間違いないと言えましょう。
すなわち小説を書く身としては、ここで、

(噂は、関ヶ原の後、鍋島家中の人間が広めたものではないか?)

 と、想像を広げます。

 なりゆき上、西軍についてしまった鍋島家としては、赦免を勝ち取るため、あらゆる努力を払う必要があったはずです。
 九州の西軍大名でいえば、島津は、自分が負傷させた井伊直政に頼み込むという、井伊の面目を立てる作戦で赦免を勝ち取りましたし、立花宗茂のように、
「わしにやましいところは一点もない!」
 というような態度をとり続けて、ついに大名復帰に成功したところもありますが、知将鍋島直茂としては、

「実は、家康に味方していた……」

 という噂を流すことで、復帰を早めたのではないか。
 川角三郎右衛門は、筑後柳河城主田中吉政の臣だとありますから、佐賀の鍋島と近いといえば、近い。
それに田中吉政は、石田三成を捕縛するなど、関ヶ原で大きな手柄を立てて、意気揚々と九州にやって来る人ですから、噂を流す範囲としては、まず妥当な相手だといえましょう。
そうなると、三郎右衛門が、
「是は入らざる義にて御座候へども、あらまし書付け申し候」
 と、別に書かなくてもいいが書いておく、と断りを入れているのが、たいへん正直な感じがしてきます。

 もちろん、鍋島のことですから、ほかの工作もしていたでしょうし、おそらく一番は、
「赦免しないと損だぞ!」
と思わせる鍋島の実力、あと幕府の九州統治方針などから、赦免が決定されたかと思いますが、さまざまな工作の裏で、

「実はひそかにお味方をしていた……」

という噂をばらまくことも忘れなかったとすれば、やはり鍋島は相当な知者であったと思います。
(その噂が、現代のwikipediaにまで記載されるのですから、なおさら)


 ……といった想像を、改めて諸々の先行研究や一次史料に乗せてみたとき、

(大きな齟齬はないな)

と判断できますと、私の中で、小説構想が動き出します。
 
 まだまだ知識が不足しており、そもそも筆力も足りていないため、書き出せるのは当分先になりましょうが、そんな感じで、いつか鍋島(そして龍造寺)の歴史を小説にしてみたいものだと念じ続けています。


(2017.8.18)」

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山口先生、御多忙の所、有難うございました!
WEB上では「あやまり堂」さんとしても、Twitterやブログなどで対外的な活動をなさっておられますので、ご紹介しておきます。https://twitter.com/ayamarido
現在は長編小説に取り掛かられていらっしゃるとの事で、良い作品が生まれる事を楽しみにしております。


佐賀戦国研究会






posted by 主宰 at 12:32| 佐賀 ☁| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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