2016年09月18日

★慶長五年関ヶ原合戦時期における佐賀城外郭の防衛普請考 B



■2016.9月25付 追記と改編済

考察@:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441818339.html
A:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441881763.html
続きです。

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■蓮池城に関する先行研究への、いくつかの考察。


★『海路』5号(海鳥社 刊)平成19.11/1発行 『中世城郭の終焉』宮武 正登 氏著 P.96〜97より
『(慶長8年の)この段階は、佐嘉城自体を鍋島本城にする気構えではなく、その東方五キロに位置する蓮池城を拠点化する方針で整備に勤しんでいる。慶長8年までには「天守」も完成しており、佐賀にも近世城郭のアイテムが整いつつあったことを明示している。』

一、→宮武先生御指摘の鍋島氏による蓮池城の「拠点化」については、『坊所鍋島家文書』や直茂・勝茂公譜考補などの情報から読む限り、その可能性が高いと思われる。もう一つ根拠を加えると、『勝茂公御年譜一』最終の一文、慶長5年『今度の暮、御父子様の両御前様、大坂より御下国あり、蓮池の城へ御入、』とある。直茂と勝茂の妻は、帰国して蓮池城に入ったという。

しかし前掲Ahttp://sagasengoku.seesaa.net/article/441881763.htmlの、歴代蓮池城主一覧の通り、江上家種が死去した後、慶長5年関ヶ原決戦前の時期に鍋島生三が城番として入るまでの間、蓮池城の城主や管轄がどうなっていたのか管見の限りにおいて明確な史料がなく、勝茂公御年譜一では慶長17年に、江上家の家督や東肥前〜筑前・筑後内の領地、及び武具の類までを勝茂が相続したと記載されているが、蓮池城について言及はない。(先行研究である参考資料13上でも、この時期の城主詳細不明の旨記載あり)

御家全体の防衛の要である蓮池城を、慶長5年に於いて、はたして御家の直轄というより「鍋島氏が蓮池城を支配」していたのかどうか、明確に証明ができない。ひとまず慶長8年までにおいて蓮池城を、鍋島氏のものとして考え過ぎてはいけないと思う。

ひとつ考慮したいのは、江上家種が城主の時、神埼郡から城原や神埼の人民が蓮池城下に移住し、城下町を形成した事。その名残として蓮池城下に「城原」・「神埼」地区などの名が今でも残っている。確かに『坊所鍋島家文書』や直茂・勝茂公譜考補などの情報から、慶長四年頃以降の蓮池城は鍋島直茂の管轄下にあったと考察できるが、はたして城下に龍造寺隆信の実子であり重臣である江上家種が率いていた武士や民衆を置いたまま、鍋島氏は蓮池城を自家のものとして「拠点化」へ向けて普請できるものだろうか。

まず以て江上家種が、朝鮮の地で謎の変死を遂げた事も気になる。また、城原衆には家種が江上家へ養子に入る時に付き従ったとされる、鍋島一門の鍋島新左衛門種巻(たねかず)が居り、関ヶ原合戦時には上方の軍勢に含まれる。彼は精鋭部隊で知られた江上「城原衆」のち「蓮池衆」の一員で『勝茂公御年譜一』上、勝茂の江上家家督を相続するのを支持して運動したとされる。しかし江上家中総意として、そう易々と直茂・勝茂にまつろうのだろうか。元来江上家は大蔵党、かつ少弐家恩顧の由緒ある名門で、鍋島家よりも格上と考えられる。結果的に行われた江上家から鍋島家への権利譲渡は、勝茂公御年譜一の記述内容を読んでも、非常に複雑な経緯や、葛藤があるように見える。

これらの事も関係して『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)19号文書中、『蓮池城とその周辺の普請は、目立たないように、少しづつ行ってくれ。他方の批判を受けては云々』と、直茂が龍造寺家中に対し気遣う状況であるのだろう。

つまりは、蓮池城周辺の普請は、鍋島氏が蓮池を私物化するのではないかという「疑惑の目」を向けられながらの、龍造寺家・御家のための『防衛拠点化』であると考察する。特に騒乱に備えては、蓮池周辺の普請が必須である事は当ブログ上で前述した。直茂は非常に複雑な心境にあったのではないか。


二、→『慶長8年までには「天守」も完成しており、佐賀にも近世城郭のアイテムが整いつつあったことを明示している。』のくだりに対しては、『海路』11号(海鳥社 刊)H25.4/20P発行 『九州にとって「織豊」とは』木島孝之 氏著 P.22〜23で、木島先生は『いずれにせよ、名護屋城天守の築造以前、すなわち天正年中すでに蓮池城の天守自体が存在していた事実は、先の史料Aによって揺るがぬところである』と指摘。この点、宮島先生の論調と齟齬がある。

(史料A=『佐賀県史料集成 古文書編 第21巻』 鍋島主水宛加藤清正書状。清正は、名護屋城普請において佐賀から急いで、天守を献上するのが良いと言っている。かつ本文の前書きとして、蓮池城の天守を名護屋城本丸の天守として献上した事を記載。※後述で木島先生は、天守が本当に名護屋城へ移されたのかどうかは議論の余地がある旨示唆。)

木島先生の言う、天正年間に存在した蓮池城天守を「近世城郭」のアイコンと捉えた場合、佐賀では慶長6年以降ではなく、すでに天正の頃から、近世城郭のアイテムが整いつつあったことになる。


三、『海路』5号(海鳥社 刊)平成19.11/1発行 『中世城郭の終焉』宮武 正登 氏著 P.101より
『朝鮮出兵後、蓮池城を新時代の居城とするべく整備に余念のなかった鍋島勝茂は、重臣鍋島生三に対して「天守雨もり」がひどかったので「かわらにしゅっくい(=漆喰)念を入れ」るようにと、江戸参府途中で機になったのか伊豆三島から指令を出した。』と宮武先生は書かれているが、勝茂が朝鮮から日本に帰国した慶長3年12月から、引用された書状の年次慶長6年までの中央の政情が激動する3年間が考慮から外されている事に留意したい。かつ『坊所鍋島家文書』上、慶長5年あたりまでは、勝茂ではなく、鍋島直茂が主導で蓮池城の普請指図をしている様にも読める。そのため、『朝鮮出兵後、蓮池城を新時代の居城とするべく整備に余念のなかった鍋島勝茂』という表現については、疑義を呈せざるを得ない。



★参考:
『佐賀県近世史料 第一編 第二巻』P.4〜6『勝茂公御年譜一』より簡潔訳:

「天正17年、勝茂公十歳の時、慶ァ尼が仰せられた事には、鍋島飛騨守(直茂)はすでに政家の名代として、国政を承り公儀の勤めを行っている。しからば飛騨守の子、伊勢松(勝茂)は、江上家種の養子に入れるのが良いだろう、と。江上家種公も同意されて懇望の上、直茂公へ相談したが、「伊勢松は、鍋島の子孫です。これを他家へ養子に出すのはご勘弁頂きたい」と直茂公は辞退。慶ァ尼がこれを聞き「もっともな事だ。左様であれば、やはり鍋島の名字のままで、家種の姫と婚姻させ、江上家の家督を譲るようにしよう」と仰せになり、直茂公によく相談されて、こうなると直茂公も辞退に及ばず、承知された。そして伊勢松公(勝茂公)は神埼の城原、家種公のもとへ移住した。」

「しかし江上家中の一部は、家種に実子がいるにも関わらず、家督が伊勢松公に譲られる事に納得せず抗議の申し立てをしたため、騒動でやむなく伊勢松公は佐賀に帰った。しかし養子容認派が運動し、結果的に伊勢松公は江上家の家督相続者となって、東肥前における江上領と筑後・筑前の内2,500町を相続。江上家の親類、家中、武具、馬具など全てを伊勢松公が相続した。」

「天正17年に江上権兵衛尉家種公は、勝茂公を養子に迎えた後、奉公なり難しとして、隠居分僅かを引き分けて知行されたため、今回の朝鮮の役へは少人数の手勢で参加されたとの事だ。隠居領を分けた先は、実子である佐野右京(初めは孫太郎)と勝山大蔵(初めは左近)である。」




(つづく)






posted by 主宰 at 00:31| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■佐賀の戦国史 講演会について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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