2016年09月10日

【2016.9/9付】白峰旬先生による九州地方の関ヶ原合戦についての考察 【1−2】




考察@:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441788590.html の続きです。


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★【2016.9/9付】白峰旬先生による、九州地方の関ヶ原合戦についての考察。A




【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)19号文書】

▼佐賀と蓮池の間の普請(道普請、堀普請、土塁普請などの可能性)について記す。「瀧岸之新城」について述べているので、元和一国一城令 (元和元年)より前であることは確実。鍋島直茂は普請を目立たないようにするよう指示しているが、その理由として「他方より批判」を危惧している。この場合、「他方」が主筋の龍造寺家なのか、他の大名なのか不明。「批判」には現代語の非難という意味のほかに「民衆の間に流れる噂」(『邦訳日葡辞書』) という意味があるので、その意味であれば「他方」=他の大名という意味になるか?


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)23号文書】

▼文中に、(佐賀城の)「三之丸屋造」について書かれており、直茂が内装の細かい指示をしているので、慶長5年ではないだろう。佐賀城の作事が進行した、もっと後の時代と思われる。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)24号文書】

▼直茂が鍋島生三に対して、「日田」(森兵庫)へ飛脚を申し付けて、「豊州表」のことを聞くように指示している。つまり、直茂は「日田」(森兵庫)を通して、豊後(黒田如水の動向?) の情報を取得しようとした。尚々書では、「塩硝」(=火薬) の調達を直茂が指示している。これは合戦の準備のためか? この書状は「廿四日」付であるが、状況から8月か? 8月とすれば、8月24日の時点でも直茂は家康方ではなかったことになる(この書状では家康については全く言及していない)。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)25号文書】

▼「日田」へ遣わした返事が来た、としている。これは24号文書で直茂が鍋島生三に指示して出した書状の返事という意味であろう。とすれば、この書状は「十七日」付であるが、状況から9月か?

▼文中では、黒田如水が軍事行動をおこして勝利した、と報じているので、この情報は「日田」(森兵庫) から取得した情報なのであろう。つまり、鍋島家の情報網では、豊後での黒田如水の動向は把握できなかったことを示している。

▼黒田如水の勝利をめでたいなどとは記していないので(つまり、直茂は喜んでいないので)・直茂は如水とは、この時点 (9月17日)で同じ立ち位置ではなかったことは確実。

▼文中で 「如水」と呼び捨てにしている点に注意すること。

▼この「日田」からの返書はまだ鍋島生三には、直茂から渡されていない、と書かれているので、鍋島生三はこの時は蓮池城にいたか? とすれば「其元普請」とは蓮池城普請のことになる。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)26号文書】

▼文中の「連々可申入候へ共、貴辺之儀者、内府一篇之御覚悟に侯間、無心疎、かさねて申入間敷候」というのは、かなりきつい言い方で、最後通牒のような感じで、家康に肩入れしている貴殿 (貴辺は貴殿と同じ意味)=如水へは今後、直茂からは書状を出しません、と述べている。「無心疎」は一字ずつ意味をとると、心を疎んじることなく、という意味になる。「間敷」は「まじく」で、打消しの推量(きっと〜ないだろう」、または、不可能の推量 (〜できそうにない)、または打消しの意志 (決して〜ないつもりである)。この場合は、打消しの意志(決して〜ないつもりである)であろう。文中の「可口口其御心得候」の「口口」には「被成」が入ると思われるので、そうなると、「そのように心得てくれ」と述べていることになり、これもかなりきつい言い方になる。つまり、9月10日の時点で、直茂は家康方の如水と決別した、と読み取れる。尚々書で「申度事候へ共、紙面ニ不克述候」というのは、述べたいことがあるが紙面には書けない、としている。「不克」は否定形なので「〜あたはず」と読み(『全訳漢辞海』、三省堂)、「〜できない」という意味になる。

▼この書状は、直茂が相当悩んで書いたようにも受け取れるほか、如水に対しての怒りを抑えているようにも受け取れる。文面が非常に短いのはそのあらわれか?この一連の争乱における直茂の関係書状では、はじめて「内府」=家康に言及した書状であるが、家康を味方と考えていないことはこの書面でも明らか。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)27号文書】

▼9月26日の書状なので、この時点での直茂の考えが明確にわかる。9月10日付の如水宛の26号文書の文面が短いのとは対照的に、27号文書は非常に長文である。

▼日田の森兵庫からの書状に対する返信であることがわかる。

▼一条目では、石垣原の戦いで大友義統が敗北したことに触れている。ここでは「義統」、「如水」というように呼び捨てにしている。

▼二条目では、黒田如水・加藤清正を「敵口」、「敵」と書いている点が注目される。つまり、9月26日の時点で、直茂は黒田如水・加藤清正を敵と認識していたことが明らかになる。

▼三条目では、肥後での加藤清正による宇土城攻めを報じている。この情報は「筑後表」から到来した、としているので、「筑後表」が立花家を指すとすれば、鍋島家と立花家はこの時点(9月26日)では同盟関係にあることになる。文末の「尚互可申承候」は今後も直茂と日田の森兵庫が相互に情報交換することを、直茂が希望していることになり、今後も直茂は立場 (如水・清正と敵対する立場)を代えるつもりがないことがわかる。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)28号文書】

▼文中の「兵粮之儀、上衆、薩摩くたりにて候者」というのは、関ヶ原の戦い後の島津討伐予定のことを指すか? そのための兵粮調達の指示か? とすれば慶長5年の11月か?

▼「東目之様子」とは関東の状況という意味か?


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★上記について、同H28.9/9付・白峰旬先生よりの追而コメントです。


・石垣原の勝利について、直茂は如水から報告を受けていないと読める事から、少なくとも、鍋島直茂と黒田如水はこの時点で同盟関係になかったことになります。

・『吉川家文書之一』(大日本古文書)153号文書は、一見するとすごいことが書かれているように錯覚しますが、よく読むと大したことは書いてありません。

一条目は天下の成り行きの現状を大して驚いていないこと、
二条目は黒田長政に気遣いしてもらったことへの礼を述べたこと、
三条目と五条目は九州での挙兵予定のこと、
四条目は京からの使者が持ってきた書状を広家のところへ遣わすこと、
六条目は(使者の)口上にて述べるので詳しくは書かないこと、
七条目は如水が広家と今後も仲良くしようと述べていること、です。

特に七条目は文章表現こそ芝居がかって大げさですが、今後も仲良くしよう、と述べているにすぎません(こうした大げさな表現はかえってしらじらしく聞こえます)。
そして、六条目にあるように、詳しくは口上で、と述べているので、如水の本心や核心的部分は使者の口上で述べることになり、この書状だけを見ても、どのようにでもあとで言い逃れができる巧妙な書き方です。このあたりに如水の抜け目ない狡猾さが感じられます。

・慶長5年のこの時点で、九州にいる大物大名は島津を除くと、黒田如水、加藤清正、鍋島直茂だけなので、如水と清正が気脈を通じて軍事行動をする以上、それを疑心暗鬼の目で直茂が見ていたのは当然と言えるのではないでしょうか。 』


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【2016.9/9付】白峰旬先生による、九州地方の関ヶ原合戦についての考察については、以上です。御多忙の中、大変貴重な御考察を有難うございました。今後先生の論文上に、佐賀の鍋島直茂が登場する事を期待しております!おそらく佐賀県史上においての「鍋島直茂の研究」という枠で見ても、白峰先生のこの考察文が最新だと思われます。


レポートは続きます。



posted by 主宰 at 03:26| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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