2016年08月29日

「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」に関する仮説【高橋陽介氏】




★白峰旬先生(http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html)と同時に、高橋陽介さんにも深い考察を頂きました。許可を得て全体共有致します。

先ずは書状の原文を掲載します。

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【八月十日付 黒田如水宛鍋島直茂書状 原文】

★『佐賀県史料集成古文書編 第21巻(佐賀県立図書館・昭和55年10/1発行)』P.195
(頭注に『伏見落城ノ報』 『直茂上東延期』とあり。)

『川崎氏所蔵文書』一号

八月十日付 黒田如水宛 鍋島直茂書状


従上方到来候、ふしミ城去朔日、火矢にて被焼付、手々に取くつし、城中之衆皆々被相果候由申来候、貴邊へも其聞へ可有御座候へ共申入候、此方手前之仕寄無心元存、又ハ増右・長大・安国寺よりいそき可罷上通、連々預御状候へ共、于今延引、不審之様二承候間、罷上候ハて不叶儀と存、今日こゝもと罷たち候處二、我等もの右之落去見申候て罷下、夜中二参着申候二付て、罷上儀先以さしのへ申候、相易儀共候者、御入魂可忝候、恐惶謹言、
      鍋加守
 八月十日  直茂 (花押)
 如水様
   人々御中  』

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「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」に関する仮説 【高橋陽介氏】2016年8月26日付


@ (先行研究)
野口朋隆氏、中西豪氏が「直茂が早々に徳川方加担を鮮明にしていた」「徳川方(東軍)として旗幟鮮明、また確固たる意志があった」の根拠とされている史料。
深川直也氏はこれに対し、「直茂は、如水と相談しあってるだけで、徳川方・奉行方という大枠の話ではない」とし、「直茂は東軍であった、は「言いよう・考えよう」のお話」と結論。(2016.08.22)
さらに白峰旬氏が「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」に対する見解を示されたとのこと。(2016.08.26)
そこで白峰氏の見解を読むまえに、自分の見解を述べる。まだ、憶測の部分が多い。


A (家譜、軍記の類を使わない)
『川角太閤記』、直茂が家康のために東海道の米を買い占めた話 → 使わない
『直茂公譜』『勝茂公譜』、勝茂が西軍についたと聞いて直茂が怒る話 → 使わない
その他、親子で東西に分かれて家名を存続しようとしたなどの俗説 → 使わない


B (黒田如水の立ち位置)
如水は最初から東軍。吉川広家宛書状にははっきりと書いていないが、それは上方にいる広家の立場を配慮してのことであり、九州にいる鍋島直茂、加藤清正らにははっきりと「内府一遍の覚悟である」と言っている。
前もって準備もしている。(根拠史料、七月二十一日付長岡忠興書状(松井3−431号))

つまり鍋島直茂は如水が東軍であることを知っていて、この書状を書いている。


C (鍋島直茂の立ち位置)
「八月一日付吉川広家宛黒田如水書状」で、如水は九州の諸大名の人質の安否について配慮する際、鍋島直茂の名を筆頭に挙げている。
「八月四日付吉川広家宛黒田如水書状」で、如水は加藤清正と軍事行動を起こすと言っているが、このとき直茂の名前は無い。
つまり如水は鍋島直茂が動けないという事情を分かっている。直茂は動かないのではなく、動けない。
なぜ動けないか? → 鍋島勝茂が西軍にいるから。(如水の場合は黒田長政が東軍にいるので動ける)


D (では、直茂はどうしたか?)
「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」、直茂は東軍につくとも西軍につくとも言っていない。言えない。
直茂は東軍につこうとしたか、西軍につこうとしたか、という二元論で考えてはいけない。直茂は「関わり合いになりたくなかった」のだ。
そもそも直茂は佐賀にいて、動く気はまったくない。奉行衆の催促に応じて上洛する気もない。
伏見が落城したことを理由に上洛をやめたと言っているのは、言い訳に過ぎない。伏見が落城したからもう自分が上洛する必要がないという釈明をおそらく奉行衆にもしているだろう。(→おそらく如水は直茂の真意を理解して行動した。)
森兵庫から援軍要請があったときには、「自分は行きたいのだが、主君・竜造寺政家の許可がおりないので行けない」。


E (九州において同様の事例はあるか?)
中川秀成は奉行衆からの催促により、人数を田辺攻めに参加させるも、本人は岡(豊後竹田)に留まる。
島津忠恒は島津義弘からの催促により、家康から拝領した太刀を差し出し、石田三成以外の奉行二人(増田長盛と長束正家か?)へ誓紙を差し出すも、人数は出さず、本人は鹿児島に留まる。


F (その他、この書状から分かること)
鍋島直茂は黒田如水と懇意にし、なにくわぬ顔で伏見城落城の情報を送った。
奉行衆は九州に人数を留めることを考えていない、とにかく九州の諸大名を上洛させようとしている。そこで如水は留守になった九州の諸大名の城を接収しようとした。
鍋島直茂が森兵庫へ送った書状をもって「直茂は西軍である」とはできないし、鍋島直茂が黒田如水へ送った書状をもって「直茂は東軍である」ともできない。鍋島直茂は基本、二枚舌外交。


G (結論)
一次史料のみで判断するかぎり、鍋島直茂は、東西両陣営に積極的に関わり合いになろうとはしていない。動く気はまったく無い。
最初から東軍で・・・というのは後世の作り話である可能性が高い。  』


※杵築→岡(豊後竹田)の件は、8/31修正。
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高橋氏談:
『@伏見落城により上洛する必要がなくなったとしている Aこの書状によってすぐに「直茂が東軍である」とはできない、の2点では白峰先生と一致しました。』



★【比較ご参照】(一次史料を中心に)

★白峰旬先生による、関ヶ原合戦当時の鍋島直茂と情勢考:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html

★深川による「時系列に見る、関ヶ原合戦前後の鍋島直茂」:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441449722.html

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レポートは続きます。




posted by 主宰 at 22:02| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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