2016年08月29日

★白峰旬先生による、関ヶ原合戦当時の鍋島直茂と情勢考。



★光栄にも白峰先生に、深い考察を頂きました。レポートとしてUPします。
白峰先生に「関ヶ原当時の鍋島直茂」について考えて頂ける事は、戦国史ファンや龍造寺鍋島クラスタには非常に貴重な機会だと思います。戦国史ファンの皆様、是非ご参照ください。

まずは2通の書状、原文を御紹介します。

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★『佐賀県史料集成古文書編 第11巻(佐賀県立図書館・昭和45年3/31発行)P.104

『坊所鍋島家文書』155号

七月十六日付 鍋島生三宛 鍋島勝茂書状


  追而、國本着候ハヽ、人数之儀二千ほと早々可差上せ候、ゆたんあるましく候、以上、
用所之儀候て市右衛門尉遣候、能々談合候て可然候、仍其方事早々國本罷下、蓮池番仕候て可然候、我等存候よく合点候て加州へ可申候、七郎左殿事、加州返事次第二下可申候、於様子ハ市右衛門尉可申達候、加州上國之事、増右へ申分遣候、無御登候共くるしかるましきと存事候、かしく、
 七月十六日  信 (花押)
  生三まいる  』

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★『佐賀県史料集成古文書編 第21巻(佐賀県立図書館・昭和55年10/1発行)』P.195 (頭注に『伏見落城ノ報』 『直茂上東延期』とあり。)

『川崎氏所蔵文書』一号

八月十日付 黒田如水宛 鍋島直茂書状


従上方到来候、ふしミ城去朔日、火矢にて被焼付、手々に取くつし、城中之衆皆々被相果候由申来候、貴邊へも其聞へ可有御座候へ共申入候、此方手前之仕寄無心元存、又ハ増右・長大・安国寺よりいそき可罷上通、連々預御状候へ共、于今延引、不審之様二承候間、罷上候ハて不叶儀と存、今日こゝもと罷たち候處二、我等もの右之落去見申候て罷下、夜中二参着申候二付て、罷上儀先以さしのへ申候、相易儀共候者、御入魂可忝候、恐惶謹言、
      鍋加守
 八月十日  直茂 (花押)
 如水様
   人々御中  』

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■8月10日付如水宛直茂書状について、白峰旬先生に御解釈を頂きました。
■2016年8/26付での、白峰先生の御解釈です。許可を得て全体共有致します。



@:文中では、家康(内府)については、一言も触れていないので、如水と気脈を通じていた、というようには読めない。直茂が家康寄りのスタンスであったなら、如水に家康への取りなしを書くはず。家康(内府)について一言も触れていないのが、すべてを物語っている(この時点の直茂の立ち位置は石田・毛利方のスタンス)。つまり、豊臣公儀の敵になった家康(内府)のことは直茂の眼中にない。家康のことをすでに見限っているか。


A:全体の印象としては、如水を石田・毛利方と認識して、上坂していない理由(弁明)を書いているように思える。8月上旬から中旬の石田・毛利方有利の状況(家康方不利の状況)を如実に反映している。


B:伏見城が落城したので、上坂を延期した、というのは兵力的に石田・毛利方への加勢が一旦必要なくなった、と考えたからだろう。上坂を延期したわけだから、家康方とさらに決戦が近付けば、兵力を連れて上坂する、という意図が見えるのではないか。上坂するということは単に挨拶する、のではなく、兵力を連れて軍事行動をすることを意味する。


C:伏見城を火矢を使用して攻めた、という記載は城攻めの方法として興味深い。


D:文中の「仕寄」(しより、しよせ)の意味は通常の意味(城攻めの際の遮蔽物)では意味が通らない。この場合、兵力くらいの意味か。


E:増田・長束・安国寺から上坂を命じる書状が複数来ている、と書かれているが、この書状は佐賀藩には伝存しているのか。本来なら、安国寺のかわりに前田玄以が入るべきだが、前田玄以は当時病気だったので、そのため連署から外れているのか。このことからも豊臣公儀(石田・毛利連合政権)における安国寺の立ち位置(三奉行の代理ができる立場)の重要性がよくわかる。


F:文中の「不審」の意味は、単に上坂しないと二大老・四奉行から疑われる、程度の意味で深い意味はないのではないか。


G:7月16日付鍋島勝茂書状に、2000の人数の上坂を勝茂が要請しているのは、本来、鍋島直茂が引き連れて上坂する予定の兵力数だったか。そのため、7月16日付鍋島勝茂書状では、増田に「申分」を遣わすので、直茂は上坂しなくても支障はない(兵力2000さえ上坂させればよい)と書いたのか。


H:195頁の頭注に「直茂上東延期」とあるのは「上東」ではなく、「上坂」の間違いだろう。


I:7月16日付の鍋島勝茂書状は、内府ちかひの条々が出された7月17日の前日にあたるので、内府ちかひの条々を出す前日の時点ですでに、石田・毛利方(豊臣公儀)が諸大名に兵力動員をかけていた証拠となり、その意味でも貴重な文書といえる。


J(8/27付):8月10日付鍋島直茂書状には、家康のことは一言も触れていない一方で、豊臣公儀の政権幹部である増田・長束・安国寺のことは明記されていて、そこからの指示を受けたことを記している。つまり、増田・長束・安国寺らのメンバーによる政権を正当な政権(豊臣公儀)として認めていることがわかる。
政権として認めていないならば、増田・長束などを非難する文言を書くはずだが、そういったことは一切書かれていない。ということは、この文書の宛所の黒田如水も同じ立ち位置と考えてよいのではないか。


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★ここから、2016年8/27付、白峰先生から頂いた、補考のまとめです。
 
『7月16日付鍋島勝茂書状といい、8月10日付鍋島直茂書状といい、絶妙な時期に絶妙な内容で、興味深い。7月16日付鍋島勝茂書状には鍋島生三が当時上方にいたようで、早々に国許に帰って蓮池城の在番をして、鍋島直茂には勝茂の考えを生三から説明するように指示されている。ここから勝茂が生三に何か言い含めて、直茂へのメッセージを託したようにも思える。

現代昨今のトルコの軍事クーデターのように、政情が不安定な国では一晩で政権がひっくり返ることがある。当時の秀吉死後の政権のパワーゲームは、現在の我々では想像もつかないような状態だったと思う。現在の我々はその後の結果を知っているので、家康中心で当時の歴史像を組み立てるが、中々すさまじい状況であったことは『十六・七世紀イエズス会日本報告集』を読むとよく分かる。家康に対して、日本史上まれにみる政治謀略が仕組まれたという意味のことが書かれている。つまり、その時点では、家康の前途は明るいものではなかった、という事である。

関ヶ原では政権軍(豊臣公儀=石田・毛利連合軍)が破れるが、政府軍が負けることは壬申の乱の例の如く、あり得る事。壬申の乱のあと、勝利した天武天皇がなにをやったのか、という点は、その後、徳川サイドが何をやったのか、という点とよく似ていると思う。政府軍が負けたからといって、政府軍と言うかこの場合、石田・毛利連合軍の意義を、過小評価してはならないと考える。』

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白峰先生、お忙しい中有難う御座いました! 実際、鍋島直茂研究史上、画期的な論考であると思います。
また私共も引き続き地元の史料を追い、何かあれば御一報させて頂きます!


レポ―トは続きます。次回、参考用に、佐賀戦国研究会の勉強会レジュメ概容をUPします。
(レポ―ト@、A―1、A―2は当ブログにUP済ですので、頁を捲って頂き併せて通読頂ければ幸いです。)




posted by 主宰 at 02:48| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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