2014年11月18日

★龍造寺隊 〜豊前豊後偵察レポート〜@

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豊前豊後内を行脚し、無事佐嘉に戻りました。

豊州の様子と大友家の動き、報告いたします。
でも得た情報量が余りに多すぎて、小分けにします。御寛恕下さい(笑


■臼杵市野津町下藤のキリシタン墓地と大友義統■



http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=269786

これも大友氏遺跡体験学習館で聴いた話。ネットにはまだ見られない近年の研究結果のようです。

キリシタンに改宗した大友義統が奈多夫人に府内を追われて居住したこの下藤一帯。
寒村だったこの土地、義統がやってきたことで、短期間で立派な町が出来てしまいました。
大友家改易の原因でもあり、何かと評価の低い義統、これを地元の郷土史家は、「義統は内政の手腕はあったのだ、街づくりは巧みだったのだ」と評するそうですが、実状はちょっと軸が違う。

つまり義統は、下藤一帯に西洋人の宣教師やキリシタンを招いて協力を仰ぎ、彼らの力でもって一気に町を作ったとの事なのです。これを義統の手腕と見るか、キリシタンの力と見るか。

義統が作ったこの町は、キリスト教の布教活動の拠点になる訳ですが、奏功して江戸時代を通じ、隠れキリシタンが多数居たそうです。長崎方面は有名ですが、まさか臼杵の山に、根強く隠れキリシタンが存在したなんて、知りませんでした。今でもこの地区は、発掘するほどキリシタン墓が出土して、その数は尋常ではないとのお話でした。

今大分県内でも注目を集めている所で、散策や発掘調査現地説明会に、歴史ファンが集まるそうです。

さて書物に『不明惰弱』と酷評された大友義統、今後の評価に繋がるか?




■参照:http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=269786
■参照:http://jinashi.exblog.jp/19721476/


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posted by 主宰 at 23:01| 佐賀 ☁| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。失礼ですが、お詳しいのではないかと思い、お聞きします。

龍造寺隆信は五州二島の太守と呼ばれ、肥前・筑後はもとより筑前・肥後にも軍勢を進出させ、一定の範囲は支配したと言えると考えています。

ところがその他、豊前と壱岐、対馬については、どの程度の関わりがあったのでしょうか。

例えば豊前は、確か隆信の弟の信周が派遣されたといろいろなところで見かけますが、これは同時代資料などでも読み取れることなのでしょうか。

また、壱岐や対馬が従ったというのは、例えば龍造寺が将兵を送って支配したということはないと思いますが、壱岐や対馬の将兵が隆信のもとに参陣したのでしょうか。それとも外交上の関係だけでしょうか。

大変恐縮ですが、上記についてご存知の事実があれば、ご教示ください。「信憑性」についても言及していただけるとありがたいです。
Posted by yamada_richard at 2018年01月16日 09:09
こんにちは。「信憑性」との事で、できるだけ先行研究からご紹介します。

<一>
「龍造寺隆信の軍事的構成は『かり武者』の姿にあるといわれる。その権力体制は『起請文関係を多用し、国人衆と盟友関係を設定し、信義的倫理観をもとに一括的に軍事力化する方式であった。しかも、起請した国人に彼と盟友関係にある国人に相互に起請させ、横の連合体を構成させ、彼らを「国方衆」・「方向衆」として把握し、その軍事力をもとに農民夫役を徴収した』(森山恒雄氏『龍造寺隆信』(別冊歴史読本一九七七年夏三号)という。」

『北部九州の戦国大名領下の村落とその支配 −大内・龍造寺氏の権力構造論序説−』太田順三 氏 『研究紀要』佐賀大学教養部編 Vol.15 (1983年3月)より。


上記を踏まえまして、

<二>

「一、対龍造寺隆信・同政家、為長野式部太輔統重、当末不可存別儀之事、
 一、就国家、統重存分共候者、聊無隔心可致密通之事、
 一、従隆信・政家、如何体之密々之儀被仰聞候、口外他言有間敷之事、
    右、條々於相違者、(中略)別而、当国鎮守宇佐八幡大菩薩、殊、当庄大分八幡大菩薩、(中略)
   長野式部太輔 統重 判  
 天正九年十二月十三日
 龍造寺殿」

『永野御書キ物抜書』堀本一繁氏翻刻 148号文書『戦国の九州と武雄 −後藤貴明・家信の時代−』 武雄市図書館・歴史資料館 編集発行 (平成22年2月)より。

→ 豊前の国衆・長野氏から龍造寺氏宛の起請文です。
敬称の程度から「完全な被官化ではなく」協力的従属の意を伝えたものと見えます。西肥前、筑後、肥後の国衆の起請文にこういった類例が多数あり、<一>の解説のように、東肥前から遠い筑前、豊前の国衆とは起請文で従属関係を約すのみで、直接的な実効支配はできていなかったと考えております。その為、仰る所の「一定の範囲は支配した」その内実は、起請文の「交わし」による協力的従属関係があったに過ぎず、非常に脆い結びつきであったと思います。
「かり武者」といっても、管見の限り、遠隔地から軍勢を動員した具体的なケースを資料で余り見かけません。対馬の宗氏についても少弐政資の時代までは少弐氏の督促で筑前や肥前に出兵していますが、龍造寺氏が軍事や貿易関係で直接動かしたような記述を見たことはありませんし、壱岐も、どちらかというと松浦平戸氏、松浦鎮信の支配下だったように見えます。

龍造寺信周についてですが、後世の編纂資料『直茂公譜三』中、天正九年、

「隆信公、豊前国為御征討五万騎を被卒、舎弟安房守信周を監軍にて先博多迄御出陣有、(中略)豊前へは信周に軍兵を副て被指向、(中略、高橋元種が参陣し、)当国の大名城井常陸助鎮房・長野三郎左衛門鎮展・時枝平太輔を初とし、規矩・田川・中津辺の輩敢て一戦にも不及竜造寺に相従う、信周不戦して豊前国を治め、少時在国あり、政務を司り偖帰陣しけり」

とあり、<二>の一次史料である起請文と、年次は一致します。
遠征に際し信周は戦っておらず、ドミノ倒しのように豊前の国衆が続々龍造寺氏に帰参したようです。そして政務とは、上記に踏まえたようにまさに豊前の諸氏と縦・横に起請文を交わす・交わさせる作業と考えられます。信周は少しの間豊前にいて、帰陣(おそらく隆信が本陣を置いていた博多へか)とあります。少しの間いた程度ですので、とても実効支配ができていたとは思えません。

さらに同時代資料としては、天正十二年三月二十六日、沖田畷合戦直後の時期の、龍造寺信周の書状写が前掲の『永野御書キ物抜書』91号文書としてあり、文中、
「此表之儀、御気仕有間敷候」→ 信周は本国肥前や・鍋島氏が管轄している筑後には居ない事が見えます。
「返々、御左右可承ために人を進候、先にも一人申付候、未帰着候、余無心元候」→実はこの2日前、沖田畷合戦で隆信は戦死済です。速報であるはずのその知らせが、2日経ってもまだ届かない距離に、信周は居たことが分かります。

これらの事から当時信周は、隆信の代官として、肥前筑後から遠い「此表」→筑前のどこかに駐屯していたのではないかと考えます。


以上にて、ご容赦下さい。

Posted by 主宰 at 2018年01月20日 02:28
主宰様、ご多忙のなか、非常に詳細で充実した回答、ありがとうございました。

他の文献等で「弱い」と記述されてきた龍造寺隆信の周辺支配について、これまで持っていた漠然としたイメージが具体的になりました。

また長野氏が提出した起請文をお示しいただき、豊前国のなかでも少なくとも仲津郡が龍造寺家と交渉していたとわかりました。

重ねてお礼を申し上げます。
Posted by yamada_richard at 2018年01月23日 19:38
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