2014年01月17日

【勝茂公譜】 伏見城攻め〜伊勢へ (関ヶ原序章)D





■佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.214〜217)一部中略
 敬称略御免。

―――――――――



『一昨年以来、内府(徳川家康)背き、太閤(豊臣秀吉)様が定めた法令の上巻に違反され、ほしいままに行動したため、法令を順守するために一戦を交える。まず伏見城の事。留守役を追い出し、関東の凡下(愚人・身分の低い武士)野人のものども、御座所を踏み荒らした事は是非も無い次第のため、今度伏見城を攻め即座に乗り崩し、鳥居元忠をはじめ800名余を討ち果たした事、比類の無い功績である。ことに貴所、御手前粉骨の至り、秀頼様、御感斜めならず。よって金子20枚併せて知行3000石を加増する。なお以て忠功に励まれるよう。仰出の状、件の如し。  

   慶長5年 8月5日 芸中 輝元(判) 備中 秀家(判) 鍋島信濃守殿 毛利豊前守殿 』




 徳川家康は上杉退治のため、去る6月15日大坂を出立、関東に向かった所に、上杉景勝反逆は最初から計略上の事にて無事に鎮まったので、早々に京へ戻る所、石田三成が張本人にて大老衆、奉行衆が結託し、豊臣秀頼の威を借り、四国・中国・九州の諸将を呼び集め、8月朔日、伏見城は早、焼き払い、8月20日、都合30万騎、美濃の関ヶ原へ出向かい、軍旗空を掠め、兵馬地を動かし、家康を待ち構え討ち果たそうとした。


 しかるに伊勢の安濃津城には、家康に味方する富田信濃守信高、分部左京亮政寿が籠っていた。奉行中の指図にて、西国衆へ攻略が命じられ、8月中旬、吉川蔵人広家、長曽我部宮内少輔盛親、中江式部少輔直澄、山崎右京允定勝、松浦安大夫宗清、蒔田権之助などが馳せ向かう。



 鍋島勝茂もこの中にあり、毛利吉政と共に安濃津城へ向かい、津の城浜の南、遠瀬川のあたり、山輪という所に布陣した。


(続)



三重県の安濃津城(津城)址はコチラ↓↓




posted by 主宰 at 09:58| 佐賀 ☀| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。