2013年10月21日

【勝茂公譜】大阪騒乱(関ヶ原序章)A



佐賀県近世史料第一編第二巻 勝茂公譜考補二より。つづき。簡潔訳です。(P.209〜)
 敬称略御免。

―――――――――

慶長5年、7月初旬。

 
 鍋島勝茂、毛利豊前守吉政と合流し、龍造寺藤八郎(高房・15歳)も同様、龍造寺家久、龍造寺信昭らを召し連れて大阪を出陣。近江の愛智川まで進んだが、進軍を少し引延ばしたため、早その間に石田正澄(石田三成の兄)10,000の軍を以て愛智川に関を据え、関東へ向かう軍勢を1人も通さなかった。

 
 当家の軍勢も力及ばず、足取りが定まらない(蹌)所に、石田三成方から安国寺恵瓊の使者が来て、関東行きを無理に差し止めた。その上、菊首座と申す出家を遣わし、徳川家康の非道を一々書き立て西国大名・小名を残らず招き、演説したものであるから、大半の者は石田方の下知に加担した。勝茂は、父・直茂が命じた(徳川方への参加)事が有り、もとよりその覚悟であったが、ここに至って関東へ向かうことはできなくなった。是非も無く無念であったが、力及ばず行き掛りにて愛智川より軍勢を引き返し、まず大坂へは帰らず、美濃の八日市の近辺へ滞在した。鷹狩などをする体にて事の状況を窺っていた所に、大坂・五奉行から書状を以て、急ぎ大坂へ帰るよう指令が有ったため、勝茂はやむを得ず大坂へ引き返した。

 


 異説には、6月15日、徳川家康が関東へ向けて大坂を出発した時、黒田長政より鍋島勝茂へ「本日内府公、御征伐軍を関東へ向かわせられたが、信濃守(勝茂)殿も我等と同じ道を進もう。早速に出立なされよ。」の旨書状が来た。この時、黒田長政と同じくして出発していたら障害なく関東へ向かうことができたのだが、この誘いを受けて、龍造寺家・鍋島家・宿老中の詮議が有り、様々意見が出た。「当家の士卒武具ら損失が大きく、これを京都に登らせて修理を加えている。まだ中途半端なこの状態では、傍目に隊列が見苦しくないだろうか?」あるいは、「勝茂公は最近腫れ物のため、馬に乗られるのに病で苦痛されるのでは?」・・こういった詮議に時間が掛かってしまい即決できず、黒田長政と共に出陣するに至らなかった。当家は7月初旬まで、出立を延期したため、その間に石田方が愛智川に関所を設けた、との事。

 石田三成、愛智川に関を据え、また禅僧の菊首座という者を鍋島勝茂へ派遣し、度々関東へ向かう事を止めた。勝茂はこれについて諸々の重臣と会議をした。龍造寺七郎左衛門・龍造寺與兵衛(家久)・龍造寺市兵衛(信昭)・神代大炊助、その他皆が言う。

 「御母公(陽泰院・彦鶴姫)が今、人質となって大坂にあります。直茂公がここに居られれば、即時にこの関を打ち破って通られる事は必定。妻子を捨て、武士の本意を遂げる事。古今その例は多うございます。しかしながら、勝茂公はこの様になさらずとも良いのでは。秀頼公を裏切り、御母公を見殺しになされれば、戦をするに神仏の加護も無くなりましょう。今はだた目の前の状況を重視し、まず上方(大坂)へお帰りある事が一番良いかと存じます。」

 勝茂はこれに同意し、軍勢を美濃の八日市に返し3日余り逗留。情勢を見ている時に、大坂の大老、毛利輝元、宇喜多秀家、五奉行より書状が来て招かれたため、大坂へ帰った。(水江事略)

 
 納富市佑は、徳川家康の会津征伐出馬の知らせを受け、早速佐賀を発ち鍋島勝茂のもとへ登ったが、勝茂は動員人数を議定しており、お供には加わることができなかった。そのため自覚悟(勝手に個人的に)愛智川までお供でついて行き、終始働いた。(納富家記)


↓八日市 はこの辺りです。
勝茂公譜には「濃州」と書いてあるけど、美濃に引き返すのはおかしいですよね(笑)愛智川の関越えてるって話ww   正しくは滋賀県八日市と思われます。これならつじつまが合う。



posted by 主宰 at 15:29| 佐賀 ☀| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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