2013年08月27日

江藤淳の歴史論




『少くともひとりの人間が世界を喪失しつつあると感じるとき、その原因を彼の外側にある時代や社会のなかなだけに求めようとするのは公正さを欠いている。こういう人間にとっては、すでに「時代」とか「社会」とかいう概念そのものが崩壊して行く現実の一部と感じられているからだ。

 だからひとりの人間のなかでおこっていることの切実さを、実状に即してとらえようとするなら、むしろ彼のなかに内在する問題が、私たちが「時代」とか「社会」と呼んでいるものの力で、どのような表現をとることを余儀なくされたかという角度からとらえなければなるまい。

それはいわば人間を、歴史を超えたものと歴史との交点としてとらえようとすることである。私たちはたしかに国民として国家に忠誠を誓わされたり、ある集団の一員としてその利益や理想に奉仕させられたりしている。しかし私たちはそのためだけに生きているわけではない。私たちはまず単に生きているのである。いわば生まれて母親に育てられ、父親という最初の他人に出逢い、教育され、やがて自分の家族というものをつくり、そのうちに死んでいく永遠の生物学的存在として。

 この事実がまず見えていなければ、実は私たちがかりに「時代」とか「社会」と呼んでいるもの、あるいは「歴史」と呼んでいるものとのかかわりあいも切実なものとして感じられるわけがない。なぜなら私たちは「歴史」のために、ないしは「時代」の理想のために生きているのではなく、生きるために「歴史」や「時代」を呼びよせているからである。

ここで「生きる」というのは、もちろん単純な自己保存の欲求のことではない。私たちは「生きている」と感じたいために自己を破壊することもある。そのことも含めて私たちは生きるために「時代」や「歴史」を呼びよせようとし、あるいは拒否しようとする。

 ところで、それではそうして世界を喪失しつつあると感じている私が、生きているのはなぜだろうか。この問題はもちろん簡単には答えられない。しかしおそらく私は、自分から剥落して行ったものを言葉の世界に喚び集めようとして生きているように思われる。

世界を言葉におきかえること ―――― それは実在を不在でおきかえることだ。この言葉はもとより私の言葉でなければならない。もし世界が完全なかたちで実在していたなら、当然そう感じられたであろうような親密な感触を、私とのあいだに持ち得る言葉でなければならない。』



 
/ 「一族再会」 江藤淳 講談社(P.7〜9)
posted by 主宰 at 22:09| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■歴史から何を学ぶか (論評集) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。