2020年06月29日

★(1)『御家聞書 天』に見る、鍋島家の関ヶ原大乱と江上八院の戦い(2020.6/30)



はじめに


『御家聞書』(鍋島家文庫)について。

著者・編者不明。江戸時代後期成立とされています。 佐賀県立図書館のデータをご参照下さい:https://www2.tosyo-saga.jp/archives/opac/switch-detail.do?bibid=1700062989


たまたま別の用事で複製本『御家聞書 天』(天、地と巻がある)を捲った所、思わぬことに、関ヶ原の戦い及び江上八院の戦いについて、他で見た事のない内容を含めて一頻り記されており、さらに何と初見の、”立花宗茂宛・鍋島直茂書状(慶長5年9月付)”が収載されていたのです。

驚き慌てて、先日、白峰旬先生へ該当部分をお送りし、確認して頂きました。結果としては偽文書となりましたが、その顛末も含めて、この史料は読み物として大変面白いものです。情感に富むセリフも多く、まさに「物語」として仕立ててある印象があります。


これから分割して本文を御紹介していきますが、
最初に申し上げて置きたい点、


”立花ファンの皆様、どうぞ怒らずに、ご鑑賞下さい。”


江戸後期の鍋島藩士(または鍋島家中の者)が著した史料であり、御家への矜持なのか、関ヶ原決戦後に「寝返った鍋島家」と言われる事への「負の感情」の裏返しなのか、立花方へ辛辣な評が見受けられます。江戸時代の鍋島藩内で書かれた物語という点を前提に、イライラも含めて、お楽しみ頂ければと思います。


なお、送り仮名はカタカナから平仮名に変換し、読みやすいように句読点と「」を付し、改行を加えました。異体字・略字も常用漢字にしています。



佐賀戦国研究会 深川 記




−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【本文】



『御家聞書 天』


一、直茂公、立花飛騨守と御合戦あり、御方使の条々此行は旅の地下地下の旅と御名付け有り。

一、石田治部少輔三成叛逆を企て、諸大名をかたらい家康公を討取己が天下にせんとす。先西方には毛利・島津・立花を始て、秀頼の仰と号して催しける、東には上杉・佐竹に内通し、家康上京有らば東西より発て前後より討んと巧みける。大坂には石田・小西・長束・大谷・安国寺を始として近江より西は半は石田に与力す。

此時勝茂公上京有て御坐けるが、石田が方より秀頼公の仰と号して催しける。兼て直茂公、勝茂公へ仰られけるは「天下何と変動すと云ども、我は内府家康え参るべし、其故は先年伏見にて三成、家康公を奉討と巧みける時も、我に密談有て、中嶋に一城を御取有て人数を入られし侍るも、愚意に付給ふ故に、猶三成逆心を企けるに依て、将軍秀忠公の御台をば我にあづけ置給はんとの密々の仰あり■、御台を請取命を捨て守護し奉んと二心なく思つめ侍る、如此ノ一度我約有上は何時も家康公え参り給へ」との玉ひける。

依之石田より催しけれども、同意なかりしに依て、石田が方より押よせ既に討つぶさんと計りける。其上関東の道塞て下り給はん事も難叶、其時勝茂公の曰「我遠国より上てしかも少勢なり、石田が討手を禦んとするに人なし、関東え参んも道断てなし、此難を除ん事、虚を和にしくはなく覚る」との玉ひければ、諸人此義に同す。さらば家康公上り給て石田と戦ひ半に後切せんは、かへって内府へ忠たるべしと一定す。

此旨勝茂公より直茂公へ使を以告らるる。直茂公聞召「我一度家康公へ忠貞の志有んより已来、何たる事にも可変とは不思所也、然に勝茂若き物で有故、謀有やうには侍れども世の見処、家康公の思召処、敵也。後日に後日に(原文ママ)此理を申被ん事、難義たるべし、いかがせん」と驚き給ふ。

其時鍋島平五郎(後に主水と号す)、暫く思案して申けるは「御免蒙らば、某上て石田を討取、内府の忠に備んと存る。其故は石田は賢き者の様に人は申侍れども深き謀なし。其上行跡軽々敷者にて侍れば、直茂公より相談として信濃守が弟主水参たる由云はば、出逢はん事無疑、其時隠密なる由を云、近習の者を除て、近々と詰よりて石田をさし殺ん事、掌の内にあり。一刻も急ぎ上京せん」と云。

直茂公の曰「我も其事を思よらざるには不侍、乍去石田叛逆と聞給はば、家康公軍をのびのびには、し給うまじ、兼て家康公の兵軽く討出し軽く兵を入給う事、今度に不限事也、軍の勝負はとくに一定せんぞや、亦家康公勝利を得給はん事、百にして九十九有然をば、信濃守は敵の名を得、上方にて切腹すべし、我にも腹を切と家康公下知有べし、願ふ所の幸たるべし。兼て忠貞不偽処を顕し、則切腹すべし。頼思う者ども勝茂が供して国に下れ。我腹切らば汝を介錯と定し上は、上京の事を止るべし」とて、上せ不給と也。

一、石田諸大名をかたらい大勢を卒し、濃州関ヶ原に出張し家康公と合戦すと云へども軍利なし、味方ことごとく敗軍し、大将石田も生捕れければ、立花飛騨守も本国に下て旗を挙んとて、■の人数にて摂州大坂より舩に乗て、筑後国柳川え下着す。依之、立花御成敗可有と御議定有て、信濃守勝茂公は「召急ぎ本国え走り下て筑州え発向し立花に腹を切すべし」と仰付らる。勝茂公虎口の難をのがれ、追罸使を承て下向し玉ふ。

直茂公此事を先立て聞召、立花可討取遠慮を廻しける、曰く「立花一城に引籠、味方の変をうかがい、或は夜討、或は朝かけを仕、城を出る事なく戦はば、軍久(きゅう)して味方の労有て、不可然、彼を計て城を出し平場の戦にして一時に亡すべし」とて計り給う次第。


一、直茂公の曰「飛騨守は、少智あって勇も遠慮もすこし有者なれば、城を出て戦んと云べからず。然共、臣と不和也、其上、小野和泉守は勇武の誉有て智なし、血気の勇に立花三太夫と云者は武勇の誉なく血気也。此二人、中不和にして勇の勝負を争う。彼が中に一人城を出て戦はば、五人十人づつ、ぬけぬけに出て、二人ともに出は、城に残る軍勢多は有るまじきぞ。如此あらんには飛騨守も城を不出と云事有べからず。立花が兼ての行跡を見るに、智不深、軍の勝利を知りたる将に非ず、不恐処也。若き侍どもの能丸はしにて侍る」との玉いければ、諸人頼しくも嬉しくも思しと也。



(2)へ続く。(→http://sagasengoku.seesaa.net/article/476023166.html





――――――――――――――



★史実を探求する方へおすすめの一冊、

『関ヶ原大乱、本当の勝者』
白峰旬 編著 日本史史料研究会 監修 (朝日新書、2020.6/12)



★白峰先生の最新刊で、当会佐賀戦国研究会顧問の中西豪先生が、第十一章 「鍋島直茂の戦い」を執筆されています!早くも重版、おめでとうございます。


有志の方はぜひ、お読み下さい!



【書中で解説されている武将たち】

徳川家康
上杉景勝
伊達政宗
最上義光
毛利輝元
石田三成
宇喜多秀家
大谷吉継
前田利長
長宗我部盛親
鍋島直茂(★)
黒田長政
小早川秀秋
福島正則

白峰先生による、近衛前久書状の検討も収載。


以上





posted by 主宰 at 02:06| 佐賀 ☁| ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月23日

最近の所感・考察まとめ(2020.6/23)


【大友氏関連】

「戦国大名大友氏の権力機構の最上位に位置し、当主の意を奉じて奉書を発給した重臣たちは一般に『加判衆』と称されている。しかし、『加判衆』という語はごく限られた史料に確認されるにすぎない。またそうした重臣たちは、史料中では他に、『老中』『宿老』『年寄』などとも称されている。その中でも最も多く史料において散見されるのは『年寄』であるため、本稿中では従来用いられてきた『加判衆』ではなく『年寄』の称を使用することにする。」
「戦国期大友氏権力の文書発給システムと権力構造」八木直樹氏 /『日本歴史』671号・2004.4月号


▼ ガーン・・・・加判衆という「常識」が崩れました。
(もとい、2004年には刷新されていたのか・・)




【龍造寺氏関連】

「(戦国龍造寺氏は)国人領主あるいは地侍を給人として掌握し、さらにその給人を媒介として村落内諸階層を『衆』という軍事的編成に依存することによって(原文ママ)、肥前支配に成功したのである。それを支える条件はまさに兵農未分離の村落構造にあったといえよう。」

「肥前における竜造寺氏の支配の安定性に比して、筑後・肥後・筑前・豊前における竜造寺氏分国の不安定さの背景には、田尻氏の激しい動きにみるように大友氏・島津氏の鎌倉以来の中世的伝統にかわるだけの竜造寺氏権力の正当性が、その短期的な軍事作戦や積極的な新恩給与の方策のみでは新たな主従関係として容認されなかったことが、一つの原因となっていたことは否定できない」

「竜造寺体制の展開と知行構造の変質」加藤章 氏 /『九州文化史研究所紀要』第26号(1981年3月)


▼ 「肥前における竜造寺氏の支配の安定性に比して」と加藤氏は述べておられるが、私見「速い」は「脆い」に通じていて、龍造寺氏の肥前支配の安定性もあやしいと思う。代表例として有馬氏は反旗を翻したし、龍造寺隆信が沖田畷合戦へ向かった時期に、波多親と原田隆種が「鹿家合戦」を行っている。




「龍造寺氏の肥前西部侵攻と龍造寺長信」中村知裕氏(『古文書研究』第83号 2017年)を拝読しての所感。

▼政治機構(支配機構)が未熟の段階から、龍造寺隆信・長信がテキパキと実務を差配し処理した結果「龍造寺氏は肥前国内における敵対勢力を圧倒するとともに、同国内における勢力基盤をある程度構築することに成功したと判断してよい。」という事になれば、一般的に龍造寺隆信は、高座にふんぞり返っている偉そうな大将みたいなイメージが有るが、実務官として細かい面倒も見ることができる人だったのだろう。

龍造寺隆信と長信間において、城や防御施設の普請、土木工事についての指図、資材調達、宿の手配についてかなり細かく書状をやり取りしているのは、龍家の政治機構が未熟の為だろう。例えば長い歴史を持つ大友氏の政治機構なら、宗麟ではなく年寄がこうした細かい指示を担うものと思う。


「(龍造寺隆信の)肥前西部侵攻の過程では、夫丸動員や普請が滞る事態が度々起こっている。例えば、隆信が大崎村において堀普請を行おうとした際、周辺の村が夫丸の動員を懈怠している。また、隆信が橋の普請を行おうとした際も、大半の村が普請のための道具を持ってきたが、志久村だけがこれに応じなかったため、普請が滞る事態に至っている。」
→隆信はこれに対し、厳しい態度で臨むよう長信に命じている。権力に反抗する村もあり、長信はこうした村への対応も行っていた。
「龍造寺氏の肥前西部侵攻と龍造寺長信」中村知裕氏 『古文書研究』第83号 2017年


▼この補考として、弘治3年・龍造寺隆信が神代勝利に大敗した金敷峠の戦いの頃の、隆信→長信宛書状(『佐賀県史料集成 第10巻』「多久家書物 一」18号)がとても面白い。西肥前侵攻以前から、長信は隆信の政治を支える存在だった事がわかる。(内容を検討した結果、私見で弘治3年10月比定。鍵は春日要害および久松源太左衛門への言及。)

以下簡潔意訳↓

「荻野村(佐賀市嘉瀬町荻野)に馬渡兵部丞が『少作』していたが、そなたは丸刈りしようとしているのか。あそこの土地は、中河内右近允へ直に申し談じて、作半(さくはん:日葡辞書では、作物を半分収穫すること/田を折半して耕作すること)の約束をしていたのだ。約束のようにするように。とは言え、中河内右近允はむちゃくちゃ(むさくさ)な申立て内容なので、ひとまず長信に相談しなさいと申しておいた。種々取乱している故、小さな事は失念しがちだ。彼の耕作地のことも、そなたで処置を考えてほしい。こういう訳で、連絡は密に取らないといけないが、諸事私の無理一我意を押し付けようとは毛頭思っていない」

▼この書状が私見の弘治3年10月比定で合っているのであれば、龍造寺隆信が軍勢や物資を調えて、神代軍の籠る春日山城に侵攻する頃の書状である。
軍記物では神代と龍造寺の反目と合戦模様しか書かれていないが、一次史料でみると、軍事と同時に、こうした領地経営の細かい実務を隆信・長信がこなしていたことが判る。

とりあえず長信に丸投げしている様に見える書状で、且つ内政実務について隆信が「種々取乱している故、小さな事は失念しがち」と、当時の雑感を吐露している事も、興味深い。


―――

尚、上掲の「多久家書物 一」18号は、拙稿「神代大和守勝利(後編) − 流星光底、龍を逸す −」歴史雑誌『忘却の日本史 第19号』(2019.9月発行)でも考察・言及しております。龍造寺・神代のバトルの詳細をお知りになりたい方は是非、ご入手下さい。


★↓ AMAZONでも購入できます。
書店は積文館や明林堂書店で取寄せ可能です。





佐賀戦国研究会 (深川)






posted by 主宰 at 02:16| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする