2020年05月15日

伊達政宗と”江上八院の戦い”の逸話 (2020.5/15)



慶長5年、鍋島直茂と立花宗茂の戦い、”江上八院合戦”の、後日譚。


『勝茂公譜考補二』(『佐賀県近世史料第一編第二巻』P236)中、『焼殘反故』を典拠として興味深い逸話が紹介されています。以下、まずは原文を少し読みやすくして記します。


「此後、当国より倉町宗伯と云者、医術稽古に江戸に登り居けるが、伊達陸奥守へ懇意になり、度々伽(とぎ)に参りける、或時、伊達家へ立花飛州御出ありて、御物語の序に奥州問はれけるは、関ケ原以後、立花殿と鍋島殿と軍をせられしは、隣の鍋島殿にて有つるかと問はる。(其頃奥州屋敷、桜田屋敷の隣也。後、甲府様御座なさる) 立花答に、いかにも左様なりとありしかば、又、其節は御不仕合の様に承るは、如何様の事にて有之や承りたしとありしに、鍋島比興(ひきょう)ものにてたみきを仕りしにより、一戦勝利を得ざりし由申さる、時に奥州、傍の宗伯に御物語の通りなるやと問はれしかば、宗伯申けるは、いや左様にては無之、兼て立花様と主家は御入魂なりし故、前廉に使者を以、今度存がけなく討手の命を蒙りしに付、近日間に罷向うべく候間、武具其外籠城の御用意なさるべし、何時にも能(よ)き時分御勝手次第御知せ候はば、人数差向け申べし、兼て御懇意に付、申通する由申遣し候へば、御返答に、用意とてもなく候間、何時も御発向あるべしとの答なりしかば、双方合戦の日限を相極め一戦仕りたるなり、右使は、某先祖倉町出雲(前名、備前左衛門信秀)にて候ひしなり、只今飛州様の御意落着(らくぢゃく)いたしがたしと苦々敷(しく)申ければ、飛州大に不興ありしと也、其後奥州、公へ御面談の時、此事御物語ありしかば、公大に御大慶遊ばされ、宗伯へ五十石の御扶持下されけるとなり」


現代語に簡潔訳をすると、


「鍋島藩から、倉町宗伯という者が、医術稽古のために江戸に滞在していたが、伊達政宗公と懇意になり、度々お話をしに伊達家の屋敷に参っていた。
ある時、伊達家の屋敷へ立花宗茂公がおいでになられた。政宗公がお話のはじめに宗茂公に問われた事に、『関ケ原合戦の後、立花殿と鍋島殿と合戦をされたと聞くが、それは我が屋敷の隣の鍋島殿か?』と。

その頃は伊達家の屋敷は、鍋島家の桜田屋敷の隣であった。宗茂公が『いかにも、左様です』と言う。政宗公曰く『その節は立花殿は分が悪かったように聞くが、実際はいかがであったのか?聴かせて欲しい』との事で、宗茂公は『鍋島は卑怯ものにて、一戦は勝利を得られませんでした』と語られた。
時に政宗公、ちょうど傍らに居た鍋島家の家臣である宗伯へ『立花殿の言われた事はまことか?』と問われたので、
宗伯は、『いや左様ではございません。かねて立花様と鍋島家は、昵懇の間柄でありました為、事前に立花様へ使者を立てて、今回は思いもよらず徳川家康様から討手の命を蒙りました、近日中に出陣します故、武具その他籠城の御用意をなされて下さい、準備が整った頃にお知らせ頂ければ、それから軍勢を差し向けましょう、と、これはかねて御懇意につき申し伝えた事でしたが、立花様は、用意といっても特に無い、いつでも攻めて来られれば宜しかろうとの御返答でした。そして双方、合戦の日時を決めて一戦仕った次第です。この鍋島家からの使者は、それがしの先祖、倉町出雲にてございます。ただ今の立花様のお話、納得致しかねまする』と苦々しく申し上げると、宗茂公は、非常に不機嫌になられた。 
 
後日、政宗公が鍋島勝茂公に会われた時、この時の話を物語られた所、勝茂公非常にお喜びになり、宗伯へ五十石の御扶持を下されたそうだ。」

という内容。


この時、伊達政宗は、鍋島家臣が同席している事を立花宗茂が知らないと分かっていて、あえて江上八院合戦の敗戦の次第を聞いています。


立花宗茂「鍋島は卑怯ものでした。そのため勝利は得られませんでした。」

伊達政宗「左様か。時に宗伯、鍋島家としては、先ほどの話は本当なのか?」

倉町宗伯「いいえ、それは事実とは違います、かねて立花様と主家は、」


不意の展開に、宗茂はさぞ驚いたことでしょう。

しかし宗伯にとってもこれは、大変気まずい状況です。宗伯の反論を聴き終え、宗茂は非常に不機嫌な様子になったとされます。

さらに政宗は、後日この事を鍋島勝茂へ話して聴かせたとの事。聴いた勝茂が喜ばないはずが無く、褒美として宗伯へ、五十石の扶持を与えたとあります。


何はともあれ、江戸時代に入り太平の世となった後で、伊達政宗がいたずらに両家を翻弄したというこの逸話。信憑性の程はさておき、『勝茂公譜』に異同・考補を加えた史料の『勝茂公譜考補二』に採用されている位ですから、鍋島家としては興の有る話ですが、一方の立花家にとっては、迷惑この上無い逸話です。

ちなみに、江上八院合戦の際、龍造寺鍋島家から立花家へ開戦を告げた使者は、『直茂公譜考補十』によると、老練の成富兵庫茂安、または久布白知円、または口下手の大家太郎左衛門と諸説あるも、倉町氏の名は挙げられていません。

                                  
★★


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慶長五年十月に発生した、九州における関ヶ原の戦い。

立花宗茂  VS  鍋島直茂 

”江上八院の戦い”について、初めての本格的研究書が出版されました。

黒田如水、加藤清正も関係します。


『最新研究 江上八院の戦い』


中西豪・白峰旬 共著

日本史史料研究会 発行(2019.8/30


★日本史史料研究会様のオフィシャルHPで購入が可能です。どうぞご覧下さい。
http://www13.plala.or.jp/t-ikoma/page032.html#sensho14




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佐賀戦国研究会





posted by 主宰 at 01:55| 佐賀 ☁| ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする