2020年05月22日

★佐戦研内で、おすすめの本を募集してみました。(2020.5/21)



今回はメンバーの方に、ライトな感じでお薦めの本(漫画や小説など、ジャンル問わず)をお聴きしてみました。下記、御紹介します。


まずは、加判衆、田島光さんから2本。


『うたえ!エーリンナ』 佐藤二葉 星海社、2018年


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「ミュージックの語源となった古代ギリシャ語のムーシケーという言葉は『音楽』のみを指すのではなく、歴史や哲学、数学に天文学もまたムーシケー(ムーサの女神たちが司る営み)であった。

このマンガは紀元前6世紀、古代ギリシャで最も有名な女流詩人サッポーに弟子入りした少女エーリンナの青春と表現者であることへの愛ある執着心が描かれています。作者がギリシャ悲劇の研究者で、自ら俳優として古代ギリシャの竪琴を演奏して、ギリシャ悲劇に出演しているので設定考証に隙が無いです。

一コマに詰まった情報量がとても多いけど読みやすいので一度読んだらまた読み返してしまう、知識が増えて読み直すとまた気付きがあるのでまた読み返す良作です。」


つづいて、


『ヘンリー五世』
 シェイクスピア、松岡和子訳 ちくま文庫、2019年


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「約40年ぶりに新しい翻訳全集が出たので、この機会に紹介してみます。シェイクスピア、名前だけ知ってる人は多いし有名な悲劇に触れたことがある人もそれなりにいるのですが、大作にもかかわらず英国史劇に触れる人はとても少ないので比較的わかりやすい『ヘンリー五世』を取り上げたいと思います。

意外と認識されていないのですが、シェイクスピアは1564年生まれの人なので三浦按針ことウィリアム・アダムスや甫庵太閤記などで知られる小瀬甫庵と同じ年、細川忠興が一つ年上の1563年生まれで実は戦国武将とほぼ同時代の人物なのです。

それはつまり、現代においても上演される数々の名作は日本でいうところの戦国時代末期から江戸時代初期のロンドンで初公演が行われていたということであります。

『ヘンリー五世』は1599年に書かれて1600年に出版、上演された作品で、当時より180年ほど前のイングランド国王ヘンリー五世がスコットランド、ウェールズ、アイルランド人を従えてフランスに遠征して数に勝る敵を打ち破り、ついに英仏二重王国を成立させた後34歳の若さで亡くなった生涯を描いた史劇です。

シェイクスピアの英国史劇はいずれも当時のロンドンにおいて政治的な意味合いを含んでおり、『ヘンリー五世』も愛国心を鼓舞する面がある一方で、高揚する観衆に水を差すような場面を度々入れることでシニカルな印象とアンビバレンツを生み出し、現代に至るまで正反対の解釈を生んでいます。

英国史を知らないと少々難解に思える箇所もあるかと思うのですが、当時のロンドンの観衆にはあたかも大河ドラマでも観るような感覚で観ていたと思えばそれもまた一興ということで気軽に触れて頂ければ幸いです。」



→★ 田島さんは筑後郷土史研究会の所属でもあり、若手のホープです。最新稿は『筑後郷土史研究会誌』59号(2020.3月発行)収載の「長徳三年奄美嶋者の西海道諸国襲撃事件とその影響について」。また『忘却の日本史』(西日本編 特別号 九州武将ランキング100)では、筑前・筑後と壱岐・対馬の半数以上を執筆されました。


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つづいて、加判衆、高木裕子さんから。



『なわばりちゃんお攻めなさい!』  見ル野栄司 2010年

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「元エンジニアの漫画家・見ル野栄司さんが『攻める』『守る』機能から城を描いた作品です。

戦国居酒屋で働く城好き女子のなわばりちゃんが、『お攻めなさい』の一言で常連やライバル店店員を攻城シミュレーションに巻き込みながら、物語が展開されていきます。ついにはあの堅牢な姫路城まで登場。なわばりちゃんはどう攻略するのか?

この作品の魅力は、初心者にも分かりやすいという点にあると私は思います。漫画作品ですので、城の縄張はもちろん、シミュレーションシーンでは攻め手はどこからどういう経路で攻められるか、守り手は例えば弓だけで守れるのか、という戦術もイラストで見られるんです。また、石落としや虎口、堀といった基本的な項目が多いのも初心者には嬉しいですね。

私も実際読んでから、城跡を見る時に「ここは竪堀かな?」「ここは上がれそう。でも敵兵を集める罠かも」と、戦う目線で考えることも増えました。城攻めをイラストで見てみたい方や、お城に興味があるけれど何から手を付ければいいか分からない方の入門書としておすすめの一冊です。」


→ ★ 高木さんには先年、会の広報活動で佐賀のローカルラジオに数本出演して頂きました。『忘却の日本史』(西日本編 特別号 九州武将ランキング100)では、主に日向の大半、そして「コラム・庄内の乱 −中央政権を動かした島津氏の内乱 ―」を執筆されています。小城市の千葉氏顕彰の演劇にも、演者として出演され、活動の幅を広げておられます。



上記、おすすめの3冊、ぜひチェックしてみて下さい!


近隣ではコロナウイルスの緊急事態宣言が解除されましたが、しばらくは様子を見ながら、日常生活をおくりたい所ですね。



佐賀戦国研究会 







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2020年05月15日

伊達政宗と”江上八院の戦い”の逸話 (2020.5/15)



慶長5年、鍋島直茂と立花宗茂の戦い、”江上八院合戦”の、後日譚。


『勝茂公譜考補二』(『佐賀県近世史料第一編第二巻』P236)中、『焼殘反故』を典拠として興味深い逸話が紹介されています。以下、まずは原文を少し読みやすくして記します。


「此後、当国より倉町宗伯と云者、医術稽古に江戸に登り居けるが、伊達陸奥守へ懇意になり、度々伽(とぎ)に参りける、或時、伊達家へ立花飛州御出ありて、御物語の序に奥州問はれけるは、関ケ原以後、立花殿と鍋島殿と軍をせられしは、隣の鍋島殿にて有つるかと問はる。(其頃奥州屋敷、桜田屋敷の隣也。後、甲府様御座なさる) 立花答に、いかにも左様なりとありしかば、又、其節は御不仕合の様に承るは、如何様の事にて有之や承りたしとありしに、鍋島比興(ひきょう)ものにてたみきを仕りしにより、一戦勝利を得ざりし由申さる、時に奥州、傍の宗伯に御物語の通りなるやと問はれしかば、宗伯申けるは、いや左様にては無之、兼て立花様と主家は御入魂なりし故、前廉に使者を以、今度存がけなく討手の命を蒙りしに付、近日間に罷向うべく候間、武具其外籠城の御用意なさるべし、何時にも能(よ)き時分御勝手次第御知せ候はば、人数差向け申べし、兼て御懇意に付、申通する由申遣し候へば、御返答に、用意とてもなく候間、何時も御発向あるべしとの答なりしかば、双方合戦の日限を相極め一戦仕りたるなり、右使は、某先祖倉町出雲(前名、備前左衛門信秀)にて候ひしなり、只今飛州様の御意落着(らくぢゃく)いたしがたしと苦々敷(しく)申ければ、飛州大に不興ありしと也、其後奥州、公へ御面談の時、此事御物語ありしかば、公大に御大慶遊ばされ、宗伯へ五十石の御扶持下されけるとなり」


現代語に簡潔訳をすると、


「鍋島藩から、倉町宗伯という者が、医術稽古のために江戸に滞在していたが、伊達政宗公と懇意になり、度々お話をしに伊達家の屋敷に参っていた。
ある時、伊達家の屋敷へ立花宗茂公がおいでになられた。政宗公がお話のはじめに宗茂公に問われた事に、『関ケ原合戦の後、立花殿と鍋島殿と合戦をされたと聞くが、それは我が屋敷の隣の鍋島殿か?』と。

その頃は伊達家の屋敷は、鍋島家の桜田屋敷の隣であった。宗茂公が『いかにも、左様です』と言う。政宗公曰く『その節は立花殿は分が悪かったように聞くが、実際はいかがであったのか?聴かせて欲しい』との事で、宗茂公は『鍋島は卑怯ものにて、一戦は勝利を得られませんでした』と語られた。
時に政宗公、ちょうど傍らに居た鍋島家の家臣である宗伯へ『立花殿の言われた事はまことか?』と問われたので、
宗伯は、『いや左様ではございません。かねて立花様と鍋島家は、昵懇の間柄でありました為、事前に立花様へ使者を立てて、今回は思いもよらず徳川家康様から討手の命を蒙りました、近日中に出陣します故、武具その他籠城の御用意をなされて下さい、準備が整った頃にお知らせ頂ければ、それから軍勢を差し向けましょう、と、これはかねて御懇意につき申し伝えた事でしたが、立花様は、用意といっても特に無い、いつでも攻めて来られれば宜しかろうとの御返答でした。そして双方、合戦の日時を決めて一戦仕った次第です。この鍋島家からの使者は、それがしの先祖、倉町出雲にてございます。ただ今の立花様のお話、納得致しかねまする』と苦々しく申し上げると、宗茂公は、非常に不機嫌になられた。 
 
後日、政宗公が鍋島勝茂公に会われた時、この時の話を物語られた所、勝茂公非常にお喜びになり、宗伯へ五十石の御扶持を下されたそうだ。」

という内容。


この時、伊達政宗は、鍋島家臣が同席している事を立花宗茂が知らないと分かっていて、あえて江上八院合戦の敗戦の次第を聞いています。


立花宗茂「鍋島は卑怯ものでした。そのため勝利は得られませんでした。」

伊達政宗「左様か。時に宗伯、鍋島家としては、先ほどの話は本当なのか?」

倉町宗伯「いいえ、それは事実とは違います、かねて立花様と主家は、」


不意の展開に、宗茂はさぞ驚いたことでしょう。

しかし宗伯にとってもこれは、大変気まずい状況です。宗伯の反論を聴き終え、宗茂は非常に不機嫌な様子になったとされます。

さらに政宗は、後日この事を鍋島勝茂へ話して聴かせたとの事。聴いた勝茂が喜ばないはずが無く、褒美として宗伯へ、五十石の扶持を与えたとあります。


何はともあれ、江戸時代に入り太平の世となった後で、伊達政宗がいたずらに両家を翻弄したというこの逸話。信憑性の程はさておき、『勝茂公譜』に異同・考補を加えた史料の『勝茂公譜考補二』に採用されている位ですから、鍋島家としては興の有る話ですが、一方の立花家にとっては、迷惑この上無い逸話です。

ちなみに、江上八院合戦の際、龍造寺鍋島家から立花家へ開戦を告げた使者は、『直茂公譜考補十』によると、老練の成富兵庫茂安、または久布白知円、または口下手の大家太郎左衛門と諸説あるも、倉町氏の名は挙げられていません。

                                  
★★


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慶長五年十月に発生した、九州における関ヶ原の戦い。

立花宗茂  VS  鍋島直茂 

”江上八院の戦い”について、初めての本格的研究書が出版されました。

黒田如水、加藤清正も関係します。


『最新研究 江上八院の戦い』


中西豪・白峰旬 共著

日本史史料研究会 発行(2019.8/30


★日本史史料研究会様のオフィシャルHPで購入が可能です。どうぞご覧下さい。
http://www13.plala.or.jp/t-ikoma/page032.html#sensho14




(過去企画の広告)
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佐賀戦国研究会





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2020年05月07日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート(12)(2020.5/9)


引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポート その12です。

今回は佐賀側から。


★前回のレポート(11)は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/474532655.html

★初見の方は、「沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート@」から順次ご覧下さい。:http://sagasengoku.seesaa.net/article/462785891.html



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天正12年3月18日、龍造寺隆信公の船団が、島津・有馬との決戦に向けて出航したとされる岬と港について。

「同十八日、其勢五万七千余騎、龍王崎より兵船の■を解かれ、順風に帆を揚げ高来郡神代の湊へ御着船ある。(中略)隆信公三月十九日神代へ御着あると均く、あくる廿日より有馬方の者共と矢合ありて・・・」「直茂公譜考補 四」(『佐賀県近世史料1-1』 P.456~457)

3月19日に神代港に到着し、20日には行動を開始しています。


これまでのレポートをお読み頂いた方はご存知の通りですが、島津軍に包囲されて窮地に陥っている、浜ノ城と深江城を解放するための出陣です。



龍王崎

(佐賀県杵島郡白石町深浦856-1)海童神社の石段の右手に記念碑あり。


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【専用駐車場なし。海童神社の石段の右手または左手に、車1台位は一時駐車可能スペースあり。また、道向かいに物産館あり、物産館用には広い駐車場あり。】 



▼長崎側からであれば、島原市の鶴亀城(神代城)(レポートAに詳細あり)を起点として→ 諫早湾堤防道路 →多良オレンジロード 経由で、55km程。車で、1時間15分程かかります。


▼佐賀側かられあれば、龍造寺隆信公の居城・須古城から、5.5km、車で7分程です。位置図を貼ります。

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★龍王崎の高台にある、海童神社本殿の裏・「佐賀県史跡 龍王崎古墳群」解説板の一部です。龍造寺時代の海岸線は太線部分。
つまり、この太線のすぐ右に龍造寺軍の大船団が浮かび、物資搬入や準備で、大賑わいだった事を御想像下さい。

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図の通り、龍王崎は有明海に突き出た岬であり、その直下は海辺で、干潟が広がる地帯となります。さらに藤津郡の経済を支える塩田川の河口でもあり、物資や軍勢を集めて、引き潮に乗って、迅速に有明海に船出するには、非常に便の良い港だったことがうかがえます。




★龍王崎の解説板。
龍王崎海童神社 (3).JPG



「龍王」とは、龍造寺隆信公に因む地名なのか?と思い、平凡社の『佐賀県の地名』事典や、福岡博先生著の『佐賀地名うんちく事典』を調べましたが、全く関係はありませんでした。戦国時代より遥か昔から、港として栄えた場所でした。


龍王崎の高台には、平安時代から存在する海童神社が鎮座しています。祭神は豊玉彦・豊玉姫。つまり「龍神とも言われる神様のため、この海童神社の影響で、付近の地名が「竜王村(有明町として合併)」や「龍王崎」となっている、という説があり、たしかに信憑性を感じます。


また前掲図群の通り、

・塩田川を隔てて藤津郡(鹿島市)と杵島郡(白石町)の「境目」となる事、
・地勢的に、山岳が縦長に伸びて、「防塁」のように境目を仕切っている事、
・海が内陸側に食い込み、龍王崎(岬)が突出する。陸路としては隘路となる事、
・経済拠点の塩田津の、まさに玄関口である事、

→これらから見て、軍事経済面で非常に重要な地点だったことが判ります。








★海童神社の参道石段の途中から、直線的に、島原方面を遠望するの図。
おそらく、龍造寺隆信公が出陣前に眺めたアングルだったでしょう。↓
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当時は写真と違い、海がもっと手間にある事になります。江戸時代以降、官民一体で苦労して、地道に干潟を干拓し、平地が広がっています。



★以上のように、沖田畷の戦いの史跡巡りを極めたい方には、龍王崎は外せない観光スポットです。



【戦国時代の有明海・海岸線】(佐賀戦国研究会)

動画の左下部分が、龍王崎。





なお余談として・・・

白石町・龍王崎と龍造寺隆信公については、「餅すすり」の伝説があります

http://cp.marumiya.co.jp/sp/omochitei36/post/30.html

丸美屋HPより:「餅すすりの起源は、言い伝えによると、400年以上も昔に遡るそうです。肥前の戦国大名である龍造寺隆信が、龍王崎(現・佐賀県杵島郡白石町)から有明海を渡り、島原(現・長崎県南西部島原半島)へ出陣する際に、地元の領民が勝利を祈願してもちをつきました。もちを食べてから出陣しようとしたものの、龍造寺隆信は、有明海は潮の干満の差が激しく、船を出す時間がなくなるため、その祝いのもちをすするように飲み込んで出陣し、戦いに勝利した(敵軍を飲み込む意もあり)ことから、縁起担ぎとして今に伝承されています。」

→戦いに勝利したとなると、沖田畷以前、初めて島原へ出征し、有馬氏を降参させた時の事になるでしょう。


これについて、白石町役場公式:https://www.town.shiroishi.lg.jp/asobou/mitokanba/_2160.html?fbclid=IwAR0iYdP_S8JNcx-ie7rqC-MlmXwrRnKGFIcsF3gJcp-W1JPYuBaEclGWt3c

「餅すすりは、つきたての餅を湯にひたして、一気にかまずに飲み込む、白石でしかみられない独特の食べ方です。言い伝えによると、約400年前、九州北部に勢力を築いていた龍造寺隆信が島原遠征の際に龍王崎に兵を集めていました。その時、領民が餅をついて歓待したものの、有明海が引き潮のため、急いで船に乗らねばならず、武士たちは、つきたての餅を湯につけて食べていったと言われています(餅すすり保存会会長久野潔氏より)。現在、餅すすり保存会により継承されています。※危険ですから絶対に真似はしないでください。」


→民俗学の観点から、面白いお話ではあります。


餅すすりの風習は、白石のみならず佐賀県内の他所や、日本各地に点々と残っているようです。
(山形県の例:http://www.town.kahoku.yamagata.jp/3311.html





★須古城址に翻る、十二日足紋の赤旗。
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レポート(13)へ続きます。



佐賀戦国研究会






posted by 主宰 at 23:43| 佐賀 ☁| Comment(0) | ■沖田畷の戦いについて再検討する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする