2019年12月05日

★東松浦表の錯乱について(一次史料雑記・備忘)



「戦国時代の鶴田家文書、後藤家文書、有浦文書、横岳家文書をざっと読んで分かったこと。


▼大友宗麟の言った「松浦表錯乱」が良く分かる。時々刻々、後藤・鶴田両家・波多の各氏が、同盟と手切れを繰り返しながら争い、大勢力には巧みな外交策で立場を確保している。誰がどう動くのか、訳が分からない印象。

一方、想像以上に大友氏の東松浦表介入が見て取れる。これは筑前支配に軸をおいた介入で、博多〜糸島から唐津は陸海で近い。


▼大村純忠の動きが「外側から」見えてこないか、東松浦の史料を探っていたのだが、大村は、唐津〜東松浦方面の紛争に、ほぼ介入していないと言って良いようだ。


この理由は『新編大村市史』を読むと分かるが、純忠の前半生、伯父系の庶家(純種や純重など)が林立・割拠しており強固な統一権力を得ていない。従って遠隔地の問題に介入する余裕はない。そしてやはり『佐賀県史料集成』で見えるのは、後藤との確執。大村の名前は後藤関係の文書に見えることが多い。(弓箭した、延引した、人質を籠めた・・)


▼今山合戦の時の、鶴田越中守前の二股外交の謎。たしかに大友方として大友派諸士と連動しているが、一方で鍋島信昌(直茂)とは戦争の最中に、味方同士としか読み取れない文面の書状を複数交わしている。どちらも一次史料に見える史実である。
一瞬鍋島信昌は「戦が負けそうなので保身のため鶴田と内通していたのか?」と疑ったが、信昌の文面を読んでも、大友は敵と明言してあり、鶴田は龍造寺の味方であるという前提の意思疎通が見える。しかし鶴田も、大友が圧勝する見込みの所を、何故龍造寺方と通じているのか?


→私見、上位権力の要請に従う=完全臣従ではないため、当時の豪族や国衆は、味方と通じながらも、敵とも通じていたということは良くあったのではないかと推測。白黒つけない処世術。


▼後藤貴明が悩み苦しんでいる書状。平戸と同盟は固いが、龍造寺にも良い顔をしないと、攻めて来そうだ。誓約は身命を賭して守るべきものであるが、このたび遵守できていない辛さ、忸怩たる思いである。いっそ切腹しても良いと私は思っている、しかし今は、なすべき事をなさねばならないので、恥をしのぶ。と言うような旨。戦国領主のストレスが満面に出た書状。ただ、こんな時代なので、受け取り手も「さてさて、本心か?」と冷笑したものかもしれない。当時の正邪は、良く分からない。


▼三根郡の横岳氏は、もうこれは完全な大友家臣。鉄砲や兵粮の支給を受けている。あとかなり忠実に、大友家の指令に従って活動しており、度々褒賞されている。交流関係も、肥前の田舎にいながら錚々たる大友家重臣や文官と音信しており、年末年始の進物も見える。「沈香」を横岳家はどうやって入手していたのだろう。


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有馬仙岩(晴純)→波多家中宛「御札披見候、御室豊州に被差遣候節、大小被下置之由に候、殊に藤童殿仮名並御字拝領、千秋万歳目出度候、従後室被加冠日(一字欠字)御書被持候之条、白地大慶此時に候、猶期後喜可略候恐々謹言 七月十一日 仙岩 判」(年欠)

/「松浦叢書」『北波多村史 資料編』H19.


興味深い文書を見つけた。御室は波多つぼね(真芳)で、夫死没後に一時期、波多家の政治外交を仕切っていた女性。豊州は大友家。藤童は波多親の幼名。この文書が、大友氏から波多藤童丸が、仮名と一字を拝領したという根拠史料か。
仮名は他文書から察して「太郎次郎」、一字は「鎮」。波多鎮のこと。


▼有馬仙岩が大喜びしている。この点においても、外山幹夫先生説(『大館常興日記』天文8年7月3日条により有馬仙岩は肥前守護職を得ていた事が判明)に対しての、佐伯弘次先生からの疑義(同日記に仙岩が肥前守護とあるのは検討を要する)が想起される。守護職なら有馬家通字「純」を自ら下賜すればよいはず。わざわざ豊州に打診しているのは、有馬晴純が大友家を上位権力と認めていた事になるだろう。


▼波多つぼね(真芳)は『大曲記』や『厳木町史 中巻』に依れば前多久氏の姫である。藤童丸は、波多家の跡取りとして有馬家から養子に入った男児。西肥前の覇王・有馬仙岩の意のままかと思いきや、藤童丸の仮名と諱一字は、大友家の威光を拝している。これをどう考えるべきか。


▼『北波多村史 資料編』の戦国期の一次史料群を見て行くと、波多氏は、対馬の宗氏とは基本的に非常に親密。大内氏、大友氏、毛利氏に対しては時宜を見て従属・鞍替えし、巧みに世渡りしている。波多鎮は平戸松浦氏とは基調として仲がよろしくない様子。後年、龍造寺隆信の攻勢に屈伏。


▼145号波多鎮→有浦四郎左「平戸へ永後可為儀絶のよしを被書載候て肝要候」(年欠) ⇔ ■146号 (平戸)松浦隆信・鎮信→ 鶴田因幡守「一、於波多鎮、為某、向後入魂有間敷事」 あとは、天正13〜14年の波多鎮書状に、波多家の所領であった壱岐島を、松浦氏に奪われたままである事への恨みが記載有。」







↑ 『忘却の日本史』第16号 「大友宗麟と毛利氏包囲網」 /

大友宗麟の覇業がよく分かります。お薦めの一冊です。龍造寺隆信の側近「肥前田原氏」についても収載です。全国に読まれることを願います。






佐賀戦国研究会 深川 記










posted by 主宰 at 23:50| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする