2019年02月22日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートH



久しぶりの更新にて、年を跨いでしまいましたが、
引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその9です。

★レポート8は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/463431245.html


【俯瞰】下は島原市・中心部周辺の地図です。左の赤丸は「丸尾城(砦)」、真ん中の赤丸は島津・有馬本陣の「森岳(森嶽)」、右下の青丸は「浜の城」。(赤は島津有馬方、青は龍造寺方) 


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【島原半島の勢力図】 ↓
龍造寺方の深江城、浜ノ城が孤立しています。それらを解放するため、龍造寺隆信自らが指揮する軍勢が、いよいよ寺中城(三会城)から南下を開始します。


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★決戦! 天正12年3月24日 ― 龍造寺の大軍が、動いた時間は?


沖田畷の戦いを語るときに外すことのできない必読の先行研究書『島原半島史』(林銑吉 編 長崎県南高来郡市教育会 発行、昭和29年)(※龍造寺鍋島・有馬・島津、諸家の史料が異同され、客観的分析がなされています。)をもとに、詳細を追います。従って、諸本の内容紹介は孫引きになりますが、ご容赦下さい。


・『藤原有馬世譜』「廿四日の未明に押出し」云々

・『有馬晴信記』「三月廿四日の夜明けに森岳まで敵責来れば」云々

・『直茂公譜考補』「廿四日ノ

・『野史』「東明に及び烟靄未だ霽れず」

・『後編薩藩旧記』「同十二年甲申三月廿四日のの刻計(午前8〜9時)に其の勢四万余キ薩摩軍に寄来る」

・『諸家由緒』川上左京系図「然合戦之期、自刻至午前、攻戦最急、及未初刻(午後2時)」

・『島原軍記』「三月廿四日の刻計、龍造寺の大軍さざめき渡て出来れり」

・『フロイス日本史』「金曜日朝八時に始まり、正午過まで継続したり」

・『日本西教史』「二十四日の朝八時に接戦始り、正午に至りて、両軍の勝敗孰れにあるや未だ決する能はず」

・『古今戦記』「たつみの時より未の時までおほつおはれつ、まくつまくられつなとたたかはせられけるに」云々

・『長谷場越前自記』「三月廿四日刻計の事成るに(中略)薩摩之御陣に懸りける」

・『豊薩軍記』「の刻計りに沖田畷を打過て眞一文字に討ってかかる」


「総合して考えてみれば、3月24日の払暁に龍造寺方より行動を開始し、午前8時前後に両軍の衝突を見たと解するのが最も正鵠を得たものと思う。」『島原半島史』林銑吉氏の見解 (P.419〜P.420)



一方、『完訳フロイス日本史10』P.277には、「(肥後から)対岸の高来(島原半島)に渡っていた薩摩軍は、船舶がさばき得た兵数に応じて態勢を固めていった。すでにその頃、我らの味方の陣営には、ドン・プロタジオ(有馬晴信)の軍勢を合わせて、六千三百人を超すほどの兵士がいたであろう。薩摩の軍勢は、戦については誇り高く、能力を備え、かつ敏捷であった。我らは島原城(=浜ノ城と比定)に対して最初の攻撃を加えようとして、なお多くの兵士の到着を待っていた。」とあります。

この点、『上井覚兼日記』中、3月25日の記録(沖田畷大勝利の報告を知る前段階の記録)に「島原(城)の事は今の軍衆にて相応に候へ共、若々龍相(■魚へんに各)候はば、今少御人数被指渡候て可然之由也、今一注進被聞せ、」とあり、ルイスフロイスの記述と上井覚兼の記述内容が、おおむね、一致していることが分かります。
この辺りからも「『フロイス日本史』における沖田畷合戦についての記録の精度は、有る程度高いのではないか」という考察が生まれる訳です。


そして再び『島原半島史』中、島津・有馬方の迎撃態勢として、

・『藤原有馬世譜』「(晴信)公、(島津)家久等と御軍議ありて、備を定めたまひ、二十四日の未明に押出して、島津家久三千を先陣とし、森か嶽の麓に備へ、御旗本二千人森か嶽に備えたまひ、長田安芸守貞連等と、島津勢五百人を豕子村(いのこむら)の東浜手の林の中に伏せ置、安富越中守に鉄砲三百挺を司らしめ、兵船十三艘に取乗せ、夜中に東の海上漕出して、敵の進むを待しむ」云々、「家久は森嶽の後を廻り豕子村の西に打て出て、隆信の旗本に切てかかる」

・『有馬晴信記』「さて薩摩の内少々浜手の松原に隠し置、晴信旗本森岳に備、中務(島津家久)自分の人数も同然に被備也、安富越中は船十三艘に鉄砲を乗せ船手の下知をいたし候」云々、

・『島原軍記』「又七郎(島津)忠豊に、老功の新納忠元を指副られ隆信の大軍に向けられ、其外の健将勇士皆是に属す、家久は鋭卒五百をすぐり、陣を出ること一里、村芥中に伏して、戦酣(たけなわ)なる時、敵の中枢を衝かんとなり。」

・『北肥戦誌』「島津家久は手勢三千余騎、三月十五日安徳の城を出て是も島原へ陣を寄せ、新納武蔵守(忠元)と左右に分れ、要害を前に当て、両方は牟田(湿地帯)にて中一筋の細道に城戸を構へ、柴垣を以て塀とし、其蔭に弓鉄砲の上手数百人、矢を揃え陣を取る」云々


・『隆信公御年譜』「鎮貴(有馬晴信)は能小勢を勝て五千余騎、森岳に出張し、要害を前に当て、弓鉄砲を揃えて一面に陣を取る。家久は他勢を交じえず三千余騎、新納武蔵守と左右に分かれ島原に陣を堅め、土手を高く築き、堀を深くほり、数十町の間柵を振り、中に一筋の細道あり、是に大城戸を構え、道の左右には沼に菱実を撒き、乱杭を打ち、掻楯を掻並べ、その蔭に鉄砲の者数百人並居、矢先を揃、陣を取る」


「本陣は森岳にあって浜手にも、中央にも、山手にも備えていた事は勿論であるが、正面の備えとして家久の子忠豊に新納忠元を指し副えて之に当たらしめ、家久自身は手兵を率いて森岳の後ろを廻り豕子村の西より(龍造寺の)中央軍の側面を衝く計画であったらしい。併し此の点色々異説がある。則東西両方面に予め伏陣を布いていた様に書いてある文献もある、けれども東西相呼応して挟撃した事は一致している。」
」『島原半島史』林銑吉氏の見解 (P.413〜P.414)



また一方、『完訳フロイス日本史10』P.281には、
「中務(島津家久)は急遽、二門の大砲を船積みするように命じた。それらは中型の半筒砲(ファルコン)で、有馬殿の伯叔父にあたり、有馬の家老ジョアン左兵衛殿の持ち船で、同所にあった最大の船に積み込まれた。(中略)さらに平田殿というジョアンの一指揮官には、敵が戦の最中に島原城から出て来て味方の背後を衝く事がないようにと、千人の兵を率いて島原城の正面に布陣するようにとの命令が下された」

とあります。


★島津・有馬方が迎撃態勢を構築しており、且つ、林の中などに伏兵を配していた事が分かります。



上記、特筆すべきはやはり、歴史研究家・中西豪先生のご指摘の通り「牟田、畷、湿地帯という記述の仕方は、佐賀側の史料にしか見られず、島津・有馬方の史料及び、フロイス日本史には無い」事です(※注:『豊薩軍記』には「沖田畷」が出てきますが、どういう訳か「打ち過ぎて」つまり「通過点」のような描写です)。有馬家の記録は江戸時代に入ってからの編纂物であり、とりわけ、史料的価値や信頼度でいえば『上井覚兼日記』・『フロイス日本史』が優先されますが、湿地帯をアドバンテージとして迎撃したという記述はありませんし、林先生の先行研究上における、編纂史料を基にした東西からの挟撃説も状況がよく分かりません

広大な湿地帯がある場合、湿地を左右に挟んでの弓鉄砲の射撃は可能ですが、どうやって、フロイス日本史が記したような決戦的白兵戦に及ぶのでしょうか。島津有馬方は、いわゆる龍造寺方が嵌って身動きが取れなくなる湿地を、すいすいと渡ってこれるのでしょうか。中西先生はこのダウトを含め、「佐賀藩側は、正面衝突の、いわば正々堂々たる決戦で大敗北を喫したという事実に、何か『負けるべき理由』をこしらえたくて、湿地帯説を捏造したのではないか」という推測を立てられています。たしかに、湿地帯が広がっている場合、上記有馬家の編纂物の記述も根本的疑義が生じます。

皆様は、どうお考えになられるでしょうか。




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龍造寺隆信公とその家中は、軍議の末、軍を三手に分けて、進撃します。


・山手の主力:  鍋島直茂公率いる筑後衆 → 丸尾城攻めへ

・中央道:  龍造寺隆信公率いる本隊(主力軍)

・浜手の主力:   江上家種公(城原衆)と後藤家信公(塚崎衆)
(両者は、隆信公の息子)




★龍造寺軍の陣容  (クリックすると拡大してみる事ができます。)


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― レポート10へ続きます ―





★旧森岳に聳える島原城と、戦支度の大山格先生。(島津方)



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            V.S.


★南下する中西先生。後ろに近習・由良氏(佐戦研)・田島氏(佐戦研) (龍造寺方)

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posted by 主宰 at 01:33| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする