2018年07月20日

『芦刈の千年あれこれ』が発行されました。


小城郷土史研究会・副会長の岡本澄雄氏が本を出されました!

A4判オールカラーで183ページ。圧巻です。写真も豊富に掲載されており、非常に見やすい。岡本さんには以前から、国衆・鴨打氏や徳島氏の歴史について史跡踏査の手引きや、沢山の御教示を頂いておりますが、今回の本は堅実な研究成果がまとめられており、佐賀の戦国期の国衆:鴨打氏・徳島氏・神代氏について後にも先にも鉄板本です。

戦国の龍造寺鍋島氏について、人より詳しく知りたい方、研究職の方、国衆としての鴨打氏、徳島氏、神代氏を詳しく知りたい方、肥前千葉氏(九州千葉氏)としての徳島氏を知りたい方、また筑後の国衆・田尻氏が、小城藩に所属してからの事を知りたい方に、まとめて一冊、非常にお薦めです。


『芦刈の千年あれこれ』岡本澄雄 著・発行(2018年6月)

 ¥3,000円 (500部のみ)




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先年、鶴田徹氏が出版された『肥前鶴田氏の研究』は松浦党〜鶴田氏について非常に充実した内容でしたが、戦国の鴨打氏・徳島氏関係については、ここまでまとまって編纂された資料を見たのは、今回が初めてです。年表も重宝します。
御本人から宣伝してよいとの事でしたので、http://www.saga-s.co.jp/articles/-/239421 龍造寺鍋島クラスタは特に、お求め下さい。遠方からの購入も郵送対応してもらえると思います。(本屋さんには置いてありません。)
ご希望の方は電話090(5293)3301、岡本さん本人TELへご連絡を。



当会も目指すべきはこういう本の発行だと思いました。励みになります。



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小城郡といば・・・

★『肥前千葉氏についての概説 −応仁文明の乱から土一揆合戦までー』中西豪(約30分)




『佐賀の戦国史 第六回 講演会 〜肥前千葉氏と戦国前夜〜』収録の一部。
肥前千葉氏(九州千葉氏)に興味の有る方は、ぜひご視聴下さい。
■講師:中西 豪 (歴史家・作家、『歴史群像』に執筆多数) 平成27年 10月4日(日) @佐賀県立佐賀城本丸歴史館 




佐賀戦国研究会








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2018年07月08日

【告知】「天正遣欧少年使節と大村」 および「大坂の陣の勉強会」



私共が日頃大変お世話になっている、2つの団体様について、興味津々な企画が告知されましたので、皆様へ共有いたします。長崎県大村市での企画と、愛知県名古屋市での「大坂の陣」企画。お近くの地域の方は是非、参加されてはいかがでしょうか。



その一、


【歴史シンポジウム】(長崎県)

★『スペイン修交150年 天正遣欧少年使節と大村』

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【概要】
今年はスペイン修好150年。

430年前にヨーロッパ社会に日本人を知らしめた、日本初のヨーロッパ使節団である天正遣欧少年使節。
日本初のキリシタン大名・大村純忠から始まり、キリシタン繁栄の証である天正遣欧少年使節、それらの功績を伝え、大村文化の先進性を広く市民にアピールする為の事業。

さらに、天正遣欧少年使節の時代の音楽を体感してもらう為に、「ルネサンス時代の古楽器」リュートのソロ演奏が披露される。生演奏を聴いて16世紀〜17世紀のヨーロッパの雰囲気を味わい体験を共有。


「ありがたいご縁によって素晴らしい方々が大村にお見えになります。先月30日に「長崎と天草地方潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に正式登録となり、それぞれの地域で様々な事業が展開されています。450年の歴史をさかのぼると長崎のキリシタン史は大村にたどり着きます。長崎のキリシタン史のルーツである大村をアピールし、歴史の価値を見出せるシンポジウムにしたいと考えています。詳しいプロフィール、内容等今後追って詳細をお伝えしていきます。」


■日時 :2018年11月25日(日)
■時間 :13時〜16時35分
■場所:プラザおおむらホール (大村市本町326番地1)
■入場料 :1,000円
■主催:大村純忠revivaL ぷろじぇくと

【講師】
■稲富 裕和 氏 (新長崎学研究会代表)
■高祖 敬明 神父 (上智学院前理事長・東京在住)
■清涼院 流水 氏(作家・東京在住、2018年1月『純忠 日本で最初にキリシタン大名になった男』『ルイス・フロイス戦国期ジャパゥン』を同時刊行)
■永田 斉子 氏 (リュート&月琴奏者・長崎市出身 東京在住)

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※参加予約やお問合せは、大村純忠revivaL ぷろじぇくと さんのFACEBOOKへどうぞ!
リュートの音色も楽しみですね、佐賀戦国研究会一同も参加させて頂く予定です。

★告知:https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1801962599892913&id=1356872687735242




――――――


その二、


『大坂の陣の勉強会』 (名古屋市)

【概要】
毛利勝永、真田信繁など五人衆を含め、幅広くフリートークが参加者全員で楽しめればと思っています。専門的成果を発表されている先生方にも、楽しく助言いただくべく、交渉しています。


■日時:2018年8月12日(日)9時から。
■会場:高蔵コミュニティセンター(愛知県名古屋市熱田区沢上2−7−8 / ■最寄駅:金山または高蔵)
■参加費:500円予定。  
■定員:30名程
■主催:勝永座談会 (代表 有川氏)(本拠:福岡県北九州市)


「★【付録】『勝永座談会』とは

 忍者研究の国際学会の基調報告をしようかと言う気鋭の研究家、佐賀の戦国史研究会代表の深川直也さん、関ヶ原本ですっかり有名になった高橋陽介さん、いずれも肩書に勝永座談会会員とあります。勝永座談会は類似の言い方が様々、特に正式名称、正式略称を定めていません。この始まりは2013年6月愛知に住む加賀康之さんの呼びかけで、小倉に住む私とが大阪道明寺の地でお会いし、ともに見学、痛飲したことがいわば第0回。加賀さんはPHP文庫の戦国本4冊、各種戦国本に風景、遺跡、墓などの写真を提供、また大坂の陣のホームページでも知られ、故郷に戻り今度は鳥取や島根の戦国遺跡ガイドブック・『山陰の戦国史跡を歩く』を出されています。翌年の大坂の陣400年記念のイベントがあちこちで行われ始めました。加賀さん他と相談し、2014年道明寺、若江などの見学と勝永座談会を実施、堺に住むグラフィックデザイナー山本ゾンビさんが公民館の場所取りだけでなく、立派な案内チラシをデザインしてくれました。そして加賀、高橋さんに加え、柏木輝久さんが参加してくれました。その後、柏木さんは大坂の陣の豊臣方将士の事典を北川央さんとともに刊行されていますが、当時はまだ研究成果を発表されていなかったたので、その知識には参加者全員が驚かされました。また前田慶次や上杉氏関連著作で知られる歴史ライター今福匡さんにも参加いただきましたが、2年後の大河ドラマが『真田丸』と予告されていたので、今福さんはそれに合わせて、この前後から毛利勝永著作を構想しはじめていました。
 2015年、毛利勝永の父、小倉城主毛利吉成の菩提寺である小倉清水の本就寺の寺宝公開が土曜日に重なったので、この寺宝や九州国立博物館の見学と、小倉での第2回勝永座談会を開催、今福、高橋さんだけでなく、いのちのたび博物館学芸員の守友隆さんに報告の協力をいただきました。
 2016年、大河ドラマ『真田丸』で毛利勝永も大変好意的に取り上げられ、ドラマ終盤を盛り上げ、今福さんの『毛利勝永』著作も刊行、好評を得ました。

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ドラマが終わるころに柏木さんの事典も刊行、戦国ファンを大変驚かす大作でした。毛利勝永はこのドラマ、今福著作、柏木著作で今までよりも知られることになりましたが、出身と思われる尾張やゆかりの小倉、高知では依然無名なまま。また勝永座談会も企画もままならず。2016年は寺宝公開に居合わせた三浦明彦さん(『黒田如水』作者)との昼飲み、8月に東京から見学にやってきた山田さんとの行橋・小倉の見学がいわば第3、4回座談会でした。また佐賀の戦国研究会に有川、高橋が参加を始めました。
 2017年11月いのちのたび博物館で「最後の戦国武将 小笠原忠真展」が開催、この時に今福さんらが見学に訪れ、吉成・勝永ゆかりの刀、兜、旗も展示され、守友さんに特別に説明案内をお願いしました。これがいわば第5回座談会、この展示に間に合わなかった山田さんが小倉を再訪されたのが、第6回となります。
 かくいう有川も毎回報告や案内、本就寺の寺宝公開守護神祭には平日でも都合をつけて欠かさず参加、『歴史読本』や『日本史のまめまめしい知識2,3』に勝永関連投稿をし、読者の投稿として採用されました。何とか毛利吉成・勝永のことを地元他で広めたいと研究を続けています。 」


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■お問い合わせは、有川氏のTwitter:https://twitter.com/D28PWUN6TZFOHpi (みなみ豊前小倉 @D28PWUN6TZFOHpi) または、有川氏Mail: ar11■di.pdx.ne.jp までお寄せください。(■は@に変えて送信下さい)



※そもそも、関ヶ原の高橋陽介氏を当会の勉強会にお招きしたいと言った際に、ご仲介頂いたのが有川氏です。神出鬼没、九州から関東まで、全国の歴史講座・研究発表に現れるという熱心な歴史ファンであられ、相当に人脈が広い方です。近年は『日本史のまめまめしい知識』中「読者ページ」(日本史史料研究会 編、岩田書院 発行)へ、連続寄稿されています。毛利勝永が大河ドラマ『真田丸』で脚光を浴び、少しは有川氏の努力も報われたかと思いますが、これからも益々、毛利勝永の研究と顕彰を、北九州市でこつこつと続けられていく事と思います。毛利勝永ファンの方はぜひ、有川氏と交流される事をおすすめします。また、北九州から遠征されて、愛知県名古屋市で勉強会との事ですので、この機会に興味のあるかたは是非とも、御参加下さい!
(佐賀戦国研究会 代表 深川 / 勝永座談会員)









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2018年07月06日

★一次史料に見る、龍造寺家から鍋島直茂への御家裁判の委任と状況



主に、『佐賀藩の総合研究』藤野保 著 P.199〜217を下敷きとして、考察を試みます。起請文は現代語へ簡潔訳を施し、記載しました。こうして一次史料を読み紡ぐだけでも、物語が浮かび上がります。



ー沖田畷合戦で、龍造寺隆信が戦死した翌月のこと。ー



@【起請文】★天正十二(1584)4月8日 龍造寺政家(血判) → 鍋島信生(直茂)宛 / 『直茂公譜考補 五乾』

「一、以前から御家を盛り立てて来られたのであるから、今においても親子兄弟の様に、何についても腹蔵なく申して欲しい。一、合戦中その方が窮地となれば、もちろんだが見捨てない。一、その方と我等の間に、もし誰かから讒言があっても、互いに実否を確認する事にしよう。一、我らは若輩なので、意見を請いたい。腹蔵なく承るので、どのように仰せられても、気にかける事はしない。(以下略) 民部太輔 政家(血判)」


▼「どのように仰せられても」の表現から、主君である政家が、家臣の鍋島信生に「仰せられ」と尊敬語を使っている。
▼以前から鍋島直茂の功績は、抜きん出ていたと見える。
▼龍造寺政家が、血判を捺している。
▼(7/7 修正)「我等」は「我ら(一人称・複数)」ではなく、「私(一人称・単数)」。




A【書状】★天正十二(1584)6月15日 龍造寺政家 → 鍋島信生(直茂)宛 / 『直茂公譜考補 五乾』

「懇ろに申し上げる。その方の事、我等が家を慮っているのであれば、平時また戦時ともに信生が下知をなすべき次第とする。もし背く者がいれば一途申しつけらるべく、表明を伝える。 政家 (御判)


▼龍造寺政家とは、不思議な人物である。@も踏まえ、君主ながら素直に自分の経験不足を認識しており、政治・軍事の取り仕切りを、実力のある鍋島直茂に一任したいと思っている。




B【起請文】★天正十二(1584)6月23日 龍造寺政家 → 鍋島信生(直茂)宛 / 『直茂公譜考補 五乾』

「こたびの、その方の身の事。城原(江上家種家中か)よりの悪説は、私は毛頭知らなかった事で、心底をあきらかにしておく。いささかも嘘ではない。改めて申すまでもないが、その方と我等の間で、今後もこのような悪い噂などがあれば、異儀なく、互いに実否をたしかめる事としよう。 竜民 政家(御判)」


▼政家の一人称が「我ら」。我らとは、龍造寺一門衆や老臣たちか。
→※(7/7 修正)戦国期の東国では、「我等」は第一人称の単数で使用されるため、ここでも第一人称の単数・「私」と解釈する旨、ご教示を頂きました。

原文:「其方我等間、於向後如此曲説共承付候者」


▼鍋島直茂にたいしての悪い噂が、城原(神埼郡城原。江上家の主要な領地)から出ていることが分かる。つまり城原衆、ひいては江上家種(龍造寺隆信の二男)はこの頃、鍋島直茂を良く思っていなかったとも推測できる。




C【起請文】★天正十二年4月〜12月にかけて 龍造寺各家中・総数 230名 → 鍋島信生(直茂)宛

(龍造寺一門、譜代、新参まで、肥前〜筑後、あらゆる階層に及んでいる。 『佐賀藩の総合研究』藤野保 著 P.212の表に詳細あり)





ー沖田畷合戦敗戦後、家中や、遠近の豪族から龍造寺家へ出された起請文。ー


D【起請文】★天正十二(1584)4月27日 堀江家房 → 龍造寺政家 宛 / 『龍造寺家文書』

「一、政家公に対し、二心・野心は、かつて持っていない事を誓います。一、誰かにどのように頼まれたとしても、政家様の狙い突き(暗殺)や、毒殺の企てはいたしません。一、もしも内密の事を仰せ付けられた場合、口外はいたしません。一、金銀米銭について取こしらえるような任に当たっても、毛頭、表裏奸謀はいたしません。一、指令には従いますが、ただし病気の時はその旨、報告いたします。つきましては、私が息子の事について、もし讒言する者があれば、その実否をお調べ頂き、お問合せ下さい。私の申し分も、残らず申し上げます。 堀江兵部少輔 家房(花押)」




E【起請文】★天正十二(1584)4月28日 永田純通、永田領弋、永田賢保、連名 → 龍造寺政家 宛 / 『龍造寺家文書』

「一、政家公に対し、悪心悪行を企てず、忠勤にはげむ事を誓います。一、敵方より謀略の誘いがあれば、口上・書状によらず全て即時報告をいたします。一、この三人のうち、誰かが異心を企てても、他の二人は身命の限り、御当家へ御奉公いたします。 永田備前守 純通(花押)、同 領弋 (花押)、同 兵部少輔 賢保 (花押)」


▼永田氏は、藤津郡(嬉野市塩田あたり)の有力豪族。
▼沖田畷敗戦後も、龍造寺氏による藤津郡の支配は保たれていることがわかる。




F【起請文】★天正十二(1584)5月12日 諸岡信幸 → 龍造寺政家 宛 / 『龍造寺家文書』

「一、政家公に対し、私はどこから金銀米銭や領地を以て頼まれる事があっても、毒殺や、狙い突き(暗殺)などの陰謀を致しません。一、仰せつけられた事は、中山対馬守と葉上総介方へ内談し、政家様の御ためになるように配慮いたします。また、不忠の振舞いはいたしません事を誓います。 諸岡因幡守 信幸 (花押)」


▼D〜Fによって、沖田畷直後、龍造寺政家に暗殺の恐れがあった事がわかる。また、龍造寺家中は「誰が謀反をするか分からない」という、疑心暗鬼な状況に陥っていたことが分かる。且つ敵方とは、島津家または大友家のことであり、肥前支配を狙って龍造寺領国の瓦解を狙う動きを警戒し、龍造寺家中から、起請文を徴していた事が分かる。




G【起請文】★年欠だが天正十二(1584)に比定されている、11月24日 隈部親泰 → 龍造寺政家 宛 / 『龍造寺家文書』

「こたびの、高来表(沖田畷)の敗戦がありましたが、たとえどのように状勢が転変しても、龍造寺政家公に対して、隈部親永・親泰は、今後の未来も野心・悪行を企てません。いよいよ緊密に相談申し上げ、関係の地盤は浅くない事を誓います。 家綱 (花押)」


▼沖田畷敗戦後も、肥後の国衆・隈部氏は、龍造寺氏に忠誠を誓っているものの、文中に「隈部親永・親泰」と書きながら、文末の署名が「家綱」と、文責が曖昧なことから、二面外交で、島津家へも従属の書状を送っていたのではないか。ただ、敗戦後も龍造寺氏に依然として権勢が有ったことが分かる。




H【起請文】★天正十三(1585)8月8日 百武新三郎 → 龍造寺政家 宛 / 『龍造寺家文書』

「一、政家公に対し、私は二心・野心、毒殺、盗み、女を使った策謀は致しません。一、今度の合戦は、信生(直茂)様は戦場に一夜一日も立たれない事について、名代として被官一人たりとも派遣しません。一、今回、このように信生様に望まれて、謀反をしない旨の起請文を書いておりますが、拙者、夢にも思っていない事です。一、政家様・信生様たちへ、讒言はいたしません。ついては同僚にも言いません。はたまた、もし内密の事を承りましたら、口外はしないことを誓います。一、御家の御ためになる情報があれば、即時に報告いたします。」


▼「このように信生様に望まれて、謀反をしない旨の起請文を書いておりますが、」の所から、起請文を出してくれといったのは、鍋島直茂であることがわかる。つまりこの頃、鍋島直茂が龍造寺氏政権の安定のため、しきりに働いていた事が覗える。
▼D〜Hによって、沖田畷合戦敗戦から翌年にかけて、龍造寺政家に暗殺の恐れがあった事がわかる。





― 島津氏へ従属の頃、かつ豊臣政権の九州征伐が行われる前の頃。−


I【起請文】★天正十四(1586)4月11日 鍋島信生(直茂)血判 → 江上家種、龍造寺信周、横岳頼続、龍造寺家就、内田信賢、鴨打胤忠、副島家益、龍造寺長信、龍造寺家晴、後藤家信、宛 / 『藤龍家譜 四』


「御家裁判(政治を取り仕切ること)を申し付けられましたとはいえ、根気が尽き果てております。ついにお断りができなくなってしまった所、御趣旨に背かないよう、皆様のため、仰せをお受けいたします。まずは御助言の通り、この上は毛頭、他のことや異心は考えず、根気の及ぶところ、身命の限り、政家様の御ためを思い、御奉公いたすべく覚悟いたします。しからば御家存続のため、たとえ御一同が、機嫌が悪くなったとしても、用捨(ようしゃ)なく申し上げるべき事は申し上げます。もちろん、非道の儀があれば自覚するように心がけ、取沙汰しないようにしますが、何かお聞きになりましたら、私にお問合せ下さい。その時、背くことも致しません。特に政家様のためを皆様が思われておられ、こたび、かたじけなく私にお任せ頂きます上は、皆様に対しても、忘れる事なく、怠慢に接しない事を誓います。政家様に対し皆様の事は、相応なお取り成しに努めます。一、家中において不忠の人があれば、実否をただし、明らかな場合は、政家様へ報告の上、成敗致します。一、政家様の事について、信生(直茂)へ何か讒言する人があれば、政家様と御一門衆へのこらずその事を申し上げ、相談しますが、もしも政家様へ、皆様から逆意があれば、この起請文は効力は無くなるものとします。 鍋島飛騨守信生 (血判)」



▼「根気が尽き果てております。」の率直な物言いに驚かされる。この一次史料から、直茂は「しぶしぶ」龍造寺家の政治の仕切りを任されている事が覗える。
▼一身に政治を任された鍋島直茂の戸惑いと共に、忠誠心が表された文章である。
▼「特に政家様のためを皆様が思われておられ、こたび、かたじけなく私にお任せ頂きます上は」から、まずもって当主・龍造寺政家の強い意向があり、その意向を一門衆や重臣が承認したというプロセスで、家政が鍋島直茂に一任されている事が分かる。
▼他の一門衆にも有能な人物は居ただろうに、どうしてここまで、鍋島直茂ひとりの存在感が大きいのか不思議である。江戸時代以降の、儀文書である可能性は無いのだろうか。




J【起請文】★天正十四(1586)4月13日 龍造寺政家 → 江上家種、龍造寺信周、横岳頼続、龍造寺家就、内田信賢、鴨打胤忠、副島家益、龍造寺長信、龍造寺家晴、後藤家信、宛 / 『藤龍家譜 四』

「家裁判(政治を取り仕切ること)について、鍋島飛騨守(直茂)に申し付ける。たとえ政家の気持ちにそぐわない事があったとしても、そなた達に談合せず、政家は飛騨守に対し協力する事を誓う。なお、政家に対し、飛騨守が怠慢な事をしていると、誰かが報告してきた場合は、きちんと飛騨守にその旨の邪正をただす事とする。もし事実でない讒言だと判れば、即時処分をいたす。政家 」


▼Jの起請文を踏まえてみても、龍造寺政家は積極的に、家政を鍋島直茂へ任せると、周囲に決意宣言している。
▼戦国時代は、風説に惑わされる事の多い時代だったのだろう、各起請においても、悪い噂はその実否を確かめ合う事が誓われている。




※【PODCAST】 参考にどうぞ:
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当会企画【H26.12/27】佐賀の戦国史 第五回 質疑応答会(龍造寺氏・鍋島氏から日本の戦国時代) 講師:中西豪 (歴史家)
分割VOL.2






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