2018年06月08日

『比較史の方法』から


「比較史がわれわれに与えてくれるおそらく最も明瞭で最も説得的な教訓は、われわれが社会的諸事実を閉じこめようとしている、もはや古くさくなった地誌的仕切りを今や破壊すべき時だということである。それは、われわれがそこに詰め込もうとする内容にもはや合わないからである。かつて、一人の尊敬すべき学者が『ウール・エ・ロワール県における聖堂騎士団』と題して、まるまる一冊の本を書いた。われわれは、この単純さには苦笑するのみである。歴史家であるわれわれが、ほとんどつねに同じ誤ちに陥らないと確信できるだろうか。たしかに中世に県の枠を持ち込む習慣はない。しかし、過去の法や経済の諸制度を研究するのに現在の国境がどれほど多く便利な枠と考えられてきたことか。

ここに二つの誤りがある。まず第一は、時代錯誤、しかも最も明瞭な時代錯誤である。一種の漠然とした歴史的予定に対する何らかの盲目的信仰によって、戦争や取引の複雑な働きが国境を確定する以前に、その線に何らかの意味を、あえて言うなら産前の生を与えるべく導かれたのではないだろうか。さらに、根本的な誤りがある。それは、見かけはより厳格な方法によって、研究の対象をなす諸事実と同時代の政治的、行政的、あるいは国民的な区分を選択したときですら、なお存在する誤りである。なぜなら、いつの時代であれ、社会的諸現象がその発展を、ひとしく同一の境界線−−正確に言えば、政治的支配あるいは国家の境界線−−で停止した、などということは今までどこでもおこったことがないからである。オイル語方言とオック語方言の境界線または−−こう言ったほうがよければ−−境界地帯、同様にオイル語それ自体のゲルマン語との境界線が国家や大領主領のいかなる境界線にも照応しないことは周知のとおりである。文化の他の多くのことについても事態は同じである。(中略)
様々な時期におけるヨーロッパの社会生活の各々の側面で、窮極において人為的なものから脱しようとするなら、外側からでなく内側から規定される固有の地理的枠を見出さなければならないだろう。これは大いなる慎重さと無限の試行錯誤を必要とする困難な研究である。それに正面から立ち向かうことを拒否するのは、怠惰を告白することだろう。」

『比較史の方法』マルク・ブロック 著(1928年) 高橋清コ 訳 講談社学術文庫 (2017.7月)P.49~50より。



★先日のブログ記事(http://sagasengoku.seesaa.net/article/459013034.html)で触れた、佐世保市の「井手平城の戦い」を考えるだけでも、長崎県史と佐賀県史は不可分の関係にあります。我々が普段、いかに相互の「県」の区別に縛られ、自由な論考が制御されてしまっているか。特に肥前は、「県」どころか「国境」をまたいで、中国や朝鮮、東南アジアなどと活発な経済活動が行われているので、実際もっと「境界」は見えづらいですね。そういった事を考えさせられる、フランスの歴史家マルク・ブロックの名著でした。


佐賀戦国研究会






posted by 主宰 at 02:11| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■歴史から何を学ぶか (論評集) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする