2018年04月26日

【新説】井手平城の戦いには「龍造寺軍も加勢していた」と鍋島直茂が言っている。



豊臣秀吉の九州征伐前、天正十四年4月頃に勃発したとされる、長崎県での「井手平城の戦い」。
従来は「大村純忠+有田盛+波多親+有馬晴信 VS 松浦鎮信」 の戦いとされてきました。

しかし実は、一次史料、鍋島直茂の肉声によれば、
龍造寺軍も参加していたのです。



★天正14年 4月17日 鍋島直茂から成富十右衛門(成富兵庫茂安)への書状。



三月廿二、案住小兵へ伝書、卯月十七日到着、披見、得其意候、
一、薩衆豊州入就彼是、急速質人之儀被申候条、此内申拵、此方存分之儀候、神文銘々被相調候上、種実人質此方へ被召置、四月六日、秀嶋進士左衛門被差出候、於此上二雖難有異儀存候、于今も種々違目之義、無正躰候条、熟談之一着無之候、如此相違於増長者、此方地盤無緩候、手前聊気遣被申間敷候矣、
一、爲質人、千惣被差登候、定而可爲参着候間、弥安国寺可爲御指南之由、千惣引合細砕申渡、其方事は早々下向待申候、其元様子被聞召度候由候条、申事候、
一、廣門・紹運事、人質取替、聢被申談候間、種実・廣門間之儀、弥隔心之躰、可有推量候矣、
一、隈部親永父子各別二て、親泰事は長野要害へ楯籠候処、従薩被差続候、永事者(→親が脱字と思われる。親永事者)、親類尽同心を以、多久河内江引入候、親人は自豊州少々加勢候由候へ共、難儀之通申来候、就其肥後国衆なとへも雑説無心事候由、申散候矣、
一、対馬波多親被仰談到平戸被差懸候、数度親へ異見雖被申候、如此候条、従是も寄々衆被差出、ひう、はい方両城切崩、敵弐百餘討取、被得大利事、
一、右之趣細書相認、芸州迄差遣候ツ、自然遅参もやと、任幸便、又々申遣候、其外筑後境目なと少も無替儀候、爲存知候、恐々謹言、
 卯月十七日  信生 (御判)
   成十  万いる  旅所   」


佐賀県史料集成 第二十六巻 『有馬雑記餘事』 P.268〜269



→ この書状は極めて重要で、『佐賀県近世史料第一編第一巻』P510〜511「直茂公譜考補 五乾」に収載の書状と、『有馬雑記餘事』収録の文面では、内容が若干異なります。
異同の結果、『有馬雑記餘事』の方を簡潔に意訳します。


鍋島直茂いわく、
「薩摩軍は豊後へ出兵するにあたり、当方に速やかに人質を出すよう伝えて来た。そのため、こちらも準備や起請文を調え、秋月種実から人質が当方へ送られて来た事でもあるので、4月6日、秀島を島津氏へ人質として差し送った。ここまでしたからには島津殿に異存はないだろう。島津氏との話し合いは、今まで意見の相違があり、落着していない。島津氏が増長するのなら、当方にも固い覚悟がある。この件に関しては、十右衛門、気遣いは無用じゃ。

一、上方への人質としては千布惣右衛門を送った。到着したら安国寺恵瓊殿の御指南の件を千布へ細かく申し聞かせて、その方は早々に佐賀へ帰ってきて欲しい。またその方の今の状況を手紙で知らせてくれ。

一、筑紫広門と高橋紹運との間で人質交換の相談がされている事は、反島津となる筑紫広門と、親島津の秋月種実との関係が、こじれるという事だ。推して知るべしという所だ。

一、隈部父子の事だが、隈部親泰は長野の砦に籠城し島津氏へ反抗している。隈部親永は龍造寺家中みなの同意のもと、多久の河内に匿い、保護している。隈部親人は大友氏から少々加勢をもらっているようだが、島津氏への抵抗が困難な状況だと知らせが来ている。肥後国衆たちの動向にも根拠のない噂があり、不安定だ。

一、唐津の波多親が、平戸松浦氏へ合戦を仕掛けるという。数度、制止をしたのだが、この如くである。我々からも、最寄りの軍を加勢に出した。そして日宇、早岐の両城を切り崩し、敵200余を討ち取り、大勝利を得た。

一、これらの詳細は書状に認め、毛利氏へ差し出した。もし到着が遅れるといけないので、この様にそなたへ書状を書いて送った次第だ。その他は、筑後境目の事などは少しも変わりは無い。上記お知らせしておく。

(天正14年)4月17日、鍋島信生(直茂)  
成富十右衛門へ  」



なお、井手平城の戦いの前には、波多親から龍造寺氏へ何度か内談があった事が判明します。
7日前、4月10日付の下記書状へ。



★天正14年 4月10日 波多親から龍造寺政家への起請文


 敬白起請文之事
西目弓箭之儀、毎々遂御内談候、彼企之儀、乍勿論、對政家信生非野心之企候、壹州之儀累代之本領候、彼一嶋、一度如前々落着有度之心底迄候、至平戸去々以来純熟之儀、高嶋之以大曲右京亮、連々雖盡口能候、今日迄者、従平戸無許容候、従爰許平戸二申遣候入魂篇目之事、
一、任御内儀、田布施久千代殿御袋至鎮信相嫁之事、種々雖申拵候、従平戸被申切候事、
一、至道可息女、藤童相嫁之儀、去々年冬時分より申遣、去師走下旬時分迄雖申試候、今日迄是非之返事無之事、
一、高嶋傳一圓無取相候間、野上清也を以内意申越、互神戴之儀共雖申候、是又終二無承引之事、
 右之趣、聊無偽候、為御分別細碎申分候、此旨於表裏者、
梵天帝釈四大天王、惣而日本国六拾余州大小神祇冥道、別而者肥前国鎮守千栗八幡大菩薩、河上大明神、殊氏神田嶋大明神、佐志若宮八幡両社、波多権現八幡両社、唐津両大明神、鏡両大明神、天満大自在天神、神罰冥罰可罷蒙者也、仍起請文如件、
 天正十四年卯月十日  波多下野守 親(花押)
 政家 参 」  

佐賀県史料集成 第三巻 『龍造寺家文書』 一七三号文書


→簡潔意訳します。

波多親曰く、「西肥前での合戦の事は、度々内談した通りです。この企ては、もちろんながら政家・信生に対して野心を企てているものでは無い。壱岐は、当家累代の本領である。この島については納得できるようにしたく、高嶋の大曲右京亮を以て、平戸へ先年から深く相談を重ねてきたが、今日まで平戸から許容は無かった。当方からは平戸には入魂に筋を通したつもりだ。
一、田布施久千代殿御袋を松浦鎮信に嫁がせる話を、色々と段取りしていたが、平戸は断ってきた。
一、松浦道可(隆信)の娘と、藤童の婚姻の事、天正12年の冬頃から申し遣わし、天正13年12月下旬頃まで対応を伺っていたが、今日まで返事は無かった。
一、高嶋伝一圓の事について、野上清也を以て相談し、起請文を交わす話を持ち掛けたが、最終的に平戸は承知しなかった。
これらの事に、いささかの偽りも無い事を誓う。詳しく説明したので、(これから戦を仕掛ける事になった経緯の)理解をお願いしたい。」


→ 【考察】波多興の時代に領地化した壱岐は、波多氏にとって飛躍のきっかけであり、後に松浦鎮信に奪取されますが、波多親は壱岐を波多氏の「累代の本領」として意識していた事、それ故に取り戻したい気持ちが分かります。松浦氏と様々交渉するも上手くいかず、「西目弓箭」つまり西肥前で松浦氏と合戦を決意し、かつその件は、龍造寺氏へ何度も内談していた事が分かります。



つまり西目弓箭とは、佐賀郡や唐津から見て西の西肥前・長崎県域。時期的にも天正14年4月頃、「大村純忠+有田盛+波多親+有馬晴信 VS 松浦鎮信」の、井手平城の戦いの事に当たります。

結果的には波多氏は、合戦を行う目的を達成はできませんでしたが、注目すべきは、龍造寺隆信死後も、波多氏は龍造寺氏を疎略にすることなく、盟友として緊密な関係にあった事が分かります。(龍造寺政家に過度の敬称が付かない事、かつ龍造寺氏と婚姻関係があるため、へりくだる従属関係ではなく、親密な盟友関係であると考えて良いと思います。)


【井手平城の戦いに関する概説】


「『境目』争いのなかでも焦点となったのは、小森川流域の井手平城と広田城をめぐって天正十四年(一五八六)に起こった平戸松浦氏と大村氏との戦いである。井手平城をめぐっては、すでに天正二年(一五七四)、当時大村方であった城主遠藤千右衛門(生没年不詳)が平戸方につき、大村純忠は大村純晴(生没年不詳)に命じてこれを攻撃したことがあった。『印山記』によると、遠藤千右衛門はその後龍造寺隆信(一五二九〜一五八四)に内通したらしく、松浦隆信によって滅ぼされている。『印山記』では天正二年の時点をもって、佐世保・日宇が平戸領になったと見なしている。その後龍造寺氏の勢力拡大によって、松浦氏、大村氏はともに逼塞を余儀なくされたが、天正十二年(一五八四)、龍造寺隆信が島原の沖田畷(現島原市)の戦いで討死し、有馬・島津勢に破れたことから龍造寺氏の勢いが急速に衰え、平戸、大村の境目争いは再燃することとなった。
 大村方には波多鎮、有馬勢、そして有田盛も加わったようである。これに対して平戸方は、井手平城、広田城に籠城し、大村勢の攻撃に備えた。しかし、波多・有田勢は有田方面より、大村・有馬勢は早岐の神徳寺方面よりそれぞれ井手平城を包囲し、城は陥落、城代岡甚右衛門(?〜一五八六)以下の城兵は奮戦虚しく討死した。その後広田城も包囲されたが、有馬勢が帰したのと、平戸松浦の援軍が到着したことによって、大村氏らの軍勢も撤収したと、『印山記』などの記録には記されている。なおこの戦いの後、松浦隆信は、薬王寺(現佐世保市新替町)を建立し、戦没者を供養した。境内には城代岡甚右衛門らの供養塔などが残されている。
 この戦いを経て、平戸領と松浦領との境界が舳峰峠(へのみねとうげ)(現佐世保市重尾町・瀬道町)に定められ、近世の平戸藩領と大村藩領との境界となった。したがって現在の佐世保市のうち、この峠より北は江戸時代には平戸藩、南は大村藩と分かれていたのである。

 第四節 秀吉の天下統一と朝鮮侵略
 1  九州国分

 織田信長(一五三四〜一五八二)の天下統一事業を継いだ豊臣秀吉(一五三六〜一五九八)は、天正十三年(一五八五)の末には、すでに薩摩の島津氏に対し、九州における戦国大名間の領土紛争を停止すべき旨の停戦令が伝えられていた。秀吉のこの停戦令を察知した平戸松浦氏は、井手平城・広田城の戦いの直前と思われる天正十四年(一五八六)三月十三日に、秀吉に対し書状を送っており、秀吉のもとには五月二十六日に到着している。その二日後には「松浦肥前守」に充てて次のような文書が発給されている。

『豊臣秀吉書状』

  将又孔雀進上之儀、珍敷思召、自愛并南蛮笠・象牙・猩猩々(ママ)皮胴張、是又被悦思食候、以上
 三月十三日書状、今月二十六日到来候、抑九州之儀、対毛利・大友・島津某々国分儀、雖被仰付候、其方儀者、先年書状等差上、懇被申越之条、人質以下如御存分於進上者、進退之儀無別条候、各々可被仰出候間、心安可存候、猶尾藤左衛門尉可申候也、
  (天正十四年) 五月二十八日  (豊臣秀吉 花押)
 松浦肥前守とのへ (松浦文書)

(中略)この史料によれば、松浦氏がこれ以前すでに秀吉に書状を送っていたので、人質を差し出せば「進退之儀」、つまり領国支配は変わりなく認める、と秀吉側から伝えてきている。この文書が井手平城をめぐる争いのさなかに、豊臣政権側と交わされていたことは重要であって、大村氏との「境目」であった早岐の地を実力で争うような行動は、豊臣政権による惣無事令以降は「私戦」として禁止される。このため、大村氏は平戸領化しつつあった早岐の地を、豊臣政権による領土確定の前に自領化しておきたいと考えていたのかもしれない。一方の松浦氏は、やはり来るべき豊臣政権による領土確定の際には、あくまで松浦氏支配下に置いておきたかったのであろう。
 そして翌天正十五年(一五八七)、秀吉は大軍を率いて九州征伐に向かい、島津氏は秀吉に降伏した。秀吉は、同年六月、九州国分を行い、松浦鎮信、大村純忠ともにその所領を安堵された。近世に続く平戸藩、大村藩の基礎は、ここに定まることとなった。」


『佐世保市史 通史編 上巻』 佐世保市発行 (平成十四年四月)P.442〜444 より














posted by 主宰 at 00:05| 佐賀 🌁| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする