2018年01月20日

★龍造寺隆信による遠隔地支配の実情について


過去記事にご質問の書き込みを頂き、返信をお書きしたのですが、龍造寺隆信による遠隔地支配の実情について、参考になる先行研究情報を含みますので、全体共有したいと思います。

何らか、皆様の参考になれば幸いです。

※ちなみに、当会が半年先まで何かしらの企画作業を抱えており、ご質問へは中々応答が難しい状況です。
ご質問を書き込まれた場合、かつ内容が込入る場合、返信ができない事が多いと思います。
この点何卒ご容赦下さい。本当にすみません。


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★ご質問内容:


「こんにちは。失礼ですが、お詳しいのではないかと思い、お聞きします。

龍造寺隆信は五州二島の太守と呼ばれ、肥前・筑後はもとより筑前・肥後にも軍勢を進出させ、一定の範囲は支配したと言えると考えています。ところがその他、豊前と壱岐、対馬については、どの程度の関わりがあったのでしょうか。例えば豊前は、確か隆信の弟の信周が派遣されたといろいろなところで見かけますが、これは同時代資料などでも読み取れることなのでしょうか。

また、壱岐や対馬が従ったというのは、例えば龍造寺が将兵を送って支配したということはないと思いますが、壱岐や対馬の将兵が隆信のもとに参陣したのでしょうか。それとも外交上の関係だけでしょうか。
大変恐縮ですが、上記についてご存知の事実があれば、ご教示ください。「信憑性」についても言及していただけるとありがたいです。」  


  yamada_richard 様より(2018年01月16日 09:09)




★ご返信内容:


「こんにちは。『信憑性』との事で、できるだけ先行研究からご紹介します。

<一>

「龍造寺隆信の軍事的構成は『かり武者』の姿にあるといわれる。その権力体制は『起請文関係を多用し、国人衆と盟友関係を設定し、信義的倫理観をもとに一括的に軍事力化する方式であった。しかも、起請した国人に彼と盟友関係にある国人に相互に起請させ、横の連合体を構成させ、彼らを「国方衆」・「方向衆」として把握し、その軍事力をもとに農民夫役を徴収した』(森山恒雄氏『龍造寺隆信』(別冊歴史読本一九七七年夏三号)という。」

『北部九州の戦国大名領下の村落とその支配 −大内・龍造寺氏の権力構造論序説−』太田順三 氏 『研究紀要』佐賀大学教養部編 Vol.15 (1983年3月)より。


上記を踏まえまして、

<二>

「一、対龍造寺隆信・同政家、為長野式部太輔統重、当末不可存別儀之事、
 一、就国家、統重存分共候者、聊無隔心可致密通之事、
 一、従隆信・政家、如何体之密々之儀被仰聞候、口外他言有間敷之事、
    右、條々於相違者、(中略)別而、当国鎮守宇佐八幡大菩薩、殊、当庄大分八幡大菩薩、(中略)
   長野式部太輔 統重 判  
 天正九年十二月十三日
 龍造寺殿」

『永野御書キ物抜書』堀本一繁氏翻刻 148号文書『戦国の九州と武雄 −後藤貴明・家信の時代−』 武雄市図書館・歴史資料館 編集発行 (平成22年2月)より。

→ 豊前の国衆・長野氏から龍造寺氏宛の起請文です。

敬称の程度から「完全な被官化ではなく」協力的従属の意を伝えたものと見えます。西肥前、筑後、肥後の国衆の起請文にこういった類例が多数あり、<一>の解説のように、東肥前から遠い筑前、豊前の国衆とは起請文で従属関係を約すのみで、直接的な実効支配はできていなかったと考えております。その為、仰る所の「一定の範囲は支配した」その内実は、起請文の「交わし」による協力的従属関係があったに過ぎず、非常に脆い結びつきであったと思います。

「かり武者」といっても、管見の限り、遠隔地から軍勢を動員した具体的なケースを資料で余り見かけません。対馬の宗氏についても少弐政資の時代までは少弐氏の督促で筑前や肥前に出兵していますが、龍造寺氏が軍事や貿易関係で直接動かしたような記述を見たことはありませんし、壱岐も、どちらかというと松浦平戸氏、松浦鎮信の支配下だったように見えます。

龍造寺信周についてですが、後世の編纂史料『直茂公譜三』中、天正九年、

「隆信公、豊前国為御征討五万騎を被卒、舎弟安房守信周を監軍にて先博多迄御出陣有、(中略)豊前へは信周に軍兵を副て被指向、(中略、高橋元種が参陣し、)当国の大名城井常陸助鎮房・長野三郎左衛門鎮展・時枝平太輔を初とし、規矩・田川・中津辺の輩敢て一戦にも不及竜造寺に相従う、信周不戦して豊前国を治め、少時在国あり、政務を司り偖帰陣しけり」

とあり、<二>の一次史料である起請文と、年次は一致します。

遠征に際し信周は戦っておらず、ドミノ倒しのように豊前の国衆が続々龍造寺氏に帰参したようです。そして政務とは、上記に踏まえたようにまさに豊前の諸氏と縦・横に起請文を交わす・交わさせる作業と考えられます。信周は少しの間豊前にいて、帰陣(おそらく隆信が本陣を置いていた博多へか)とあります。少しの間いた程度ですので、とても実効支配ができていたとは思えません。

さらに同時代資料としては、天正十二年三月二十六日、沖田畷合戦直後の時期の、龍造寺信周の書状写が前掲の『永野御書キ物抜書』91号文書としてあり、文中、
「此表之儀、御気仕有間敷候」→ 信周は本国肥前や・鍋島氏が管轄している筑後には居ない事が見えます。
「返々、御左右可承ために人を進候、先にも一人申付候、未帰着候、余無心元候」→実はこの2日前、沖田畷合戦で隆信は戦死済です。速報であるはずのその知らせが、2日経ってもまだ届かない距離に、信周は居たことが分かります。

これらの事から当時信周は、隆信の代官として、肥前筑後から遠い「此表」→筑前のどこかに駐屯していたのではないかと考えます。


以上にて、ご容赦下さい。」


  佐賀戦国研究会 主宰 深川 より(2018年01月20日 02:28)





【2018.1/20 19:31 ★追記】

「隆信の軍事力は多数の国人層を配下に従えたことで強大化したが、その主従関係は、領国の周辺になるほど薄弱であった。また、領国の急激な膨張に、領国支配の強化が即応しない面があった。なお、家文書としては『竜造寺文書』がある。これには隆信宛の起請文が多数あり、竜造寺氏の勢力範囲の広さを示している。」(佐伯 弘次 氏記)

『戦国武将・合戦事典』峰岸純夫・片桐昭彦 編 吉川弘文館 発行(平成17年3月)P215より。

→佐伯先生も上記の様に解説されています。










posted by 主宰 at 03:10| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする