2016年09月09日

【2016.9/9付】白峰旬先生による九州地方の関ヶ原合戦についての考察 【1−1(分割)】



★先日から鍋島直茂考察について非常に沢山の御教示を賜っております、白峰旬先生より、
総括的な御考察を頂きました。歴史ファンもですが研究者必見の内容だと思います。(佐賀県史料集成 古文書編 第11巻については文書の年次・月の比定も施して頂いており重要です。)
光栄ながら許可を得て当ブログへUP致します。皆様是非ご参照ください。

★なお佐賀市近郊の方へメッセージですが、佐賀県立図書館の郷土資料室で「佐賀県史料集成 古文書編 第11巻」は読めます。白峰先生から下記の通り、最新の先行研究を提示して頂きました。下記はコピ―アウトして、原文と照合していくと、大変面白く勉強できると思います。

「関ヶ原決戦前後、鍋島直茂の様子はどうだったのか。」

同時に、高橋陽介氏からの御提案も共有します。

「ひとまず直茂公譜と考補、勝茂公譜と考補は、おいて考えましょう。」


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(佐戦研より)まずは白峰先生の考察文中に挙げられております『吉川家文書之一』153号文書について、8月21日佐賀で発表の高橋陽介氏レジュメ史料から、孫引きでご紹介させていただきます。御寛恕下さい。

■高橋氏添付史料:【史料15】「八月四日付 吉川広家宛 黒田如水書状」(吉川家文書)」より。
■『吉川家文書之一』、153号文書。 ※白峰先生御指摘で、この文書は8月20日のものとします。


 尚々、たしかなる人御越候へと御留守中申遣候間、御参次第追々申入候、
去月廿三日御状、昨日拝見申候、
一、天下成行不及是非候、かやうあるへきとつねつね分別仕候間、おとろき不申候、
一、甲州事、御気遣なされ候よし、忝存候、
一、豊前儀、少御気遣いなされましく候、加藤主計申談候間、いつれより仕懸候ハヽ、一かせんにて可相澄候、
一、京之使、書状進之候、可相着候、
一、今度弓矢成立申ましきと存候、残多候、又、弓矢御なれ候衆、貴殿まてさし申し候、
一、口上ニて申候間、不委候、
一、日本何様替候共、貴殿・我等半替申ましく候条、其御心得候へく候、尚追々可申入候、恐惶謹言、
八月四日 黒田官兵衛如水
広家様 貴報  』

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ここから本編です。


★【2016.9/9付】白峰旬先生による、九州地方の関ヶ原合戦についての考察。


【『吉川家文書之一』、153号文書】

▼3条目と5条目は、黒田如水がこれから九州で起こす予定の軍事行動について述べている。一合戦で済む (3条目)とか弓矢 (戦争) は成り立たない (5条目)と自信満々である。5条目は天下の合戦の動向を述べているのではない。この特点(8月20日)でまだ合戦になっていないのは九州だけなので、5条目の弓矢というのは、これから黒田如水が九州で起こす予定の合戦のことを指している。5条目は天下の合戦の動向を指していると考えると、他の地域はすでに合戦になっているので、その点だけでも矛盾していることがわかる。

▼この書状では、黒田如水は家康のことについては一言も触れていない。また、家康に味方するとも書いていない。その一方で奉行衆 (豊臣公儀) に味方するとも害いていない。つまり、この時点 (8月2O日) でも黒田如水は家康に味方する立場を表明していない。この書状では、黒田如水がこれから九州で起こす予定の軍事行動以外は、あたりさわりのないことしか書いていない。詳しくは口上でとしているので(6条目)、黒田如水の本心は使者の口上で述べる、ということを示す。つまり、書き方としてはかなり巧妙なしっぽをつかまれない書き方である。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)13号文書】
この書状は年月日の記載なし

▼文中に「如水」が出てくるので、その死没年月日(慶長9年3月20日)以前の内容である。

▼文中に、家康が来る7、8月に江戸へ下る、としているので、6月以前であることは確実。家康は、慶長9年は閏8月14日に伏見発、9月13日以前に江戸着なので(『織豊期主要人物居所集成』、122 頁)、この書状は慶長9年か?


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)16号文書】

▼文中に「名嶋」とある点がポイント。黒田家は福岡築城 (慶長6年〜同12年)の前に一時的に名島城に入っていた。よって、この書状は慶長5年ではない。この書状は慶長6年〜同12年か?

▼文中に「於大坂、公儀為遣方」とあり、これが豊臣公儀を指すとすれば、慶長6年以降も豊臣公儀が存在したことを証明する事になる。とすれば、笠谷先生の二重公儀論の論証のうえで貴重な文書である。


【『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)17号文書】

▼文中に、龍造寺隆信の十七年忌法要のことが書かれている。龍造寺隆信は天正12年 (1584)死没なので、この書状は慶長5年である。

▼文中に、「北国之様子」がいまだ済んでいないので、鍋島直茂は(豊臣秀頼から) 暇(いとま)がとれないと述べている。よって、慶長5年2月9日の時点で、いまだ家康による前田討伐が決着せず緊張状態にあったことがわかる。

▼文中で、「隆信」と呼び捨てにしている点に注意すること。当時の書状では「輝元」、「景勝」など呼び捨てにした用例は存在する。この場合、呼び捨てにすることは必ずしも失礼な意味ではない。 』



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★ 分割してUPします。後日に続きます、お楽しみに!





posted by 主宰 at 23:31| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする