2016年09月28日

【全体】第二回・第三回 佐賀戦国勉強会・座談会 開催告知

★告知リリースします。同時にDMハガキを発送します。



第二回 ・第三回  佐賀戦国勉強会・座談会



■第二回:平成28年 10月30日(日) 13:00〜16:30

■第三回:平成28年 12月17日(土) 13:00〜16:30

■場所:佐賀市市民活動プラザ(白山) 4階 
アクセス:http://www.tsunasaga.jp/plaza/access.html

■参加費:各 300円(会場代として)
  
 ★今回、場所を広くした為、事前予約・連絡は不要です!


★内容:「直江状」朗読の鑑賞や、第一回の高橋陽介先生による「関ヶ原合戦に関する一次史料の研究発表」の内容振り返りと、九州の関ヶ原合戦研究について。・中西豪先生による解説。

★また他に予定がなければ『関ヶ原合戦の真実』著者、白峰旬先生がお越し下さるそうです。座談会・質疑応答あり。非常に貴重な機会です。

★歴史雑誌『忘却の日本史』発刊元社長、舞秀和氏もお越しの予定。


開催後、夕食兼ねて懇親会をします。参加はご自由ですので、お時間ある方は当日是非ご参加下さい。



常連様のみにハガキをお送り致します。12月開催の告知も含みます

※【重要】第一回御参加の方は、配布した資料一式をご持参下さい。第二回・第三回も使用します。お忘れの場合、\200円申受けます。

★佐賀城ではなく佐賀市市民活動プラザにて佐賀戦国勉強会・座談会を行います。(椅子+テーブル席)

前回『一次史料にみる関ヶ原の戦い』をお書きになられた、高橋陽介先生に御参加頂き一次史料を用いて黒田如水と吉川広家の動向を解説頂きました。非常に専門的内容であったので、前回内容を踏まえ連続して第二回・第三回ともに「九州の関ヶ原」を会で研究してみたいと思います。


★お問合わせは、MAIL:sagasengoku@live.jp まで。
沢山の御参加をお待ちしております。



posted by 主宰 at 15:48| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■佐賀の戦国史 講演会について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月18日

★慶長五年関ヶ原合戦時期における佐賀城外郭の防衛普請考 B



■2016.9月25付 追記と改編済

考察@:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441818339.html
A:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441881763.html
続きです。

――――――――――――


■蓮池城に関する先行研究への、いくつかの考察。


★『海路』5号(海鳥社 刊)平成19.11/1発行 『中世城郭の終焉』宮武 正登 氏著 P.96〜97より
『(慶長8年の)この段階は、佐嘉城自体を鍋島本城にする気構えではなく、その東方五キロに位置する蓮池城を拠点化する方針で整備に勤しんでいる。慶長8年までには「天守」も完成しており、佐賀にも近世城郭のアイテムが整いつつあったことを明示している。』

一、→宮武先生御指摘の鍋島氏による蓮池城の「拠点化」については、『坊所鍋島家文書』や直茂・勝茂公譜考補などの情報から読む限り、その可能性が高いと思われる。もう一つ根拠を加えると、『勝茂公御年譜一』最終の一文、慶長5年『今度の暮、御父子様の両御前様、大坂より御下国あり、蓮池の城へ御入、』とある。直茂と勝茂の妻は、帰国して蓮池城に入ったという。

しかし前掲Ahttp://sagasengoku.seesaa.net/article/441881763.htmlの、歴代蓮池城主一覧の通り、江上家種が死去した後、慶長5年関ヶ原決戦前の時期に鍋島生三が城番として入るまでの間、蓮池城の城主や管轄がどうなっていたのか管見の限りにおいて明確な史料がなく、勝茂公御年譜一では慶長17年に、江上家の家督や東肥前〜筑前・筑後内の領地、及び武具の類までを勝茂が相続したと記載されているが、蓮池城について言及はない。(先行研究である参考資料13上でも、この時期の城主詳細不明の旨記載あり)

御家全体の防衛の要である蓮池城を、慶長5年に於いて、はたして御家の直轄というより「鍋島氏が蓮池城を支配」していたのかどうか、明確に証明ができない。ひとまず慶長8年までにおいて蓮池城を、鍋島氏のものとして考え過ぎてはいけないと思う。

ひとつ考慮したいのは、江上家種が城主の時、神埼郡から城原や神埼の人民が蓮池城下に移住し、城下町を形成した事。その名残として蓮池城下に「城原」・「神埼」地区などの名が今でも残っている。確かに『坊所鍋島家文書』や直茂・勝茂公譜考補などの情報から、慶長四年頃以降の蓮池城は鍋島直茂の管轄下にあったと考察できるが、はたして城下に龍造寺隆信の実子であり重臣である江上家種が率いていた武士や民衆を置いたまま、鍋島氏は蓮池城を自家のものとして「拠点化」へ向けて普請できるものだろうか。

まず以て江上家種が、朝鮮の地で謎の変死を遂げた事も気になる。また、城原衆には家種が江上家へ養子に入る時に付き従ったとされる、鍋島一門の鍋島新左衛門種巻(たねかず)が居り、関ヶ原合戦時には上方の軍勢に含まれる。彼は精鋭部隊で知られた江上「城原衆」のち「蓮池衆」の一員で『勝茂公御年譜一』上、勝茂の江上家家督を相続するのを支持して運動したとされる。しかし江上家中総意として、そう易々と直茂・勝茂にまつろうのだろうか。元来江上家は大蔵党、かつ少弐家恩顧の由緒ある名門で、鍋島家よりも格上と考えられる。結果的に行われた江上家から鍋島家への権利譲渡は、勝茂公御年譜一の記述内容を読んでも、非常に複雑な経緯や、葛藤があるように見える。

これらの事も関係して『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)19号文書中、『蓮池城とその周辺の普請は、目立たないように、少しづつ行ってくれ。他方の批判を受けては云々』と、直茂が龍造寺家中に対し気遣う状況であるのだろう。

つまりは、蓮池城周辺の普請は、鍋島氏が蓮池を私物化するのではないかという「疑惑の目」を向けられながらの、龍造寺家・御家のための『防衛拠点化』であると考察する。特に騒乱に備えては、蓮池周辺の普請が必須である事は当ブログ上で前述した。直茂は非常に複雑な心境にあったのではないか。


二、→『慶長8年までには「天守」も完成しており、佐賀にも近世城郭のアイテムが整いつつあったことを明示している。』のくだりに対しては、『海路』11号(海鳥社 刊)H25.4/20P発行 『九州にとって「織豊」とは』木島孝之 氏著 P.22〜23で、木島先生は『いずれにせよ、名護屋城天守の築造以前、すなわち天正年中すでに蓮池城の天守自体が存在していた事実は、先の史料Aによって揺るがぬところである』と指摘。この点、宮島先生の論調と齟齬がある。

(史料A=『佐賀県史料集成 古文書編 第21巻』 鍋島主水宛加藤清正書状。清正は、名護屋城普請において佐賀から急いで、天守を献上するのが良いと言っている。かつ本文の前書きとして、蓮池城の天守を名護屋城本丸の天守として献上した事を記載。※後述で木島先生は、天守が本当に名護屋城へ移されたのかどうかは議論の余地がある旨示唆。)

木島先生の言う、天正年間に存在した蓮池城天守を「近世城郭」のアイコンと捉えた場合、佐賀では慶長6年以降ではなく、すでに天正の頃から、近世城郭のアイテムが整いつつあったことになる。


三、『海路』5号(海鳥社 刊)平成19.11/1発行 『中世城郭の終焉』宮武 正登 氏著 P.101より
『朝鮮出兵後、蓮池城を新時代の居城とするべく整備に余念のなかった鍋島勝茂は、重臣鍋島生三に対して「天守雨もり」がひどかったので「かわらにしゅっくい(=漆喰)念を入れ」るようにと、江戸参府途中で機になったのか伊豆三島から指令を出した。』と宮武先生は書かれているが、勝茂が朝鮮から日本に帰国した慶長3年12月から、引用された書状の年次慶長6年までの中央の政情が激動する3年間が考慮から外されている事に留意したい。かつ『坊所鍋島家文書』上、慶長5年あたりまでは、勝茂ではなく、鍋島直茂が主導で蓮池城の普請指図をしている様にも読める。そのため、『朝鮮出兵後、蓮池城を新時代の居城とするべく整備に余念のなかった鍋島勝茂』という表現については、疑義を呈せざるを得ない。



★参考:
『佐賀県近世史料 第一編 第二巻』P.4〜6『勝茂公御年譜一』より簡潔訳:

「天正17年、勝茂公十歳の時、慶ァ尼が仰せられた事には、鍋島飛騨守(直茂)はすでに政家の名代として、国政を承り公儀の勤めを行っている。しからば飛騨守の子、伊勢松(勝茂)は、江上家種の養子に入れるのが良いだろう、と。江上家種公も同意されて懇望の上、直茂公へ相談したが、「伊勢松は、鍋島の子孫です。これを他家へ養子に出すのはご勘弁頂きたい」と直茂公は辞退。慶ァ尼がこれを聞き「もっともな事だ。左様であれば、やはり鍋島の名字のままで、家種の姫と婚姻させ、江上家の家督を譲るようにしよう」と仰せになり、直茂公によく相談されて、こうなると直茂公も辞退に及ばず、承知された。そして伊勢松公(勝茂公)は神埼の城原、家種公のもとへ移住した。」

「しかし江上家中の一部は、家種に実子がいるにも関わらず、家督が伊勢松公に譲られる事に納得せず抗議の申し立てをしたため、騒動でやむなく伊勢松公は佐賀に帰った。しかし養子容認派が運動し、結果的に伊勢松公は江上家の家督相続者となって、東肥前における江上領と筑後・筑前の内2,500町を相続。江上家の親類、家中、武具、馬具など全てを伊勢松公が相続した。」

「天正17年に江上権兵衛尉家種公は、勝茂公を養子に迎えた後、奉公なり難しとして、隠居分僅かを引き分けて知行されたため、今回の朝鮮の役へは少人数の手勢で参加されたとの事だ。隠居領を分けた先は、実子である佐野右京(初めは孫太郎)と勝山大蔵(初めは左近)である。」




(つづく)






posted by 主宰 at 00:31| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■佐賀の戦国史 講演会について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月13日

★慶長五年関ヶ原合戦時期における佐賀城外郭の防衛普請考 A




★@ http://sagasengoku.seesaa.net/article/441818339.htmlの続きです。


■参考資料追加:
(12):『佐賀市史』第二巻 近世編(佐賀市 刊)昭和52年 7月29日発行
(13):『神埼郡郷土誌』上・下合本、復刻版(名著出版 刊)昭和49年3月26日刊(原本は大正4年に刊)


【2016.9/13付】
―――――――――――――――

歴代の蓮池城主(龍造寺時代以降)■ 【参考資料(7)・(8)・(11)・(3)・(13)】


・永禄11年 月は不明〜 龍造寺長信 (11)巻之十七

・元亀元年9月〜 龍造寺家晴 (11)巻之二十では10月(後年一貫して城主だったかは不明)

・天正12年4月〜 鍋島直茂 (8)

・天正17年1月〜 江上家種(文禄2年、江上家種、朝鮮にて没) (8)

★慶長5年 7月末〜8月頃 城番として鍋島生三 (参考資料(10)『坊所鍋島家文書』155号 白峰旬先生慶長5年比定)

・それ以降、いつからか不明だが、慶長年間〜元和元年一国一城令まで、石井一門が直茂の意向によって城代・城番を務めた。(8)



【補考情報】

■天正13年 龍造寺隆信没後、戸次道雪・高橋紹運ら豊後勢が筑後へ侵攻して来た時、直茂は柳川城に入って防戦に努めた。柳川城主の家晴は城を出て、久留米方面で龍造寺政家と共に布陣。【参考資料(8)P.503 】

■参考資料(8)P.823に、蓮池城の縄張り上、本丸とは別に「南小曲出城」とある。龍造寺鍋島氏の蓮池城が、小田氏の旧蓮池城(小曲城)の主郭を包摂し拡張されていたことが想像できる。

■「直茂の意向で」石井一門が城代・城番をつとめたという記事の典拠→【参考資料(8)P.823 】

■慶長7年 鍋島勝茂の嫡男、元茂が蓮池城で生まれる。 【参考資料(7) 御年譜二 P.32】

■慶長16年 佐賀城の修築成り、蓮池城にいた(勝茂の?)「御子様方は皆々」佐賀城へ移る。【参考資料(8)P.823】

■元和元年6月13日〜 一国一城令によって、蓮池城を破却開始。

■参考資料(13)P.323に、蓮池城歴代城主の変遷についてまとまった先行研究あり。その考察では江上家種没後は、慶長年間概ね鍋島直茂の支配下が続き、その後元和元年、一国一城令での破却から『寛永十六年蓮池支藩分封まで即ち約二十五ヶ年間は佐賀藩の直轄となれるものゝ如し』とある。

■資料(13)では、長信が蓮池城主になったのは永禄十年頃か、としてあるが資料(11)では永禄11年。『隆信公御年譜』でも永禄11年である。

―――――――――――――――

★今回:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html 2016年8/26付白峰先生御解釈上、7月16日付鍋島勝茂書状が「慶長5年」と明確に比定される時、歴代蓮池城主変遷の先行研究に付加して、慶長5年7月末〜8月頃には勝茂の命により鍋島生三が蓮池城番を務めた可能性を、新たに指摘できる。

★一次史料である坊所鍋島家文書を根拠に参考資料(3)や(12)上「慶長年間に佐賀城と蓮池城が連動して普請された事が分かる」旨論じられているが、資料(8)『直茂公譜考補』五乾 P.490を読むと『旧記』からの引用として天正12年6月頃『政家公直茂公へ御相談あって、佐嘉・蓮池の両城を修補され、要害を設けられけるに、直茂公世を御伺いあるの由謳説あり、玆に因り公御蟄居あって更々世事に御構いなし、』とある。つまり慶長年間より以前、天正12年6月頃、すでに佐賀城と蓮池城は連動しての普請構想があり、着手もされていた可能性がある。普請の理由は、沖田畷敗戦後、敵軍の襲来に備えるためである事は明らかである。


★『佐賀県史料集成』(古文書編 第11巻 「坊所鍋島家文書」)19号文書、直茂→平五郎茂里・生三宛書状について、参考資料(1)や(2)では、佐賀蓮池間の普請を含めて慶長12年のものと比定している。

ここで考察を試みる。上記の資料(8)『直茂公譜考補』五乾 P.490、天正12年の佐賀蓮池間の普請には、2つの特徴がある。ひとつは沖田畷敗戦後、島津や大友ら敵軍の佐賀襲来に備えた普請である事、ふたつめは直茂に「世を伺っている」との噂が立った事。

慶長の19号文書を、慶長5年と比定した時、関ヶ原合戦の年の2月晦日付なので政情は不穏、有事に備えて佐賀蓮池間を普請するのは天正12年を先例として自然であり、必然である。同時に19号文書で直茂が「目立たぬように、少しづつ行ってくれ。他方の批判が生まれては云々」とするその心情は、先例として天正12年の佐賀蓮池間普請時に、「他方の批判」=家中からの批判に遭っている事が理由であろう。天正12年は「直茂は御家を乗っ取る気があるのでは?」という噂が立ち、不本意な直茂は蓮池城に引き籠ってしまったとある。また白峰旬先生が先日御指摘の通り、19号文書を慶長5年と比定した時には「他方の批判」の他方=近隣の大名諸家からの批判・風説とも考えられる。結論として19号文書は慶長5年に比定の余地があり、天正12年6月の状況、2つの特徴「争乱に備えての普請」・「直茂への批判云々」において似ている。


(つづく)





posted by 主宰 at 05:09| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする