2016年08月28日

佐賀戦国勉強会・座談会レポートA−2 【H28.8/21】



レポ―ト続き。


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中西豪先生講演分:


・関ヶ原決戦の勝敗はおそらく9月中旬には佐賀へ届いていたはずだが、その後内府から赦免されるか分からないため、鍋島直茂は佐賀城の西の要、八戸地区に十間堀を掘らせ、臨戦態勢は継続していた。山本常朝の『御代々御咄聞書』の中で口伝として書きとめられている話に、佐賀に対して征伐が加えられた場合、直茂は一大迎撃戦略を練っていた。「九州に続々と出陣してくる内府方の大軍の本陣は、小倉に置かれるであろう、先陣が肥前筑前の国境に到達した時これを釘づけにし、一部隊は筑後を横断北上し、小倉へ回して乾坤一擲の奇襲を仕掛けるつもりであった」という旨。実際には後日、柳川攻めを条件に龍造寺鍋島家は赦免された。


・このような事から、鍋島直茂は関ヶ原決戦後も慎重になり、情勢が今後どうなるか分からなかったと思う。しかし私(中西氏)は、8月10日付、黒田如水宛鍋島直茂書状の時点で、内府方として旗幟は鮮明にしていたと考えている。伏見城落城の知らせを受け、かつ奉行衆からの「直茂も上方へ来るように」との催促には従っていない。「不審に思われてはいけないので、上京しようもしたが、ひとまず延期した」と鍋島直茂は如水へ言っている。これはすなわち、伏見城において敗れた徳川家康の方へ若干与する意図を明らかにしている。なおかつ家康に与同しているであろう黒田如水との連携を考えたものか。その後9月9日に黒田如水が挙兵し動くが、直茂が動くのは息子勝茂たちが上方から帰国した後、10月14日以降の、柳川攻めの時となる。


・8月24日〜8月26日、豊後日田の日隈城、森兵庫(森則慶)と鍋島直茂の往復書簡で、奉行方である森兵庫は鍋島直茂へ援軍要請をするが、この時の返書で直茂は「援軍を出したいと思っている」と書く。息子勝茂が奉行方として上方で活動しており無下にはできなかったはず。しかし本心は言を左右して、兵は送りたいけど、送る気は無い、というものであったと考える。援軍が送れない理由に直茂は「龍造寺政家様が援軍を許可されず」と挙げているが、政家は天正18年に隠居しており実権自体はないはず。それを理由にするのは言いわけに過ぎないとも見えるが、しかし政家の発言も家中においては大きなものであり、中央政権へは通じない言いわけではあってもおそらく、龍造寺の事情が知れている近隣諸家へは説得力のある言いわけであったと考える。


・江上八院の戦い(柳川合戦)。通説では、「二股かけた鍋島汚し、立花宗茂が意地の一戦で、鍋島勢を切り崩して鬱憤を晴らしたが、衆寡敵せず敗れ、黒田如水と加藤清正の扱いによって柳川城を開城した」というものだが、実際はどうだろう。これらは主に後世の立花系の軍記物や家譜に依るものであって、鍋島側の『直茂公譜考補10』を見ていくと、通説と比較して状況が変わってくる。寡兵で迎え撃った立花勢が「鍋島勢13段を8段まで切り崩す」のは無理があり、決戦場となったのは鍋島全軍の本陣ではなく、鍋島勢の「先手の」本陣。非常に立花勢奮戦し、鍋島先手の陣が崩れかけたが、鍋島の二陣・三陣が押し出してきて、立花方が敗退した。


・龍造寺領国を危うくしたのは鍋島勝茂であった為、龍造寺一族はかなり鍋島へ不満もあったと考える。その為、江上八院合戦において、鍋島平五郎(鍋島主水茂里)は、この戦いを龍造寺系ではなく鍋島一門で引き受けたかった。これは関ヶ原合戦における徳川方の先手と抜け駆け論考のミニチュア版的考え。


・中八院あたりの古戦場、現地を歩くと、クリーク(水路・水濠)の様子などからまず間違いなく、筑後平野、佐賀平野によくある「水城」だと思う。実は江上八院合戦の激戦は、この水城の曲輪内外をめぐる一種、攻城戦、守城戦であったと、私(中西氏)は提唱している。この点は雑誌『歴史群像』「鍋島父子の関ヶ原」記事で先年指摘した。


・江上八院において、立花勢は首600、鍋島側200の打ち死を出したのは大変な激戦である。規模的には「西の関ヶ原」と称するべきは江上八院合戦(柳川合戦)であり、軍事史的に評価しさらに研究して良いものではないか。


★まとめとして、今の所私(中西氏)の考えは、8月10日の如水宛書簡を根拠として、鍋島直茂は内府寄りである。森兵庫との往復書簡は、状況を静観する姿勢が読み取れるものであり、奉行衆とは距離を置きたいと見る。さらに、鍋島勝茂が見せた関ヶ原決戦前含めてのある種不可解な行動が、父直茂からの指示だとすれば、やはり鍋島直茂は終始徳川家康に与する意思を、終始保っていたのではないか。


以上  



レポートは続きます。勉強会開催の後日、当日御参加も頂いた、『関ヶ原合戦の真実』(宮帯出版社・2016年6月 第3刷発行)著者で別府大学教授、白峰旬先生から8月10日付如水宛直茂書状についての精緻な御考察を頂きました。次回御紹介します。古今の鍋島直茂研究上、重要な論考になるものと思います。

併せて、『一次史料にみる関ヶ原の戦い』著者、高橋陽介さんも同時に8月10日付直茂書状の内容を深く考察してくれています。こちらも後日御紹介します。






posted by 主宰 at 01:49| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする