2016年08月25日

佐賀戦国勉強会・座談会レポートA−1【H28.8/21】



★レポート@はこちらです:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441326789.html

レポート@に続き、


「龍造寺鍋島氏と関ヶ原合戦」 中西 豪 氏 講演分です。

※中西先生の最近の龍造寺鍋島関連執筆記事では、

■雑誌『歴史人』2016.8月号(KKベストセラーズ)
P88〜89『鍋島直茂』
■別冊歴史REAL『図解!戦国の陣形』監修:乃至政彦氏(洋泉社MOOK)2016.7月13日発行
P44〜47 『沖田畷の戦い』
■雑誌『歴史群像』2015.6月号(学研パブリッシング)
P96〜106 『鍋島父子の関ヶ原』
■雑誌『歴史群像』2014.4月号(学研パブリッシング)
P156〜165 『肥前の老虎 鍋島直茂』

どれもお薦めです。併せてお読み下さい。


―――――

レポートA−1

「龍造寺鍋島氏と関ヶ原合戦」 中西 豪 氏 


・佐賀戦国研究会発足の経緯。全国的に、龍造寺や鍋島の歴史は誤解されている部分がある。

・今まで編纂史料を中心に読み記事を執筆してきた。佐賀県近世史料収録の直茂公譜・勝茂公譜は藩の正史だが、後世の編纂史料であり、龍造寺から鍋島への権力移譲、正当性を謳うためのものであると見れば、疑って掛らければならない。

・さらに直茂・勝茂公譜「考補」は、鍋島直正公の時代・天保年間に増補された。多数の史料から各論併記され、史料批判がなされており価値が有る。

・龍造寺鍋島の政権交代というのは、同族会社の看板の掛け替えで、いわば凄腕の会長とその側近連中が頓死してしまい、後を継いだ社長が頼りないので、取引銀行が入り、会長の義理の弟で別系統の会社の社長をやっていた人物を本社へ呼び戻し、専務取締役をやらせる事になる。最終的にはそれで看板の掛け替えがなされた。その契機が通説に朝鮮出兵とされるが、当時の一次史料を色々見ていくと、鍋島直茂は最後まで龍造寺宗家を奉じており、龍造寺家と龍造寺領国を保全するために粉骨砕身した人物である。その点に私(中西氏)の論は立脚している。関ヶ原合戦当時においても鍋島直茂は、龍造寺家と龍造寺領国を保全を第一義として動いたと、そう考えていく。

・上記を踏まえ、前提として豊臣秀吉死後、鍋島直茂は豊臣政権の第一人者徳川家康に与するというのが基本姿勢だったと考える。伏見における政情不穏の時も、直茂は家康の屋敷を警備し、家康に身辺の防備について進言するなどしている。直茂と家康をつなぐパイプは、円光寺元佶。元佶は佐賀県小城市出身、家康の側近の僧侶であり、関ヶ原合戦にも従軍していた。

・直茂は龍造寺宗家の跡取り・龍造寺高房を上杉征伐に従軍させることによって、家康にお目見えさせ何らかの地位につかせようと思っていたと考える。

・軍の組編成でみると、直茂は成富十右衛門(成富兵庫茂安)の兵庫組のみを上方へ従軍させ、直茂の猶子で娘婿、鍋島平五郎茂里(鍋島主水)の主水組は、佐賀に残している。


・上方で奉行衆が家康に対し蜂起した際に、龍造寺高房・鍋島勝茂勢は奉行方につく。普通憶測される事で、二股をかけており、直茂は家康に、勝茂は奉行衆方につくことで、龍造寺鍋島の家を保とうとしたと言われるが、実態は「勝茂の暴走」であった可能性を指摘する。根拠は「光茂公譜」(勝茂の孫で二代藩主・光茂についての記録)中の記事として、光茂へ勝茂が晩年語った事に『奉行衆から秀頼君の御為といわれたら、これは一にもに二にも無く、たとえその事で御家が潰れたとしても自分は奉行方へつくと決めた、あとで父直茂に止められた』という旨がある。これは龍造寺家の執政鍋島直茂の子供に過ぎない鍋島勝茂が10代半ばで、豊臣政権に従五位下信濃守に叙任されたという事が、勝茂にとっては非常に感激したことであり、関ヶ原当時20歳でもあり、海千山千の父直茂程の判断力は無かったのでは。そのため伏見城攻めでも大活躍し、安濃津城攻めでも積極的に動いた。その後、直茂からの指令を受けて、動きをぱったりと止める。


・関ヶ原合戦関係の絵図面や屏風などに、南宮山あたりに龍造寺勢が布陣しているものが見られるが、確証がない。ただそれまで非常に積極的で、その後も毛利吉川に与同して動いてもよさそうなものが、動かなくなる。関ヶ原決戦後、勝茂はまもなくに徳川家康に詫びをいれる。また帰国もせずに大坂で謹慎する。父直茂の差し金もあるだろうか。それまでの父直茂と家康の友好関係でもって、敵対関係を取りつくろう事ができたと思う。ここで川角太閤記にある「鍋島直茂が東海道筋の米を買い占めて、会津征伐に向かう徳川方へ献上した」記事、真偽は不明だが、事実であれば家康から龍造寺鍋島への早い赦免は理解できる。この記録が佐賀にない理由を考えると、家康に敵対し、奉行方に加担してしまった事への尻拭いにしかならない話で、鍋島藩にとってはバツの悪い逸話のため、佐賀では記録はないかと推測。しかしそういう風聞があったから、川角太閤記には書きとめられたものか。



レポートA−2へ続く




posted by 主宰 at 23:31| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

佐賀戦国勉強会・座談会レポート@【H28.8/21】


常連様、また遠路近県より御参加頂きました皆様、有難うございました。
概容は全体共有させて頂きたいと思います。おさらいにお使い下さい。あくまで概容です。

★お知らせですが、年内にあと2回、勉強会座談会を開催することに致します。
テーマは関ヶ原合戦です。今回の内容をさらに従来の基本的な所から見ていきたいと思います。
今回御参加の皆様で、次回御参加の方は、必ず今回配布したレジュメと史料集をご持参下さい。
次回から参加の方には、新規にお渡し致します。
予定として、10月、12月です。追って詳細告知します。

★参加頂き沢山のご教授を頂きました、別府大学の白峰旬先生、高橋陽介さん、中西豪先生、有難うございました! また翌日に古文書を見せて頂きました、郷土史研究家・岡本澄雄先生、有難うございました!

今後ともどうぞ、宜しくお願い致します。

レポートは分けてUPしていきます。

――――

佐賀戦国勉強会・座談会レポート@

「関ヶ原の戦いと黒田如水」 高橋 陽介 氏 発表分

・一次史料で見ていくと、吉川広家はまさか毛利輝元が奉行方に担がれると思っておらず、取り急ぎ家康に奉行衆決起について家康に通報の書状を出した。(7月13日)

・書状を見る限り、黒田長政は吉川広家・徳川家康間の取次をしているだけであり、長政が広家を東軍に寝返らせるべく説得したというのは『黒田家譜』の創作と高橋氏は考えている。書状を見る限り、広家はもともと家康に異心を抱いていない。

・★以下「黒田如水はもともと東軍寄りの立場だった」と仮定して恣意的に文書を読んでみた。(高橋氏)

・如水は「内府ちかひの条々」を受け取って、すぐに毛利家で一番話しの通じる吉川広家へ書状を送った。内府につくか奉行方につくかは分明にせず、上方に捕らわれた人質をとにかく奉行方へ渡さず、広家・輝元様にて預かって欲しいと願い出ている。

・【補足】たしかに如水の書状を追うと、徳川方か奉行方か、どっちとも読めるような「しっぽをつかませない」文章を送っている。(白峰旬先生談)

・如水は反家康勢力の蜂起を事前に予測していたと思われる。一方長岡幽斎は書状で「今回の騒動を全く予想だにしていなかった」と言っており興味深い。かつ合戦になれば、家康が勝つだろうと如水は予測しており、その旨吉川広家にも私信を伝えていた。

・吉川広家と黒田如水の間には強い連帯意識があり、関ヶ原のあと、広家が黒田を恨んでいたというのは誤り。吉川と黒田の友好関係を語った、広家本人の元和3年の言質あり。

・如水と長政が吉川広家を寝返らせた説は『黒田家譜』と『黒田長政遺言状』が根拠であり、後世の創作と考えるべき。同時に10月4日の如水→広家書状で、「九州を勢力を統一し、上方へ攻め上がって徳川か石田方か勝った方と合戦して天下を取ろうと思っていたのに残念だ」というのは間違った解釈。書状の前後の文脈を読み合わせれば、如水は家康と連絡を取り合って、豊臣政権下の一領主として合戦に参加しようとしていると読める。

・高橋氏は『黒田政遺言状』は『黒田家譜』をもとに後世に創作された偽文書であると考えている。なぜならば同文書は黒田騒動に関する予測しえない情報を含み、関ヶ原合戦に関する記述は江戸時代に成立した軍記物の影響を色濃く受けているため。その内容は一次史料から知り得る事実と反している。

以上。中西先生講義分のAへ続く。




posted by 主宰 at 00:26| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする